All Chapters of 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。: Chapter 61 - Chapter 70

89 Chapters

父の問い、母の沈黙

リビングの扉が閉まる音が、思ったよりも重く響いた。カチリと鳴ったその一瞬に、空気が変わる。柔らかな照明に照らされた空間は、音を潜めていた。ソファの前に置かれたローテーブルには、誰のものでもない湯呑がひとつ、取り残されている。隆義は、迷いなくその向かいに腰を下ろした。組んだ足首に沿って、スラックスの折り目がぴたりと直線を描いている。眼鏡の奥、彼の眼差しは、いっさいの感情を揺らすことなく、春樹のほうへ向けられていた。春樹は、立ったまま答えを待っていた。けれど、それが無意味だとわかるまで、わずか数秒だった。静かに腰を下ろす。椅子の背に触れぬよう、背筋を伸ばして座る姿勢は、どこか昔の少年を思わせる気配を残していた。沈黙のまま、十秒ほどが過ぎた。「お前たちは」隆義の声は、思いのほか低かった。掠れることもなく、凍りつくほどに整っていた。「どういう関係なんだ」誰もが想像していたよりも、ずっと冷静で、感情を排した声音だった。声を荒げるでもなく、詰問する口調でもない。ただ、厳密な確認を求めるような、問いだった。春樹はその言葉を、受け止めるように口元を引き結んだ。そして、視線を逸らさず、ただまっすぐに、隆義の目を見ていた。智久は、リビングの扉のそばに立ち尽くしていた。いまだ何の言葉も発せずにいる自分に、焦りとも自己嫌悪ともつかない苛立ちが滲んでくる。何かを言わなければ、何か言葉を探さなければ、そう思って口を開こうとするのに、喉の奥が張りついて動かなかった。ソファの脇、控えるように座っていた昭江は、微動だにせず、ただ目を伏せていた。膝の上に重ねた手だけが、静かに指を組み直す。視線は誰にも向けられない。その沈黙が、まるで“答えをすでに知っている”とでも言いたげだった。「春樹くん」隆義の声に、春樹の名が呼ばれた。その響きに、少しだけかすれが混じっていた。春樹は息を吸い、ゆっくりと吐いた。その動きさえ音にしないまま、言葉を選ぶように唇を動かした。「…先生」その言葉の切り出しに、わずかに声が揺れていた。けれど、次の瞬
last updateLast Updated : 2025-08-29
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怒りの本質と、拒絶の言葉

リビングの空気が、目に見えない何かを孕んで重く沈む。窓の外には薄く雲が垂れ、明かりの入らない午後の光が部屋に影を落としていた。時計の秒針だけが、静かに時間を刻んでいる。誰も口を開こうとしなかった。春樹は、智久の隣に立ったまま動かない。隆義は、腕を組んで椅子にもたれ、視線を逸らすことなく、真っ直ぐに智久を見据えていた。その瞳は、感情の色を押し殺したまま、冷たく研ぎ澄まされている。「娘の前で、恥を晒すな」言葉は抑制されていた。声を荒らげるでもなく、怒鳴るわけでもない。ただ、凍りつくような冷静さのなかに、確かな怒りがあった。昭江の唇が、かすかに震えた。何かを言おうとしたのかもしれない。だが、開きかけた口はそのまま閉じられ、彼女は視線をひざの上に落とす。智久は、その言葉を何度も頭の中で反芻した。恥。それは、父がこれまでに使ったことのない言葉だった。厳しい人ではあったが、価値観を押しつけることはなかったはずだった。けれど、今は違った。その言葉が、自分の内側の何かを引き裂いていくのを、智久ははっきりと感じた。「俺は…恥じてない」言葉は震えなかった。声は低く、けれど迷いはなかった。春樹の存在がそばにあったから、ではない。それは、自分自身の決意だった。隆義の目が、わずかに細められた。「そうか」その一言に、あらゆる断絶が込められていた。春樹は、一歩も動かず、ただ静かに立っていた。智久の肩越しに、隆義の視線を真正面から受け止めていた。逃げることも、言い訳をすることもなかった。ただ、智久が言った言葉に、何の揺らぎも見せずに寄り添っていた。その沈黙が、むしろ一番の抵抗だった。七菜は、部屋の隅で絵本を閉じたまま、じっと様子を見ていた。何も言わない。ただ、泣くこともなく、目だけが静かに揺れていた。その小さな体で、場の空気すべてを吸い込んでいるようだった。昭江が、膝の上に重ねていた手を、そっと組み直す。爪先がかすかに震えているのを、春樹だけが気づいた。隆義は立ち上がった。椅子が床を擦る音が、や
last updateLast Updated : 2025-08-30
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夜の帳と、守るという姿勢

廊下の奥、夜の気配が濃くなりはじめた家のなかで、時間だけが静かに足元を流れていた。食卓の皿は下げられ、昭江が用意してくれていた茶の香りが、かすかに部屋に残っていた。春樹はそっと立ち上がった。無言のまま玄関へ向かおうとするその動きに、誰よりも先に気づいたのは昭江だった。彼女は立ち上がることもなく、ただ椅子に座ったまま、春樹の腕にそっと手を伸ばした。シャツの裾を、指先でほんのわずかに掴む。その仕草は、まるで何かを止めようとするというよりも、静かに引き止める祈りのようだった。「帰らなくていいのよ」その声は、囁くように、あまりにも静かだった。春樹の動きが、そこで止まる。振り向きもしないまま、けれど彼の肩がわずかに揺れた。裾に触れる昭江の指先は、あくまでやさしく、けれど確かに、そこにある温もりで彼を現実に引き留めていた。智久は、その様子を黙って見ていた。なにかを言う前に、春樹の背中へと視線を向ける。彼が迷っていることが、はっきりとわかる。部屋の空気が、今もまだ濃く重いままで、彼の居場所を拒むように感じさせているのだろう。春樹の瞳は、誰にも見えない角度で伏せられたまま、その奥で小さく揺れていた。昭江の言葉はたしかにやさしい。だが、それがかえって彼を戸惑わせていた。――それでも僕は、ここにいていいのだろうか。そう問いかけるような気配が、彼の呼吸の端に漂っていた。「…迷惑かけたくないから」ようやく、春樹が小さく口を開いた。その言葉に、昭江はなにも返さなかった。ただ、ゆっくりと手を離す。シャツの裾がすっと揺れ、指先からその体温が消えていく。その仕草は、同意でも拒絶でもなく、ただ見守る母の姿そのものだった。春樹が玄関へと再び歩き出そうとした、そのときだった。智久が、すっとその前に立った。誰かを睨むわけでも、感情を表に出すでもなく、ただ静かに、確かな意志だけをその身に纏っていた。「春樹、帰らなくていい」その言葉が部屋に落ちるまでの一瞬、時計の針すらも止まったように感じられた。智久の背中は、春樹に向いていた。けれど、その姿はまるで盾のように彼を包み込
last updateLast Updated : 2025-08-30
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ひんやりとした空の下で

和室の窓に、ひやりとした風が擦れる音がした。雲に覆われた空は午後の光をほとんど届かせず、外の木々も薄暗く沈んでいる。秋が静かに深まり始めていた。畳の上に座っていると、体温がじわじわと奪われていくような、そんな肌寒さがある。窓際に置かれたアップライトピアノの上に、うっすらと埃が積もっていた。春樹はそれを見つけると、右手を伸ばして指先でそっとなぞる。すっと描かれた指の跡が、木目の中に白く浮かび上がった。そのまま何も言わずに埃を指で払うと、彼は七菜の方へ向き直って、やわらかく微笑んだ。「今日も、スケールから始めようか」声はいつもと変わらない穏やかさだったが、その響きに、どこか遠くの音のような寂しさが混ざっていた。七菜は椅子に座ったまま頷いたが、その動きは少しだけ鈍かった。表情にも、ほんのわずかだが曇りが見える。春樹の笑顔を見ながらも、心のどこかで違和感を感じ取っているようだった。その様子を、和室のふちに立っていた智久は黙って見ていた。何も言わず、ただ背筋をまっすぐに伸ばしたまま、手を組んで立ち尽くしている。彼の視線は春樹の指の動きに向けられていた。埃を拭ったときの、あのわずかな震えに、敏感に気づいてしまった。(春樹は…何かを決めたんだな)そんな予感が、胸の奥に鈍く差し込んでいた。表情ひとつ変えないまま、声の調子すら変わっていないのに、それでも智久にはわかった。ずっと見てきた人の、ほんの小さな揺らぎだった。「七菜ちゃん、指を立てて。そこ、丸くね」春樹がやさしく指摘する。七菜は頷いて、鍵盤に置いた手を少しだけ直した。彼女の手の甲は薄く赤くなっている。秋の冷たさが、まだ子どもの細い指には厳しい。「こう?」「そう、それでいいよ」春樹は微笑んで、彼女の手の上に自分の指をそっと重ねた。七菜は嬉しそうに笑ったが、すぐにまた不安そうに顔を上げた。「ねえ、今日も…いつもと一緒?」その問いに、春樹の手が一瞬止まった。そして、小さく息を吸い込み、顔を逸らすようにしてから答えた。「うん。もちろん」その返事に嘘は
last updateLast Updated : 2025-08-31
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遠ざかる足音

レッスンが終わったことを告げるように、ピアノの最後の音が、和室の空気の中に静かに消えていった。七菜が鍵盤から手を離すと、春樹はゆっくりと息を吐き、膝を立てて立ち上がる。柔らかな拍手がひとつ、ふたつと響いた。「よくがんばったね。今のところ、音のつながりがすごくきれいになってきたよ」七菜は照れくさそうに笑いながら、春樹を見上げた。その表情は嬉しさと安堵に満ちていた。春樹も、いつもの穏やかな表情を浮かべていたが、目元にかすかな陰があることに、智久は気づいていた。レッスンが終わると、春樹はいつものように譜面を閉じ、七菜のランドセルの横に置いた。それから、立ち上がったまま、少しの沈黙を置いたあとで口を開いた。「ねえ、智くん。少しだけ、いいかな」春樹の声は、いつもより少しだけ低く、音の端が曇っているように感じられた。智久は「ん」とだけ答え、和室の柱に背を預けたまま目を向けた。「来週からなんだけど…七菜ちゃんのレッスン、隔週にしてもいいかな」春樹はことばを選びながら、やわらかく続けた。「他の仕事が増えたのもあるし、七菜ちゃんもだいぶ、自分で音をつかめるようになってきたから。ちょっと、間を空けてみてもいいかなって」春樹の指先が、袖口の糸を無意識につまむように動いていた。淡く笑みを浮かべながらの申し出だったが、その声は、どこかやけに静かだった。まるで、耳元ではなく、少し離れたところから響いてくるような感覚があった。智久は何も言わなかった。言葉を探しているわけでも、怒っているわけでもなかった。ただ、思考が、胸の内側で重たい音を立てている。春樹の瞳の奥にあるものを、どう受け止めればいいのかが、わからなかった。「もちろん、完全にやめるわけじゃないよ。次の発表会もあるし、練習の様子は見ながらになるけど」春樹は笑顔のままで言った。しかしその笑みは、どこか自分に言い聞かせるような、そんな表情だった。「いいよ。…それで」智久の返事は、短く乾いていた。口の中に残る言葉が、舌の上に乗る前に消えていく。彼の頷きは、ゆっくりで、重くて、それでいてどこか
last updateLast Updated : 2025-08-31
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静けさの裂け目

障子の向こうに、虫の声がかすかに聞こえていた。外はすっかり夜に染まり、月も雲に隠れているらしく、和室の中にはほとんど光がない。照明は落とされ、天井の灯りの代わりに、小さなフロアランプが柔らかく畳を照らしていた。その光の中心に、七菜が座っていた。ピアノの前ではなく、部屋の真ん中、畳の目を指でなぞるようにしながら、膝を抱えてじっとしている。智久は廊下からその姿を見て、しばらく立ち止まっていた。ふだんなら、もう寝ている時間だ。けれど、今日だけは、なぜか彼女がそこにいてもおかしくないような気がした。智久はそっと襖を開けた。「七菜、もう寝る時間だぞ」声はできるだけやわらかく、けれど自分でもどこかひどく頼りない音だと思った。七菜は顔を上げなかった。細い肩がわずかに上下し、智久にはその動きが呼吸ではなく、感情の揺れであることがすぐにわかった。「ねえ」七菜がぽつりと声を出した。「先生……いなくなっちゃうの?」その言葉が、部屋の空気を変えた。窓の外の虫の声が、いっそう遠く感じられる。智久は何かを言おうとしたが、喉がひとつ鳴っただけだった。言葉のかわりに小さく咳払いをして、彼はゆっくりと七菜の隣に座った。「そんなことないよ」笑おうとした。けれど、口元だけが動いて、目元には力が入らなかった。七菜の視線と目を合わせることができず、つい視線を畳に落としてしまう。その沈黙の中で、七菜が顔を上げた。「…でも、今日、先生の声、ちょっと違った」智久ははっとして、七菜のほうを見た。彼女は正面を見つめたまま、言葉を続けた。「ちょっと…だけ、遠くで話してるみたいだった」そう言いながら、七菜の目にぽつりと涙が浮かんだ。その涙は、こらえきれなかったわけではない。ただ、自然に、ゆっくりとそこに生まれたものだった。「わかんないけど…先生が、どっか行っちゃうような気がして…」小さな手が、膝の上でぎゅっと握られる。
last updateLast Updated : 2025-09-01
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沈黙の通路

書斎のドアを閉めたとき、智久は小さく息を吐いた。七菜を寝かしつけたあと、胸の奥に溜まっていた何かが、出口を求めて軋みをあげていた。電気はつけなかった。天井の照明も、デスクのスタンドも。暗がりに身を沈めるようにして、彼はそのまま椅子に腰を下ろした。窓の外には、うっすらと街灯の光が差し込んでいた。光とも呼べないほどの明るさが、部屋の輪郭をほんのりと浮かび上がらせている。机の上に置いたスマートフォンを、智久は手に取った。その画面には、既に開かれたままの音声ファイル。春樹が七菜のために弾いた、あの即興曲。「子守唄、みたいに弾いてみた」録音を渡されたときの春樹の声が、ふいによみがえる。あの時も、今日と同じように、どこか遠い目をしていた。笑っていたけれど、笑みの内側には、もう手を離そうとする気配が滲んでいた。再生ボタンを押すと、部屋の中に淡い旋律が流れた。最初の数音で、胸がふいに締めつけられる。静かで優しい和音が、夜の部屋をゆっくりと満たしていく。まるで音そのものが呼吸をしているかのようだった。音は語らない。ただ、静かに寄り添ってくる。慰めでもなく、答えでもなく、ただそこにいるという確かさだけを伝えるように。智久はスマホを持ったまま、膝の上で拳を握った。指先がかすかに震えていた。自分の身体の内側に、沈黙が沈殿していくのがわかる。何も話さなくてもよかった。ただ、この音だけが、今の自分に触れてくれる気がした。頬を、なにかが伝った。涙だった。驚きもなかった。涙の理由が、ひとつに絞れなかったからだ。春樹が遠ざかっていくこと。七菜の涙。父の声。自分が、選びきれなかったすべての時間。旋律がやわらかく変調し、まるでひとときの夢のように、ひそやかなフレーズへと移った。その音が、智久の鼓膜の奥にじんわりと広がる。けれど、それと同時に、音は少しずつにじんでいった。耳ではなく、心で聴こうとすればするほど、涙が視界も、感覚も滲ませてしまう。そのときだった。ふと、部屋の扉の向こうに、気配を感じた。足音も音もない。ただ、空気の流れが、わずかに変わった。智久は顔を上げなかった。誰かが立っていると、なぜかわかってしまった。昭江だった。母の足取りを
last updateLast Updated : 2025-09-01
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歩いていく背中に

曇った空の下、アパートの階段を上がる足音が、朝の静けさのなかに単調に響いていた。智久は重い足取りのまま、春樹の住む部屋の前に立った。インターフォンを押す直前、息を整えるようにひとつ深く吸い込む。けれど、胸の奥はまだうまく呼吸ができないままだった。指先でボタンを押すと、小さな電子音が鳴った。返事は、すぐには返ってこなかった。静寂が数秒のあいだ張り詰め、それからゆっくりと、扉の向こうに気配が近づいてくるのがわかった。「春樹」声は思ったより掠れていた。「話がしたい」それだけを、はっきりと告げた。しばらくの沈黙ののち、鍵が外れる音がした。カチリ、と金属の響きがして、ドアが内側に開く。そこには、白いシャツのままの春樹が立っていた。髪は少しだけ乱れていて、目元には寝起きのようなかすかな赤みが残っている。何も言わずに、彼は身体を引いて、智久が入れるようにした。「ありがとう」低くそう言って、智久は部屋の中へと足を踏み入れた。リビングの空気は微かに冷えていた。ブラインドは閉じられたままで、部屋の中には柔らかい灰色の光が広がっている。テーブルの上には、読みかけの楽譜、コップ、ノート、そして使いかけのティッシュが雑然と置かれていた。春樹は無言でドアを閉めたあと、片づけようとしたのか、机に手を伸ばしかけて、それをやめた。智久はその手の動きに気づいたが、何も言わず、リビングの椅子に腰を下ろした。「昨日、七菜が泣いた」ゆっくりと、言葉を編むように智久が口を開いた。「『先生、いなくなっちゃうの』って。…それを聞いたとき、俺、何も言えなかった」春樹は立ったまま、静かにその言葉を聞いていた。部屋の空気が、音を吸い込むように重くなる。「ずっと怖かったんだ。誰かを選ぶってことが。何かを、ちゃんと選んでしまえば、他の全部が崩れるような気がしてた。だから、どこにも踏み込まないで、ただ目の前のことを守ってるふりをしてた」智久の声は、途中で少しだけ揺れた。けれど、目を伏せることなく春樹を見つめ続けていた。
last updateLast Updated : 2025-09-02
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木漏れ日のステージ

小さなホールの天井には、冬の午後の陽光が柔らかく差し込んでいた。木造の梁から吊るされた照明はまだ灯されておらず、客席の空気はどこかまだ眠っているような静けさを帯びていた。舞台上には、一台のグランドピアノ。その黒い艶が、まだ誰の指も触れていないことを示すように、じっとしていた。智久は客席の中央よりやや後ろの列に座っていた。白いシャツの襟が首筋に少しだけ当たる感覚が気になって、何度か指で直してみたが、落ち着かなかった。肩口も窮屈に感じた。鏡の前で何度かジャケットを着直した朝の自分を思い出しながら、なんとなく視線を舞台の方向に向ける。手は、膝の上で組まれたままだった。何かを掴むように組んでいるその指に、自分でも気づいていないほどの力が入っていた。視線をずらすと、舞台袖の向こうに、春樹の姿が見えた。今日は黒のジャケットに、淡いグレーのネクタイをしていた。ネクタイはきっちりと結ばれていたはずなのに、今は少しだけ緩んで見える。もしかすると、自分で緩めたのかもしれない。あるいは、無意識のうちにそうなったのか。春樹は、隣に立つ七菜の肩に手を置いて、何かを囁いていた。その口元にはいつものように穏やかな笑みが浮かんでいるが、言葉が終わったあと、一瞬だけ、自分の指先を見下ろして動きを止めた。その表情に、ほんのかすかな陰が落ちたように見えた。七菜はといえば、白いワンピースの裾を握るようにして立っていた。髪は朝に昭江に結ってもらったまま、横に流れたポニーテールが肩の上に揺れている。彼女の足元では、右足の靴のつま先が、リズムを取るように揺れていた。それは緊張の表れでもあり、彼女なりの集中の仕方でもあった。智久は、それらの様子を遠くから眺めていた。舞台袖の二人が、舞台の音に溶け込むように、誰にも気づかれない距離で静かに交わされるやり取り。それは親子というより、もっと繊細で複雑な絆のように感じられた。七菜がふと、舞台の奥に目をやる。その視線の先に何があったのかはわからなかったが、次の瞬間、彼女は小さく深呼吸をして、ほんの少しだけ胸を張った。その仕草に、智久は心の中でそっと頷いた。自分がこんなふうに、誰かの晴れ舞台を見守る立場になる日が来るとは、数年前には思いもしなか
last updateLast Updated : 2025-09-02
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先生とわたしの秘密の曲

舞台袖の空気は、外の冷えた風とはまったく別の温度で満ちていた。控えめなライトが壁に反射し、白いカーテンのすき間からこぼれる光が七菜の頬に斜めに落ちる。舞台の向こう側では、先に演奏を終えた生徒の拍手がまだ尾を引いていたが、その音も七菜の耳にはもう届いていなかった。彼女の両手は、正面でそっと重ねられていた。左足のつま先が、ほんのわずかに左右へ揺れている。緊張の気配は表情には出ていないが、その小さな身体には、無言の圧がのしかかっていた。春樹は、その横でしゃがむようにして彼女と目線を合わせた。「七菜ちゃん」彼女ははっとして、春樹の顔を見る。「この曲にはね、パパのことが詰まってるんだよ」声はささやきに近く、それでいて澄んでいた。舞台の緊張に支配されていた七菜の瞳が、ゆっくりと春樹を見つめ返す。「昔、パパがまだ若かった頃…僕が初めて作った曲なんだ。聴いてもらいたくて、一生懸命書いたんだよ」七菜はきょとんとした表情を浮かべたまま、しかし目だけはまっすぐに春樹を見つめている。言葉はまだ理解しきれていなくても、その声音と眼差しに、なにか特別なものを感じとっていた。春樹は言葉を選ぶように、少しだけ間を置いて続けた。「七菜ちゃんがこの曲を弾いてくれるって聞いたとき…嬉しかった。でもそれ以上に、きっと…君が伝えてくれる気がしたんだ。僕の言えなかったことも、パパに」彼女のまつ毛が、ほんの少しだけ揺れた。口は開かず、頷くこともせず、ただそのまま、沈黙の中で言葉を受け止めている。「ね、七菜ちゃん」春樹はそっと、彼女の耳元に顔を寄せて囁いた。「きっと大丈夫。君の音なら、ちゃんと届くよ」その声に、七菜の小さな肩がふわりと浮き、それから静かにおりた。緊張はまだ消えきらないまでも、春樹の言葉は確かに、彼女の胸の奥に何かを置いていったようだった。「……うん」小さな声で、七菜が答えた。春樹は微笑んで、彼女の背に手を添えた。七菜はゆっく
last updateLast Updated : 2025-09-03
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