All Chapters of 娘が死んだ後、クズ社長と元カノが結ばれた: Chapter 581 - Chapter 590

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第581話

隆の件は驚くほどの速さで進み、警察と審査局が協力して、公金横領・企業秘密の窃取・強姦未遂などの罪状で彼を起訴した。裁判所もすでに日程の調整に入っており、間もなく開廷される予定だ。数々の罪が重なれば、隆の行く末は明るくない。隆の醜聞が広まるにつれ、彼の会社の株は大きく揺れ、株価は下落し続けていた。トップを失った飯田家内部では、権力争いが激しさを増していく。内憂外患の中、真浩も手が回らず、隆の件は全て蒼空に任せるしかなかった。すでに隆は失脚し、かつての家族も友人も誰ひとりとして弁護士をつけようとはしなかった。彼についたのは、制度で割り当てられた無料の援助弁護士だけだった。蒼空は夏凛のもとを訪れた。近所に一連の出来事が知られてしまってから、彼女が噂に晒されないよう、蒼空は別の場所に住まわせていた。蒼空が着いたとき、夏凛はすでに隆のニュースを見ており、精神状態は目に見えて良くなっていた。「問題ないなら、私はもう行くよ。まだ仕事があるから」蒼空がそう言うと――「社長」夏凛が慌てて呼び止めた。蒼空は振り返り、静かな目で彼女を見る。「なにか?」夏凛の唇が何度か震える。あの出来事が近所に広まってから、向けられる視線はさまざまだった。同情、哀れみ、嘲り、軽蔑......良意であれ悪意であれ、すべてが針のようで、耐え難かった。ただ蒼空だけは違った。彼女の視線は以前と何ひとつ変わらない。静かで、淡々としていて、何の色もない。まるで、夏凛の身に起きたことが、蒼空にとってはどうでもいいように。それは夏凛にとって、唯一受け入れられる態度だった。乾いた唇を舐め、彼女はようやく言葉を絞り出した。「社長......どうしてここまで私を......」蒼空が隆の件でどれほど動き回っていたか、彼女は知っている。自分のために、大きく遠回りしてまで、隆を追い詰めた。その間、見知らぬ者から脅迫めいたメッセージも届いた。追及をやめろと。金を払うから引き下がれ、と。そんな者たちが自分を探し当てるのなら、蒼空がどれほどの圧力を受けているか想像に難くない。なのに自分たちの関係は、三、四年同じ会社で働いただけの、ただの上司と部下。そこまでしてもらう理由など、どこにもない。蒼空は静
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第582話

「三輪さんは私を信じてくれた。だったら、その信頼を裏切るわけにはいかないじゃない。あの男はもう逃げられない。三輪さんを失望させずに済んで、本当に良かった」その声は静かでありながら、どこか人を安心させる力を帯びていた。「あなたは間違っていない。もっと胸を張ってもいいんだよ」夏凛は堪えきれず、口元を押さえたまま涙声が少しずつ大きくなっていった。帰る前に、蒼空は言った。「ゆっくり休んで。会社のみんなも三輪さんが戻ってくるのを待ってるよ」夏凛の家を出たあと、蒼空は再び美紗希のカフェへ向かった。ここ数日は隆の件と会社の対応で手一杯で、立ち寄る余裕すらなかった。店に入ると、真っ先に目に入ってきたのは店内のピアノだった。そのピアノ椅子には、白いワンピースをまとった細身の女性が座っており、しなやかな姿勢と抜けるような気品が目を引いた。奏でられる音は柔らかく滑らかで、明らかに腕が立つ。蒼空は目を細め、ピアノ椅子の斜め後ろ、視線の届かない場所へそっと移動した。その席は背もたれが遮りとなり、ピアノ側からは彼女の顔が見えない。一曲が終わると、ちょうど後ろから美紗希が出てきた。「久米川さん、今日はどうしてこちらへ?」いつも穏やかな声が、どこか緊張を帯びていた。瑠々の声は水のように柔らかい。「二ヶ月会わないうちに、カフェ開いてピアノまで買ったのね。順調そうでよかった」「久米川さん、ここで長居するのはちょっと......」美紗希は押し殺した声でそう言う。瑠々は気にした様子もなく微笑んだ。「そんなに緊張しないで、美紗希。誰も気にしてないよ。そんな態度のほうが、かえって周りの目を引いちゃう」蒼空はバッグから小さな化粧鏡を取り出し、背後の二人をそっと映した。美紗希は落ち着かず、視線をあちこちに走らせている。「言うことがあるなら、早くお願いします......」瑠々は穏やかに微笑んだ。「おばあさまの体調はどう?必要なら、また医者を手配してもいいけど......」乾いた唇を舐めて、美紗希は言った。「......場所を変えて話しましょう」「ええ」偶然にも、二人は蒼空のすぐ後ろの席に腰を下ろした。蒼空は鏡をしまい、背もたれに寄りかかって静かに耳を澄ませる。「久米川さん......手
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第583話

美紗希は何も答えなかった。蒼空には彼女の表情は見えない。ただ、きっと良くはないのだろうと分かった。蒼空の目がわずかに陰る。瑠々は、ついに身内を使って脅しに出た。瑠々の声音は柔らかい。だが外から聞けば、印象はまったく違う。「美紗希。今回のコンクールは私にとって本当に大事なの。曲、ちゃんと仕上げて。満足できる曲をもらえたら、お金はすぐ振り込むわ」瑠々は笑みを浮かべた。「美紗希も知ってるでしょう?私はもう松木家の奥様よ。これからも私のために動いてくれるなら、先の人生は安泰よ」美紗希の声は弱々しかった。「どうして......自分で作曲なさらないんですか?久米川さんの腕前なら、悪い曲になるはずがないのに......」瑠々は言った。「そこは気にしなくていいの。言うとおりにしてくれれば、あなたも得をするんだから」しばらくして、蒼空は美紗希の小さな声を聞いた。「わかりました......」瑠々は立ち上がり、見下ろすように言った。「美紗希、早めに取りかかってね。もうすぐ本選が始まるわ、時間がないの」「......はい」瑠々は店を出ていった。蒼空は横目でそっと見る。美紗希は長いあいだ席に座ったまま、うつむき、表情は読み取れなかった。視線を戻す。蒼空は前世、瑠々の名義のピアノ曲の大半が彼女自身の作ではないと知っていた。ただ当時は、誰が書いているのかまでは分からなかった。今生では、調べる力がある。瑠々の隠し方は巧妙で、蒼空は二、三年かけ、ようやく辿り着いたのが美紗希だった。彼女に気づいた翌日には、部下が美紗希の経歴を細かく全て送ってきた。対馬美紗希――家は貧しく、両親は早くに亡くなり、祖母に育てられた。大学には行っておらず、高校も中退。幼い頃にピアノを習ったことはなく、初めて鍵盤に触れたのは、音楽教室で清掃員として働き始めてからだった。そこで、自分にピアノの才能があると気づいた。一年ほど練習した頃、教室側が彼女をピアノ講師として雇った。そして教室で働くようになってから、瑠々の目に留まった。ここ七、八年、瑠々は美紗希の口座へ何度も多額の振込をしている。金額や頻度から考えるに、瑠々名義の曲の大半は美紗希によるものだと、蒼空は判断した。入院した祖母の治療・
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第584話

遥樹が歯噛みするように言った。「早くその場から離れて」蒼空は「え?」と漏らす。その時、不意に瑛司が低く問いかけた。「誰と電話している」案の定、その声は電話の向こうにも筒抜けになった。遥樹はほぼ怒鳴る勢いだった。「早くそこから離れろって!」蒼空はもともと瑛司と長く話す気もなく、適当に返す。「何か用?」電話の向こうで、遥樹は黙り込んだ。瑛司は彼女のスマホに視線を落とし、それからゆっくりと彼女に目を戻したが、しばらく何も言わなかった。その沈黙の長さに、蒼空は「この人、まさか喋れないわけじゃないよね」とさえ思ってしまう。やっと、瑛司が口を開いた。「飯田隆は、もう逃げられない」飯田隆。蒼空は、彼が何の立場で突然その話題を出してきたのか分からなかった。だが瑛司の「やってきたこと」を思い出し、蒼空の表情から笑みがすっと落ちる。「知ってる」半ば皮肉のように彼を見つめ、平板な声で言う。「松木社長は責めに来たんですか?」瑛司が静かに返す。「そう思ってるのか」「じゃなきゃ何?」蒼空は言い返す。何度も何度も邪魔され、まるで彼は隆を守るために必死になっているようだった。今回隆が捕まったことで、瑛司は自分に怒っている――蒼空はそう考えていた。瑛司は沈黙し、それ以上は何も言わなかった。実際、蒼空自身も驚いていた。松木家の力を考えれば、敬一郎と瑛司が隆を守ると知った時点で、隆を捕まえる望みなんてほとんどなかった。けれど、状況は突然ひっくり返った。遥樹の助けがあったにしても、ここまで順調に運ぶのは不自然。まるで、松木家が急に隆を切り捨てたみたいだ。蒼空の目が細める。瑛司の後ろには彼のアシスタントが控えていた。先程から、蒼空が話すたびに、そのアシスタントが何か言いたげに彼女を見ているのを感じていた。「何か言いたいこと?」蒼空が眉を寄せて問う。アシスタントは不意に話しかけられ、わずかに固まる。瑛司がちらりとアシスタントを見ると、彼は慌てて首を振った。「い、いえ。何も」「蒼空、まだあいつと話す気?」電話の向こうから、遥樹の拗ねたような怒ったような声がまた飛んでくる。そこでようやく、まだ通話が切れてなかったことに気づく。「分かって
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第585話

運転手が軽く返事をした。蒼空のスマホに「ピコン」と通知が入り、画面に小春からのメッセージが表示された。【患者・寺西梅子(てらにし うめこ)、女性、七十九歳。美和病院。骨の癌・末期。A棟1207号室。】蒼空はメッセージを見て顔を上げた。「美和病院へ」運転手が「了解」と車を出した。――瑛司は、先に瑠々と佑人をホテルまで送り、そのあと一人でパーティーに向かう予定だった。車内で、我慢しきれなくなったアシスタントが口を開く。「松木社長、あれだけ審査局の人間を動かしておいたのに......どうして関水社長には言わなかったんですか?」瑠々の視線がわずかに揺れ、胸の奥でざわつく不安が一気に広がる。彼女は黙って佑人を抱き寄せた。瑛司はタブレットの資料を見ていたが、アシスタントの言葉に眉が動き、ゆっくりと顔を上げて運転席のアシスタントを見る。しかしなかなか返事が返ってこない。アシスタントは自分が余計なことを言ったと悟り、口を慌てて閉じ、静かに運転へ戻った。瑛司が低く言う。「口を慎め」アシスタントは縮こまった声で「申し訳ありませんでした」と答える。もう返事は来ないと思ったそのとき、約一分後――「彼女が知る必要はない」アシスタントはおそるおそるバックミラー越しに瑛司の顔色を伺い、「......そうですか」と乾いた声を返した。瑠々の手のひらには、じんわり汗がにじむ。胸の奥の不安はどんどん膨らんでいく。彼女は隆の件も、数日前の瑛司の態度も知っている。――瑛司は、敬一郎と約束していたのに。でもニュースを見ると、隆は捕まった。その裏に瑛司が絡んでいたなんて、知らなかった。瑠々はずっと考え続けていた。長く考え込みすぎたせいで、佑人が不思議そうに見上げる。「ママ、具合悪いの?」瑛司が視線を送る。瑠々はハッとし、笑顔を作った。「ううん。平気」少しして、瑛司が言う。「......蒼空を、助けた」瑠々は佑人を抱いたまま横を向いていた。そのせいで、後頭部が瑛司の方を向いている。この角度が、むしろありがたかった。白く強張った表情を見られずに済むからだ。彼女は一瞬で表情を整え、微笑んで瑛司へ向き直る。「そっか」瑛司の黒い瞳が静かに彼女を見つめ、薄く唇を
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第586話

敬一郎は噛みしめるような声で言った。「それが、お前が審査局の連中にあいつを調べさせた理由だと?騙せると思うなよ。審査局のやつら、全部話したぞ」「隠すなと、伝えてあるからだ」瑛司は淡々と答えた。敬一郎は怒りで声を荒げる。「自分が何を言ってるか、何をやってるかちゃんとわかってるのか?一体なぜ約束を破った」「ごめん、じいさん」敬一郎は荒い息を整えながら、押し殺した声で言う。「蒼空のために、ここまでしたのか?」瑛司は答えなかった。沈黙だけで十分だった。敬一郎には、それが答えだとわかってしまった。「......本気で俺を怒り死にさせる気か」瑛司の眉がわずかに寄る。「怒っても構わない。でもじいさん、体だけは大事にしてくれ。戻ったら......いくらでも罰を受けるから」「今そんなこと言って何になる。どうせ本気で悪いと思ってはいないくせに」敬一郎は、最後の望みをかけるように言う。「じゃあ今、俺が隆を救い出せと言ったら......お前はやらないんだな?」瑛司は沈黙を落とした。敬一郎は息を荒くし、何度も嘆息しながら吐き捨てる。「やっぱり......やっぱり蒼空なんて迎えべきじゃなかった。こんなことになるなら......最初からあの子を引き取らなきゃよかった。あの家族なんて金でも渡して追い払っておけばよかったんだ。関わりなんて持たせなきゃ......!」怒りで視界が揺れているようだった。「......私も年を取ったな。もうお前をどうにもできん」瑛司は低く言う。「すべては俺の責任だ」「もういい。さっさと片付けて戻ってこい!」「わかった」電話はそこで切れた。瑛司はしばらく、スマホを耳に当てた姿勢のまま動かなかった。少ししてようやく、ゆっくり手を下ろす。瑠々の胸には、複雑な思いが渦巻いていた。彼女は、敬一郎の怒鳴り声で瑛司が目を覚まし、蒼空から距離を取ってほしいと願う一方で、怒鳴られた瑛司を思うと胸が痛んだ。そっと手を伸ばし、彼の手の甲に触れる。「瑛司、気にしないで。あの人も怒ってただけよ。帰ったら、私も一緒に謝るから」「いい。今回の件は確かに俺の責任だ」瑠々は一瞬、言葉を失った。「瑛司......」後部座席で、佑人が無邪気に瞬きをする。「
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第587話

蒼空はポットを病室のベッド横の棚に置き、コップにお湯を注いで梅子に手渡した。梅子は驚いたように受け取り、こけた頬にさらに深い皺を刻んで笑った。「ありがとうね、お嬢さん。名前は何て言うんだい?」蒼空は表情を変えず、平然と嘘をつく。「思音(しおん)といいます」梅子はその名を反芻しながら尋ねた。「しおん......漢字はどう書くんだい?」「思いの『思』に、音楽の『音』です」蒼空は歩み寄って彼女をベッドのそばへ支えた。梅子は蒼空の手を握り、そのまま横に座らせて、心配そうに聞いた。「お嬢さんは病院に何しに来たの?診察?」蒼空は淡々とした声で答えた。「友達のお見舞いです。その子も整形外科で治療中で......来る途中、たまたまおばあさんを見かけました」「整形外科......その友達はどんな病気なんだ?」蒼空は全く迷いもなく、すぐに嘘を重ねた。「ちょっとした骨折です。大したことはなくて、数日だけ入院して経過を見るようにと言われてて」梅子は安心したように笑い、蒼空の手を軽く叩く。「それならよかったよ。骨折なんて、養生すればちゃんと治る。治ったら早く退院しなきゃね」「はい、私もそう思ってます」蒼空はふと顔を上げ、わざとらしく首を傾げて尋ねた。「おばあさんは......どこが悪いんですか?」梅子の笑みは変わらず、声も穏やかだった。「骨のがんの末期だよ」知っていたはずなのに、その一言を聞いた瞬間、蒼空の胸はひときわ重く沈んだ。化学療法を受け続けた痕跡は一目でわかった。痩せた身体、まばらな白髪、落ちくぼんだ目の下の影、手の甲の注射痕。そして、骨のがん末期特有の、歩くたび強く痛む身体。先ほど給湯室までの短い距離でも、梅子は一歩ごとにふらつき、本当に辛そうだった。蒼空はまぶたを伏せ、唇をそっと引き結んだ。そんな彼女を逆に気遣うように、梅子は年老いた声で、どこか無邪気な響きを混ぜて微笑む。「そんな顔しなくていいのよ。私はもう長く生きたしね、七十九年も生きりゃ十分だよ。明日死んだって構わない」蒼空は一瞬、言葉を失った。梅子は気にした様子もなく、続ける。「本当なんだよ。もう病院には飽きたくらいだ。孫娘が治療を受けろってしつこく言うから仕方なく来てるけど、私としては早く家
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第588話

梅子はくすりと笑い、「お嬢さん、早くお友達のところへ行きなさい。私の相手なんてしなくていいから」と言った。焦ってもいいことはない。今日は「始める準備」ができただけで、長居すべきではない。蒼空は立ち上がる。「わかりました。おばあさんもどうかご自分のことは大事にしてください」病院を出たあと、蒼空のスマホに小春からさらに詳しい情報が送られてきた。梅子を診る専門医チームと治療方針に関するファイルだった。小春【知り合いの先生に見てもらったけど、まだ返事はない。蒼空が先に確認してて】蒼空【わかった】小春【病院行った?】蒼空【もう出てきた】小春【本人に会えた?】蒼空【ええ、少し話した】小春【向こうは蒼空の話を聞くかな。久米川はあの一家の命の恩人みたいなもんだし、協力してくれそう?】蒼空【それは、そっちの先生が久米川が頼んだ専門医や治療法について、どんな評価するか次第】小春【まあ、そうだよね。こんな言い方よくないけど、それが一番説得材料になりそう】蒼空【今は、少しずつ進めるしかない】ここ数日、蒼空は会社や隆の件をこなしつつ、空いた時間は病院やカフェに足を運んでいた。時間がたつうちに、美紗希や梅子とも顔なじみになっていた。ただ、次の一歩だけはまだ踏み出していなかった。大会の二日前、美紗希は仕上がったばかりのピアノ曲を瑠々に送った。瑠々はすぐに返信してきた。【弾いてみる。気に入ったらお金を振り込むよ】美紗希はその文面を見つめ、深く息を吸って返信しなかった。その日もいつも通り、六時に退勤して電車で美和病院へ向かった。これが毎日のルーティンだ。ただ、その日は少しだけ違っていた。祖母が「病院で若い娘さんと知り合ったんだよ。すごく綺麗な子でね」と言っていたのだ。最初、美紗希は気にしなかった。病院には人が多い、誰かと知り合うくらい普通だ。だから、軽く聞いただけだった。「どうやって知り合ったの?」梅子は笑って言う。「その子のお友達が骨折で入院していてね、ここ数日ずっとお見舞いに来てるみたいで、ちょうど出会ったのさ。すごく親切でね、初めて会った時からお湯を汲むのを手伝ってくれたり、ポットを病室まで持ってきてくれたりして。この何日かよく話すようになったんだ」美紗希は笑
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第589話

写真を見た瞬間、美紗希の視線がぴたりと止まり、瞳がわずかに揺れた。彼女は小さく眉をひそめる。写真の中の老人は、見慣れた顔だ。その隣の若い娘の顔も、同じようによく知っている。――最近よく店に来てはコーヒーを飲み、ピアノを弾いていく客人。間違えるはずがない。あんなに珍しくて、しかも綺麗な人を見間違えるわけがない。名前までは尋ねたことがなかったけれど、今回が初めて知った。胸の奥がざわりと揺れ、重い石が落ちてきたような圧迫感が広がった。こんな偶然、あり得るのか?思音。自分と面識があって、たまたま友人が骨折で入院していて、そして祖母とも知り合った?瑠々と接触し続けてきたこの数年、普通じゃない出来事には慣れている。強い直感が告げていた――これは単なる偶然じゃない。梅子は楽しそうに訊いた。「どう?この子、綺麗でしょう?」「うん。とても......綺麗だよ」美紗希は頷き、少しだけ迷うように問いかける。「おばあちゃん、その子に会ったのって、いつ?」梅子は記憶を探るように眉を寄せた。「ええと、数日前だったかな」「具体的には何日くらい?」「どうしたの、いきなり?」「大事な話なの」梅子は一瞬ぽかんとした。「四日前くらいかね」四日前......つまり、思音は先に彼女のカフェに来て、そのあと病院でおばあちゃんに会ったことになる。思音に怪しい素振りはない。数日の会話で好印象すら抱いていた。それでも、どうしても引っかかる。この数日のやりとりを思い返す。礼儀正しくて、距離感も適切で、話していて心地よくて、ユーモアもある。ピアノも上手い。――ピアノ。今日はちょうど自分の新作のピアノ曲を瑠々に送ったばかりで、今の彼女はピアノという単語だけで敏感になる。美紗希は写真を上田に返し、「この写真、私にも送ってください」と言った。上田は頷いて操作を始める。梅子は不安げに訊いた。「何か問題?」美紗希は梅子の隣に腰を下ろす。「その思音って子......この数日、うちのカフェにも通ってた。おばあちゃんと会うより前から」梅子の目がぱっと輝く。「本当に?これも何かの縁よ!私ね、前から美紗希に紹介したいって思ってたのよ」美紗希は唇を軽く噛む。「
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第590話

美紗希は無理に笑みを作り、梅子をベッドのそばに座らせた。「なんでもないの。ただ、さっきうちの店員から電話が来て、お店で少しトラブルがあって......これから店に戻らないと」梅子は彼女の手を取り、軽く叩いた。「そうかい。じゃあ行っておいで。無理しないようにね、休むことも大事だよ」美紗希は唇をきゅっと結んでうなずいた。「うん」言いかけて、少し迷うように間を置く。「おばあちゃん......もし思音さんがまた来たら、できるだけ距離を置いてほしいの」梅子の眉が寄る。「どうしたんだい?思音に何か問題でも?」美紗希は短くためらい、声を落とした。「別に......ただ、私の言うとおりにして。あまり近づかないほうがいい」梅子は何度もうなずきながら言った。「わかった。また来たら、絶対に相手にしない」――ちょうどそのすれ違いで、美紗希が出ていった後、蒼空が病院に着いた。二人は鉢合わせしなかった。蒼空はいつものように梅子の病室へ向かったが、入った途端に違和感を覚えた。何度か扉をノックしたが、返事がない。蒼空は眉を上げた。いつもの梅子なら、すぐ「入っておいで」と声をかける時間だ。休憩時間でもない。しばらく様子をうかがい、動きがないことを確認してから帰ろうと身を返した瞬間、扉が突然開いた。出てきたのは、梅子の面倒を見ている上田だった。上田は出てくると、そのまま扉を閉め、「もう寝てるのよ」と淡々と言った。だが、扉が開いた一瞬、蒼空にはベッドの上で入口のほうを見て座っている梅子の姿がはっきりと見えていた。眠っているはずがない。蒼空は眉をひそめたが、追及はせず、礼を言ってその場を離れた。廊下の角で足を止め、少し考え込むと、ためらわずナースステーションへ向かった。看護師が明るい声で「こんにちは」と挨拶し、蒼空は尋ねた。「友人が骨折で入院してるんですが、病室を教えてもらえますか?」看護師は急に笑い出した。「あなたで二人目ですよ」「え?」看護師は続けた。「さっきもあなたと同じ質問をした人がいましたよ、友達が骨折で入院してるって。でも今のところ、この病院には骨折の患者さんは来ていません。病院を間違えていませんか?お友達にもう一度確認してみてください」蒼空は、何でもない
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