All Chapters of 君と、朝花夕月: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

二日が過ぎても、知奈からの連絡は途絶えたままだった。三日目から、司は落ち着きを失っていた。頻繁に携帯を確認する癖が出る。知奈からの何らかの気配を待っている。運転手が気づいて声をかけた。「社長、奥様とご喧嘩でしょうか?」「違う」司の声は冷たい。運転手は覚悟を決めて続けた。「率直に申しまして、我々も奥様のご献身は存じております。長年社長のためにご自分を変え続けられ……内縁関係を選ばれた女性の苦労は並大抵ではありません。奥様は本気で心から社長のことを愛していらっしゃるのです」窓の外を見つめる司の眉がひそむ。運転手の言葉が、思わず結婚以来の記憶を呼び起こした――彼女はほぼすべての交友関係を断ち、毎晩早く帰宅した。それはただ、少しでも多くの時間を彼と話すためだった。書斎で彼が仕事をしている間、彼女は静かに隣に座ってそっと見守っていた。彼が好きな映画。彼女はそれがあまり興味がなくても、積極的に調べた。使用人がいるのに料理を学び、彼の好みの味を覚え、汁物から主菜まで掌理した。立派な妻になるために全力を尽くしているのだ。司の心に微かな揺らぎが走る。もしかすると、彼は知奈に酷すぎたのかもしれない。夜、屋敷に戻ると司は携帯を握りしめた。ついに我慢できず初めて自ら電話をかけた。「大変申し訳ございません。おかけになった電話は電源が切れております」何度かけても同じ応答。メッセージを送ると、ずっと既読にならないままだった。「…ブロック?」不安が眉間を曇らせる。再びダイヤルすると、今度は圏外のアナウンス。「海外へ旅行に行った?そんな急に?」不審に思って階段を降りると、机上の宅配箱が目に入った。開封すると、離婚届が現れた。知奈の署名が――!「離婚だと?」司は契約書を握りしめたまま、信じられない表情でつぶやいた。「彼女が…俺と離婚するだと?」箱の底にはボイスレコーダーが仕込まれている。再生ボタンを押すと、流れ出たのは知奈と麗の声だった。「もう充分わかっているでしょう。私が司の心で占める場所は永遠よ。誰にも代わることなどできない。私のためなら彼は命すら惜しまない。あなたとの結婚は偽装に過ぎない。こんな真実を見せたのはあなたのためよ。身の程を悟りなさい。もう二度と彼に惚れた妄想はするな。あなたはただの盾な
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第12話

司の顔に一瞬、狼狽の色が浮かんだ。それでも自分に言い聞かせようとする。――知奈がいなくなった方がいいはずだ。――離婚すれば、麗と堂々と一緒になれる。隠す必要もなくなる。しかし、その考えが頭をよぎった瞬間、彼の心は怯んだ。果たして、自分はまだ麗を愛しているのか?愛しているなら、なぜ父の死後すぐに彼女に気持ちを伝えなかった?知奈に離婚を切り出せばよかったはず。ふと、脳裏に浮かんだのは知奈の笑顔だった。「司」と呼ぶ声。家で共に過ごした穏やかな時間。彼に抱きつく温もり。「…まさか」司はこの瞬間、ある可能性に気づいてしまった――自分は知奈に心を奪われているのか?「違う…!」激しく首を振る。「彼女を愛しているわけじゃない。単なる隠れ蓑だった――」だが、そう呟きながらも、体は勝手に動いた。大使館、情報局…秘書に命じ、知奈の痕跡を探させる。しかし、数日経っても手がかりは得られない。一方、麗がその動きを嗅ぎつけ、押しかけてきた。「まさか彼女に本気だなんて言わないでよね?」司は口論を避けようとする。特に今、世間の目が気になる状況だ。疑われるのも望まなかった。だが麗は、義母の立場を盾に、頻繁に出入りし、勝手に屋敷の改装を始めた。知奈の存在を消すように――司は制止しなかった。抗えば、彼女が「死んでやる」と騒ぐのが面倒だったからだ。しかし、麗が引き出しに隠した箱を発見した時、状況は変わった。中には、知奈が署名済みの離婚届が。「触るな!」司が書類を奪い返し、眉をひそめた。「何度言えば分かる?私物には手を出すな」「何でサインしてないのよ!?」麗の金切り声が響く。司は静かに、しかし強く宣言した。「――俺は、サインする気がない」
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第13話

麗は司を信じられない様子で見つめた。「サインしない?まだこの結婚を続ける気?」彼女は一歩ずつ近づき、言葉を研ぎ澄ませた。「知奈とは内縁関係でしょう。御堂家と藤原家は永遠の敵同士。まさか敵の娘を愛するなんて言わないでよね?」司の眉がさらに深く刻まれた。麗の挑発に、いつもなら心が揺らぐところだった。彼は離婚協議書を奪い取り、サインしようとペンを握った。麗が期待に満ちた目で見守る中、ふと知奈の笑顔が脳裏をよぎった。――毎晩、書斎に駆け込み、首に腕を回して頬にキスをした彼女。嫌そうな素振りをしても、「ダーリン」と元気に呼びかけて、まるでずっと恨みを抱かない子犬のような彼女。その笑顔は、もう二度と見られない。胸が締めつけられる痛み。司はペンを置き、書類をしまい込んだ。「仕事がある。書斎に行く」麗の絶叫を背に、彼は歩き出した。今回は振り向きもしない。その後、司は会議に没頭し、帰宅は連日深夜となった。麗の不満は爆発。自宅で物を壊し、彼に八つ当たりするようになった。そんな彼女を避け、司がついに会社に泊まり込む。麗は電話攻撃を繰り返したが、彼は再び写真流出事件を恐れて距離を取った。ある日、自宅監視カメラが麗の外出を捉えた――派手な身なりで、ナンバーを隠したタクシーに乗り込む姿。何かを警戒しているように見えた。司は眉をひそめ、直ちに秘書に彼女の目的地を調査させた。秘書の報告は、彼の猜疑心を確定させた。「例の…ホストたちがいるクラブです」司の拳が軋んだ。関節が白く変色するほど強く握り締めた。彼はまだ「状況が違う」と自分に言い聞かせようとしたが、怒りは抑えきれなかった。直ちに会社を飛び出し、車を走らせ、クラブに向かう。VIPルームでは、レースのアイマスクをした麗が、ホストの腰の上で喘いでいた。床には札束が散乱。「前回買収した子は故郷に別荘を建てたんですって?私ももっと貯めて早期退職したい」周囲の半裸の男たちが哄笑して、その中の一人が言った。麗は妖艶に笑いながら答えた。「私を一番満足させられる人に大金払うわ」彼女の下では男が必死に演技する。「夫人は相手にされなくて、寂しかったんでしょ?」ホストの腰さばきに、麗は嗤った。「あの男、内縁の妻に逃げられて私に八つ当たり!賭けで追い出したのに、こっちを見ようとしないん
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第14話

麗はホストの身体から転げ落ち、震える手で衣服をまとい直した。VIP室内が水を打ったように静寂に包まれる。司の瞳が溶岩のように滾った。ゆっくりと麗に近づく足音が、絨毯を軋ませる。「司、話を聞いて…」麗は媚を含んだ笑みを浮かべ、司の腰にすがりつき、蛇のように体をくねらせた。かつてのように、この身体で彼を惑わせられると思って。「賭けは彼女が受けたのよ!負けたら引き下がるのが道理でしょ?私が追い出したんじゃないって信じて!」司の指が麗の頬を撫でる。その眼差しは、剥製を鑑賞するように冷たい。麗が安堵の息を吐いた刹那、司の手が突然その首筋へ移動し――ぐいっと喉元を締め上げた!麗の顔が紫色に変わる。必死で司の手首を叩く。「ぐえっ…は、離して…」「ずっとお前を信じてきた」司の目尻が裂けるように赤くなった。「恋人から義理の息子へ…知奈を騙して内縁を装わせ…全ては長年の思い出のためだ!」 麗の顔が紫色に変わり、眼球が不気味に突出した。「それが答えか?今この瞬間まで、腐った男共と享楽に溺れている!」司の指がさらに食い込む。「目の前で晒さなければ、また『薬を盛られた』と嘯くつもりだったな?」「狂…狂ったのは一時だけ…」「前回のホスト買収はお前の仕業か?」麗が沈黙すると、司の指が骨を軋ませた。「お前か?」「私よ!」悲鳴が絞り出される。「知奈に離婚させたのも?」「全部私よ!」麗の憎しみが爆発した。「あの女が無能なの!何度もチャンスを与えたのにあなたが私を選ぶから……賭けに負けた彼女が身を引くのは当然でしょ?」――そうだったのか。司の脳裏に、知奈が必死で彼を誘惑した夜々が走る。あれは全て、彼の側にいる資格を得るための行いだった。そして彼は?拒み、辱め、たった一度も受け入れなかった。知奈を絶望の淵に追いやったのは、紛れもなく自分自身だった。この嘘つき女のために、太陽を手放してしまった!司の手がふらりと離れる。壁に凭れ、魂が抜け出たように崩れ落ちる。床で咳き込む麗を、ホストたちは恐怖で見つめるだけだった。その時、扉が開いた。秘書が灰白色の顔で現れ、指先が小刻みに震えている。「社長、あの時の録音が見つかりました」
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第15話

麗の顔色が一瞬で青ざめた。司は冷たい視線を彼女に向け、秘書に命じた。「再生せよ」秘書が掲げたスマートフォンから、衣擦れの音や麗の嬌声が流れ出る。「御堂伯父様~私と司はただの同級生よ。恋人なんかじゃありません。彼なんて伯父様の足元にも及ばない。私、伯父様に一目惚れしたんです。奥様を亡くして何年も経っているんだから、若い私が後妻になりましょうか?」「金目当てだろう?婚前財産はすべて公正するから、甘い汁は吸えんぞ」「まあ!お金なんて…ただ伯父のことを愛しているんですわ。あん!優しくしてぇ…」続く第二の録音。病床の老父への毒舌。「ジジイはもうすぐ死ぬくせに、遺書で私を無視だなんて!でも大丈夫。司を骨の髄まで虜にしたから。彼が相続すれば、それは私のもの~私に首ったけだから、言うことなんて何でも信じるのよ!」録音が終わると、秘書が深々と頭を下げた。「先代が遺言に添えられていたものです。弁護士に『適切な時期に司に聞かせよ』との指示でした……『白鳥の本性を見抜け』とのお遺志で」司の目に、最後の灯火が消えた。麗を見る目には、もはや一片の温もりもなかった。「…違うの、司!」麗が震えながら縋る。「私だって…仕方なかったの!知ってるでしょ、父が障害者で母も難病…私だけが稼がねば!」司は静かに首を振った。「もうお前の嘘は、終わりだ」「行かないで…お願い、司!長年の思い出を考えて…私を置いていかないで!」彼は無表情で背を向け、扉の外の報道陣に向き直った。「どうぞ撮影を。喪中の未亡人が不貞を働いた証拠だ。理事会は本日付で白鳥麗の未亡人資格を剥奪する。これから白鳥麗は御堂家との一切の関係を断ち切り、横領の法的措置に入る」麗の余生は、牢獄の中で幕を閉じるだろう。記者団が殺到する。フラッシュが炸裂する中、麗の絶叫が響く。しかし司は、二度と振り返らなかった。クラブを出て、秘書が報告した。「お命じ通り奥様の行方を追っておりますが、依然としてまだ手がかりが掴めません。調査を継続しますか?」司はスーツの内ポケットから離婚届を取り出した。ズリズリと引き裂き、紙片が夜風に舞う。「俺が直接探す」その声は、鋼のように硬かった。「たとえ地の果てでも、知奈を取り戻す」
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第16話

御堂夫人の喪中不祥事は瞬く間にネットを駆け巡り、知奈が身代わりとなった過去の報道も再燃した。高級クラブの個室で、司を囲む令息たちが中継映像を嗤いながら見ていた。「藤原家の令嬢、やはり映えるな。女優並みの風貌だ」「一家が海外移住しなきゃ、俺が求婚してたぜ。明るくて美人だし、嫁もらったら一生退屈嫁しねえだろ」「今どこにいる?親を追って渡航したか?」誰かが司を肘で突いた。「おい、藤原家の移住先を知ってるか?」司は無言で煙草の灰を落とす。目の前のロックグラスを手に取り、中のウイスキーを一気に飲み干した。周囲がひそひそ話す。「清純派の御堂がタバコと酒に溺れるようになるなんて…失恋か?」「まさか未亡人に未練が?あの女、今や取締役会に横領で訴えられ、巨額の負債抱えてるぞ」「未練あれば事件を揉み消したはず。完全に終わったな」噂が飛び交う中、一人がスマホを掲げた。「この中継の女性は知奈さんでは?F国のレセプションだ」司の瞳に炎が灯った。立ち上がり、机を跨ぎ、端末を奪い取る――画面に映るのは、紛れもない知奈の姿だった。焔のような真紅のドレス。ダイヤモンドの煌めきが、炎の中から蘇った仙女のようだ。――初めて出会った夜を思い出す。同じ赤いドレスで、遠くから恥ずかしそうに微笑んだ彼女。強い印象が残っていた。藤原家の敵対を顧みず彼を追いかけ、アプローチしてきた時も拒まなかったあの娘。気づいていた。あの時から心を奪われていたと。ただ認めることを恐れていただけだ。だが麗の「仕方なく義父に嫁いだ」という泣き声に縛られ――守ってやれない己の無力さを責めた。だから知奈を傷つけ続けた。彼女のキスを拒み、抱擁を冷たく退け、寝室すら共有しなかった。彼女の悲しげな表情を意図的に無視してきたのだ。それでも彼女はいつも言っていた。「大丈夫、司。あなたが受け入れてくれる日を待つから」その声が耳朶を刺す。司の心が張り裂けそうになった。必死に中継の配信元を確認する──確かにF国だ。その瞬間、秘書が個室に駆け込んだ。大使館で何日も調査した結果、彼女の移住記録を突き止めたのだ。「奥様はF国R市に移住済みです」移民書類の証明写真に、司は久しぶりに笑みを浮かべた。「直行便を手配しろ。今すぐF国へ」令息たちが呆然とする。「御堂家の御
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第17話

この頃、F国のR市。海辺別荘。潮風に揺れる庭で知奈が目を閉じている。姉の茜が挽きたてのコーヒーを差し出す。「貴方好みの甘さよ。角砂糖二つ入れてある」「ありがとう」カップの縁に唇を寄せた知奈の頬に、自然と幸せそうな笑みが浮かんだ。藤原家は皆、彼女の好みを知っていた。移住の報せに家族総出で空港へ駆けつけた。兄の伊行(これゆき)は数十億円のプロジェクトを押して入国手続きを代行し、その夜の歓迎宴には各界の要人が集まった。「帰ってきて良かった」知奈は姉の腕をすり寄せながら呟いた。「家族が一番私を愛してくれるんだもの」司との内縁結婚を隠した過去を、今は激しく後悔している。もしあの時へ戻れるなら、愛してくれる家族を騙し隠すことなど絶対にしない。冷たい視線すら惜しんだ男の為に。まったく馬鹿げていた。「急に感傷的ね?昔は『絶対に海外に行かない』って頑なだったくせに」茜はため息をついた。「男にひどく傷つけられたのね」知奈は俯いて黙り込む。茜はこれ以上詮索せず、ため息を漏らした。「いい?恋愛も結婚も、家族が厳選した相手と付き合いなさい」知奈は頷いた。内緒結婚の過去は絶対に知られてはいけない。「夕方メイクさんが来るわ。今夜の婚約パーティーに間に合わせて」茜が付け加えた。「古川臣(こがわ おみ)が貴方を待ち続け、数多のお令嬢を断ってきたのよ。期待に応えなさい」古川臣。十代の折に一度会っただけの男性。藤原家と古川家は代々の付き合いで、両家の縁談は両親の昔からの望みだった。今回の移住も、彼女が再び本国に戻らないよう仕組まれた婚約劇だった。「分かっている」知奈は覚悟を決めて頷いた。「綺麗に着飾る。皆に祝福される結婚をする」家族が認める婚姻こそ幸せの道――そう心に刻み直した。その夜、藤原家の別荘は賓客で埋まった。古川家と藤原家の婚約を祝う宴である。階段を降りる知奈の真紅のストラップレスドレスに、場内が息を呑む。「藤原家の令嬢は代々美しいが、今代は格別だ」「古川家も良い縁を頂いたものよ」「古川の若様も俊英揃い。天の配剤だな」階段下で待つ臣は薄灰色のスーツ姿が凛々しく、鋭い眼光の下に、知奈を見つめる瞳だけが優しさに満ちていた。その視線に触れた知奈の鼓動が一瞬止まる。「知奈、ようやく戻ってきてくれたね」彼が手を
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第18話

場内の賓客がざわめく。「御堂家の御曹司では?なぜここに?」「藤原家と御堂家は確執が続いている。招かれたはずがない」「ご当主の顔色が真っ青だ」司は周囲の視線を無視し、壇上へ駆け上がった。瞳は知奈だけを捉える。「知奈、迎えに来た。俺と家に帰ろう」知奈は言葉を失った――なぜ彼がここに?――F国に来たことをどうやって知った?「家」という言葉に胸が騒ぐ。まさか追ってきたのか?いや、ありえない――今頃は麗と幸せに過ごしているはず。わざわざ彼女を追う必要などないのだ。彼女の去りは、むしろ彼にとって祝福すべき出来事だった。彼女は一歩後退し、臣の傍らに寄った。「御堂社長、何を言われているか分かりません」その声は氷のように冷たかった。「因縁のない両家が交わることなどありません。どうか私の婚約式を壊さないでください」司の瞳が揺れる。彼女のそんな冷淡な表情は初めてだった。まるで自分を全く知らない他人のように。全ての感情を捨て去ったかのようだ。いや、彼らの関係そのものを否定している。心臓を抉られる痛みが走る。彼女のそんな態度に耐えられず、司は即座に彼女の手首を掴んだ。「ここは話す場じゃない。まず一緒に来てくれ。全て説明する」知奈が拒むより早く、臣が割って入った。「私の婚約者に手を出すとは?彼女と話すなら、まずこの婚約者の許可を得るべきでは?」婚約者。御堂の目が険しく細まった。「婚約者?俺と彼女の関係を知っての台詞か?」知奈の顔に不安が走る。内縁結婚の秘密が暴かれる恐怖に震えた。藤原夫妻が顔を見合わせる中、兄の伊行と姉の茜が駆け寄った。「御堂め、妹から離れろ!」伊行が司を押しのける。「何代にもわたり卑劣な罠を仕掛けておいて、今度は婚約式を台無しにする気か!」司は知奈を凝視したまま動かない。「真実を話せ。今日の婚約を止めろ」知奈は臣の腕をしっかりと抱きしめた。「臣、この人の顔を見たくない。追い出して」臣は伊行と目配せし、うなずく。警備員たちが壇上へ駆け上がり、司の両腕を拘束した。「知奈――!」彼は抵抗しながら叫ぶ。「怒っているのは分かる!話す機会をくれれば全て説明する!お前を離さない…俺は離婚届を破った!お前は一生、俺の妻だ!」場内が騒然となる。「まさか…藤原の令嬢が御堂と結婚していただと!?
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第19話

婚約式の夜、豪雨が屋敷を叩いた。藤原家の書斎で、知奈は全てを打ち明けた。こっそり恋に落ちたこと、家族を欺いた司との内縁結婚、麗との敗れた賭け、そして受けてきた数々の屈辱…すべてを洗いざらい話した。藤原家の面々は静かに聞き終えたが、表情は重苦しく沈んでいた。沈黙が支配する中、両親が深いため息をついた。「藤原家の娘が、美貌も家柄も兼ね備えたこの子が、御堂の小僧にここまで追い詰められるとは」茜が知奈の左手の瘢痕に触れ、声を詰まらせた。「調理中の事故だと嘘をついたわね?これが硫酸の傷だなんて?……どんなに痛かったか」伊行は拳を握り締め、歯ぎしりする。「御堂め…妹を傷つけた代償を思い知らせてやる。絶対に許さない」知奈は静かに首を振った。「もういいの、兄。あの人はどうでもいい。彼とは全て終わった。愛も消えた。結婚生活も続ける気はない」母が厳かな口調で言う。「離婚届にサインさせねば。古川家との婚約が決まっている。臣との縁談に影響が出てはならん」父が問いかけた。「本当にもう司への未練はないのか?婚姻は一大事だ。御堂家との縁を断つなら、徹底せねば」「はい」知奈は涙を拭い、瞳に迷いはなかった。「あれだけ酷い仕打ちを受けて、二度と機会など与えません」「それで良い」父が立ち上がり、書斎の扉を押し開いた。「聞いただろう、御堂。娘はお前を選ばん。諦めろ」知奈は驚き顔を上げ、雨に叩かれながら跪く司の姿があった。睫から滴る水滴が、哀しみに濡れた視線を揺らす。彼女の言葉は筒抜けだった。父は雨の中に跪く御堂を哀れみ、密談を聞かせる代わりに賭けを提案したのだ。――賭けに負けた。「知奈の本心を聞かせる。もし一片の未練があれば娘を譲る。だが『愛さない』と言えば二度と近づくな」司は賭けを受けた。確信していたの。彼女の愛は不滅だと。しかし今、彼の瞳には不安と卑屈が渦巻き、震える声が書斎に響く。「嘘だ。俺を愛していないはずがない」父が家族に退出を促す。重い扉が閉ざされ、書斎には二人だけが残る。知奈は深い息をつき、司の目をまっすぐに見据えた。決着をつける時だ。「司」知奈の声は研ぎ澄まされた刃のようだった。「私たちの関係は終わり。もう愛していない。立ち去って」
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第20話

司は自嘲の笑いを漏らした。知奈の言葉を信じようとせず、雨に濡れた身体で近づく。絨毯に滴る水が暗い染みを広げる。まるで彼の心のようだった。「愛が消えるはずがない」司は知奈の表情を探る。「六年も俺を追いかけ、全てを捧げたお前が…そんなことがありえるか?」知奈は空虚な笑みを浮かべ、ゆっくりと言葉を刻んだ。「そうか…あなたも私の犠牲を『知って』いたのね?」皮肉な口調に、司の心臓が締めつけられ、窒息しそうな苦しさだ。「だからこそ償いに来た」彼の声は哀願に変わる。「間違いだった…お前を傷つけた全てを悔いている。償わせてくれ、愛する機会を――」知奈の表情は静かな湖のようだった。他人事のように、彼の罪状を列挙し始める。「愛だと?どうやって私を愛するの?愛という字が言える資格があなたにある?」知奈の目が氷の刃となる。一歩一歩、彼を壁へ追い詰める。「私の愛を利用して内緒結婚を提案し、麗の隠れ蓑にしたあなたが?結婚後、一度も触れようとせず、嫌悪の眼差しを向けたあなたが?オークションで私を置き去りにし、彼女のためだけに酒をあおって、入口に立つ私には気づきもしなかったあなたが?火災現場で彼女だけを助け、私の生死すら顧みなかった。病院であの女を気遣い、便器に押し込まれた私を無視したあなたが?記者会見で身代わりを強要し、硫酸が飛んでも彼女だけを守ったあなたが!」瘢痕だらけの左手を突きつける。「これがあなたの愛?私をどこまで貶めれば気が済むの!?」言葉の一撃一撃が司の魂を削る。背筋が凍りつき、息が乱れた。地に堕ちる思いだった。「償う…必ず償う…」司の目尻が赤く染まり、拳が震える。「最初は麗を守るために君を傷つけた。麗を裏切れないと思った……彼女の愛を信じた愚か者だった」「だが全ては偽りだった!今ようやく気づいた。彼女は御堂家から追放された。二度と君の前には現れない。もう邪魔者はいない!」膝が砕けそうなほどに頭を下げる。「頼む…もう一度だけ…」かつての誇りは消え失せ、ただ懇願する男がそこにいた。これほどまでに卑屈な司を、知奈は見たことがなかった。かつてなら、彼がこんな姿を見せれば、知奈は狂喜しただろう。今は違う。知奈は机の手鏡を取ると、床に叩きつけた。「ガラ――ン!」散り散りの破片。一片が司の頬を掠め、血の筋が滲んだ
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