七菜の指が、鍵盤の上をすべるように走った。ゆっくりとしたテンポで、丁寧に音階をなぞる。ひとつひとつの音が、冷えた空気の中に柔らかく溶けていく。まだ音の粒は揃っていないが、それでも明らかに、彼女なりの“音のかたち”が見えていた。春樹は椅子に腰かけたまま、わずかに身を傾けてその音に耳を傾けていた。譜面には目を落とさず、ただ七菜の手元と、音のゆらぎを見守る。その瞳には、どこか遠くを見ているような静けさが宿っていた。音階が一巡し、指が最後の「ド」にたどり着く。七菜は小さく息を吐き、そのまま鍵盤から手を離した。「よくなってる」春樹の声は、やや低く、しかし丸みを帯びていた。寒さの中でも包み込むような温度がそこにある。七菜の顔がぱっと明るくなる。けれど、恥ずかしさもあるのだろう、すぐに目を伏せて、「そうかな」と、声を小さく返した。その言葉の奥に浮かぶ微笑は、ほんのりと灯るあかりのようだった。春樹は頷きながら、指先で自分の膝を軽く叩く。それは拍手ではない、けれども、肯定のリズムだった。七菜はその仕草をちらりと見て、今度はほんの少しだけ、肩の力を抜いた。いつもよりも自然な姿勢。緊張ではなく、集中から生まれる静けさが彼女の背中に宿っていた。智久は和室の隅、ストーブのそばに腰を下ろしていた。手には湯呑。湯気はもう薄くなっていたが、そのぬくもりは手のひらに残っている。彼はふたりのやり取りを静かに見ていた。目立つことなく、声も挟まず。ただそこにいることが、今は必要だとわかっていた。七菜が再び鍵盤に向かい、今度はアルペジオを弾き始める。和音がやさしく部屋を撫でる。音が一音一音つながっていくたびに、和室の空気がゆっくりと呼吸しているように思えた。春樹がほんの少しだけ身を乗り出して、手元を覗き込むようにする。「ここのミ、今のは少し急いでたかな。もう一回、ゆっくり」「うん」七菜はすぐに返事をし、姿勢を整えた。そこに迷いはなかった。再び鍵盤に指を置き、今度は慎重に、けれど丁寧に音を紡ぎなおす。智久は、ふたりの会話が音と同じリズムで交わされていることに気
Terakhir Diperbarui : 2025-09-08 Baca selengkapnya