だが律は、明らかにその言葉を信じていなかった。彼の視線が、じろりと雫の顔をなぞった。息が詰まる。雫は腕の中の子犬を強く抱きしめると、思わず後ずさり、背中がエレベーターの冷たい壁にぶつかった。「ただ、ふと気になって訊いただけなんだが……ずいぶん、緊張しているように見えるな?」「柏木先生こそ、今のご自分の行動が、どれだけ無遠慮かお分かりですの?」「エレベーターの外から、二メートルも離れて立っているのにか」律はこともなげに言い放つ。そして、余裕綽々の表情で彼女を見つめた。雫はすでにエレベーターの一番奥の隅に張り付き、全身で彼を警戒している。ドアが閉まらないことを知らせる警告音が、けたたましく鳴り響いた。やがて、律がすっと手を離す。ドアが、ゆっくりと閉じていく。その漆黒の瞳から目を逸らせないまま、ドアが完全に閉まった瞬間、雫は堰を切ったように大きく息を吐き出した。背中には、びっしょりと冷や汗が滲んでいた。……気づかれた?いや、そんなはずはない。もし気づかれていたとして、それが何だというの。杏は私の娘。柏木家なんかに絶対に渡さない。もう七年も経っている。あの人には新しい恋人だっているじゃない。青木遥なんて、彼にとってはただの遊び相手……太っていて、つまらない女だったはず。雲の上の存在である柏木律にとって、あんな過去は、私以上に思い出したくもない汚点に決まっている。-律は静かに腕を下ろし、部屋の中へと戻った。残されたネモは、閉じたエレベーターのドアに向かって、くぅん、くぅんと悲しげに鳴いている。まるで、自分の「息子」が連れて行かれたのが不満でたまらない、というように。主人は、その気持ちを見透かしていた。律はネモの頭をぽん、と軽く叩く。そして、ふ、と嘲るように笑った。「たった一週間預かっただけだろうが。本気であのチビを息子だとでも思ったのか。……揃いも揃って、お人好しが」ネモは尻を振り、抗議するように尻尾で律の脚をぱしぱしと叩く。主人の言葉に不満なのだろう、リビングに戻ると自分の寝床に突っ伏し、うさぎのぬいぐるみを咥えてふて腐れてしまった。律はソファに深く腰掛け、脚を組む。テーブルの上に無造作に置かれた、数枚の紙幣に目をやった。眉間に皺を寄せ、卓上のシガレットケースから一本抜き取る。
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