Semua Bab 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。: Bab 41 - Bab 50

89 Bab

静かな余韻

再生機器の小さなディスプレイが消灯し、部屋の空気がいっそう深く沈んだ。音は完全に止まったはずなのに、智久の耳にはまだ、微かな旋律が残っているように感じられた。夜の静けさは、音楽の余韻を際立たせる。それは鼓膜ではなく、もっと内側、心の奥のほうに染み込んだまま消えない。智久は、リモコンに添えていた指をそっと外した。立ち上がるまでに、少しだけ時間がかかった。身体が重いというより、まだ何かを受け止めきれずにいるような、そんな感覚。湯呑はもうすっかり冷めていて、手に取る気にもなれなかった。部屋の電気を消す前、最後にもう一度、視線をスピーカーのほうへ向けた。再生は終わっている。何も流れていない。ただそこに、黒いボックスが静かに佇んでいるだけだ。それなのに――胸のどこかがざわめいていた。右手をのばして、部屋の壁のスイッチにそっと指をかける。パチ、とわずかな音を立てて電気が落ちると、部屋はすぐに闇に包まれた。けれど、真っ暗ではない。カーテンの隙間から、月の光が床をうっすらと照らしていた。細く、白く、けれどどこか優しいその光が、机の端や本棚の角をなぞっている。智久はしばらく立ち尽くしていた。夜のなかで、自分の呼吸の音だけを聴いていた。やがて、ゆっくりと扉に手をかけた。ノブを回す音がしないように、できるだけゆっくりと。きしむ音が出ないように注意して、そっと扉を引いた。外はさらに静かだった。家の廊下に、他の気配はない。みんな眠っている時間だ。智久は足を一歩踏み出した。廊下の板が微かに鳴る。その音が、自分の心音と重なったような錯覚に陥る。薄いシャツの袖が肌に張りついていた。暑くも寒くもないはずなのに、汗をかいたような感触があった。智久の影が、月明かりの先に長く伸びていた。廊下の途中で、ふと足が止まる。何を思ったわけでもない。ただ、身体が立ち止まった。その場から、どこかへ引き返したくなったのかもしれない。けれど、戻る理由もない。それでも、一歩を踏み出さなくてはならない理由も、どこかにある気がした。智久は静か
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-19
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ささやかな誘い

店の前に立ったとき、春樹は一瞬だけ眉を寄せた。白く擦れた暖簾が、夜風にゆらゆらと揺れている。外観だけなら見過ごしてしまいそうな、どこかくたびれたような居酒屋だった。「ここでいいの?」春樹が尋ねると、智久は頷いた。「昔、会社の同僚とたまに来てた。落ち着くんだ、こういうの」その言葉に、春樹はわずかに唇を緩めてから、暖簾をくぐった。店内は四人がけのテーブルがいくつか並び、奥にはカウンター。木の柱や壁には、何年も積み重ねた煙と時間の匂いが染み込んでいる。ふたりは奥の隅の席へと通された。注文を終えると、短い沈黙が降りた。テーブルの上には、まだ何も届いていない。メニューの文字を追うふりをしながら、春樹はそっと智久を見た。智久は無言で、おしぼりをほどいている。くしゃくしゃになった布を器用に指先で広げ、丁寧に手を拭く。その指の動きに、春樹はふと目を奪われた。長い手。関節の浮き出た指。少し節くれだっているけれど、清潔で、正確で、たしかな動き。ピアノには不向きかもしれないけれど、誰かの暮らしを支えるには、こんな手がいい。春樹はふと、そんなことを思った。「…らしくないね」沈黙を破ったのは春樹だった。「こんなふうに、急に飲みに誘うなんて」智久はおしぼりをテーブルに置きながら、視線をグラスの向こうに落とした。「たまには、いいだろ」その声は、思ったよりも柔らかかった。届いたジョッキがテーブルに並ぶと、ふたりは無言のまま、それぞれの手でグラスを取った。春樹の指は、軽く濡れた取っ手にすっと馴染む。智久のグラスと触れ合うと、小さな音が弾けた。「乾杯…とか、言う?」春樹が少し照れたように笑うと、智久も口の端をわずかに上げた。「しないのが、俺たちらしい気もするけどな」笑い合うでも、見つめ合うでもなく、ただ、同じ動作でグラスを傾けた。喉を通った冷たいビールが、じんわりと胸の奥に染みていく。ひと口飲んだあと、春樹はふう、と息をついた。「懐かしい味。学生のとき、こんな感
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-20
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他愛のない会話と沈黙

春樹が箸を動かしていた小鉢の焼き茄子が、すっかり冷めていたことに気づいたとき、テーブルにある他の料理も、同じように手つかずで残されていた。飲み屋のざわめきは相変わらず続いているのに、その一角だけが、妙に静かな島のように感じられる。そんな不思議な時間だった。「七菜、最近はよく食べるようになったよ」智久がふいに口を開いた。低いが落ち着いた声。春樹は顔を上げ、軽く頷いた。「うん、レッスンのときも元気そうだった。ああ見えて、けっこう我慢してるのかもな」「そうかもな…俺が思ってるより、子どもって、ちゃんと空気読んでるんだな」「子どもは大人よりずっと敏感だよ。言葉にされない気配とか、すぐ察する。七菜、特に」その言葉に、智久は箸を止めた。手元の小皿を見つめたまま、ゆっくりと口元に指を運び、指の背で下唇をなぞるように触れた。何かを考えているようでもあり、考えないようにしているようでもある。春樹はそれ以上、言葉を足さなかった。「仕事は、どうだ」智久が話題を変えた。「変わり映えしないよ。子どもたちが騒がしくて、それがなきゃ退屈だけどさ」「お前、昔からそういうの、向いてたよな」「そう?」「うん。人の感情、よく見てた。…俺より、ずっと」その言葉のあと、智久はビールのジョッキに手を伸ばした。中身はもう残り少ない。底に溜まった泡をじっと見てから、飲み干さずに戻した。「…今日の七菜、家でピアノ弾いてたよ。バッハ。ちょっとだけだったけど、なんか…綺麗だった」「そっか」春樹はふわりと微笑み、ビールをひと口だけ口に含んだ。その笑みが、嬉しさからなのか、照れからなのか、自分でもよくわからなかった。「お前が教えてるからだな」「ううん、あの子の中に、元々あるものだよ。俺は、それを見つける手伝いをしてるだけ」智久はそれに返事をせず、ただ目線を皿の上に落とした。しばらく、ふたりの間に沈黙が落ちた。けれど、苦しいものではなかった。春樹はその静けさの中で、
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-20
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寂しさの正体

智久の手元に置かれたグラスは、すでに二杯目の焼酎を飲み干したあとだった。氷が溶けかけて、水のように澄んだ液体がグラスの底に残っている。ほんのわずかな光を反射して、ゆらゆらと揺れる。カウンター越しに聞こえるテレビの音は、スポーツニュースのハイライトを淡々と流していたが、その内容が二人の耳に入っている気配はなかった。春樹は、自分の前に置かれたグラスの中で、カランと氷が崩れる音を聞いた。それはまるで、誰かのため息のように柔らかく響いて、沈黙の隙間を埋めた。「…寂しかったんだ、ずっと」智久の声は、掠れるように低かった。その言葉が、あまりに自然に落ちてきたので、春樹は一瞬、何かの独り言かと思った。だが視線をそちらに向けたとき、確かに、智久の口元がその言葉を形作ったのを見た。春樹は、手にしていた箸をそっと皿の端に置いた。微かな音がした。箸先についた焼き魚の欠片が、白い陶器に擦れた感触が指先に残る。「…うん」ただそれだけを、春樹は返した。慰めではない。それ以上でも、それ以下でもない。智久の言葉を否定せず、過不足なく受け止める、その一言。智久はまっすぐ前を見ていた。春樹ではなく、店内の奥、赤提灯の明かりがぼんやり揺れる方向を見つめている。けれど、何も見てはいない眼だった。「七菜が寝たあと、テレビも消して、電気を暗くして、布団に入って…そのときにふっと、何もかもが、遠く感じるんだ」春樹は頷かなかった。けれど、うっすらと瞳を細めて、その声のゆく先を、静かに追っていた。「人と話すのは、職場で毎日ある。でも、そこに誰もいないんだよ。帰ってきて、ただの生活音だけが残ってるのが、一番きつい。洗濯機の音とか、風呂の排水の音とか。そういうのが…やけに大きくて」智久の目元に、光が滲んでいた。まつげの奥、奥二重の皮膚にかかる陰影の中に、ほんのわずかな濡れが光った。けれど、それは決してこぼれ落ちることはなかった。春樹は、胸の奥に、ひとしずく冷たい水を流されたような感覚を覚えていた。それは痛みではなく、静かな共鳴だった。彼もまた、似たような夜を知っていた。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-21
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夜風と歩幅

夜の空気は、思ったよりも冷えていた。夏の終わり、蝉の声もほとんど聞こえなくなった街に、乾いた夜風がすうっと吹き抜ける。飲み屋の並ぶ通りを抜けて、二人は言葉少なに歩いていた。背後に置いてきた暖簾の灯りが、いまや遠く滲んでいる。智久は、両手をポケットに入れたまま歩いていた。まっすぐに、けれどどこかぎこちなく前を見ている。酔いはそれほどでもないように見えたが、口数はさらに減っていた。春樹は、そんな智久の横を、一歩ぶん遅れて歩いていた。足音は静かだった。人通りのない住宅街、アスファルトの道に照らされたオレンジの街灯。その光が、智久の頬から首筋へと淡く滑る。襟足の影が、その角度に合わせて細く揺れていた。春樹は、それを見ながら歩く自分の足音に意識を向けた。なぜか、音を立ててはいけないような気がしていた。袖口がふわりと風に膨らみ、シャツの布が春樹の手の甲をかすめた。その一瞬のふれあいに、春樹の呼吸が少しだけ乱れた。すぐに引っ込めた腕は、どこに置いていいかわからず、指先が自分の脇をさまよった。ふいに、春樹が口を開いた。「…俺、智くんがさ、誰にも言えないこと、ずっと言わずにいるのが…嫌だったんだ」その声は、つぶやきに近かった。誰かに聞かれることを恐れているのではなく、伝えるべき相手が目の前にいることが、かえって言葉を小さくさせた。智久は、すぐには反応を返さなかった。ただ、歩みを止めることもなく、前を見たまま足を運び続けていた。その横顔は変わらず無表情で、ただ少しだけ、眉尻がわずかに降りていた。春樹も、それ以上の言葉を足さなかった。説明はいらなかった。自分の言ったことが、届いたかどうかも、確かめようとはしなかった。その代わりに、智久の歩幅が、ごくわずかに変わった。それまで春樹よりも半歩先を歩いていたはずのその足取りが、いつの間にか、ぴたりと並んでいた。まるで、足音が重なることを選んだように、同じテンポで、同じ距離を刻む。その変化に気づいたとき、春樹の胸の奥に、静かな熱が生まれた。言葉じゃない返事もある。そう思った。いや、もしかしたら、今夜この道を一緒に歩いているこ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-21
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額に触れる距離

ホテルの扉が閉まる音は、どこか遠くで鳴ったように感じられた。鍵の閉まるカチリという音だけが、現実を繋ぎとめていたが、それさえも薄膜の向こう側で起こっているようだった。小さなビジネスホテルの一室。無機質なベージュの壁と、くたびれたベッド。エアコンの稼働音が控えめに響いている。照明は、控えめな天井灯が一つ、部屋全体を柔らかく包み込んでいた。蛍光灯の白ではなく、淡いオレンジが、春樹と智久の肩の輪郭をにじませるように縁取っていた。二人は、まだ言葉を交わさなかった。互いに上着も脱がず、玄関から数歩の場所に立ったまま、しばらく動かなかった。ただ、呼吸だけが、静かに変化していた。智久は視線を落としたまま、手のひらをズボンのポケットから抜き、そっと握った。それに気づいた春樹は、ほんのわずかに顎を上げて、相手の輪郭を見つめた。呼吸が、胸のあたりで浅く波打つのを感じながら、唇の内側をかすかに舌でなぞる。何かを言おうとした。でも、それが言葉になる必要はなかった。「…ねえ」春樹がかすかに声を発した。その一音が、部屋の温度を決定づけるように空気を変えた。低く、囁くようなその声に、智久の肩がわずかに動いた。逃げるのではなく、迷いのなかで揺れるような反応。春樹は、一歩だけ近づいた。距離が、音にならない圧で縮まっていく。手も伸ばさず、肩も触れないまま、ただ顔を寄せていった。智久の目が、ちらりと春樹の瞳を見た。その奥にあったのは拒絶でも迷いでもなかった。ただ、どうしていいかわからない、透明な戸惑い。春樹の額が、そっと触れた。ほんの、触れるか触れないかという静けさだった。額と額の接触面に、ごくわずかな汗があったかもしれない。けれど、それは不快でも違和でもなかった。むしろ、その熱が、春樹にとっては安堵のしるしのように思えた。智久の喉が、かすかに動いた。唾を飲み込んだのではない。それは、何かを受け入れようとする身体の、静かな応答だった。閉じられたまつ毛が、照明のやわらかな光を受けて、影を落としていた。目を閉じたままの智久の表情には、警戒も羞恥もなかった。ただ、疲れた人が静かな水に身
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-22
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触れたままの距離

春樹の額が、そっと智久のそれに触れたまま、ふたりの呼吸が重なっていた。ホテルの一室は静かで、わずかに軋む空調の音だけが天井のどこかで低く鳴っている。照明は淡く、天井の間接光がベッド脇の壁を柔らかく照らしていた。ふいに春樹がまぶたを下ろし、すぐにまた開く。目の前にある智久の睫毛が、うっすらと震えているのが見えた。呼吸とともに上下するその繊細な影に、春樹の喉がひとつ、浅く動いた。智久の身体は、ほんの少しだけ強張っていた。逃げようとする気配ではない。むしろ、どこにも逃げられないことを自覚して、そこで踏みとどまろうとしているような…そんな不器用な緊張だった。春樹は、ゆっくりと目線を下に落としながら、片方の手を持ち上げた。智久の手の甲に、自分の指先を重ねる。触れた瞬間、わずかにその指が跳ねた。春樹は、すぐに手を引かなかった。ただ、押しつけず、絡めるように、そのままそっと包み込んだ。指と指の間にあった隙間が、じんわりと埋まっていく。「…」言葉はまだ、どちらの口からもこぼれなかった。けれど、それが不自然とは思えなかった。春樹は、こうして何も言わない時間のなかでこそ、智久の本当の輪郭に触れている気がした。言葉にされてしまう前の、揺れや戸惑いや、痛みや…きっとまだ自分にも言えない何かが、この沈黙の温度に紛れている。智久のまつ毛が、また震えた。先ほどよりも深く、ゆっくりと。それが涙によるものなのか、ただのまばたきなのか、春樹にはわからなかった。でも、どちらでもよかった。そこに“揺れている”という事実だけが、いまの春樹にはすべてだった。「…春樹」声にならないほどの低さで、智久が呼んだ。まるで心の奥で、かすかにきしんだ声を漏らすように。春樹はそれに返事をせず、ただ額を少しだけずらし、鼻先が智久の頬に触れるほどの近さに移動した。お互いの吐息が、肌をかすめ合った。ゆっくりと、智久のまぶたが閉じた。その瞬間、春樹の中で何かが決壊するように、深い息が洩れた。長く張りつめていた緊張が、やわらかく
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-22
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ゆだねる前の痛み

春樹の唇が、そっと智久の頬を離れたあと、ほんの少しだけ宙を漂った。目の前の静けさのなかで、智久の吐息がわずかに震える音が、春樹の耳に届く。その音は、春樹の胸の奥をかすかに締めつけた。ふたりの間にはまだ言葉がなかったが、それは沈黙というより、確認をしているような間だった。たとえば、微かな視線の揺れ。指先のわずかな動き。心臓の音を、互いの皮膚を通して聴くような、そんな繊細な空気のなかで。春樹は少しだけ身体を引いた。顔を上げ、智久の目をじっと見つめる。智久はその視線に抗うように、一瞬だけ目を逸らした。けれど、それは拒絶ではなかった。逃げたそのままの位置で、目を閉じたのだ。春樹の指が、智久の耳の後ろに触れる。すこし汗ばんだ髪の根元に、指の腹が沈んでいく。そのまま、春樹の顔が近づく。触れた唇は、あまりに軽かった。それは、欲望の熱ではなく、許しを乞うような、問いかけのようなキスだった。智久の呼吸が、ぴくりと乱れる。喉仏がわずかに上下し、その動きが、春樹の唇に触れた空気を震わせる。春樹の唇が離れた瞬間、智久は目を閉じたまま、春樹の背中にそっと手を回した。震えているのが、背中越しにもわかる。その震えに、春樹は息を止めた。そして、静かに囁いた。「…嫌だったら、言って」その声は、ほんのわずかにかすれていた。低く、深く、智久の耳の奥へと沈んでいく。まるで、胸のなかの深い場所を撫でるような声だった。智久は、すぐには答えなかった。ただ、春樹の背に置いた手を、少しだけ強く握った。それが返事だった。けれど、その指先の強さとは裏腹に、心のなかでは別の音がしていた。――こんなふうに、誰かに触れられることが、怖い。智久は、自分でもその言葉に戸惑っていた。人に抱かれることが怖いわけじゃない。春樹が男だからでもない。もっと深いところにある、自分でも正体のわからない感情が、じわじわと喉の奥にまでせり上がってきていた。たとえば、誰かに触れられたことで、崩れてしまうかもしれない自分の輪郭。守ってきた日常。父としての責任。亡くした人への記憶。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-23
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衣擦れの告白

静寂のなか、春樹の指先が智久の胸元のシャツにそっと触れた。ごく小さな音で、ボタンがひとつ外れる。そのときの微かなクリックと、指が生地の間を滑る音が、やけに耳に残った。春樹は、焦らなかった。シャツの合わせ目にそっと指を滑り込ませ、次のボタンもゆっくり外していく。その動きはためらいと慎重さに満ちていて、けして急がない。その様子に、智久の呼吸が浅くなっていくのが自分でもわかった。胸元から肌にかけて、冷たい空気が忍び込むたびに、鳥肌が立った。ふいに春樹が顔を近づける。淡い照明が智久の裸の肌に影を落とし、その影を、春樹の視線が丁寧に追っていった。シャツの布がずるりと肩から滑り落ちる。生地が肌を撫でていく感触が、妙にリアルに感じられた。普段の生活では絶対に意識しないほどの、指先と皮膚のあいだの温度差。シャツが落ちて、腕にたまる。春樹がそっとその袖を抜いてやる。その仕草のひとつひとつが、智久の中の不安と緊張を煽ると同時に、なぜか救いのような安堵も運んでくる。春樹は智久の身体を見つめていた。欲情や征服の色ではない、むしろ守るようなまなざしだった。その視線が、肩のあたりから鎖骨、胸の曲線、みぞおちの窪み、肋骨の起伏、そして腹の奥へと、じっくり時間をかけて降りていく。そのあいだ、春樹の息が、智久の皮膚をかすめて流れていく。鼻先がかすかに触れ、また離れる。そのたびに、鳥肌がさらに細かく立つ。自分の身体が、これほどまでに誰かの視線にさらされることが、こんなにも心細く、痛みに近い感覚を伴うとは、思っていなかった。理屈ではない。智久はまぶたを伏せる。その瞬間、眉間が少し寄った。自分でも驚くほど、身体が敏感になっている。羞恥と、期待と、わけのわからない緊張とが混ざり合い、喉の奥がからからに乾いていく。春樹の手が、そっと腰のあたりに触れる。指の腹で、ほんのり熱を帯びた肌をなぞる。その熱に、びくりと肩が跳ねた。春樹は顔を上げ、智久の表情を確かめるように覗き込む。「…大丈夫?」その声は、耳元に溶けるほどやさしく低かった。智久は何も言わず、小さく頷く。その仕草に、春樹の口元がかすかに緩む。春樹が指先で、智久の脇腹から背中にかけて、そっと触れて
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-23
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溶けあう夜

春樹の手が、智久の裸の背中を静かに撫でていく。その掌の動きには焦りもためらいもなく、ただひたすらに優しさが宿っていた。けれど、その優しさの底には、確実に渇望の熱が宿っていることを、智久の肌は微細な感覚で感じ取っていた。シーツの上で、ふたりの身体はすでに重なっていた。春樹の胸と、智久の胸が直接ふれあい、互いの心臓の鼓動がかすかに伝わる。春樹はそっと顔を近づけ、首筋から肩、鎖骨へと丁寧に口づけを落とした。濡れた唇が肌をなぞるたび、智久の身体はわずかに跳ね、細い息が漏れる。その声を、春樹は逃さなかった。「…苦しくない?」春樹の低い声が、首元に溶け込んだ。智久は返事をしない。ただ、唇を噛みしめ、まぶたをきつく閉じた。春樹はその表情を見つめる。逃げたいわけじゃないのだ。拒む理由もない。ただ、耐えきれないほどの熱が、今この瞬間にも自分のなかで増していくことに、どうしても馴染めないでいるのだと、春樹にはよくわかった。春樹の手が、智久の腰へと回される。その手のひらは熱く、指先がわずかに強く食い込んでくる。握りしめるというよりも、ここにいることを確かめるような、そんな静かな圧力だった。智久は、その手の熱に包まれるたび、身体が細かく震えた。唇から漏れそうになる声を、何度も噛み殺すようにシーツを掴んだ。春樹の唇が、ゆっくりと智久の胸元に降りていく。乳首に触れた瞬間、智久の背が弓なりに跳ねた。思わず息が漏れる。それを春樹は逃さない。唇で、舌で、じっくりとそこを味わい、確かめるように愛撫していく。「…春樹」智久が喉の奥で呟く。その声には、戸惑いと、堪えきれないほどの渇望が混じっていた。春樹は智久の太腿を抱き寄せ、指先を滑らせる。触れるたび、肌が粟立つように鳥肌が立つ。手のひらが、腹から腰へ、腰から脚の付け根へと、ゆっくりと這い上がる。その動きのすべてに、熱が込められていた。春樹の視線が、じっと智久を見つめる。そこには、奪うような激しさはない。ただ、逃がさないという決意だけが、確かにあった。春樹は心の中で、静かに呟いた。――ここまでされて、まだ…逃げられると
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-24
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