All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 121 - Chapter 130

291 Chapters

第121話

電話をかけてきたのは暮翔だった。「なんで出ないんだよ?三回も四回もかけたんだぞ。出なかったら警察に通報するところだったからな」「スマホがどうしたのか知らないけど、マナーモードになってて気づかなかったんだ」深雲は眉をひそめた。「それより、なんで仕事用の番号にかけなかった?」「この前半月くらい前に番号変えただろ?俺、まだ登録してなかったんだよ」「……」深雲は、ようやく思い出した。仕事用の番号を変えたのは、景凪が意識を取り戻す二日前のことだった。あの頃は本当に忙しくて、番号の手続きも姿月に頼んだっけ。「それで、何か用?」深雲はスマホの未読メッセージを流し見しながら尋ねる。指先がふと止まる。そこに、景凪からの着信履歴があった。時間は、今朝の仕事始めの頃。着信音は一分以上鳴っていたようだ。深雲は僅かに眉をしかめ、立ち上がって部屋を出る。ソファに腰掛け、仕事用のスマホを手に取って履歴を確かめると、姿月からの電話も景凪とほぼ同じタイミングだった。つまり、あのとき景凪が姿月にわざと嫌がらせをして研究室の機器を運ばせなかったのは、自分の電話が繋がらなかったからなのか?深雲は、こめかみに手を当てて軽く頭を押さえる。「今夜、研時がパーティーを開くって。界隈の有力者の二世たちも集まるから、たまには遊びに行こうぜ」暮翔の声が耳元で響く。深雲は断らなかった。「わかった。時間と場所は?」ちょうど気分転換したいと思っている。それに、研時が自分からパーティーを開くなんて珍しい。研時の家柄に免じて、名のある二世たちも顔を出す。「夜八時、場所は夜響(やきょう)だ」……開発部のオフィス。景凪は仕事を終えてふと顔を上げると、外はすっかり夜の帳が下りていた。凝り固まった首を回し、関節がコキコキと鳴る。スマホを手に取ると、深雲からの不在着信が二件。どちらも二十秒と鳴らずに切れていた。彼女がすぐに出なかったから、深雲はすぐに諦めて切ったのだろう。それきり、再び電話が鳴ることはなかった。実のところ、景凪はずっと開発部にいる。深雲が本当に自分を探したいなら、上の階から降りてくれば十分快適に会えるはずだ。景凪はスマホを握りしめ、ふと昔のことを思い出す。あの頃、深雲が暮翔や友人たちと山登りに行くと言い出し、三日で戻る約
Read more

第122話

目を覚ますと、景凪は近くの病院のベッドで横たわっていた。一方、深雲はすでに家族のヘリで専用病院へ搬送され、最高の外科医の手厚いケアを受けているそうだ。医者が入ってきて診察しながら、「命が助かって本当に運が良かったですね」と安堵の表情を浮かべた。「右太ももの傷、後もう少し深ければ神経まで届いて、最悪の場合は下半身不随になっていたかもしれませんよ!」医者も半ば呆れたような顔で、「こんなに痛いはずなのに、よく耐えてましたね……」と感心していた。……八年という歳月が流れていた。景凪は服の上から、右太ももの外側をそっと撫でた。そこには今も十数センチの長い傷跡が残っている。命がけで愛した証が、まざまざと残っている。あの晩、深雲が背中に覆いかぶさってきたとき、耳元で何か囁いていた気がする。記憶がふっと揺れる。二十歳の深雲が、耳元で優しく語りかけてくるような気がする。「景凪はどうしてこんなに優しいんだ?」嗚咽混じりの声で、「絶対に裏切らないから」と誓ってくれた。……あの頃、深雲はいつも「景凪は本当に優しい」と言ってくれた。だからこそ、景凪は気づかずにいた。「愛してる」とは一度も言われていなかったことに。景凪はさっと荷物をまとめ、会社のフロントに配車用の専用車キーを取りに行く。昨日、確認したときは「今日用意できる」と言われていたから。受付スタッフは端末を確認して、申し訳なさそうな顔をした。「すみません、穂坂部長。小林部長が今日の午後に人を寄越して、鍵を持っていかれました。もし必要なら、鷹野社長にもう一台申請してみてはいかがでしょうか。これまで開発部長は穂坂部長だけだったので、車も一台だけ割り当てられていたんです」自分に与えられていた待遇も、すべて姿月に譲られてしまった。受付スタッフでさえ、気の毒そうな目で景凪を見ている。景凪は淡々と「ご苦労様です」とだけ言い、会社を出てタクシーを拾うことにした。だがこの時間、夜の帰宅ラッシュでなかなか車がつかまらない。配車アプリを見ると、17人も前に並んでいる。ため息が出る。しかも、空模様は悪化し、小雨が降り始める始末。景凪は空を仰ぎ、灰色の雲の渦に目を細める。そんな時、ホーム画面にLINEの通知がポンと現れた。送信者は千代のサブアカウント――自渡だった。【も
Read more

第123話

車内に残ったのは渡ひとり。彼はスマホを耳にあて、音声メッセージを再生する。柔らかくて、微笑みを含んだ声。その声は、生まれたばかりの仔猫の肉球のように、そっと心の一番柔らかい場所を掻き撫でる。ずっと消えていた想いが、また静かに蘇るような感覚だった。三分後。渡は車の窓をコンコンと叩き、悠斗を呼び寄せる。悠斗は戸惑いながら、もう一度後ろを振り返る。「社長、何かいいことでもあったんですか?」口元が勝手に上がっている。渡は余裕たっぷりに眉をひとつ上げて、「お前に関係ない」と言う。その言葉すら、笑いながらだった。「……」さらに不思議なのは、渡の耳の先が赤くなっているように見えたことだ。その時、渡のスマホに昭野から電話がかかってきた。「渡、遊びに行こうぜ」昭野は軽い気持ちで誘ってみただけだった。何しろ、渡が十回に八回は断るのが常だったからだ。だが、今夜の渡は妙に機嫌が良かった。「場所は?」昭野は一瞬驚き、まるで夢を見ているかのように、「夜響、二階。今場所を送るよ」と慌てて答えた。……景凪は一日中忙しく働き、暖かくて心地よい車内で、うとうとと眠気に誘われている。雷鳴が鳴り響き、はっと目を覚ます。窓の外は土砂降り、夜の闇は不気味なほど濃い。ブーブーとスマホにLINEの通知が届く。無意識に画面を覗き、景凪の瞳は冷たくなった。深雲からのメッセージだった。送りつけられたのは、ひとつのアドレス。【研時たちも来てる。久しぶりに皆で集まろう】まるで、彼は当然のように、指を曲げて「おいで」と呼べば、自分は従順な犬みたいに駆け寄ると思っているのだろう。景凪は、相手が入力中なのを冷ややかに見つめる。数秒後、深雲からさらにメッセージが来る。【雨がすごい。車を手配しようか?】景凪は皮肉な笑みを漏らす。やっぱり、雨が降っていることも、車がないことも分かってるんだ。今の深雲の安っぽい優しさは、まるで砂糖でコーティングした毒。嘘くさくて、ただただ不快なだけ。本当に心配してくれる人、本当に自分を大切に思ってくれる人なら、こんなくだらない確認はしない。黙って助けてくれるはずだ。本物と偽物の違い、それは明白だった。景凪は無表情で、一行だけ打ち込む。【結構よ。ちょっと疲れてるか
Read more

第124話

景凪は、桃子が差し出した電話を渋々受け取る。「もしもし」「ちょっと待って」深雲の周りは少し騒がしかったが、場所を変えたのか、途端に静けさが戻る。景凪の耳には、深雲がライターで煙草に火をつける音が、かすかに聞こえてくる。「昼間のことでまだ怒ってるのか?」深雲の声はどこか困ったようで、低く説明する。「俺の私用のスマホ、充電してたらなぜかマナーモードになってて、景凪からの電話に気づかなかったんだ」彼がここまで下手に出て弁解することなど、滅多にない。本当に景凪を機嫌直してほしいと思っているのだろう。「別に怒ってないわ。辰希と清音はそっちにいる?」景凪の声は相変わらず淡々としている。だが深雲には、それがまだ拗ねているようにしか聞こえない。彼は眉間に僅かな苛立ちを浮かべつつも、辛抱強く言う。「景凪……」「パパ!」その時、清音がぱたぱたとドアを開けて駆け込んできた。深雲はすぐに煙草を揉み消し、手で空気中の煙を払う。「どうした、清音?」清音は困った顔で唇を尖らせる。「さっきジュースを飲んでたら、こぼしちゃったの。ワンピースも濡れちゃったし、靴の中まで濡れてるみたい。外に出たとき、水たまり踏んじゃったのかな……」景凪は電話越しでもその言葉をはっきりと聞き取り、思わず眉間にしわを寄せる。清音はもともと体が弱くて、前の風邪も治りきっていない。足元から冷えたら、またぶり返しかねないのだ。深雲は言う。「とりあえずおとなしく座ってなさい。パパがすぐ新しい靴と靴下と、服を買ってきてもらうから」「もう買わなくていいわ」景凪はすでに階段を駆け上がりながら、清音の部屋へ向かっていく。「私が着替えと靴を持っていく」娘のことになると、さすがに景凪も折れるしかないらしい。深雲は口元をわずかにほころばせる。「わかった。道中、気をつけてな。今夜は、景凪にサプライズを用意してるんだ」景凪はもはや彼のサプライズなど、何の期待もしていなかった。「じゃあ、切るね」電話を切り、景凪は慌ただしく清音の服を用意し、ついでに辰希のクローゼットからも薄手の上着を一枚選んだ。階下に降りると、二人の子供のために体を温めるお茶を淹れ、苦くならないよう蜂蜜をたっぷり加えて保温ボトルに詰め、大きな荷物を両手に外へと出た。一方その頃、清音
Read more

第125話

景凪は車を走らせ、深雲から送られてきた住所へと向かう。夜響。店の入り口は、一見して平凡な佇まい。彫刻の施された木製の引き戸が二枚並ぶだけだが、景凪は知っていた――これはただの表向きに過ぎない。ここは中央通り、A市でも指折りの一等地。夜響がこの場所に店を構え、しかも両隣を半区画も空けて、朱色の壁と黒瓦で囲っている。庶民が一生かかっても足を踏み入れられないような、そんな店構えだった。店の前の道路脇には、明らかに高級そうな車がずらりと並ぶ。中でもスポーツカーが多い。景凪は自分の車を通りの入り口付近に停めた。清音が風邪をひいては大変だと思い、急いで歩く。髪は乱れ、背中には汗が滲み、大きなバッグを背負った姿は、どこかしらみすぼらしい。それでも景凪は気にせず、手を伸ばして扉を押そうとした。その時、背後から一台のリムジンが静かに停まる。思わず景凪は振り返る。目元がわずかに冷たくなる。車から優雅に降りてきた女性――それは、姿月だった。彼女は、まるでレッドカーペットにでも向かうかのような装い。シャンパンゴールドのキャミソールドレスに、銀色のクラッチバッグ。髪は後ろで優美にまとめられ、どこかしら遊び心のあるバラのような巻き髪。こめかみに垂れた髪も計算し尽くされていて、その美しさを際立たせていた。姿月もまた、景凪に気づいたようで、少し驚いた顔を見せる。「景凪さん?」景凪は面倒そうに彼女を無視し、ドアを引いて中へ入ろうとする。だが、姿月はしつこく追いかけてくる。「やっぱり景凪さんだ!でも、なんでそんな格好で来たの?」彼女はいつもこうだ。心配そうな顔で無邪気さを装い、どこか人を苛立たせる。景凪は内心うんざりしながらも、冷たく言い放つ。「私が何を着てようと、あなたには関係ないでしょ。どいて」「姿月、誰と話してるんだ?」その時、研時の声が後ろから響く。片手をポケットに突っ込んだまま、大股で歩いてきた彼は、姿月の前にいる景凪に気づく。研時は、景凪の全身を上から下まで値踏みするように見る。その目付きに、景凪は既視感を覚える。大学時代、深雲の彼女として初めて研時と顔を合わせた時も、彼は同じような嘲るような目で彼女を見たものだった。それは、どんなに上品に装っても隠しきれない、骨の髄まで染み込んだ傲慢さと侮蔑だった
Read more

第126話

どうやら今夜のパーティーは、姿月のために開かれたものらしい。じゃあ、これが深雲の言ってたサプライズってやつなのか?自分のためじゃなくて、姿月のためってこと?景凪は心の奥で冷たく笑った。彼女は姿月の少し後ろを歩き、ちょうど照明の陰になって誰にも気づかれなかった。うつむきながら、清音の姿を探して会場の端をすばやく歩いていく。「皆さん、ご注目ください!我らが長華大学のミスキャンパス、美貌と才気を兼ね備えたスーパーガール――姿月後輩!」と、いつも盛り上げ役の暮翔が、マイクを片手に大声で叫ぶ。「しかも今年の国際デザイナーコンテスト、見事に最優秀賞受賞者でもあるんだよ!」最初はみんな落ち着いた様子だった。姿月が美しいのは認めるとしても、この業界、綺麗な女性なんて珍しくもない。だけど、国際デザイナーコンテストの最優秀賞ともなれば話は別だ。五年に一度のこの大会、決勝にノミネートされるだけでもデザイナーとしての価値が何倍にも跳ね上がる。数年は話題にできるほどの名誉だ。ましてや、姿月はあの若さで、ベテランですら一生手に入らない賞を手に入れたのだ!瞬く間に、拍手が沸き起こる。姿月はただ、穏やかに微笑みながら、そのスポットライトの下、本当に女神が舞い降りたかのような気品を放っている。「なあ、あの女の子誰?」近くの御曹司が暮翔に肘でつつきながら、興味深そうに聞いてくる。「誰が呼んだの?制服プレイ?」暮翔が指差す方を見やると、そこに景凪がいた。彼女はまだ昼間の仕事着姿で、長い髪も少し乱れていたが、それでもその佇まいと雰囲気は群を抜いている。ブランド物に身を包んだ参加者たちの中で、逆にその質素さが目立っている。でも、彼女がなぜここに?暮翔は少し不思議そうな顔をする。……景凪は会場を一周して、ようやく清音の小さな姿を見つけた。大きなクマのぬいぐるみに囲まれて、小さなソファにちょこんと座っている。靴下を脱いで、小さなブランケットにくるまり、両手を高く上げてタブレットを持ち、クラスの友達とビデオ通話をしている。今夜の姿月ママを見せているようだ。「どう?嘘じゃなかったでしょ?姿月ママ、めっちゃ綺麗でしょ?それにすごいんだよ!国際デザイナーコンテストで最優秀賞もらったんだ!」清音の顔には誇らしさがあふれ、自分のこと以上に嬉しそ
Read more

第127話

清音の目には、今の景凪の服はしわくちゃで、髪も少し乱れていて、もちろん化粧もしていない……スポットライトを浴びる姿月と比べたら、まるで雲泥の差だ!ほんとうに、もうイヤ!こんなの恥ずかしすぎるよ!景凪は周りの子たちの言葉なんて耳に入っていなかった。ただ、清音が機嫌を損ねているのは、自分のせいで姿月の写真が撮れなかったと思っただけだ。「お着替えと新しい靴下、持ってきたよ」景凪は清音の不機嫌な態度にも怒らなかった。だって、どんなに生意気でも自分の娘だし、まだ小さい。鷹野家や姿月に甘やかされて、ちょっとわがままになってるだけ。景凪は、清音が自分を受け入れてくれるまで時間をかけるつもりだったし、少しずつでも良い方向に変えてあげたいと思っていた。大切なことさえ守ってくれれば、どんなことでも清音を受け入れるつもりだった。景凪は清音の隣に腰かけて、バッグからきれいな靴下を取り出し、清音の足に履かせてあげた。清音はすっかりむくれて、小さな口を尖らせている。そして景凪の持ってきた大きなバッグをチラリと見た。バッグも全然ダサいし、姿月ママの持ってるキラキラの小さなバッグみたいじゃない。どうして姿月ママが本当のママじゃないんだろう?「ねえ、清音、お着替えに行こうか?」景凪が手を差し出すと、清音はものすごく嫌そうな顔をした。そのとき、急に目を輝かせて景凪の後ろを見つめる。「パパ!」景凪が振り返ると、そこには深雲の大きな影が歩いてくるのが見えた。深雲はかがんで、清音を抱き上げる。清音は小さな手で口を隠し、深雲の耳元で何かをささやく。深雲は少し眉をひそめて、「清音」とだけ低く言う。清音は深雲の首にしがみつきながら、甘えた声を出す。「パパ、お願いだよ」深雲は仕方なさそうに景凪の方を見て、「ここで少し待っててもらえる?清音が俺と着替えに行きたいって」と言った。景凪はほんの少しだけ目を伏せて、それでも持ってきた服を手渡した。深雲はすぐに受け取らず、ポケットから小さなギフトボックスを取り出して、景凪に手渡す。「これ、景凪のために用意したプレゼント。きっと気に入ると思う」景凪はそれを受け取り、淡々と「ありがとう。辰希はどこ?」とだけ聞いた。そちらの方が気がかりだった。深雲は後ろの小道を指さす。「辰希は錦織庵(きんしょくあん
Read more

第128話

夜響というこの店、本当に入るのが難しいのは二階だ。一階は金や権力があれば誰でも好きに入れるけれど、二階は会員制で、外部には開放されていない。渡はすぐには口を開かず、わずかに顔を上げてグラスの酒を飲み干す。彼は空になったグラスを揺らしながら、低い声で呟く。「バカを見に来た」冷淡な声が、酒気をまといながら空間に溶けていく。どこか拗ねたような響きまで感じられる。バカ?昭野は渡の視線を追うけれど、その先には誰もいない。頭をかきながら何か言いかけたその瞬間、渡はもう背を向けて歩き出していた。景凪はもちろん、彼女が去った後の二階で何が起きているかなど知るよしもない。彼女は案内係に導かれて、錦織庵へと向かう。そこは古風の趣が溢れた半露天の小さな庭園だ。外の喧騒とは別世界のような静けさが漂っている。景凪は歩幅をゆるめて庭に入ると、そこに辰希と、白髪で古めかしい着物を纏った老人が囲碁を打っているのを見つける。二人は碁に没頭していて、彼女が入ってきたことにも気づかない。景凪はしばらく静かに様子を見守り、ちょっと自慢げに息子を見つめる。辰希は本当に天才だ。まだ幼いのに、碁の腕前はすでにプロ並み。対する老人は、明らかに弱いくせに遊ぶのが好きなタイプだ。景凪は思わず声を出さずに微笑み、そっとバッグから辰希のために用意した温かいお茶をテーブルに置き、上着も残していく。静かに立ち去ろうとしたとき、不意に辰希のまっすぐな視線とばっちり目が合ってしまう。「どうして来たの?」辰希は普段は大人びているけど、まだ五歳の子供だ。その眼に浮かぶ嬉しさは隠しきれない。その一言が、景凪の心にほんのりと温かな光を灯す。「この方は?」老人が興味深そうに尋ねる。辰希は堂々とした口調で紹介する。「この人は僕を生んでくれたママ。この方は僕のネットで知り合った親友、非衣(ひえ)おじいちゃん。ここで掃除の仕事をしているんだ」「ママ」と、わざわざ言い添えてくれた辰希の言葉に、景凪は危うく涙ぐみそうになる。でも、非衣おじいちゃん?妙な名前だなと思いながらも、景凪はもう一度老人をしげしげと見る。優しげな顔立ちと、若者以上に澄んだ瞳が印象的だ。悪い人には見えない。ただ……景凪は非衣の握った拳が机に隠れているのに気づく。非衣は
Read more

第129話

「ママ、すごいよ!」辰希は興奮したように景凪に抱きついてくる。景凪の心の奥底から、どうしようもない喜びが湧き上がる。今の言葉、彼女の耳がおかしくなったのかと一瞬疑ってしまうほどだ。「辰希、今、何て言ったの?」辰希はすぐに手を離して、ちょっとバツが悪そうに顔を背ける。「べ、別に何も言ってないよ。気のせいでしょ、聞き間違いだよ」景凪は唇をきゅっと結び、そっと辰希の頭を撫でる。「そうだね、ママの聞き間違いだね」彼女は無理に「ママ」と呼ばせようとは思わない。ただ、こうして少しずつ受け入れてもらえる姿を見るだけで、十分幸せなのだ。その時、近くにいた老人が、むっとしてひげを膨らませ、子どもみたいに文句を言い始める。「ダメダメ、この勝負は無効だ!外部の助っ人を呼ぶなんて、フェアじゃないぞ!」景凪はにこやかに微笑んだまま、でも声はピシリと強い。「おじいさん、年の功でうちの子をいじめるのはやめてくださいね。もしまたそんなことしたら、毎回私が付き添って、おじいさんに一手も勝たせませんから」非衣は途端にしゅんとなって、妙におとなしくなる。「はい、分かったよ」辰希は景凪の背中を見つめ、ぼんやりと考える。これが、ママに守ってもらうってことなのかな?景凪は片付けを終えて、もう一度辰希の方を振り返る。「ねえ、辰希。ママはもうお家に帰るけど、一緒に帰る?それとも、パパと清音を待つ?」辰希は唇をぎゅっと結び、迷っているのが見て取れる。景凪はすぐに察する。「分かった。じゃあ、ママは先に帰るね。お茶、飲んでね。体があったまるから。あと、寒くなったら、ちゃんと上着を着るのよ?」「うん……」景凪が去った後、辰希は残されたあたたかいお茶と上着を見つめ、小さな手で胸にそっと触れる。なんだろう、この不思議な感じ。すごく……あったかい。景凪は錦織庵を出て、来た道を戻り、再びホールへと向かう。そこで彼女が見たのは、姿月が着替え終わった清音の手を引き、深雲がその前に立っている姿だった。周囲が騒がしいせいか、深雲は自分から身をかがめ、姿月の話に耳を傾けている。清音はいたずらっぽく目をきらきらさせ、突然口元を手で押さえながら、こっそりと深雲の後ろに回り込む。そして彼の脚にぶつかる。深雲は油断していて、体が前に倒れそうになる。
Read more

第130話

今夜この場に集まっているのは、みんな金も権力もあり、背景も相当な家柄の二代目や三代目ばかりだ。深雲がすでに結婚していることは、ずっと前から公になっている。しかもその相手は、青北大学で百年に一度の天才と謳われた景凪で、七年前には一大ニュースとして大々的に世間を賑わせたこともある。あの頃は、景凪の天才という光環が深雲の評価にも箔をつけていた。だが、今や彼女は世間の前から丸五年も姿を消している。もう誰も覚えていない存在だ。まして今日は、深雲が新たに繋がりを作りたい名家の跡取りたちが何人も来ている。だが今日の景凪、その服装や身なりはとてもこの場にふさわしいとは言えない……深雲は手にしていたワイングラスをぎゅっと握りしめ、無表情のまま一気に飲み干す。もしも今ここで、これが自分の妻だと認めたら、自分までこの連中に陰で笑われるのは目に見えている。鷹野家の名も傷つくことになる。天秤にかけた末、深雲は何も言わないことを選ぶ。だが、それでもやはり、景凪があんな風にみんなの冷たい視線を浴びて立ち尽くしているのを黙って見ていられない。深雲は研時にさりげなく目配せを送る。長年の友人だから、研時はすぐにその意図を察する。深雲が、景凪の窮地を助けてほしいと思っているのだと。だが……もし別のタイミングだったら、嫌々ながらもこの頼みを聞いてやったかもしれない。だが今夜は違う。姿月のために一泡吹かせる絶好のチャンスだ。研時は冷たい目で、スポットライトの下で無数の視線に晒されている景凪を見つめ、心の中で冷笑する。自業自得だ。この女が目を覚ましてからというもの、姿月をいじめすぎたのが悪い!景凪自身のせいだ!景凪は、深雲の冷たい、まるで他人事のような横顔を見て、どうしようもなく体の中が凍りついていくのを感じる。深雲が自分を愛していないことは、もう知っている。でも、これまでの年月、命を賭けて彼を何度も救ったこともある。子どもも二人いるのに……わずかでも良心が残っていれば、たとえほんの少しでも!ここまで自分を貶めることはないはずだ!景凪はゆっくりと息を吐き、この部屋の人間たちをもう相手にしたくなくなる。追いかけてくるスポットライトも無視し、まっすぐ出口へ向かう。だが、ドアを引こうとした瞬間、すでに鍵がかかっていることに気づく。景
Read more
PREV
1
...
1112131415
...
30
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status