Semua Bab 未明のソナタ~触れてはいけないと思っていたその音に、今夜、心がほどけた。: Bab 51 - Bab 60

89 Bab

深く、交わる

春樹の身体が、智久の上にそっと覆いかぶさる。ベッドのシーツは、ふたりの熱でしっとりと湿り、静寂のなかにわずかな衣擦れと、浅い吐息の音だけが残る。ふたりの視線が重なる。春樹の眼差しは、ただひたすらに真剣だった。そこにはもう、ためらいや遠慮の影はない。ただ、目の前のこの人を守りたい、触れたい、奪いたいという、切実な祈りのようなものだけが宿っている。春樹が智久の頬に手を添え、指先で髪をやさしく撫でる。その手つきが、どこまでも丁寧で、愛おしさがあふれていた。智久は、春樹の掌に自分の顔を預けるようにしながら、ゆっくりと瞼を閉じた。「…春樹」名前を呼ぶ声は、息の奥でかすかに震えていた。春樹は黙って、そっと唇を重ねる。触れあうだけの、軽いキスだった。それでも、熱は瞬く間に全身に広がる。ふたりの身体がぴたりと密着し、肌と肌のあいだに余白はなくなった。智久の心臓が、ひときわ大きく脈打つ。春樹の手が、背中をゆっくりと滑り降り、やがて腰を抱きしめる。やがて、春樹が身体を沈めていく。智久は一瞬だけ、息を詰めた。痛みが、唐突に腹の奥に走る。その痛みは、鋭く、瞬間的なものだった。智久は奥歯を噛みしめ、指先がシーツを強く握りしめた。逃げるように肩が小さく震える。それでも、春樹の手が髪を撫で、額にそっとキスを落とす。そのたびに、痛みはやわらいでいく。春樹が低く、囁くように息を吐く。「…大丈夫、ゆっくりいくよ」春樹の声は、少しだけ濁っていた。抑えきれない熱と、やわらかな気遣いがまざりあったその声が、智久の耳に残る。身体が、ゆるやかに溶けあうように動き始める。最初は緩慢で、おそるおそる探るような動き。痛みと快楽が、波のように交互に押し寄せる。その狭間で、智久は自分の感覚のすべてが春樹に明け渡されていくのを感じていた。春樹の身体は、じっとりと汗ばんでいる。ふたりの肌のあいだに汗が滲み、光を受けてきらめいた。智久の髪が額にはりつき、首筋を汗がつたう。春樹の手が肩から背中へ、背中から腰へと、何度も確かめるように撫でていく。そのたびに、ふたりの熱が、さらに深く絡み合っていく。智久は、声に
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-24
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抱きしめたまま

春樹の腕が、智久の背中にまわされたまま、ゆっくりと肩を撫でていた。ふたりの肌と肌が重なり合ったまま、静かな夜の気配だけが部屋に満ちていた。エアコンのかすかな音と、外を走る車の遠い気配が窓越しに微かに伝わってくる。その静けさが、行為の余韻を際立たせていた。智久は春樹の胸に顔を寄せ、動かなかった。すべてが終わって、ようやく身体の力が抜けていくのを感じていた。けれど眠気は来ない。むしろ、身体の奥に残る熱が、うずくまるように息をしている。春樹の呼吸は、まだほんの少しだけ荒い。互いの心臓の音が、沈黙のなかで脈打っているのが、手のひら越しに伝わった。春樹の指が、智久の肩を何度も、同じ軌跡で撫でる。優しく、ためらいがちに、時折確かめるように力が入る。その手つきに、愛しさと、手放したくないという思いが滲んでいるのを、智久はぼんやりと感じていた。「…智くん」春樹が、低い声で名前を呼ぶ。智久はすぐに返事をしなかった。ただ胸に顔を埋めたまま、瞳を閉じた。まぶたの裏には、さっきまでの出来事が残像のように浮かぶ。身体の奥に、まだ春樹がいるような錯覚さえ、消えずに残っている。春樹は、智久の睫毛にひとすじ、濡れた跡が残っているのに気づいても、何も言わなかった。そのかわり、少しだけ強く抱きしめる。手のひらが肩から首筋へと移動し、指先で髪を梳いていく。その感触が、智久の心にまで、じんわりと沁みていく。ふたりとも、眠れない。まぶたを閉じているのに、頭の奥がずっと冴えている。行為の熱も、触れ合う体温も、すぐそばにある呼吸も、どれもが鮮やかすぎて、眠りへ誘うには眩しすぎた。智久は、自分がまだ少し震えていることに気づいた。胸の内側で、小さな波のような震えが続いている。春樹の腕のなかで、それを隠す必要がないと思えた。傷も、脆さも、いまだけはすべて許してしまいたかった。春樹はそっと、智久の額に唇を落とす。その温度が、静かに智久の心を満たしていく。「…怖かった?」春樹の問いかけは、深夜の静けさに消えていくほど小さな声だった。智久は、それにもすぐ答えない。ただ少しだけ顔を動かし、春樹の腕を強く
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-25
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雨上がり、白いシーツ

朝の気配は、外の世界にうっすらと輪郭を描きながら、ホテルの一室の奥まで静かに満ちていた。カーテン越しの光が、床にもベッドにも、ぼやけた白い影を落としている。窓ガラスには、昨夜の雨が残した水滴がところどころに光っていた。室内はまだ、深い夜の名残をわずかに引きずっている。智久は、その中で目を覚ました。まぶたを上げた瞬間、天井の淡い色が視界に映る。そのまま、隣にいる春樹の寝顔へとゆっくり目を向ける。春樹は静かに眠っている。まつ毛の一本一本までくっきりと見えるほど、顔が近い。肩にかかったシーツは少しだけ乱れていて、そこから覗く肌に、昨夜の痕跡が微かに残っている。智久は、そっと深く息をついた。呼吸に混じる汗と石鹸の匂い。自分の胸に手を当てると、鼓動は穏やかだった。ほんの数時間前、あれほど速く打っていた心臓が、今は静けさの中に沈んでいる。安心と、そしてどこか脆い安堵。今だけは、何もかもが遠く、何も変わらないでいてくれと願いたかった。シーツの端には、春樹の髪がはらりと落ちている。自分の指に絡まる感覚が、昨夜の熱をわずかに呼び戻す。目を閉じれば、春樹の手や唇が肌をなぞった感触が、まだどこかに残っている気がする。智久は、春樹の頬にそっと手を伸ばした。指先が触れるその肌はあたたかく、眠っている間も春樹の体温が絶えず自分に流れ込んでくるようだった。春樹はまだ目を閉じていた。ゆるやかな寝息が智久の腕にかかる。その息のぬくもりに、智久は胸の奥がふわりと和らぐのを感じた。昨夜の行為は、衝動というにはあまりに優しく、慰めというにはあまりに強かった。確かに自分のなかに入り込んできて、壊れてしまいそうなほどの熱をくれた。だからこそ、今この静けさに、ふいに胸がざわつく。――壊れてしまうかもしれない。このまま、時が止まってほしい。けれど、何かを手に入れてしまったことで、また失う日がくるのではないかと怯えている自分がいる。それは、妻を亡くした夜の痛みと似ている。幸福の輪郭に触れるたび、不安が呼び起こされてしまう。智久は、ゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏で、春樹の顔が、夜の柔らかな闇と重なる。春樹が小さく寝返りを打った。無意識に智久のほうへと身体を寄せる。春樹の髪が頬にかかり、かすかに触れた
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-25
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隣にある体温

智久は、春樹の隣で静かに身を起こした。シーツの端で髪をかきあげて背筋を伸ばすと、空気が微かに動く。カーテン越しの朝の光が、裸の肩や腕を淡く照らし出している。まだどこか眠気の残る身体は、肌の内側に火照りを宿したまま冷めきっていなかった。指先が、昨夜春樹の髪を撫でた記憶を確かめるように、しなやかに膝の上をたどっていく。春樹がゆっくりとまぶたを開く。その動きは、夢のなかの余韻をまとっているようだった。ふたりの間にあった静寂が、春樹の呼吸でやさしく揺れた。ゆるやかな寝息が、しばらくのあいだ、もう一つの毛布のように智久を包んでいた。「…起きた?」春樹の声はまだ眠気を帯びて、どこか輪郭が曖昧だった。智久は小さくうなずき、すぐには言葉を返さない。ただその声を聞くことで、心の奥に波紋が広がる。春樹の横顔は、昨夜よりも幼く、無防備に見えた。頬のあたりに残る赤い痕や、唇の端に浮かぶ小さな笑み。そのどれもが、昨夜の出来事を静かに証明している。春樹が手を伸ばし、智久の指先を軽く掴む。指と指が絡む。たったそれだけの動作なのに、胸の奥にじんわりとした熱が広がっていく。春樹の指先は、どこまでもやわらかかった。力を入れず、ただそっと、手のひらに重ねるだけ。それが心地よかった。言葉も、動きも、必要以上には求められない。ふたりでただ天井を見上げているだけで、満ち足りた気持ちになる。このまま、どこにも行きたくない。このまま、時が止まればいいのに。そう願うほど、現実の時間が、皮膚の下を這うように静かに流れていくのがわかった。今が永遠にはならないことも、ふたりが知っている。けれど、それでもこの朝の一瞬を、どんな言葉よりも長く味わっていたい。智久は、春樹の手をもう一度きゅっと握った。ふいに春樹が、ささやくように呟いた。「智くん、寒くない?」耳元に届くその声は、気遣いと安らぎが入り混じっていた。智久は一瞬、言葉に詰まりかける。どうして自分は、こんなに春樹に守られているのだろう。なぜこの人は、こんなにも優しく、温度を分けてくれるのか。「…大丈夫」それだけだった。けれど、たったひとつの短い会話が、昨夜のどんな囁きよりも確かな
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-26
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変わらなくていい

春樹は、ゆっくりと身体を起こし、智久の横に身を寄せた。ベッドの上で、白いシーツに包まれながら、ふたりの間に溶けかけの朝の光が静かに差し込んでいる。外の世界では車の音も鳥の声も遠い。ここには、呼吸と鼓動だけがある。春樹はごく自然な動きで顔を近づけ、ほんの少しだけ智久の目をのぞき込む。そのまま、ふたりはしばらく何も言わずに目を合わせていた。智久は、春樹の瞳の奥に自分が映っていることを感じていた。春樹のまなざしは穏やかで、何かを強いるでも、約束するでもない。ただ、静かに、確かな存在としてそこにあった。「何も変わらなくていいから」春樹が、低く柔らかな声でそう言った。耳元にその響きがとどく。空気がほんの一瞬だけ張り詰めて、そしてすぐ、ふわりとほどけていった。その言葉が、今の静けさのすべてを肯定しているように思えた。けれど、智久の胸の奥では、また別の焦りが生まれていた。――変わらなくていい、って、どういう意味だろう。この関係は、“何も変わらないまま”でいいのか。それとも、春樹は現状を壊したくないだけなのか。自分のなかに渦巻く幸福と焦燥、その出口がどこなのか、考えても答えは見つからない。春樹の表情に嘘はなかった。目元はやわらかく、頬には昨夜の名残のような赤みがわずかに残っている。穏やかに見えるけれど、その奥には、触れると割れてしまいそうな繊細な決意が潜んでいる気がした。智久は、胸の奥で言葉にならないものが膨らむのを感じた。今を、変えたくない。けれど、このままではいけないような、どこか宙ぶらりんの不安が消えない。幸福は、ただそこにあるだけで怖い。何かを選んでしまったことで、もう後戻りできなくなるのが怖いのかもしれなかった。それでも、春樹の言葉が本心であることだけは疑えなかった。春樹は“今”を守ろうとしている。その優しさに触れた瞬間、智久の中の何かが静かに緩む。「春樹」名を呼ぶだけで、喉が震えた。呼吸が少しだけ乱れる。何かを求めている自分と、何もいらないと願っている自分。その両方が、いま同時に存在していた。春樹は、静かに微笑むと、智久の手を握り返した。手のひらの中で指が絡む
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-26
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今を壊したくない

バスルームの扉を開けると、わずかに湿った空気が寝室へと流れていく。シャワーを浴び終えた春樹が、タオルを肩にかけたまま、鏡の前に立っている。智久もその隣に並んで、まだぬるい肌を指先で軽く拭いながら、無言のまま身支度を始めた。朝のホテルの洗面所は、小さな湯気と、シャンプーの匂いが微かに混じっていた。窓の外の空はまだ低く、灰色の雲がちぎれもせずに垂れ込めている。その重さは、どこか昨夜の余韻に似ていた。雨はもう止んでいるが、濡れた道路にまだ小さな水たまりが光っているのが遠くに見えた。鏡のなかで、ふたりの姿が並んでいる。いつもなら、家の洗面所で、父と娘のために慌ただしく支度を整えるだけだった。それが今は、ホテルの曇りがちの鏡の前で、春樹とふたり。何でもない朝の仕草が、どこか特別な儀式のように感じられる。春樹がゆっくりと自分の髪に手を通し、その指がすぐ隣の智久の髪へと伸びる。「髪、まだ少し濡れてるよ」そう呟いて、春樹が軽く指で智久の前髪を整える。その手つきはとても柔らかく、眠気の残る肌にそっと触れるたび、昨夜春樹に抱かれた記憶が静かに蘇る。指が額に触れ、こめかみに沿って耳元を撫でたとき、智久は不意に息を詰めそうになる。春樹はそのまま、何も言わずに智久の首筋へ視線を落とした。昨夜、自分が残した赤い痕を見つけたのだろう。鏡越しに、春樹のまなざしと微笑みが重なる。何も言葉はなかった。けれど、ふたりのあいだに漂う温度だけが、すべてを物語っていた。智久は、濡れた髪をタオルで軽く拭いながら、自分の指がかすかに震えていることに気づいた。ふたりで並んで鏡のなかに映る姿は、奇跡のように思えた。いつ終わるかわからない、儚い夢のなかのワンシーンのようで。だからこそ、心の奥に“今を壊したくない”という気持ちが、どんどん膨らんでいった。春樹が何気なく使い捨てのコームを手に取り、智久の後ろ髪をそっと梳く。静かな朝のなかで、その動作ひとつひとつが心臓を強く叩く。春樹の指が耳の裏をかすめるたび、皮膚の下に眠っていた何かが、じわりと疼きだす。「…くすぐったいな」つい呟くと、春樹は鏡越しにふわりと笑った。睫毛の先に朝の光が乗り、
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-27
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扉の外の気配

ドアノブに手をかけるその瞬間、智久は小さく息を呑んだ。隣では春樹が、なにかを決意するようにゆっくりと顔を上げている。ホテルの部屋の中は、さっきまでふたりの体温と静けさで満ちていた。けれど、ドア一枚を隔てて、廊下の向こう側には現実の時間が待ち構えている。「…行こうか」春樹の声は、少しだけ掠れていた。微かな緊張と、名残惜しさが滲む。智久はうなずき、バッグを持った。部屋を出ようとしたそのとき、春樹がそっと手を伸ばし、智久の指をもう一度だけ握りしめた。手のひらのなかに、夜の余韻がまだ生きている。春樹の指先は、やはり少し震えていた。握られた瞬間、智久の胸の奥に言葉にならないものが膨らむ。扉を開けると、冷たい空気がふたりの間に流れ込んできた。廊下の向こうからは、他の宿泊客の足音や話し声がかすかに響く。それだけで、自分たちだけの静かな夢の時間が、少しずつ現実のざわめきに溶けていくのがわかった。シーツの匂いも、春樹のぬくもりも、まるで置き去りにしてきたようで胸が締めつけられる。廊下に出て、並んで歩き始める。肩が、ほんの一瞬だけふれ合う。言葉は交わされないけれど、その沈黙にさえ、昨夜と今朝のすべてが詰まっていた。「…また、こうして朝を迎えたいな」春樹が小さく呟いた。消えてしまいそうな声で、けれど、どこまでもまっすぐな響きだった。智久はすぐには何も返せなかった。胸のなかに、淡い痛みが広がる。今の静けさも、昨夜の幸福も、永遠ではないことを、もう知ってしまったから。変わらなくていい、と言われたはずなのに、変わることをどこかで恐れている自分に気づいている。今を壊したくない。現実が、夢のような時間を連れ去ってしまうことが、ただ怖かった。そのままふたりはゆっくり歩き出した。春樹の手の余韻がまだ指に残っている。廊下の窓から射し込む朝の光が、ふたりの影を静かに延ばしていた。どこか遠くで、誰かの笑い声が響く。その現実のざわめきさえも、今は妙に優しく思える。階段を降り、ホテルのロビーへと向かうあいだ、何度も春樹の横顔を盗み見てしまう。声をかけたら、この魔法が解けてしまいそうだった。だから、何も言わずに肩を並べるだ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-27
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静かな午後のピアノ

廊下に差し込む光は、白くやわらかだった。梅雨の晴れ間の午後、雨粒を含んだ空気はまだ重く、どこかに水音が残っているような静けさが家の中を満たしていた。智久はキッチンで湯を沸かし、手元でふくらむ湯気をぼんやりと見つめていた。ステンレスのケトルに反射する窓の景色は滲んでいて、指先に触れるマグカップの感触だけが、現実に引き戻すように確かだった。廊下の奥、ピアノ部屋から、音が聞こえてくる。軽やかで、まだ不揃いな音符が、春樹の柔らかな声とともに揺れていた。「うん、そこは指を少し立てて。そうそう…そのまま、左手は焦らずに」七菜の弾く音は、決して完璧ではない。それでも、その音には一つずつ意味があって、春樹の声がそれをなぞるたびに、空気が少しずつ澄んでいくようだった。智久はカップにコーヒーを注ぎ、静かにひと口だけ含んだ。深くも苦くもない、ごく普通の味が口内に広がり、その裏でまた、ピアノの音が進んでいく。七菜が笑う声がした。春樹も、それに応じて何かを小さく言ったようだったが、内容までは届かなかった。ただ、その声のトーンが耳に残る。まるで、家族のようだと思った。ふたりのやりとりは、よくできた父娘にすら見える瞬間があった。春樹の声には余裕があって、七菜のミスにも眉ひとつ動かさず、流れるように指導を重ねていく。その柔らかさが、智久にはときに遠く感じられるほどだった。あの手が、昨夜は自分の背を撫でていたことを思い出す。あの声が、自分の耳元で名前を呼んだこと。そうしたすべての記憶が、今の現実の穏やかさと重なるたび、なにかしら説明のつかない胸のざわめきが生まれていた。台所では、煮込みの鍋が小さくくつくつと音を立てていた。昭江は無言で鍋の蓋を少し持ち上げ、香りを確認してから、また静かに閉じる。何かを悟っているようなその所作には、干渉でも諦めでもない、長い年月を経た人間だけが持つ“静かな理解”がにじんでいた。「もう一度、ここから通してみようか」春樹の声がまた聞こえる。七菜が元気よく「うん」と返し、ペダルの音が微かに鳴った。智久は、カップを持ったまま、廊下の壁にもたれた。見えない部屋の向こう
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-28
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父の帰宅と、沈黙の観察

玄関のドアが静かに開いた。重厚な蝶番の音は抑えられていたが、それでも家全体に小さな緊張を伝えるのには十分だった。空気がひと呼吸、細くなる。ピアノの音はまだ鳴っていたが、その響きの背後に、別の気配が立ち上っていた。廊下をゆっくりと進む足音。革靴の硬い音が、フローリングの上を慎重に刻む。音の主は隆義――智久の父であり、この家の“温度”を一瞬で変える存在だった。スーツ姿のまま、隆義は無言でリビングに入ってきた。ピアノのある和室の扉は開いており、そこから音と、わずかに春樹の声が漏れている。「もう一回、今のフレーズ、今度は左手を意識してみて」七菜が「うん」と答える。明るい声だったが、その明るさがやや過剰なのを、智久はすぐに感じた。春樹もきっと、気づいていたはずだった。けれど、彼はいつものように、音楽に集中するふりを続けていた。春樹の背中はまっすぐで、肩も腕も落ち着いていた。だが、その落ち着きこそが、彼の“意識の高さ”を際立たせていた。隆義はゆっくりと、ソファのひとつに腰を下ろした。脱いだ上着をたたみ、膝に置いたまま、和室のほうに視線を向ける。正面からは見えないが、扉の向こうにいる三人の配置を、彼は正確に把握しているようだった。視線が動いた。まずは春樹の背中。すらりと伸びた背筋、指先の動きに滲む神経の細やかさ。ついで七菜。小さく揺れる肩、鍵盤を見つめるまなざし。最後に、廊下の奥に立つ智久。マグカップを両手で包んだまま、その場に立ち尽くしている智久の姿を、隆義は見逃さなかった。何も言わず、ただ見る。それだけで、リビングの空気がわずかに冷えたような気がした。沈黙が、家全体に広がっていく。ピアノの音はまだ続いているはずなのに、鼓膜の奥ではその音すらかき消されるような、奇妙な無音の時間だった。会話は生まれない。問いも挨拶も、どこにもない。その沈黙を破ったのは、昭江だった。「おかえりなさい」声は落ち着いていた。柔らかく、何の引っかかりもなかった。けれど、その瞬間、ピアノ室の音がふっと止んだ。七菜の指が鍵盤を離したのか、それとも春樹が軽く合図をした
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-28
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食卓と、崩れる均衡

食卓には、煮物と焼き魚の香りが、湯気とともに静かに立ちのぼっていた。炊きたてのごはんの白さが、天井の灯りをぼんやりと反射している。梅雨明け間近の湿った空気を、昭江が少しだけ開けた窓からの風が押し返していた。遠くから、夕立の名残のような、車のタイヤが濡れた道を撫でる音が聞こえる。「今日、先生がね、自由研究は音の観察をしてもいいって言ったの」七菜が、箸を動かしながら話している。春樹は、にこやかに頷き、応える。「音の観察か。たとえば、家の中にある音を集めて、分類したりするのも面白いかもしれないね」「冷蔵庫の音とか?」「うん。あと、お風呂場で響く声とか。ピアノの音も、時間帯や弾き方で変わるし」「やってみる!」七菜の頬が上気していた。頬をふくらませながら焼き鮭を口に運ぶ姿は、まるで明日が待ちきれないかのようだった。そのやりとりの隣で、智久は静かに箸を持ち、言葉のないまま、ごはんの上に視線を落としていた。春樹の声は柔らかく、いつもと変わらない穏やかさを保っていた。けれど、その声の奥にある注意深さ――一歩先を読むような、何かに備える気配――を、智久は確かに感じ取っていた。隆義は、黙ったままだった。焼き魚の身を解す手元も、味噌汁の茶碗を持ち上げる所作も、何一つ乱れてはいない。完璧な静けさのなかに、ひとつの“気配”だけが沈殿している。春樹の言葉に、昭江が小さく笑みを返した。「自由研究のテーマをそうやって楽しんで考えられるのは、素敵なことね。七菜も、春樹くんが先生でよかったわ」「うん。春樹先生、いろいろ教えてくれるんだよ」七菜の無邪気な声が、食卓の空気に小さな波紋を投げる。その波紋に、隆義はまったく反応しなかった。彼の箸が、皿の上で止まり、動かなくなったのが、最初の兆しだった。ふっと、春樹の肩が、わずかに動いた。反射ではない。何かを察したときの、ごく小さな、呼吸と連動した動きだった。「…七菜」隆義がようやく声を出した。低く、くぐもった声だった。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-29
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