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ネクタイ

Auteur: 雫石しま
last update Dernière mise à jour: 2025-07-07 14:31:59

 ある夜のこと。

 情事を終えた如月倫子は、賢治の目を盗んでネクタイをショルダーバッグに詰めた。逢瀬に満足した賢治は、ぼーっとした顔で「じゃ、また来週な」と言い、ホテルの回転扉の向こうに消えた。賢治の襟元には、カルバンクラインのネクタイはなかった。

(ネクタイに気づかないなんて、ほんとバカね。奥さんがどんな顔するかしら)

 その修羅場を想像しただけで、倫子は笑いがこみ上げた。

(あんな女、賢治には似合わない!さっさと離婚しちゃえばいいのに!)

 自分の家庭のことなんてそっちのけで、不倫相手の賢治に夢中な倫子には、彼の姿しか目に入らなかった。そして、倫子は一線を越えた。

(奥さんの顔、見てみたいわ)

 倫子は深紅の口紅を塗り、黒い下着に白いカッターシャツを羽織った。シャツのボタンは胸元が見える位置まで外し、腰のラインがくっきり出る黒いタイトスカートを履いた。手首には白檀のオードパルファムを吹き付け、擦り合わせると、淫靡な香りが漂った。

(どんな声なのかしら)

 倫子は自分が経営する「きさらぎ広告代理店」の茶封筒に、賢治のネクタイを入れた。

(そうよ、これでいいわ)

 ネクタイにも白檀の香りを吹き付けた。住所は高校の同窓会データで知っていた。「グラン御影」、その豪華なマンションの最上階を見上げると、倫子の胸に憎しみが沸々と湧いた。もしかしたら、自分があの場所に住んでいたかもしれない。憎しみを込めて、インターホンのボタンを押した。

(503号室)ピンポーン

「どちら様でしょうか?」

「如月と申します」

「きさ…・・・・如月さん、ですか?」

「綾野賢治さんはご在宅でしょうか?」

「いえ、主人は仕事に出ておりますが、何かご用でしょうか?」

「そうですか。忘れ物をお届けに参りました」

 綾野菜月は、あっさりオートロックを解除した。不用心な女だと、倫子は呆れて言葉も出なかった。きっとこれまで、危険な目に遭わず、ぬくぬくと暮らしてきたんだろう。

(・・・・・くそっ!)

 エレベーターに乗り込んだ倫子は、腹立たしさと怒りに任せて、オードパルファムを撒き散らした。

ピンポーン

「はい」

「如月と申します」

「今、開けますね。少々お待ちください」

「はい」

 倫子は手に持った封筒をぎゅっと握りしめた。賢治を奪った憎い女との対面だ。

「綾野さん」

「は、はい」

 菜月の絹糸のような髪は、
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