All Chapters of 妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話

大智は蓮司と恵里からの口止めを思い出し、口を尖らせて言った。「僕、あの子の名前は知らない」「名前、聞かなかったの?」天音は大智の言葉を疑うことはなかった。大智が正直で誠実な子、嘘をつくような子ではないと信じていた。しかし今、天音は戸惑った。しどろもどろに質問に答えられない大智を見て、がっかりした天音は手を離した。天音は由美の部屋を出ると、ちょうど蓮司と紗也香に出くわした。大智は母が悲しんでいる様子を見て、以前父に叩かれたことを思い出し、いまだにその恐怖が胸に残っていた。もしまた父が、自分が母を悲しませたことを知れば、きっとまた叱られる、あるいは叩かれるだろう。大智にはもう二度とそんなことが起きてほしくなかった。小走りで部屋を飛び出した大智は、天音と蓮司、そして紗也香の目の前で言った。「ママ、あの子の名前は彩花だよ」うっかりとその名前を口にした大智は、父もその場にいることに気づくと、慌てて後ずさり、尻もちをついてしまった。天音の長いまつ毛が大きく震え、目を見開いて蓮司を睨みつけ、同時に蓮司に駆け寄り、襟元をつかんで低い声で問いただした。「彩花?あの子の名前が彩花だと?」天音の瞳には深い悲しみが浮かんでいた。十年も愛し続けた男が、こんな仕打ちをするなんて信じられなかった。蓮司には心がなかった。蓮司は、どうして自分の隠し子を天音に育てさせようとするのか。どうしてその子に「彩花」と名付け、そして天音の生まれてくるはずだった娘と天音を侮辱できるのか。蓮司は天音が倒れそうになったところを支え、低い声で言った。「天音がこの名前を嫌うなら、養子にしたら名前を変えてもいい」「彩花?どの彩花?」紗也香は大智を抱き上げ、服についた埃を払ってやりながら、不思議そうに小さくつぶやいた。なぜ天音はこの名前にこんなにも激しく反応したのか。大智は不安そうにうつむき、蓮司を見ようとしなかった。彼は、彩花のことを誰にも言わないと蓮司に約束していた。だが今、彼はその約束を破ってしまったのだ。「俺と天音が養子に迎えようとしている女の子だ」蓮司は紗也香に淡々と答えた。「歳は由美と同じ、四歳だ」「そうなのね。だったら由美と大智にも新しい遊び相手ができるわね」紗也香はそう言って、勇気の裏切りで曇っていた表情も少し和ら
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第22話

三日後、天音は小林家が破産したとの知らせを受けた。それに加え、健二もショックで脳卒中を起こし、病院に運ばれたが、助からなかった。「あんたは、誰にも認められない女のせいで、二つの名門に深い憎しみを生んだのよ!」千鶴は紗也香を罵りながら追いかけてきた。紗也香は天音の背中に隠れた。「蓮司があんたのために、弱い立場の人間をいじめることまでしたのに、恩を仇で返すなんて、風間家に従う者たちは私たちをどう見るの?今日こそ絶対にあんたをこの家から追い出してやる!」千鶴が出した合図で、使用人たちは一斉に紗也香を捕まえようとした。紗也香は天音の服を握りしめて、「天音、お願いだから助けて」とすがった。かつてなら、千鶴と紗也香が揉めたとき、天音は必ず間に入って仲裁したものだった。だが今、天音はただ紗也香の手をそっと外し、部屋を出ていった。その場にいた全員が驚いたが、今は天音の感情に気を配る余裕はなかった。紗也香の声が階上から響いた。「お母さん、今さら私を追い出したって意味ないよ。周りが正義だなんて思うわけがないし、そんな考えは捨てた方がいいわ」パチンという平手打ちの音がしても、天音は何も気にせず、そのまま家を出ていった。天音は車で邸宅を離れた。郊外は広々としていて、別荘地も山腹にあるためほとんど人影もなく、両脇の緑が規則正しく後ろに流れ去っていった。冷たい風が、心のもやもやも吹き飛ばしてくれるようだった。その時、急に黒い影が目の前を横切り、天音はハンドルを切って急ブレーキを踏んだ。車は道路を外れ、道端の大木にぶつかった。エアバッグが弾け、運転席に押し込まれた天音は一瞬で意識を失った。目が覚めると、天音の手足は痺れ、少しでも動かそうとすると頭が割れるように痛んだ。天音はもがいてみたが、自分が木製の椅子に縛り付けられていることに気づいた。そのとき、自分が誘拐されたのだと悟った。「無駄な抵抗はやめろ。蓮司に電話して、紗也香を俺のところに連れて来させろ」勇気が古びた鉄の扉の向こうから姿が現れた。天音は目を細め、薄暗い光に目が慣れるとようやく彼の姿を確認し、弱々しく尋ねた。「どうしてこんなことをするの?」「どうしてって?お前が蓮司にとって一番大事な人間だからだよ。そんなことわざわざ説明する必要ないだろ。蓮司を
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第23話

皆は写真に視線を奪われ、勇気だけが傲然と笑い声をあげていた。ただ天音だけは、宙に舞う盗撮写真の隙間から、かすかに見える蓮司の顔をじっと見つめた。蓮司の顔には、不倫がばれてしまった驚きや後悔の色は全くなかった。彼の黒い瞳は深く、その奥底には鋭い光が閃いていた。蓮司は一瞬で、勇気が天音の首に押し当てていたナイフを押さえつけ、相手が反応するよりも早く数メートル蹴り飛ばし、倒れかけた天音をしっかりと抱きとめた。勇気は廃鉄の山に倒れ込み、すぐに護衛たちが一斉に押さえつけた。それでも彼は激しくもがき、こけた頬で狂ったように叫んだ。「紗也香、見ろよ。これが『いいお兄ちゃん』の正体だ。こいつは長年愛人を囲い、俺なんかよりもっと汚いことをしてきた。白樫市でこいつの醜聞を知らない奴なんていない」紗也香は床一面に散らばる淫らな写真を見つめ、驚愕しながら蓮司と天音を見た。蓮司が天音を裏切るなんて、ありえない。彼は天音のためなら命さえ惜しまなかったはずだ。だが、写真の中の男は間違いなく兄だ。天音は頭がくらくらして、力なく蓮司の腕の中に崩れ落ちた。ナイフは蓮司の掌から落ち、血が止まることなく流れ出し、一瞬で手のひらを真っ赤に染めた。天音は蓮司の血で染まった手を見つめ、心の奥底に封じ込めていた記憶が一気に蘇った。蓮司もかつて命をかけて自分を救ったことがあった。あの時も同じように。そこで、自分は蓮司を愛するようになった。だが今、蓮司の救いはもう天音の心を動かすことはなかった。あと24日。天音はもうすぐ蓮司の元を離れられる。「天音、心配したんだぞ」蓮司は彼女の額と眉そして目元にも優しくキスして慰めた。失いかけたものを取り戻した安堵で胸が満たされ、傷も顧みず天音を抱き上げて外へ向かった。「すぐに病院へ連れていく」去り際、蓮司は冷たくボディガードに命じた。「あいつを警察に連れていけ」紗也香がはっと我に返った時、勇気はすでに口を塞がれ、外へ連れ出されていた。紗也香はゆっくりとしゃがみ込み、一枚一枚の写真を拾い上げた。手は震えていた。幼い頃から尊敬てきた兄が、まさか不倫をしていたなんて。そして天音は、それをまるで気にしていないようだった。千鶴の言葉が彼女の頭をよぎった。女にとって一番大切なのは家の権力、地位、財産
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第24話

由美のことを思い出した紗也香は、胸が引き裂かれるように痛んだ。「違う、全部あんたのせいよ。あんたが私に酷いことをした」「俺がどれだけお前に酷いことをしても、お前に贅沢な暮らしだけは絶やさなかったし、由美も桜栄グループの後継者でいられた。なのにお前はそれを全部台無しにした」勇気は紗也香の手を握り、歪んだ彼女の顔を見つめた。これが最後のチャンスだ。「あの女はもう追い払った。もう流産したんだ」「また昔みたいに一緒にいよう、な?」「紗也香、許してくれ。頼む、蓮司に桜栄グループを助けてくれるように頼んでくれ、俺を見逃してくれ……」そのとき、背後から振り下ろされこん棒に首を打たれ、彼はそのまま意識を失った。ボディガードたちはすぐに車を出し、そのうちの一人が紗也香に声をかけた。「紗也香さん、あんな悪い男なんて忘れた方がいいですよ。天音様に手をかけた男が、刑務所入りだけで済むわけがありません。どうかよくお考えください。そんな男のために、風間社長との関係を壊されないでください」紗也香の目に冷たい光が宿ったが、口ではこう言った。「もちろんよ。こんな男、死んでしまえばいい。浮気して裏切ったうえに、天音まで誘拐したなんて。私はただ、お兄ちゃんが絶対にこいつを許さないでほしいだけよ。天音のいる病院へ連れていって」ボディガードはすぐに頷き、紗也香を車に乗せて走り去った。後部座席で、紗也香は手のひらの写真をぎゅっと丸めた。そして電話をかけた。「あの女のすべての情報を調べて」自分で確かめたい。勇気の一言だけで蓮司や天音を疑いたくなかった。病室では、天音が昏睡状態に陥っていた。蓮司は自分の手の傷も顧みず、ベッドの傍らを離れなかった。その瞳は、溢れんばかりの愛情で満ちていた。「社長、奥様の診察が終わりました。お顔の傷以外に異常はありません」蓮司に天音の容体を報告したのは、白樫市で最も優秀な総合医、山本隆(やまもと たかし)医師だった。「妻はいつ目を覚ますんだ?」「奥様は体がとても弱っていて、血糖値もかなり低いです。おそらく二日ほど何も口にしていません。栄養を補給すれば、すぐに意識は戻るでしょう」医師はそう答えた。二日間も何も食べていなかったのか。蓮司はその言葉を聞いて、深い自責の念に包まれた。蓮司は天音
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第25話

紗也香は誰かに肩を優しく抱かれて、振り返ると、そのまま相手の胸に飛び込んで、嗚咽しながら泣き出した。「杏奈」二人は病院の中庭に座っていた。中庭の周りにはチューリップばかりが咲き誇り、他の花は見当たらなかった。ここは東雲グループ傘下の病院だ。かつて、天音がこの病院に長く入院していたとき、何気なく「庭いっぱいのチューリップが見たい」と口にした。それを聞いた蓮司は、すぐ病院内の他の花をすべて撤去させた。「紗也香、あなたのことは全部聞いているよ」杏奈は紗也香にティッシュを差し出した。「過去を清算しなければ、新しい出会いはないものよ。風間家のお嬢様であるあなたなら、言い寄る人はいくらでもいるわ」風間家のお嬢様?紗也香の目に一瞬、寂しげな色が浮かんだ。「母さんはたぶん私を家から追い出すつもりだと思う」杏奈は驚きの声をあげた。「そんなはずないわ、あなたは千鶴さんがとても大事にしている娘じゃない」「大事にしてくれてた?天音が現れるまでは確かにそうだったのかもね」紗也香の声には深い悲しみ帯びていた。この数年、千鶴が自分と天音にまったく違う態度を取ってきたことを思い返した。自分にはいつも厳しく、エリート教育を受けさせ、絶えず努力を強いてきた。それに対して天音は、したい放題で、やりたいことをやればよかった。自分はいずれ大邸宅の女主人になるべき存在だった。天音はただ家に身を寄せているだけの他人だった。これが千鶴が紗也香に言っていたことだった。でも後になって、天音と蓮司が結婚したとき、千鶴が天音と会った瞬間から、天音こそ東雲グループの後継者であり、蓮司の未来の妻だと決めていたことを知った。そのとき、紗也香の心には言いようのない喪失感が生まれた。しかし、天音は紗也香にとても優しく、実の妹のように接してくれた。天音の両親は離婚し、母親も亡くなった。風間家に嫁いできた彼女を、義理の妹である自分も、兄のように守るべきだと感じていた。千鶴が天音を特別に可愛がるのも当然だと思っていた。だから紗也香は、その喪失感を心の隅に押しやり、今振り返ってみると、自分はまるで愚かな道化のように思えてしまう。紗也香は杏奈を見つめた。杏奈は天音の親友だ。自分が結婚していた間、二人はずっと一緒だった。杏奈なら天音のことをよく知っているは
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第26話

探偵は言った。「天音奥様の異母妹です。彼女の詳細履歴をお送りします」紗也香は「わかった」とだけ言い、電話を切った。すると、すぐに探偵から履歴書が添付されたメールが届いた。恵里は桜華ビジネススクールで一番の美女であり、蓮司が桜華ビジネススクールに寄付した校舎のおかげで、体操の特別推薦生として入学した。探偵から届いたファイルはまさに恵里の学籍記録で、その下には蓮司が校舎を寄贈した情報がはっきりと記されていた。どうやら、二人の関係は本物らしい。紗也香の視線は彼女の艶やかな姿から外れ、家族関係の欄に目を移った。父親の欄には「加藤誠」と書かれていた。それは、天音が親子の縁を切った実父の名前だ。まさか、恵里の父があの加藤で、しかも恵里が天音の恋のライバルになるなんて!紗也香の張り詰めていた気持ちは一気に崩れ、思わず呟いた。「蓮司は本当に天音にひどいことをしたわね」その現実が、紗也香の胸を深く締めつけた。紗也香にとって、蓮司は世界一の兄であり、最高の男だった。紗也香は蓮司のような人を夫にしようと決めていた。たとえその時、千鶴に勇気はあなたに釣り合わない、小林家は風間家とは比べものにならない、遠くへ嫁ぐなと反対されていたとしても。母親の反対を押し切って、紗也香は勇気と結婚した。勇気は裏切りが発覚されるまでは、本当に紗也香に優しくしていたし、由美のことも何から何まで面倒を見ていた。長い苦しみの末、ようやく離婚を決意し、解放されると思ったのに、現実は彼女に痛烈な平手打ちを食らわせた。天音もまた、蓮司の浮気を知りながら耐えてきた。しかも天音は、紗也香に勇気と別れよう助言した。もし天音の後押しがなかったら、母親に言われた通りにしていたかもしれない。「天音は蓮司に裏切られても離婚せずに耐えているのに、私には離婚を勧めてきた。彼女は本当に私を助けようとしていたの?それとも陥れようとしていたの?」紗也香は泣き出した。一瞬、杏奈の口元に狡猾な笑みが浮かんだ。杏奈は紗也香の手をしっかり握って言った。「紗也香、あなたと勇気さんのことは本当に気の毒に思っているわ。この話を聞いてすぐ会いに来たかった。勇気さんにももう一度だけチャンスをあげてほしいと思っていたの、由美ちゃんのためにも。でもまさか、蓮司がこんなに早く動
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第27話

紗也香は血痕ができそうになるまで、下唇を強く噛みしめた。風間家の令嬢でありながら、家で暮らすのに他人の顔を窺わねばならないのが腹立たしかった。そして彼女は、天音が白樫市に来たばかりの頃、苦しんでいた姿を思い出した。紗也香は覚悟を決めた。「絶対に恵梨香さんの命日を立派に執り行って、天音に感動させて泣かせてもらう」誰も自分に優しくしてくれないなら、こんな人生、誰一人として幸せになんてさせない。病室で、天音はあまりにも衰弱していて、意識が朦朧としていた。天音は、両親が離婚した年、白樫市に来たばかりで、土地勘もないまま誘拐された時のことを思い返していた。誘拐犯は恵梨香に一千六百万円の身代金を要求した。それは恵梨香が家から持ち出した全財産だった。蓮司はその金を持って、誘拐犯と天音の身柄を交換しに向かった。しかし、誘拐犯は金を受け取ると約束を破り、殺害しようとした。蓮司は自分が東雲グループの後継者だと明かし、自分の方が価値があると主張して交換を申し出た。誘拐犯はそれに同意し、二人は交換された。だが、誘拐犯の仲間が倉庫の外で放火し、二人を焼き殺そうとした。燃え盛る火の中、蓮司は命も顧みず誘拐犯と戦いながら、天音に向かって叫んだ。「早く行け、ここから逃げろ、俺のことは考えるな!」天音は炎で体が焼けるように熱くなり、煙で息ができず、目の前で蓮司が誘拐犯を倒し、焼け落ちる梁が二人に迫ってくるのを見ていた。天音は恐怖で叫んだ。「やだ、やめて……蓮司……」天音は、はっと目を見開くと、冷や汗で病衣がぐっしょり濡れていた。目に入ったのは、血の気が引いた蓮司の顔だった。蓮司は天音の手をしっかりと握っていた。「大丈夫だ。もう二度とあいつを近づけさせない」天音は蓮司を見上げ、苦しみと悲しみを堪えきれず、涙がこぼれ落ちた。あの時、天音は本当に蓮司が自分を愛してくれているだと実感していた。蓮司の優しさも、その愛情も……そんな蓮司が、ある日突然いなくなってしまったように変わった。蓮司は天音の悲しげな表情を見て、彼女が怯えているのだと思い込み、抱きしめて耳元で囁いた。「天音、俺はここにいる。ずっとそばにいる、ずっと一緒だ」ずっとそばにいる?天音はその言葉を聞き、思い切り蓮司を突き飛ばそうとした。だが蓮司の体格は大
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第28話

「何て言ったの?」天音の声はかすれて、ほとんど出ていなかった。紗也香は驚きながら報告書を受け取った。「ここに書かれた血中ヒト絨毛性ゴナドトロピンの値は、明らかに妊娠の基準を超えてるよ。蓮司、データ上は、天音は妊娠してるのよ」千鶴が天音に対する唯一の不満は、子どもを一人しか生まなかったことだ。だから彼女はずっと天音にもう一人の子供を産んでほしいと願っていた。この数年、天音も必死に子どもを望んできた。ようやく、その願いが叶った。それなのに、紗也香の胸はさらに痛んだ。同じように夫に裏切られたのに、彼女が我慢したからといって、本当に幸せになれるのか。天音は無表情で蓮司を見つめた。明らかに自分は妊娠しているのに、なぜ蓮司がそれを否定しているのか。天音が見ていると、蓮司は振り返って優しく微笑んだ。「医者が間違えたんだ。天音は妊娠してない」「蓮司、でもおかしいよ?このデータ間違いなさそうなのに」と紗也香は不思議に思ったが、蓮司の目に走った陰を見て、すぐに口をつぐんだ。「紗也香は医者じゃないだろう」蓮司は軽くたしなめ、天音に向き直り、優しい表情を浮かべた。天音は蓮司のその優しげな顔をじっと見つめていた。美咲が自分を騙すはずがない。自分を騙しているのは蓮司だった。天音はもう蓮司に完全に失望していたのに、それでも蓮司は常に天音の限界をさらに押し広げていく。結局、この結婚で子どもを望んでいたのは天音だけだった。失った娘のために涙を流していたのも、天音だけだった。「山本先生と話してくる。お前は少し休んで」蓮司は天音の額にキスをし、山本医師を見ると、すでに冷たい顔つきに変わっていた。天音の視界は涙でぼやけていた。その手はぎゅっと握られていた。「天音、大丈夫だよ。兄ちゃんもまだ若いし、これからだってチャンスはあるよ」紗也香の慰める声に、天音はかすかな温かさを感じた。天音は首を横に振り、微笑んで返した。「もう子どもはいらないよ、紗也香」天音はベッドを降り、「ちょっとお手洗いに行ってくる」と言った。天音が泊まっているのは最高級の特別室で、室内にお手洗いもついていて、部屋を出る必要はなかった。天音は山本医師のオフィスの前に立ち、中から蓮司の冷たく無情な声が聞こえてきた。「この子をおろしてくれ」「風間社
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第29話

「うん、全部任せるよ」天音が病室に戻ると、千鶴が使用人を連れて入ってきた。入ってくるなり、紗也香に容赦なく平手打ちをし、紗也香はソファへと倒れ込んだ。天音は思わず声を荒げた。「千鶴さん!どうして紗也香を叩くんですか!」天音が「千鶴さん」と呼ぶのは、これが二度目だった。最初は、蓮司との結婚式の日。皆に促されてそう呼んだとき、千鶴は天音の手をそっと取り、「これからは『お母さん』って呼んでね」と穏やかに微笑んでくれたのだった。千鶴はその呼び方に一瞬驚いたが、すぐに我に返りこう言った。「この厄介者がいなければ、あなたが勇気に誘拐されて、病院送りになることもなかった」「それは紗也香のせいじゃない」天音は紗也香を助け起こし、千鶴に反論した。だが天音は気づかなかった。紗也香は殴られて髪を乱し、鋭い黒い瞳で天音を睨んでいた。「彼女をかばう必要はないわ」千鶴は緊張したまま天音をベッドへと促し、「栄養スープを作ってきたから、冷めないうちに飲んで」と言った。天音は千鶴とこれ以上話したくなかったが、今の紗也香の立場を考え、千鶴の前で紗也香をかばうために妥協した。「食欲がありません」「食欲がないなら、胃を整えるものを飲みなさい」千鶴が連れてきた使用人たちは、それぞれ保温ポットを手にしていた。念のため、千鶴はいくつもの栄養品を用意していた。紗也香は痛む頬を押さえながら、千鶴が天音ばかりを気遣う様子を見て、胸が締めつけられる思いだった。さらに千鶴は冷たい声で言った。「病院の外には記者が大勢待っているわよ。今すぐ使用人の彩子と一緒に裏口から出て、今日から一歩も家を出てはだめよ」かつて紗也香は勇気と結婚するために、命を懸けて千鶴に迫り、千鶴はやむを得ず妥協した。紗也香の結婚生活がうまくいくように、千鶴は何度も小林家に支援し、小林家を瑞雲市の名門へと成長させた。千鶴はこれだけ尽くして、紗也香に名誉ある人生を歩ませ、誰にも笑われないようにした。それなのに、紗也香は自ら全てを台無しにした。今では社交界で「風間家の令嬢は器が小さい、取るに足らない夫の不倫相手を倒すために小林家を潰した」と噂されている。健二は脳卒中で亡くなった。小林家は崩壊し、紗也香は被害者から加害者へと変わった。さらには蓮司も、紗也香のために冷酷な方
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第30話

天音が退院する時、病院はメディアに完全に囲まれていた。天音は蓮司と千鶴に挟まれ、ボディガードや使用人たちに囲まれ、車に乗り込んだ。「天音さんは軽傷だったらしいけど、名家の姑が自ら退院のお迎えに来るなんてね」記者たちはカメラを構えながら、口々に噂をしていた。「他の財閥のお嫁さんとは違うんだよ。だって風間社長の奥さんだもの。風間社長は奥さんを命より大切にしているし、千鶴奥様も本当に可愛がって、実の娘のように扱ってる」「勇気が風間家のお嬢様を裏切っただけでも大ごとなのに、まさか風間社長の妻まで誘拐するとは…どうなることやら」「風間社長は勇気の会社を破産に追い込み、健二まで倒したんだろう。何年の親族だったのに、社長の奥さんが無事だったからって、そこまで酷いことはしないんじゃないか。小林家も後継ぎは一人だけだし」と、ある記者が憤った口調で言った。「それに、俺が聞いた話だと、風間社長はずっと前から不倫してて、しかも隠し子までもいるらしい。同じことをやってるくせに、どうしてそこまで他人を追い込めるんだ?」「何言ってるの!そんなこと言ったら東雲グループに名誉毀損で訴えられるわよ!」その記者は周囲にたしなめられたが、情報源は高橋家のお嬢様――蓮司の身近な人間で間違いないと確信していた。「信じないなら、明日風間社長が義母のために行う法事に来てみれば分かるさ」「後で知らなかったなんて言うなよ。俺は先に特ダネを掴むつもりだ」彼の言うことは具体的で説得力があり、他の記者たちの心も揺れた。直樹が父親の袖を引っ張った。「パパ、天音さんは大丈夫かな?」男は俯き、直樹を抱き上げた。今の会話を耳にして、彼自身も心配になった。ここ数日、隊長から天音の状況を色々と聞かされていた。天音は今の生活を捨て、組織に復帰するつもりだという。あの時、天音は蓮司のために組織を離れた。もし蓮司が本当に裏切ったのなら、天音がその決断をしたのも当然かもしれない。さっき遠くから見かけた天音の弱々しい姿を思い出し、胸が締めつけられる思いだった。だが、新たな任務が入った。自分の正体がまもなく世間に明らかになる以上、これ以上天音と関わることはできない。「天音は心身とも強いし、有能だから……きっと大丈夫だよ」男は息子の直樹を抱きしめながら、自分自身にも
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