Semua Bab 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。: Bab 81 - Bab 89

89 Bab

音の手ざわり

七菜の指が、鍵盤の上をすべるように走った。ゆっくりとしたテンポで、丁寧に音階をなぞる。ひとつひとつの音が、冷えた空気の中に柔らかく溶けていく。まだ音の粒は揃っていないが、それでも明らかに、彼女なりの“音のかたち”が見えていた。春樹は椅子に腰かけたまま、わずかに身を傾けてその音に耳を傾けていた。譜面には目を落とさず、ただ七菜の手元と、音のゆらぎを見守る。その瞳には、どこか遠くを見ているような静けさが宿っていた。音階が一巡し、指が最後の「ド」にたどり着く。七菜は小さく息を吐き、そのまま鍵盤から手を離した。「よくなってる」春樹の声は、やや低く、しかし丸みを帯びていた。寒さの中でも包み込むような温度がそこにある。七菜の顔がぱっと明るくなる。けれど、恥ずかしさもあるのだろう、すぐに目を伏せて、「そうかな」と、声を小さく返した。その言葉の奥に浮かぶ微笑は、ほんのりと灯るあかりのようだった。春樹は頷きながら、指先で自分の膝を軽く叩く。それは拍手ではない、けれども、肯定のリズムだった。七菜はその仕草をちらりと見て、今度はほんの少しだけ、肩の力を抜いた。いつもよりも自然な姿勢。緊張ではなく、集中から生まれる静けさが彼女の背中に宿っていた。智久は和室の隅、ストーブのそばに腰を下ろしていた。手には湯呑。湯気はもう薄くなっていたが、そのぬくもりは手のひらに残っている。彼はふたりのやり取りを静かに見ていた。目立つことなく、声も挟まず。ただそこにいることが、今は必要だとわかっていた。七菜が再び鍵盤に向かい、今度はアルペジオを弾き始める。和音がやさしく部屋を撫でる。音が一音一音つながっていくたびに、和室の空気がゆっくりと呼吸しているように思えた。春樹がほんの少しだけ身を乗り出して、手元を覗き込むようにする。「ここのミ、今のは少し急いでたかな。もう一回、ゆっくり」「うん」七菜はすぐに返事をし、姿勢を整えた。そこに迷いはなかった。再び鍵盤に指を置き、今度は慎重に、けれど丁寧に音を紡ぎなおす。智久は、ふたりの会話が音と同じリズムで交わされていることに気
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-08
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もうひとつの椅子

「じゃあ、今日は…パパも弾こうか」春樹がそう言った瞬間、空気がふっと動いた。七菜が顔をぱっと上げて、智久の方を振り返る。和室の天井から差す冬の陽は淡く、三人の間にいる時間だけが、ゆっくりと進んでいるようだった。智久は応えなかった。ただ、小さく目を瞬かせ、春樹の方を見た。その横顔には何の含みもなかった。ただ純粋に、今この瞬間の流れのままに言葉を紡いだだけのように見えた。「やってみようよ、パパ」七菜の声が、あたたかくも背中を押すように響く。その声に、ほんの一瞬だけためらいの色が混じるが、それでも目は真っ直ぐに父を見つめていた。智久は、ゆっくりと立ち上がった。ピアノの前にある椅子は、春樹が半分だけ腰掛けていた。隣に少し空けられたスペースがある。智久は、その空白を一瞥し、すぐに目を逸らした。だが次の瞬間、春樹が静かに椅子を少し横にずらし、その余白をもう少し広げた。何も言わず、ただ、そこに“もうひとつの椅子”を差し出すように。「無理しなくていいよ。ただ、音を出してみるだけ」春樹の声は変わらず穏やかだった。智久は、もう一度深く息を吸い、それから隣に腰を下ろした。七菜は対面の譜面台の向こうに座り、小さな手を膝の上に置いて、ふたりを見守っている。智久の手が、ゆっくりと鍵盤の上に伸びた。指先が白く、乾いていた。けれども、その指は迷いながらも、確かに鍵盤に触れる。「この和音、覚えてる?」春樹が軽く隣のドを鳴らす。ドとミとソ。それは最も基本の和音。だが、智久には、十年以上ぶりの手触りだった。「…多分、覚えてる」低く、しかしどこか遠くを探るような声で智久が言った。春樹が、隣の音域でそっと鍵盤を押す。智久も、それに合わせるように、指を置く。次の瞬間、和音が響いた。完璧ではない。ミの音が少し遅れ、ソが浅かった。そして、智久の中指が鍵盤の端にぶつかり、わずかに音がくぐもった。けれど、それでも音は出た。三人の音が、同じ空間で、同じ瞬間に響いた。春樹がふと、横目で智久を見た。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-09
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音の合間にあるもの

和室の窓辺には、白い冬の日差しが静かに差し込んでいた。午前のレッスンを終えたあと、ストーブの前に置かれた小さな丸卓を囲んで、三人が湯気の立つカップを手にしていた。湯呑のなかには、砂糖とミルクをたっぷり入れたココア。七菜はスプーンでそれをくるくると回していた。熱を逃がすというより、手の動きに心を寄せているような所作だった。春樹の湯呑からは、ふわりと甘い香りが立ちのぼり、その湯気に照らされた春樹の頬が、ほんのり赤みを帯びている。「先生、来週も来る?」七菜がスプーンを止めて、ふと春樹の顔を見上げた。声はいつになく素直で、どこか確かめるような響きがあった。言葉にした途端、自分で照れくさくなったのか、すぐに視線を逸らし、カップの縁に唇をつける。春樹は、少しだけ目を細めて、その様子を見つめていた。そして、穏やかに、けれどはっきりと頷いた。「もちろん」声は小さかったが、その中には曖昧さがなかった。そこにいた誰もが、その言葉の“本気”を感じ取っていた。だから、智久も、何も言わずに頷くだけで済まそうとした。だが、七菜がちらりと彼の方を見たのに気づき、仕方なく唇を動かす。「…助かる」ぽつりと、それだけだった。けれど、その一言のなかには、長い沈黙を越えた言葉が宿っていた。いつからか、言葉の長さよりも、声の質がすべてを伝えるようになっていた。その声は、少しかすれていた。朝から冷たい空気の中にいたせいか、あるいは、言葉を口にするまでの時間が長すぎたせいか。だが、春樹にはそれが、どんなに多くの言葉よりも大きな“肯定”に思えた。「そっか。よかった」それだけを返す春樹の声は、わずかに低く、けれどどこか満ち足りていた。湯呑を持つ手の指先は、冷えのせいか赤くなっていたが、その小さな震えは、もう不安からくるものではなかった。三人の間に、静けさが落ちる。けれど、その静けさは居心地の悪いものではなかった。音を出さなくても通じるものがあるのだと、それぞれが気づいていた。さっきまで一緒に弾いたピアノの残響が、まだ部屋の空気のなかに漂っている
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-09
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三人の手のひら

廊下に射す冬の午後の光は、柔らかく、しかしどこか冷ややかでもあった。レッスンが終わり、和室から出てきた春樹が、ゆっくりと玄関へと向かう。その足取りは軽くもなく、重くもなく、ただ時間に丁寧に触れているような静けさをまとっていた。「先生、靴…履かせてあげる」七菜が背後から小さく声をかけた。床に膝をつきかけて、玄関の敷居に手を伸ばす。だが、その手より先に、春樹がそっと声を発した。「いいよ。自分で履くよ」声は穏やかだったが、どこか余韻を含んでいた。七菜の動きが止まり、脱ぎかけたスリッパの足がぴたりと止まる。スカートの裾がわずかに揺れて、彼女の目が春樹の背中を追ったまま、何も言わずに動かなくなる。玄関の木枠に片手を添えて、春樹がしゃがむ。左足から先に靴を差し込み、もう片方のかかとを軽く押して収める。その仕草の途中、首に巻いたマフラーの先がふと揺れて、春樹の頬にかすかに触れる。そのとき、背後で気配が動いた。「じゃあ、また来週」智久の声だった。振り返らずともわかる、真っ直ぐな声。春樹は靴紐を整える手を止め、その場にゆっくりと立ち上がる。そして、後ろを振り返った。ほんの一歩だけ下がった位置に、智久が立っている。目が合った。玄関の小さな空間に、二人の間だけに流れる、静かな時間が生まれる。春樹の唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。かわりに、右手がふっと持ち上がり、智久の肩に触れようとする。けれど、その動きは途中で止まった。触れる寸前の空気に、わずかに指先が震え、そして手はそのまま引き下ろされる。触れなかった。しかし、その未完の仕草は、何よりも多くを伝えていた。智久の眼差しは変わらなかった。ただ、真っ直ぐに、春樹を見つめていた。その視線が、あまりにまっすぐで、春樹は思わず口元を緩める。「…うん」小さく、けれど深く響く、ひとことだった。春樹が玄関の戸を開ける。冷たい外気が、わずかに家のなかへと流れ込む。その風に、春樹のマフラーの端がふわりと舞い上がり、また肩へ落ちる。背を向けて歩き
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-10
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未明の光

障子の向こうには、まだ夜の名残が揺れていた。空は深い群青色に沈んでいたが、東の端だけがかすかに明るみはじめている。冬の息が残る空気は、しんと冷えきっていて、吐いた息が薄白く漂った。和室には、まだ誰もいない。畳の上に差し込む光は淡く、まるでまだ夢と現実の境界が曖昧な時間を、そっと包んでいるかのようだった。春樹は黙ったまま、静かにその空間に身を置いていた。ピアノの前に座り、深く呼吸をひとつ落とす。薄手のカーディガン越しにも伝わる冷たさに、首元を少しすくめながら、鍵盤の蓋に手をかけた。指先が触れた瞬間、ひやりとした感触が肌を刺す。乾いた冬の空気にさらされていたその木の表面は、どこかよそよそしい温度を持っていた。蓋を静かに開ける音が、和室にやわらかく響いた。響いたというより、そこに沈んだ。日常の音ではなかった。久しぶりに開かれた鍵盤が、空気の中に居場所をつくっていく。そのまま、春樹は手を止めずに、白と黒の鍵の上へと、慎重に指を這わせた。震えていた。指先はわずかにかじかみ、肌は少し赤くなっていた。それでも、鍵盤に触れた瞬間、ふっと熱が戻ってくるようだった。まるでピアノの側が先に春樹を思い出したかのように、指先はそれに応えるようにして、自然と動きはじめた。和音をひとつ、置く。それだけで、空気の密度が変わった。畳の上を包んでいた冷たさが、わずかに和らいだ気がした。肩の力が抜けていくのが、自分でもわかった。張りつめていた呼吸が、胸の奥で小さく解かれていく。音は低く、やわらかく、どこか懐かしい気配を纏っていた。まるで、ずっと前にこの部屋で鳴らしていた音を、そっと呼び戻すように。旋律はまだ輪郭を持っていなかった。春樹自身にも、どこへ向かっているかはわからない。ただ、音が導くままに、指を走らせる。旋律の端はほつれていて、まだ繋がらない。だけど、そのほつれのなかには、確かな温度があった。響きのひとつひとつが、どこかで見た笑顔や、交わしたまなざしの記憶に重なっていく。障子の隙間から、わずかに朝の光が伸びはじめていた。その光はまだ細く、畳の上にほの白く筋を描いている。音は、その筋を縫うようにして漂った。春樹はただ弾きながら、その光の動きを目で追った。旋律のなかに、夜と朝の境目を
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-10
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目覚めの廊下

廊下はまだ、夜の名残を引きずっていた。薄明かりに照らされる床板には、かすかな光の線が走り、廊下の端に置かれた傘立ての影が長く伸びていた。外では鳥が鳴きはじめていたが、その声もまだ眠たげで、静けさを破るには至らない。智久は裸足のまま、その廊下を歩いていた。足音はなく、歩幅もいつもより狭い。まるで、音そのものを避けるように、慎重に畳に足を運ぶ。髪は乱れ、シャツの胸元にはわずかに寝癖の皺が残っていたが、それに気づく余裕はなかった。意識のほとんどが、先にある「音」に引き寄せられていた。和室のほうから、小さな旋律が漏れていた。鍵盤が奏でる音は、完全な楽曲ではなかった。むしろ、探るように重ねられる音たちが、ゆっくりと呼吸をしているように聞こえた。その響きに、足が止まる。智久は襖の前で立ち尽くし、しばらく身動きをとらなかった。そこには、踏み込んではいけないような、ひどく静かな領域が広がっている気がした。けれど、それを遠くで聴いていることも、彼にはもうできなかった。左手が自然と襖の縁に伸びる。指先がふれると、その冷たさにわずかに身体がこわばった。襖の木枠は朝の湿気を帯びていて、ぬるく、硬く、そしてどこか懐かしい。その手が、ほんの少し震えを見せた。深く息を吸い込むこともできず、智久は指先だけで、障子を数センチほど滑らせた。開かれた隙間から、視界が広がる。そこには、春樹がいた。ピアノの前に座る背中は、すっかり音に浸っていた。痩せた肩がゆっくりと上下しており、音とともに呼吸しているのがわかる。春樹は気づいていない。あるいは、気づいているのに、気づかないふりをしている。どちらにしても、その背中には、ひとつの穏やかさがあった。智久は思わず、襖の縁を少しだけ強く握った。胸の奥に溜めていたものが、形を失っていくのを感じた。迷い、恐れ、諦め。そういった曖昧な輪郭のまま残っていた感情が、目の前の旋律によって、音もなく溶けていくようだった。音は、静かだった。けれど、ただの静けさではない。そこには確かに「希望」の響きが含まれていた。誰かのために弾く音ではない。けれど、聴く誰かを拒むわけでもない。無理に伝えようとすることも、媚びることもなく、ただ「ここにいる
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-11
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そっと座る場所

廊下の奥から、かすかな音が聞こえた。乾いたスリッパの音。規則的ではなく、どこか寝起きの身体がまだ夢を引きずるような、控えめな足取りだった。智久はその音に気づき、襖に添えていた手をそっと離した。指先に残る木の感触が、ほんの一瞬だけ現実に戻る手助けをする。和室の中ではまだ春樹が弾いていた。旋律は静かに続いており、まるで呼吸のように一定で、けれどどこか深く揺れていた。足音は止まり、襖の向こうで一拍、間が空いた。障子の端がわずかに動き、そこに小さな影がのぞく。七菜だった。まだ眠たげな顔のまま、髪は寝癖であちらこちらに跳ねている。一房が頬にかかり、まつげの先に触れそうなほど垂れていたが、彼女はそれを気にする素振りもなく、ただ前を見つめていた。開いた隙間から中を見渡すと、七菜はすぐに戸を大きく開けた。その仕草に、躊躇はなかった。静かに、けれど確かな足取りで和室に入り、春樹の背中に向かって歩いていく。春樹は視線を向けない。だが、彼の指先が一瞬だけ鍵盤の上で緩んだのを、智久は見逃さなかった。微細な揺れだった。けれど、それは確かに、彼が七菜の存在に気づいている証だった。七菜は、春樹の横に並ぶようにして、畳の上に膝を折った。何も言わず、ただ座り、視線をまっすぐにピアノの鍵盤へ向けていた。さっきまで眠っていたとは思えないほど、目は真っ直ぐにひらいていて、まだかすかに夢の残り香を帯びた空気のなかで、彼女の存在がただ穏やかにそこにあった。髪の一房が顔にかかったまま。それを払いもせず、七菜はじっと春樹の弾く手元を見つめていた。智久はその横顔を見て、少しだけ微笑みたくなった。けれど、彼自身もまだ余韻のなかにいた。言葉を発するには、少しだけ呼吸が整っていない。春樹の顔が、わずかに七菜のほうを向く。その横顔に、一瞬だけ、やわらかな笑みが浮かんだ。声には出さず、表情にも出しすぎない。それでも、春樹の表情の輪郭がわずかに緩んでいくのが見えた。智久もまた、和室の入り口近くに腰を下ろした。襖の枠にもたれかかることなく、背筋を伸ばして座った。春樹と七菜の様子を、少し離れた場所から見つめながら、音に耳を傾ける。けれど、彼の視線はただ鍵盤だけを追ってはいなかった。春
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-11
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音で話す朝

ピアノの音が、ふっと空気からすべり落ちるように消えた。最後の和音が静かに尾を引き、部屋の隅々まで染み渡っていくのが、肌でわかる気がした。春樹の指が鍵盤から離れ、手のひらが膝の上に戻る。もう弾いていないのに、部屋にはまだ音の残り香があった。三人のあいだに、しばらく沈黙が流れた。智久は座ったまま、その余韻のただ中に身を置いていた。何かを言いたくて口を開きかけたが、喉の奥で息がからまった。言葉にしてしまえば、すべてが壊れてしまうような気がした。だから、ただ唇がわずかに開いて、閉じられた。春樹は鍵盤を見つめたまま、一度深く息を吐いた。肩が少し上下し、それがようやくひと区切りついた合図のようだった。そしてゆっくりと身体をひねり、後ろを振り返った。視線が交わる。春樹と、智久と、七菜の三人。それぞれに、言葉を持たないまま、目が合った。その瞬間、七菜が、ぽつりと声を落とした。「それ…なまえ、あるの?」春樹の目がすこし見開かれたように見えた。だが驚きというよりも、自分の内側に深く触れられたような、そんな静かな反応だった。数秒の間、視線が宙を彷徨い、やがて、春樹は微笑みながら答えた。「まだ。でも…そうだな。未明のソナタ、って呼ぼうかな」その声には、ほんの少しだけ照れが混じっていた。けれど、それ以上に深いところに確信のような静けさがあった。たしかな響きだった。迷いを含んだままでも、どこかに根を下ろすような強さを持った声だった。智久のまぶたが、その瞬間、ふっと閉じられた。一瞬だけ、きつく。それは涙ではなかった。ただ、何かを押しとどめるように、あるいは言葉のかわりに全身で納得するように、深く、静かに目を閉じたのだった。七菜はというと、両手をきちんと膝の上で組んだまま、目を細めて笑った。その微笑みは、朝の光を受けた花のように、かすかに揺れながらも、確かなあたたかさを宿していた。障子の外では、日がゆっくりと昇りはじめていた。冬の空気の中に、かすかな春の匂いが混じっている。朝というにはまだ早い、けれど夜とはもう言えない、曖昧で、だからこそ愛おしいその時間に、三
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-12
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音のない会話

春樹が静かに手を伸ばし、ピアノの蓋に指先を添えた。指先はまだ微かにあたたかかった。鍵盤の感触がそこに残っていたのか、それとも朝の空気が、春樹の中に滞っていた何かをほどいたのかはわからない。ただ、動作のひとつひとつが、どこか名残惜しく、けれど確信を持っていた。蓋がゆっくりと閉じられる。カチリという音も立てず、まるで音楽の続きを邪魔しないように、そっと、音の気配が途切れた。それでも、誰も動かなかった。智久は入り口近くの畳の上に腰を下ろしたまま、膝に置いた手を組んでいた。まるで何かをこらえるように、指先にわずかな力がこもっている。その眼差しはすでにピアノを離れ、春樹の背中をゆっくりとなぞっていた。けれどそこに言葉はなかった。七菜は、春樹の隣で静かに座っていた。さっきまでかかっていた髪の一房が、彼女の頬をかすめて揺れている。それを払おうともせず、ただ、じっと正面を見つめていた。表情に特別な意味はない。ただ、朝の光が射し込むたびに、子どもの横顔はそのまま小さな命の輝きを帯びていた。春樹はもうピアノには触れていなかったが、その姿勢はまだ演奏を終えた直後の静けさを纏っていた。指先は膝の上に戻っていたが、ほんの少しだけ丸められているのは、まだどこかで余韻を掴もうとしているかのようだった。障子の外から、細い朝日が部屋の中へと差し込む。その光は、春樹の肩から、七菜の頬へ、そして智久の膝元へと移っていく。冬の終わりを思わせる、かすかに冷たいけれど柔らかな光だった。季節の移り変わりが、光のかたちで告げられるのだとしたら、それは今、確かに春へと傾き始めている。三人の影が、光のなかで重なる。動いていない。けれど、その静けさのなかにある何かが、たしかに三人をつないでいた。たとえばそれは、言葉にしようとすると消えてしまう種類の感情。もしくは、誰にも気づかれないまま、長い時間をかけて築かれていくもの。あるいは、家族という名の、まだかたちを持たない響きだったのかもしれない。春樹の指が、自分の膝の上でゆっくりほどけていく。その動作ひとつとっても、そこにはもう“距離”というものは感じられなかった。七菜はその気配をまるご
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