午後三時を少し過ぎたころ、空はまだ曇っていて、雨上がりの匂いが町のあちこちに残っていた。湿った風が低く吹き、道路脇の植え込みからは、濡れた土のにおいが立ちのぼる。長谷智久はキャリーケースの取っ手を引きながら、小学3年生になる娘の七菜と並んで歩いていた。娘の足元がまだ乾ききっていないアスファルトを踏むたび、小さく水音がはねる。「ここが…パパの家?」七菜の声は、少しだけ上ずっていた。初めて見る家に対する好奇心よりも、緊張が勝っているのがわかった。「うん。おじいちゃんと、おばあちゃんがいるから、ちゃんと挨拶しようね」そう言って玄関の前に立ち止まったが、智久はすぐにはインターホンを押さなかった。目の前の家は、かつて自分が生まれ育った場所だったはずなのに、なぜかその輪郭がぼやけて見える。壁の色は思ったよりくすんでいたし、塀の上に這ったツタが、ここ数年放置されていたことを物語っていた。ふと、七菜が隣で足を止め、真新しい靴の泥を気にしていることに気づいた。自分のズボンで足元を軽くこすろうとしている。「そのままで大丈夫だよ。中で拭こう」「…うん」智久がやっとの思いでチャイムを押すと、しばらくして玄関の戸が開いた。そこに立っていたのは、母・昭江だった。昔よりも少し背が縮んだように見えたが、白いエプロンをつけた姿は変わらなかった。「…おかえり」昭江はそれだけを言って、扉を大きく開けた。けれどその表情は、ほんの一瞬、ためらいを含んだように見えた。目元が動いたのを、智久は見逃さなかった。「ただいま…久しぶり」声に力が入らなかった。少しだけ笑おうとしたが、うまく表情がつくれなかった。「七菜です。こんにちは」七菜が小さな声で挨拶すると、昭江の顔にようやく微笑みが戻った。「まあ、七菜ちゃん。大きくなったわねえ…ようこそ」昭江がしゃがみこむようにして七菜の顔をのぞきこむ。七菜はすこし戸惑いながらも、ぺこりと頭を下げた。「上がって。雨、降ってたでしょう?タオルあるから」靴を脱ぐとき、七菜は慎重にスニーカーを脱ぎ、靴のつま先を揃えて端に寄せた。赤いランドセルがない代わりに、小さなリュックが背中に重たそうに揺れていた。「靴、きれいに脱げたね」昭江がそう言うと、七菜はわずかに笑った。「前の学校で、そう教わったから」七菜の声はまだ遠慮がちだった。智久は自分の靴を
Last Updated : 2025-07-31 Read more