Semua Bab 霧の中、君という雫: Bab 21 - Bab 30

100 Bab

第21話

如月雅。高校時代、クラスのマドンナだった人だ。……やっぱり。律の周りには、ああいう女性が絶えない。-「律さん……って、呼んでもいいかな。これ、お昼にと思って。うち、レストランのチェーンをやってるんだけど、これはうちの五つ星シェフが作ったの。今までずっとお仕事だったでしょ、まだ何も食べてないんじゃないかと思って」律がパソコンの画面を見つめたまま自分を意に介さない様子なのに気づき、雅はもう一歩前に出た。「叔父の診察、ありがとうございました。おかげさまで、叔父もすっかり良くなりましたの」「如月さん。それで、予約を取ったのは診察目的じゃないと?」男の声は、温度というものが一切感じられなかった。顔を上げたその漆黒の瞳の奥に、冷たい光が広がる。「診療枠を無駄にして、本当に診察が必要な患者さんの邪魔をする。次はありませんよ。もし同じことをすれば、松崎第一総合病院のシステムがあなたを三ヶ月間ブラックリストに登録します」「えっ……わ、私は……」雅は、律が高校時代のよしみも忘れたかのように、これほど無情な態度に出るとは思っていなかった。「律さん、私はただ、お礼にランチを届けにきただけで……」律は立ち上がり、腕時計に目を落とす。雅が午前の最後の患者で、もう終業時刻だった。「如月さん、俺はあんたにそういう気はない。今後、ここで時間を無駄にするのはやめてくれ」その拒絶は、あまりに端的だった。雅を見つめるその目は、まるで道端の石でも見るかのように、他人行儀で冷え切っている。言い放つと、律はさっさと診察室を出て行った。恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら診察室を出ると、雅はナースステーションの看護師たちと鉢合わせになった。彼女たちのひそひそ話が耳に入る。「これで何人目かな、診察を口実に柏木先生にアタックしにきた人」「柏木先生って、一体どういう人がタイプなのかしらね」「ちょっと、あんたも狙ってるとか言わないでよ」「まさか!遠くから見てるだけで十分だって。高嶺の花すぎるもの」-雫はちょうど娘を連れて、堂島主任の診察室から出てきたところだった。三階の薬局で薬を受け取った後、娘の手を引いてエスカレーターへと向かう。杏はこういう動く階段が苦手だった。少し感覚が過敏なところがあって、次々と現れては消えていくステップを怖がり、いつ
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第22話

執拗に食い下がるその視線は、白磁のように滑らかな雫の顔を射抜かんばかりだ。だが、脳裏のどこを探っても、記憶の欠片は見つからない。雫はきっぱりと首を横に振った。「いいえ。……先ほどは、助けていただきありがとうございました、柏木先生」「柏木先生」不意に、誰かが彼を呼んだ。律が振り返る。雫はその隙を見逃さず、娘を連れて足早にその場を離れた。もう六歳になる杏は、少しずつ大人の間の感情の機微を察するようになっていた。たった今のような……「ママ、今のおじさん、パパにそっくりだったね……」杏の言葉が終わる前に、雫はその小さな口を手で覆っていた。その声は、いつになく厳しい。「杏ちゃん。ママとのお約束、覚えてる?」杏はこくりと頷く。ママにきつく言われていたのだ。あのおじさんがパパに似てるなんて、絶対に言っちゃだめだって……でも、本当にそっくりなんだもん。杏が知っている父親は、雫がベッドサイドに置いている写真立ての中の、たった一枚の写真に写る人物だけ。それは、ママとパパが一緒に写った写真。「パパ」という言葉は、杏にとって、本当はとても遠い存在だった。幼稚園で他のお友達のパパは見たことがあるけれど、自分のパパは一度もない。だから、パパがいない子もいるんだって、杏は思っていた。でも、杏には世界で一番素敵なママがいる。霧島雫という、最高のママが。ママは、杏のことを、すっごく愛してくれている。数歩歩いてから振り返ると、律が若い女医と話しているのが見えた。雫はすっと視線を外し、睫毛を伏せる。彼のような、何もかも手に入れたような男性の隣には、いつだって綺麗な女性が寄り添っている。それなのに、あの頃の私は、どうして彼を脅して恋人でいさせるなんて無謀なことができたのだろう。あの三年間は、きっとあの完璧な男の人生についた、一つの汚点になっているに違いない。彼を避けているわけではない。もし彼が、私が青木遥だと知ったら……逃げ出すのは、きっと彼のほうだ。彼の隣に立つに相応しいのは、名家の令嬢のような、そういう人なのだから。-「柏木先生、玲奈と喧嘩でもしたんですか。今日、すごく落ち込んでるみたいだったので」声をかけてきたのは、玲奈の友人である高坂静香(こうさか せいか)だった。律は眉をひそめた。
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第23話

そうは言ったものの、玲奈自身、その弁解がひどく空々しいものであることは分かっていた。律という人間を知る者なら誰もが知っている。彼はクールで、無関心で、おまけにプライドも高い。勤務時間外に見せる、人を寄せ付けないあのオーラ。玲奈とて、律に弁当を届けに来た女が追い返されたと看護師たちが噂しているのを聞きつけ、様子を見に来たのだ。彼がそこらの女に興味がないことは知っている。――あの日、彼のオフィスで、その膝の上に座っていた、「あの女」を除いては。「あの女」の存在が、玲奈に強烈な危機感を抱かせていた。静香は、実はまだ言い足りないことがあった。――あの女、おばさんどころか、息を呑むほど綺麗だった……だが、玲奈の顔色を見て、そんなことを言えるはずもない。彼女は院長の娘なのだ。ここで機嫌を損ねるわけにはいかなかった。-九月になり、杏は一年生になった。朝、雫は娘を小学校まで送り届け、あれこれと注意を言い聞かせる。校門をくぐっていく娘の背中を見送ると、雫は地下鉄で会社へと向かった。タイムカードを押し、自分のデスクに着いて朝礼の準備を済ませると、ちょうど始業時間だ。このところ、L&Mデザインスタジオは二件の案件を抱えていた。雫も多忙を極め、残業が続く毎日。夜、家に帰ってからも二時間ほど仕事をこなす。家の二匹の犬は、幸いにもお利口にしてくれていた。雫が残業で遅くなる日は、階下に住むフミさんが杏を迎えに行ってくれる。そのことが本当に有難くて、雫は土曜の休みに、彼女のために洋服を一着プレゼントした。佐藤フミという人は、一見すると気難し屋で、この辺りの古い地区に住む人特有のちゃっかりしたところと、遠慮のない物言いが特徴的だが、付き合ってみると、実のところ面倒見のいい人情家だった。その日の午後、彼女はさっそく雫が買ってくれた服を着て、麻雀仲間との卓を囲んでいた。「どうだい、洒落てるだろ。あたしんちの上の階のお嬢さんが買ってくれたんだよ。いらないって言ったのに、どうしてもって聞かなくてね」「へえ、いいじゃないの。この洗いざらしの綿、夏に着るには気持ちいいわよねえ。あんたのそのシルクよりよっぽど涼しそうだわ」「ふふん、これを着てからってもの、どうもツキが向いてきちゃってね」雫は財布から小銭を取り出すと、近所の商店街へ夕飯の買
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第24話

すぐにフミさんに駆け寄り、その体を支えてソファに座らせると、背中を優しくさすって呼吸を促す。少しふくよかな体型のフミさんは、持病の喘息と高血圧があり、時々こうして発作を起こすのだ。やがて呼吸が少し落ち着き、彼女は震える手で雫の手を掴んだ。「だ、大丈夫……あたしは平気だから……」傍らでべそをかいている杏を見て、フミさんはその頬を撫でる。「大丈夫、大丈夫だよ。びっくりしたねえ」フミさんはそう言って安心させようとするが、その顔色はまだ真っ白で、ソファにぐったりと体を預けて肩で息をしていた。雫はテーブルの上にあったスマホを手に取り、救急車を呼ぼうとする。念のため、病院でちゃんと診てもらうべきだ。だが、フミさんという人は、息子も近くにおらず、夫に先立たれてから十年以上もこの部屋で一人、意地っ張りに生きてきた人だった。普段から極端な病院嫌いで、雫の行動をすぐに制止した。顔をしかめて、むっとした声で言う。「病院には行かないよ!こんなことで大げさだね。いつもの発作だよ、薬を飲めばすぐ良くなるんだから」「だめです、絶対に病院に行ってください」雫はきっぱりと言った。先ほどの状況は、どう考えても緊急事態だった。もし自分がスマホを持っておらず、帰りがもっと遅かったら。六歳の娘が一人でいるそばで、フミさんが倒れていたのだ。本当に、大事に至らなくてよかった。いや、でも、と雫は思う。もし自分がスマホを持っていたとして、何ができたというのだろう。仕事中だったら?L&Mからここまで、地下鉄を使っても一時間はかかる。タクシーが渋滞にでも捕まれば、もっとだ。もしものことがあっても、自分は間に合わないのだ。普段は物静かで、誰かに声を荒らげることもない雫だったが、この一点に関しては譲らなかった。しかしフミさんも頑固だ。「行かないったら行かないよ。あんたはあたしの本当の嫁さんでもないんだ、放っといとくれ」と言って手を振り払い、雫と杏を帰らせようとする。「あんたたちも早く戻って休みな。あたしがどうかなるもんかい」雫はフミさんの腕を掴む。「私が付き添いますから、一緒に病院へ行きましょう。ちょうど明日は日曜日ですし、全身の検査も受けちゃいましょう」「やれやれ、あんたって子は、あたしよりよっぽど強情だねえ」フミはため息をついた。その時だった。玄関の方から、とんと
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第25話

彼の影が、彼女をすっぽりと覆い隠す。雫の手から引き出しを開け、中の薬箱を取り出した。「この薬、期限が切れてるか、もう耐性ができてるかだ。あんたが長いこと飲み続けたせいで、もう効き目がない」まさか、杏が律に電話をかけるなんて。そして、この男が、本当にここへ来るなんて。雫は想像もしていなかった。杏はフミの腕にしがみつく。「おばあちゃん、このおじさんはお医者さんなの。すっごく偉いんだよ。杏が心臓を診てもらう時に、いつも診てくれるの」フミは雫と律を交互に見やった。どう見たって、お似合いの美男美女だ。「へええ、お医者さんかい。ずいぶん若いんだね」律が尋ねる。「血圧計はあるか」「はい」雫ははっと我に返り、引き出しの奥から血圧計を取り出す。律はそれを受け取ると、フミの腕にカフを巻いた。彼は現在の状況についていくつか質問を重ねる。胸は苦しいか、頭痛やめまいはするか、他にどこか具合が悪いところはないか。フミは不満げに口を尖らせる。「あたしはただの喘息持ちだよ。いつもの発作さ。血圧だって、そんなに高くないはずだけどねえ」彼は血圧計の数値を一瞥した。「上が168もあって高くない?じゃあ何が高血圧なんだ。飛行機みたいに空を飛ぶまで上がれば高いのか」フミはぐうの音も出ない。雫はちらりと律の顔を見た。しゃがみこんだ男の黒い短髪が、さらりと額にかかっている。昼間病院で見る、あの冷たく隙のない姿とは違う。グレイッシュブルーのシャツは、ボタンが二つほど無造作に開けられていた。この男の言葉は、時々ひどく辛辣だ。涼しげな外面とは裏腹に、その毒舌は容赦がない。杏は高血圧が何なのかは分からなかったが、先ほどフミさんが突然倒れ、苦しそうに息をしていた姿にすっかり怯えていた。「先生の言うこと、聞かなきゃだめだよ」フミは杏の髪を撫でた。「はいはい、おばあちゃんは良い子だからね。ちゃんと聞くよ」律は女の子を一瞥した。自分でもどうかしていると思う。彼がどうかしていたのは、霧島雫の番号から着信があり、電話口で女の子が泣きじゃくりながら「おばあちゃんが倒れちゃったの、お医者さんのおじさん、助けて!」と叫ぶのを聞いて、衝動的に車を走らせてしまったからだ。たまたま、今夜は市北区に住む医学界の老教授を見舞う用事があり、車で近くまで来ていた。ここまで
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第26話

雫は淡々と言った。「今夜はご迷惑をおかけしました。娘があなたにお電話したなんて、知らなくて。あの子の電話一本で駆けつけてくださる必要なんてなかったのに、お時間を無駄にさせてしまいました」その言葉はひどく事務的で、律は眉をひそめた。「どうせ無駄になったんだから構わん。本当は先輩の家で食事をご馳走になるはずだったんだが、電話を受けてすっ飛んできた」雫は数秒、言葉に詰まった。「……申し訳ありません」「ここに来る途中、アパートの入り口にワンタン屋があったな」律はそう言うと、前へ歩き出した。彼の車は棟のすぐ外に停めてある。今夜乗ってきた車は、黒い猛獣が息を潜めているかのような威圧感を放ち、あまり控えめとは言えない代物だった。普段、仕事に行くときはこんな車には乗らない。通勤にはもっと実務的な、ありふれたセダンを使っている。雫は黙って彼を見つめていた。男は煙草をもみ消し、そばのゴミ箱に投げ入れると、振り返った。街灯の光が彼の影を長く伸ばす。「謝罪なんざ聞きたくねえ。乗れ。飯、おごれよ」雫はわずかに口を開いた。彼の、どこまでも深い黒い瞳と視線がぶつかる。ふう、と一つ息を吸って、彼女は車に乗り込んだ。ただ、食事をご馳走するだけ。ごく普通の、社会人としてのお付き合い。それだけだ。アパートの外には、「おばちゃんのワンタン屋」という店があった。朝は朝食を売っていて、雫も出勤前によくここで小籠包やパイを買い、豆乳を一杯飲むのが常だった。店の主人とも顔なじみだ。「よぉ、雫ちゃんじゃないか」主人は気さくに声をかけてきたが、雫の向かいに座る、見るからに育ちの良さそうな男に気づき、一瞬言葉を失う。この小さな店の中で、男の容姿と雰囲気は、あまりに異彩を放っていた。雫は律に視線を向ける。「何にしますか」相手はただ彼女を見つめ返す。注文を促すような、無言の圧力。どうせワンタン屋に来たのだ、食べるものは決まっているだろうに。「ワンタンを二つ。大と小で。……片方は、干しエビを抜いてください」言ってから、雫ははっと唇を噛んだ。向かいの男が、じっと彼女を見つめている。その瞳の奥には、探るような色が浮かんでいた。雫も、今の一言が命取りだったと気づいていた。律はエビを食べない。海鮮の類も、ほとんど口にしない
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第27話

食事を終え、二人はワンタン屋を出た。車の前で、律は雫にいくつか言葉をかける。フミさんの血圧の薬はおそらく合わなくなっていること、同じことが起きないよう、早めに病院で検査を受けるべきだということ。雫は短く礼を述べた。夜九時。涼やかな風が吹き抜け、彼女の長いスカートを静かに揺らす。艶やかな黒髪も、夜風にさらわれてはらはらと舞った。律は愛車のドアを開け、身体を半分乗り出しながら彼女を見つめ、数秒、何かを思案する。「ご主人は?」律には察しがついていた。先ほどの佐藤フミという老婦人は、おそらく彼女の姑なのだろうと。電話口で、杏は彼女のことを「おばあちゃん」と呼んでいた。だが、これまで何度か病院で見かけたが、いつも雫が娘を連れているだけで、男の姿は一度もなかった。雫はわずかに眉をひそめる。「……国外です。今夜はご迷惑をおかけしました、柏木先生。お気をつけて」それだけ言うと、雫はくるりと背を向けた。その動きに合わせて、豊かで艶のある黒髪が、まるで闇色の靄が滲むように、ふわりと宙を舞う。律は、手を伸ばしていた。すらりとした指が、無意識に持ち上がる。絹のように滑らかな黒髪が、するりと指の間をすり抜けていく。彼は、去っていく雫の後ろ姿から目が離せないまま、伸ばした指を宙に留めていた。触れたのは、ほんの一秒にも満たない時間。なのに、指先には彼女のかすかな残り香が漂っている。奇妙な感覚だった。今、指に絡んだのは、女の髪ではなかった。まるで、心を惑わすケシの花に触れたかのような、痺れるような陶酔感が、そこにはあった。-雫はフミさんの部屋へと戻った。杏には先に自分の部屋で休むよう促し、彼女はローテーブルに散らばった救急箱の中身を片付け始める。その様子をじっと見ていたフミが、たまらず口を開いた。「さっきの男の人……」雫は即座に答える。「何度かお会いした先生です。深い付き合いなんてありません」「深い付き合いもないのに、こんな夜中に飛んで来てくれるもんかね。あたしが息もできなくなって、杏ちゃんがすっかり怯えちゃってさ、あんたの携帯で電話したら、二十分かそこらで駆けつけてくれたじゃないか」フミは、雫が女手ひとつで娘を育てる不憫さから、いつか彼女に良い人が見つかればと願っていた。だが、さっきの男は……
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第28話

翌日の日曜、午前。雫は娘に家でおとなしくアニメを見ているよう言い聞かせ、フミさんを連れて検査のために病院へ向かった。一通りの検査を終え、フミさんがエコー室の順番を待っている間、雫は外の椅子で待機していた。その時、ふいに誰かが「柏木先生」と呼ぶ声が聞こえた。反射的に振り返った雫の全身が強張る。だが、そこにいたのは見知らぬ男性医師で、遅れて安堵の息が漏れた。こんなに大きな病院で、しかもここは心臓外科でもない。彼に会うはずなんてないのに。柏木律。その名前は、彼女の心の奥底に巣食う、呪いそのものだ。しかし、彼のいない場所でさえ、その噂は否応なく耳に入ってくる。この市立病院のスター医師である彼は、どこにいても注目の的だった。エコー室の外の待合スペースで、受付カウンターの看護師たちがひそひそと話しているのが聞こえてくる。「私、明日から心臓血管外科のローテなのに、柏木先生、数日お休みなんですって」「なんか彼女できたらしいよ。お弁当届けてるところ、矢野先生に見られたんだって」「え、うそでしょ?矢野先生、ずーっと猛アタックしてたのに……」……三日後、雫がフミさんの検査結果を受け取りに行った。高血圧に高血糖、高脂血症。年齢のことも考慮し、医師からは数日入院して体を休めるよう勧められた。その日の午後、雫は会社を早退し、フミさんを連れて入院手続きのために再び病院を訪れた。フミは不機嫌な顔を隠そうともしない。「こんなにお金がかかるなんて……あたしは普段、どこも悪くないんだよ」「何かあってからじゃ、遅いんです」フミさんはなかなかの頑固者だが、雫もこういう時ばかりは譲らない。彼女は、フミさんが医師の指示に従うまで決して引き下がらなかった。もともと、雫はフミさんの家の屋根裏部屋を、相場より安い家賃で借りていた。それでも毎月の支払いは決して楽ではなかったが、ある時からフミさんはきっぱりと家賃の受け取りを断るようになった。「どうせこの屋根裏部屋なんて、他に借り手が付くわけでもないんだからさ。あんたはあたしのことを『お義母さん』って呼んでくれたじゃないか。たった一度でも、それも何かの縁ってもんさ。気にせず住みなよ」雫が仕事で忙しい時には、杏の面倒まで見てくれた。その恩は、言葉では言い尽くせない。年を重ねるほど、人
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第29話

雫は、律の後ろ姿を凝視したまま、そっと唇を噛む。夕陽のオレンジ色の光が、男の白衣に淡い影を落としている。その涼やかな横顔はどこか冷ややかに見えながらも、不思議な優しさを湛えていた。だが、その目元には、人を寄せつけないような鋭い光が宿っている。律が、振り返った。そして、ぴたりと動きを止める。三、四メートルほど先に立つ女を視界に捉え、片眉をわずかに上げた。杏が、行儀よく挨拶する。「先生、こんにちは」「ああ」律は小さく頷くと、数歩進み、雫のそばを通り過ぎる瞬間に再び足を止めた。だが、それもほんの一瞬のこと。何も言わず、ただ、うつむく彼女の長いまつ毛に視線を落とす。そして、再び歩き出し、病室を後にしていく。彼の動きに合わせて、ふわりと漂う、淡い香水の匂い。パタン、とドアの閉まる音が聞こえた時、雫の全身から一気に力が抜けていくのがわかった。彼女はフミさんのベッド脇まで歩み寄る。「今夜は、蒸した長芋とオクラの炒め物を持ってきました。温かいうちにどうぞ」杏はもうすっかり慣れた様子でベッドの縁に腰掛け、サイドテーブルに身を乗り出して、小学校の課題である絵日記を描き始めている。娘は、自分から何らかの才能を受け継いだのかもしれないと、雫は時々思う。絵を描くこと、色を選ぶこと。その大胆さと独創性には、いつも驚かされる。そんな時、ふと自分の母親のことを考えてしまう。だが、母の記憶は、雫には一切ない。幼い頃、母はどこにいるのか、なぜ自分には母親がいないのかと、祖母に何度も問いかけた。祖母はいつも、こう答えるだけだった。「お母さんは、遠い所へ行ってしまったのよ」それは、今の雫が、杏に「お父さんは遠い所へ行っている」と嘘をついているのと、全く同じだった。成長するにつれて、こんな優しい嘘は、いずれ脆くも崩れ去るのだろう。フミは、雫を一瞥した。この老婆の目はごまかせない。彼女には、雫とあの医者の間に、何かただならぬ空気があることが見て取れた。「あの柏木先生、なかなかの男前じゃないか」雫はビニールの手袋をはめ、フミさんのために長芋の皮を剥きながら答える。「フミさん、ご飯にしましょう」「あんたがその気ならさ、付き合ってみるのもアリじゃないかい。ほら、今の若い子たちは本気じゃなくて、体だけの関係ってやつ
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第30話

雫はちょうど給湯器の前にいた。蛇口をひねるが、湯は出てこない。もう少し強くひねった、その瞬間。灼熱の蒸気が、勢いよく噴き出した。「きゃっ——」手の甲を灼くような痛みが走る。雫は二秒ほど呆然とし、指先がわななく震えた。その時、背後からすっと手が伸びてきて、彼女の手首を掴んだ。雫が振り返ると、そこに律の顔があった。反射的に手を引こうとするが、男は低い声で制した。「動くな」洗面所。律は雫の手を掴んだまま、冷たい流水の下に晒す。静まり返った空間に、さらさらという水の音だけが響いていた。雫は何度も手を振りほどこうとする。だが、彼の手首を掴む力は、力を込めているようには見えないのに、決して振りほどけない。それどころか、逃れようともがけばもがくほど、その拘束は強くなるかのようだった。柏木律という男は、一見すると近寄りがたい高嶺の花で、清廉潔白を絵に描いたような男だ。けれど雫は知っていた。十年も昔、新品のように真っ白な制服のボタンを一番上まできっちりと留めながら、その指に一本の煙草を挟んでゲームセンターから出てきた彼を見た時から、ずっと。骨の髄まで染み込んだ反骨精神。彼が一度やると決めたことに、誰にも口出しはできないのだ。雫の手は、三十分もの間、流水に晒され続けた。その間、何人もの人が洗面所の前を通り過ぎ、清掃の係のおばさんがすぐ外の床をモップで拭いていく。好奇の視線が、二人に突き刺さった。律に挨拶していく者もいる。「柏木先生」病院という場所は、どこも人でごった返している。この三十分の間にも、患者や職員らしき七、八人が洗面所を出入りし、律に声をかけていった。そして、誰もが皆、驚きに目を見開いて雫の方を見る。律の「高嶺の花」という評判は院内に知れ渡っているのだ。彼の隣に立つ女が誰なのか、興味をそそられない者はいないのだろう。雫はただ、顔にじわりと集まる熱を感じて、俯くことしかできなかった。薄い唇に、かすかな笑みを浮かべながら、律は雫を見下ろしていた。胸元に届きそうなほど深くうなだれるその姿は、どこか滑稽で、興味をそそる。まるで自分と関わること自体が彼女にとって災難で、今すぐにでも逃げ出したいとでも言うようだ。そう気づいた途端、彼の心に愉快な感情が湧き上がってくる。火傷の注意点を淡々と説
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