All Chapters of 妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

天音はきつく眉をひそめ、反対したかった。千鶴が続けて口を開いた。「写真を何枚か撮るだけで、紗也香の助けになるの。天音、話してみて。今、外では紗也香のことを厄介者とか、東雲グループが権力を振りかざしているとか言われているのよ」紗也香の今の状況を思い出し、天音は思いとどまった。天音が階段を上がると、紗也香が待っていた。「由美が使用人たちから、勇気が捕まったことを聞いたみたい、ずっと泣きじゃくってるの」「私、見てくる」天音は紗也香と一緒に由美の部屋へ行き、由美をそっと抱きしめた。胸が締めつけられる思いだった。「おばさん、けがしたのはパパにやられたの?みんなが言ってたよ。パパは悪い人で、おばさんを傷つけたって。おじさんが私とママを追い出すって。おばさん、パパはいい人だよね?みんな嘘をついてるんだよね?」幼い顔が不安に曇り、純粋な瞳で天音を見つめていた。もし天音の娘が生きていれば、今の由美と同じ年頃だった。天音は由美を傷つけることがどうしても忍びなかった。「由美、あなたのパパが私のこと傷つけたんじゃないよ。自分でうっかり転んでしまっただけ」「じゃあ、私とママ、ここにいてもいいの?」由美はあどけなく聞いた。「もちろんいいよ。ここも由美とママの家だから」天音は由美の頬をやさしく撫でた。「ありがとう、おばさん」由美は天音の頬にキスをした。「じゃあ、パパに言うね。しばらくここで暮らしてから帰るって。でも、パパの電話がなんでずっと繋がらないのかな……」由美がぶつぶつ言いながら娯楽室へ歩いていき、大智と一緒にアニメを見始めた。天音の胸には言いようのない悲しみがあふれてきた。親が不仲になると、傷つくのはいつも子どもだ。自分もその一人だった。天音は紗也香の手を握った。「近いうちに、一緒に弁護士事務所へ行こう。私と蓮司が結婚したとき、蓮司は自分の株を私に譲ってくれたの。それを、あなたに譲りたいの」紗也香はあまりの驚きに呆然としていた。その顔を見て、天音は少し笑って娯楽室へと向かった。天音は大智ともっと一緒に過ごしたいと思った。残された時間は、あと二十五日しかなかった。法事の日、紗也香はためらうことなく、薬を入れた水を蓮司に手渡した。すべてが順調に進むように。昨夜、天音から株の譲渡を提案さ
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第32話

天音はその場に凍りついた。自分の目の前の光景が信じられなかった。蓮司と恵里が抱き合っていた。天音は初めて蓮司に激しい憎しみを覚えた。カーテンをぎゅっと握りしめ、今にもそれを引き裂いて、記者たちに二人の関係を晒してやりたい衝動にかられた。「ママ、僕がおばあちゃんの遺骨を持つね」天音は声に振り向き、大智がすでに傍に来て、彼女の脚の間にもぐりこもうとしているのを見た。頭の中に稲妻のような記憶が走った。十六年前、自分の目で父親の浮気を目撃したことが、長年にわたり天音の心に消えない傷として残っていた。ましてや、大智はまだ五歳だ。天音は大智に同じ苦しみを味わせたくなかった。そっと肩を押さえて動きを止め、カーテンは手から滑り落ちて、室内の全てを覆い隠した。そのとき、恵里が蓮司にしがみついたが、蓮司は彼女を乱暴に突き飛ばした。彼は行為で高まった体熱を抑えながら、手の甲には血管が浮き、目は狂おしいまで充血していた。「蓮司、私が手伝うから……」恵里のその一言が、蓮司は全てが彼女の仕業だと分かった。蓮司は恵里の首をつかみ、壁に押し付けた。恵里は一瞬で息ができなくなり、顔が真っ赤になって苦しそうにもがいた。彼女のつま先は恵梨香の骨壺に、あと少しで触れそうだった。天音は大智の前にしゃがんだ。「大智はまだ小さいから遺骨は持てないよ。大智が大きくなってお兄さんになったら、そのときは任せるね」「嫌だよ、ママ」大智は骨がどんなものか見たくて仕方なかった。「僕、もう大きいし、力もあるよ」そして、大智は天音を押しのけて抵抗した。天音は退院したばかりで体力もなく、彼を止めきれなかった。大智の手がカーテンに触れたとき、部屋の中から「ドン」と大きな音がした。人混みの中、紗也香が驚いて叫んだ。「中に誰かいるの?」紗也香は大智を抱き上げて中に入った。記者たちもその騒ぎを聞きつけ、警備の制止を振り切って一斉に内室へなだれ込んだ。天音はドアの脇に立ち、視線をゆっくりと室内に移した。恥知らずな二人の姿は消えていたが、瓦礫に囲まれた白い遺骨だけがそこにあった。「遺骨が!」天音は人混みをかき分けて膝をつき、両手で遺骨を抱きしめ、苦しみの声をあげた。「あぁ、あぁ……!」その惨状はすべて記者たちによって撮影され、さらにはライブ配信までされていた。
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第33話

「蓮司のことが恋しくてたまらなかったからよ」恵里は哀れな声で許しを乞った。「蓮司も私のこと、本当はすごく恋しかったんでしょ?」「法事をめちゃくちゃにしに来るなんて、殺すぞ」蓮司は大きな手で恵里の首を締め上げ、今にも殺してしまいそうな勢いだった。天音は何よりも、誰よりも、母親を大切にしていた。蓮司はもし天音がこのことを知ったら、どれほど深く傷つくか想像すらできなかった。車にはスモークが貼られていて、天音にはぼんやりとした人影しか見えなかった。彼女は携帯のハッキングアプリを立ち上げ、蓮司の車載カメラに侵入した。画面の中の蓮司は背中だけだったが、その前で身体を揺らしている恵里の姿ははっきりと映っていた。天音の目には、それがどうしようもなく醜悪な光景に映った。こんな場所まで来て、理性も働かないのか。蓮司は片時も恵里から離れようとしなかった。これまで天音に注がれた優しさも、愛情のこもった約束の言葉も、その瞬間すべてが跡形もなく消えていった。蓮司は天音を騙していた。体だけでなく、心までも裏切っていたのだ。天音は車のドアノブを握りしめ、もう我慢できないと感じていた。狭く曲がりくねった小道に、突然大勢の記者たちが押し寄せてきた。その中には、大智の手を引いた紗也香の姿もあった。「天音、恵梨香さんの骨壺を壊したやつ、見つけた?これ、蓮司の車ね。あの男が蓮司の車に隠れるなんていい度胸だわ」「こんな悪人、晒してやらなきゃ!人の遺骨にまで手を出すなんてクズ以下だよ」記者たちは口々に叫び、カメラの向こうでライブを見ているネットの視聴者も、不正義に激しい怒りを向けていた。「天音、早くドアを開けて!」紗也香が焦って急かした。「大智くんも待ちきれないよね、悪い奴を捕まえたくて。ね?大智くん」大智はその状況に興奮してうなずき、「ママ、早く車のドアを開けて」と言った。「開けて!」「開けろ!」その場の群衆も熱気を帯びていた。天音は目の前にいる見知らぬ人々を見つめながら、彼らは一見自分の味方のように振る舞っていながら、本当はただ野次馬根性で騒いでいるだけだと感じていた。蓮司の不倫が暴かれることは、彼らにとってはただの好奇の的にすぎない。しかし大智にとっては、心に深い傷を残すことになるかもしれない。彼は
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第34話

全員の注目の中、蓮司はスーツ姿で端正に車から降りてきた。怒りを宿した目で、この愚かな包囲を鋭く睨みつけた。「お前たち、何をしている?」蓮司は車を降りて、天音を腕の中に庇った。車のドアはすぐに閉まり、誰一人として車内の生々しい情景やロマンチックな雰囲気を覗き見ることはできなかった。「パパ、僕たちはおばあちゃんの骨壺を壊した悪い人を捕まえるんだよ」大智は一歩前に出て、胸を張って蓮司に話しかけた。蓮司はその言葉を聞き、さっき恵里を平手打ちして床に倒し、恵里が机の角にぶつかり骨壺が床に落ちたことを思い出した。彼の視線は天音の青ざめた顔に落ち、目には深い憐れみが滲んだ。「天音、俺が必ず責任を取る。骨壺を壊した奴が誰であろうとんだろうと、俺は絶対に許さない」天音は大智の手を取り、この場から離れたかった。自分が悪事を働いておきながら、逆に他人を責めるだなんて。蓮司はいったい何をもって天音に責任を取るというのか。「ここで何をしてたの?どのくらいいたの?小道から来た犯人は見なかった?」紗也香はこの機会を逃すまいと食い下がった。しかし蓮司は冷ややかに言い放った。「俺のことをお前に説明する義務はない」「見ていなくてもいいのよ。墓地は外部からの侵入者を防ぐため、すべての隅に監視カメラが設置されてる。今から警備室で映像を確認すれば、誰が東雲グループ社長夫人の母親の骨壺を壊すほど肝の据わった奴か、すぐ分かるはずよ!」紗也香は蓮司の冷たい視線を無視して声を張り上げ、記者たちも一斉に賛同した。ニュースのライブ配信では、ネットの視聴者も「絶対に天音さんのために正義を!」と声を上げていた。「ママ、早く行こう」大智は紗也香の言葉にあおられて、目を輝かせていた。紗也香は蓮司の不適切な関係を暴くまで決して諦めない様子で、執拗に食らいついていた。天音は、かつては彼女の未来のために力になりたいとすら思っていた自分を思い出し、胸が鈍く痛んだ。「やめろ!」蓮司が声を荒げて制止した。「蓮司が愛妻家なのは誰もが知ってる。なのに、なぜ私たちに真相を隠すの?」紗也香は蓮司の鋭い目をまっすぐに見返し、この日だけは決して引き下がるつもりはなかった。「俺が警備主任に監視映像を持ってこさせる。お墓の移動の時間が迫っているから、これ以上遅れるわけにはいか
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第35話

警備隊長は現場の全員、そしてネット視聴者たちの前で監視映像を再生した。覆面をした黒ずくめの男が、狭く曲がりくねった小道から走り去る姿が映し出された。「犯人は現在捜索中です。まもなく結果が出るはずです」蓮司が言った。「その時には必ず結果を公表します。記者やネットの皆さん、ご協力ありがとうございました」騒動は収まり、記者たちはその場を去った。天音は墓の前で跪き、恵梨香のために経を唱え、静かに祈りを捧げていた。蓮司は天音のそばに警備員を残し、すぐに立ち去っていた。その時、携帯電話が鳴った。発信者は恵里だった。天音は通話ボタンを押した。「天音さん、今日は本当に刺激的だったよね。蓮司とは、初めてあんなに興奮したわ。彼ったら、たった数日会わなかっただけなのに、お母さんの前で私と関係を持つなんて。でもね、蓮司から聞いたよ。天音のお母さん、最後の数年はずっと病床で、男もそばにいなくて、すごく孤独だったんだって。だから、私たちのショーでも見せてあげて、ちょうどいい暇つぶしになったんじゃない?もう、蓮司、ちょっと待って、さっき終わったばかりじゃない?」男の荒い息遣いと女の甘い声が、毒のように天音の全身に広がった。電話は無機質な「ピー」という音と共に切れた。蓮司と恵里が絡み合いながら、天音や恵梨香について話していたことを思い出すと、天音の胸には底知れぬ虚しさがこみ上げた。傷を最も深く刻むのは、やはり、近い存在である夫婦なのだと実感した。天音はもう一刻も蓮司のそばにいられず、今すぐ彼の元を離れたいと思った。紗也香が赤くなった頬を押さえながら近づき、天音の前の供え物を蹴飛ばして怒りをぶつけた。「天音、こんなに長い付き合いなのに、ここまで恥知らずだとは思わなかった!母に頼んで、私が蓮司の不倫を暴露するのを止めさせるなんて。自分の母親の骨壺が蓮司と恵里に壊されるのを黙って見ているなんて。家の財産のために、ここまで卑怯になれるなんてね。恵里が誰の娘か、知ってるの?」天音は紗也香と話す気にもならず、そのまま立ち去ろうとしたが、手首を紗也香に掴まれた。紗也香は天音の冷淡な態度を見て、嘲るように笑った。「金も名誉も地位も手放したくないからって、夫が母親の祭壇で浮気しても平気でいられる女が、夫の不倫相手が異母妹とかわざわざ気にする
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第36話

声が聞こえた天音は二階に上がり、階段の踊り場に立った。そこからは小さなリビングが一望できた。恵里と蓮司は欲望のままに盛り上がり、他に誰がいるかにまったく気づいていなかった。避妊具が床やソファに無造作に散らばり、目を覆いたくなるほどの有様だった。その光景は、天音の胸に鋭く突き刺さった。ゴルフクラブを握る手は震えが止まらなかった。そのとき、蓮司がそばに置いた携帯から健太の声が響いた。二人はビデオ通話中だった。健太のいる部屋では音楽が鳴り響き、女たちの色っぽい声も途切れなく流れていた。その両腕には美女が絡みついている。「恵里、戻ってきたんだって?だから言ったろ、蓮司、お前はあいつを手放すべきじゃなかったんだ。恵里はいい女だよ、気取らずオープンでさ。天音みたいに清廉ぶってない。お前、天音のために何年も我慢してきたじゃない?来ないなら、こっちから何か送ってやるよ。もっと盛り上がるようにさ」蓮司は健太の下品な言葉に反論せず、小さく「うん」とだけ返事をした。健太は含み笑いを残して電話を切った。天音はゴルフクラブをぎゅっと握りしめた。白樫市に来たばかりの頃、彼女は蓮司に連れられて情熱的なパーティに出たことがあり、そこで下品な場面も目にした。酔った誰かが、天音に手を伸ばそうとしたこともあった。蓮司はその男を殴り倒し、天音をその場から連れ出してくれた。その時、蓮司は天音を優しく宥めて「天音、俺もこういうパーティは初めてだ。君が嫌なら、もう二度と来ない。俺の周りの連中にも開催も参加もさせない」と約束した。蓮司はその約束を守り、それ以来パーティから身を引き、健太たちにも参加を禁じた。ある時、あるパーティで感染症が広がり、参加者全員が検査を受ける騒ぎになった。御曹司たちの淫乱パーティはメディアで暴かれ、ニュースで顔をさらす事態に発展した。蓮司に出入りを禁じられていた友人たちは、天音に「おかげで助かった、病気にもならず家族に資産を取り上げられることもなかった」と感謝のメッセージを送ってきた。蓮司は「お前のような恋人を持てて誇りだ」と天音を褒めた。天音もその頃は少し誇らしく、蓮司の役に立てた自分を嬉しく思っていた。今振り返ると、それが滑稽に思えてならなかった。今の蓮司はもう天音の知っている蓮司ではなかった
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第37話

「俺にちゃんと仕えてくれたら、好きなようにしてやる」蓮司の甘く低い声が天音の耳奥まで響き、激しく心をえぐった。蓮司は恵里の一家を助けるつもりだった。天音は、そんな蓮司をもう見ていられなかった。自分がこの世で一番憎んでいる相手に手を差し伸べ、母さんの魂まで苦しめる存在になってしまった。かつて蓮司は自分のすべてだった。その彼を、自分は命がけで愛していたはずだった。しかし、どうして今はこんなに悔しく、全身が痛みに締めつけられ、息もできなくなるのだろうか。ここで倒れてはならない。天音は母の遺骨を連れてその場を去り、恵梨香を傷つけた全ての者に必ず償わせると心に決めた。今はまだ、全てを明かす時ではない。胃の奥と胸がキリキリと痛んだ。その痛みをこらえ、天音はふらつきながら階段を降りた。手からゴルフクラブが滑り落ちると、階段にぶつかって鈍い音が響いた。「誰が下にいる!」二階から蓮司の苛立った声と、足音が下りてきた。天音は別荘の玄関に立ち、ドア枠に手をついて嘔吐した。ふと、道路の真ん中に人影が現れた。天音は呆然と立ち尽くした。六年ぶりの再会が、まさかこんな状況になるなんて思いもしなかった。男はまっすぐに背筋を伸ばし、松の大木のように堂々と立っていた。彫りの深い顔、すべてを見透かす鋭いまなざしは、昔と何ひとつ変わっていない。健康的な小麦色の肌がやけに印象的だった。天音は心の中でそっとその名を呼んだ。先輩。彼は隊長の一番の愛弟子で、組織でも伝説のような存在だ。そして、天音がかつて誰よりも尊敬し憧れた人。渡辺 龍一(わたなべ りゅういち)。二人の視線が交錯した。語りたいことは山ほどあったが、そのすべてが沈黙のうちに交わされた。天音と龍一は遠い距離を保ったまま、続けて別荘のエンターテイメントエリアにあるカフェへ入った。天音と龍一は、いくつかテーブルを挟んで離れて座り、静かに見つめ合った。カフェの隅には、回転式のダーツボードがあった。天音は立ち上がり、少しだけダーツを投げて遊び、コーヒーを注文した後、龍一の後ろを通りすぎて店を出ていった。天音が去ると、龍一も立ち上がって天音が刺したダーツを一本ずつ引き抜いた。それぞれの的は、ある種の座標だった。龍一はその位置情報を携帯に入力し、天音が残したメ
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第38話

蓮司は突然割り込むように現れ、再び天音を自分の後ろに引き寄せた。天音は反応する暇もなく、蓮司が龍一に拳を振るった。龍一は一歩後ろへ下がり、その攻撃をかわした。二人の視線が空中で激しくぶつかり合い、現場の空気には一触即発の危険な緊張が走った。「おや、これは風間社長と天音奥様じゃないですか?」「この前、天音奥様が団地で倒れた時、龍一さんが救急車を呼んでくれたんですよ」カフェにいるのは皆、別荘街の住人たち。緑野市の富豪エリアほどではないが、誰もが一目置く顔ぶれだった。彼らはすぐに蓮司と天音を見分けた。ここ数日、風間家は話題の中心だったし、龍一のこともよく知っていた。天音は蓮司が強く握る手を振り払った。蓮司は驚いたように天音を見て、その陰のある整った顔立ちと、隙のないスーツ姿を見下ろした。ほんの数分前までだらしない恰好をしていた男が、今は完璧な仮面をまとっている。天音が手首をさすっているのを見て、蓮司は自分のしたことに気づき、一瞬だけ胸を痛めた。しかし住人たちの会話が耳に入ると、その感情はすぐに冷たい色に変わった。「天音はこの男に会いに来たのか?」天音は手首をさすりながら、ゆっくりと龍一に目を向けた。まるで初対面の他人を眺めるようなよそよそしさで聞いた。「あの日、助けてくれたのはあなたですか?」龍一は天音の疎遠な視線を受け止めながら、少しだけ目を揺らし、低く応じた。「そうだ」「ありがとうございます。お名前を聞いてもよろしいですか?」「天音奥様、龍一さんは桜華ビジネススクールの教授なんですよ。すごい人なんです」住人の一人が割り込んだ。「最近、うちの別荘街に越してきたばかりで。あの日、龍一さんがいなかったら、天音奥様が車の中で倒れていたことは、誰も気づかなかったはずです」天音の視線は再び龍一の顔に戻り、自然な感謝がその目に浮かんだ。その様子に蓮司はなぜか苛立ちを覚えた。天音と龍一は初対面だったようだ。蓮司の思い違いだった。蓮司は一歩前に出て手を差し出し、天音と龍一の間を断ち切るようにした。「すみません。先ほどずっと妻を見ていたから、何か下心があるのかと思いました。誤解でした。私は彼女の夫、風間蓮司です。妻を助けてくださったんですね。いつかまた改めてお礼させてもらいます」蓮司が発する冷たい威圧感は、丁寧な言葉
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第39話

「大物?」蓮司は低くつぶやいた。「そうですよ。どうやらただ者じゃないらしいです。実力も相当なものと聞きました。桜華ビジネススクールの院長や研究員たちも、よく彼のもとを訪ねてくるんです」と住人が続けた。 彼らも金と権力を持つ実業家だが、蓮司のような財閥の前では、やや分が悪い。しかしトップクラスの科学者や軍事の専門家の前では、たとえ蓮司でも特別な存在とは言えない。国の未来を担うのはやはり科学者や知性ある人材で、蓮司でさえその流れには逆らえなかった。たまたま蓮司と話す機会を得て、しかも龍一という後ろ盾があれば、蓮司のような超富豪の前で少し優越感を得られる――そんな思いでこの住人は満ち足りた笑みを浮かべた。「それでは、お先に失礼します」蓮司は軽くうなずき、天音の肩を抱き寄せた。「天音、お義母さんの墓前にいるはずじゃなかったのか?どうしてここに?」天音は蓮司の手を振り払った。その手が汚らわしくて、触れられるのも我慢できなかった。「お母さんの骨壺を壊した犯人が見つかったかを聞こうと思ったの。でも、蓮司がここにいるのを知って、ロールスロイスの位置情報を辿って来ただけ」「あなた、会社で海外の急な案件に対応しているはずじゃなかったの?どうしてここにいるの?」蓮司は天音の言葉を疑うことなく信じていた。天音が怒りで眉をひそめ、蓮司と話すことすら嫌そうな素振りを見せる様子に、かえって蓮司は彼女が自分のことを気にしているのだと感じてしまう。「母さんは天音のことをちゃんと世話してやれなかった。北郊のこの別荘は今空いているから、母さんとは少しの間離れて、ここで天音と大智を住まわせようと思ったんだ」「ここは空気がよくないから住みたくないわ」天音は数日前の杏奈の裏切りを思い出し、胸が痛んだ。「あの日、四人で食事して、杏奈が用事があるって先に帰ったよね。私、心配で、彼女の後を追ってここまで来たの」天音は表情ひとつ変えずに続けた。「私が何を見たか、わかる?」「何を見たんだ?」蓮司の顔が少し険しくなった。「恵里はこの辺りで一番いい別荘に住んでいる。でも、恵里はまだ卒業したばかりの大学生よ。こんな高級エリアの、それも一番いい部屋に住めるはずがない。きっと健太が買って与えたんでしょうね」天音は長い脚で別荘の外へ歩き出した。「杏奈はきっと、その情報
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第40話

それは、蓮司が恵里と行為をしていたとき、彼女の両手首に巻かれていたベルトだった。天音はそのベルトを蓮司の足元に投げ捨て、彼に深い失望の眼差しを向けた。ついに天音は、蓮司の目の中に走る動揺と後ろめたさを、はっきりと見てしまった。天音が別荘から駆け出したとき、騒ぎを聞きつけた管理会社のマネージャーに出くわした。「風間家の別荘はどれですか?」天音は尋ねた。管理マネージャーは冷や汗を拭きながら、嘘をつく余裕もなく答えた。「天音奥様、こちらが唯一無二の最上級の棟です」その言葉の直後、蓮司もすぐに追いかけてきた。今この瞬間、天音はかつてと何も変わらない蓮司の端正な顔を見つめながら、自分はもう十分に傷ついたと思い込んでいた。しかし、体の芯から崩れ落ちるような痛みが全身を襲った。涙が視界を曇らせ、天音は薬指の指輪を外して蓮司に投げつけ、冷たい声で言い放った。「離婚しよう」天音はそのまま道路へと駆け出した。その言葉を聞いた瞬間、蓮司の胸には重い痛みが走り、後悔が瞳に溢れた。天音の遠ざかる背中を追いかけ、蓮司は彼女を抱きしめた。「天音、話を聞いてくれ!」天音は激しく抵抗し、叫んだ。「放して!あなた二人の好きにすればいい!もう二度と会いたくない!放してよ!」苦い記憶が次々と脳裏に押し寄せてくる。天音は胸を押さえた。息苦しさでほとんど呼吸できず、目の前の蓮司の姿がぼやけていき、ついに視界が暗闇に覆われた。意識を失う直前、蓮司の声が耳に届いた。「俺は死んでも天音を失いたくない」どんなことがあっても、蓮司は決して天音を手放さない。天音はそのまま気を失った。目が覚めると、天音は別荘の中にいた。テーブルの上には、全く同じベルトが二本置かれていた。健太と恵里が天音の前で膝をつき、健太は自分の頬を叩きながら詫びていた。「天音、本当にごめん。同じベルトを使っていたせいで、誤解させてしまって、危うく心臓発作を起こさせるところだった」天音はソファに座ったまま、冷たい眼差しでその光景を見つめていた。杏奈が恵里を蹴りつけ、恵里は悔しさと屈辱で顔を歪めつつ、しぶしぶ謝った。「わ、私……」「何よ!天音に心臓発作を起こさせかけたのに、まだ認めないの?」杏奈が怒鳴った。恵里は痛みにうめきながら、「私……私が……邪
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