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All Chapters of 霧の中、君という雫: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

霧島雫と青木遥はまったくの別人だと、夢の中以外では混同することなどないと、頭では分かっている。それなのに、胸の奥にもやもやとした澱が溜まっていくのを感じた。彼は心の中で、静かに女の名を呟く。――霧島、雫。「あ、湊くんのおじさんですね。こちらが杏ちゃんのお母様です。どうぞ、お二人ともお掛けください」先生がデスクを軽く叩きながら言った。雫は、背筋をぴんと伸ばしたまま、硬直しているように見えた。だらりと下げられた指先が、不自然に固く握りしめられては、また緩められる。湊のおじさんが、よりにもよって律だったなんて。杏も律の顔を見て、少し驚いたように、葡萄の実のような黒い瞳をまん丸く見開いた。「……お医者さんのおじさん」「ああ」律は杏のそばまで歩み寄ると、その場にしゃがみこんだ。腰を落としてもなお、その体は女の子よりずっと大きい。彼はそっと手を伸ばすと、その長い指で女の子の髪を優しく梳いた。「湊のことで、杏ちゃんに謝るよ。髪の毛、ぐちゃぐちゃにしてごめんな」杏は少し考えると、隣に立つ雫をちらりと見上げた。しかし雫は、先生の方を向いたまま、振り返りもしなければ、律の方を見ようともしなかった。「あらあら、お知り合いでしたか。それなら話が早いですね。子供同士の喧嘩なんてよくあることですし、まあ、お二人からもよく言い聞かせてあげてくださいな」二人が知り合いだと気づいた先生は、安堵したように言った。二人の子供は、互いに「ごめんなさい」をした。時刻は、もう下校の時間だ。雫は娘の手を引いて、その場を去ろうとした。律と話すことなど、何もない。二人が教員室を出たすぐ後を追うように、律も湊を連れて外へ出た。「おじちゃん、杏ちゃんのママと知り合いなの?」「いや、よくは知らない」彼は短く答える。「じゃあさ、知らない人をじーっと見るのは、失礼なんだよ」と、湊は生意気な口をきいた。律は目の前の小さな甥を見下ろすと、大きな手のひらでそのマッシュルームカットをぐしゃりとかき混ぜた。「……湊。お前のママに連絡してやろうか?」「ごめんなさい!おじちゃん、僕が悪かったです!」湊は慌てて律の手にじゃれつき、許しを乞うた。湊を車に乗せると、律はドアの外に寄りかかって一本煙草に火をつけた。それを吸い終えてから運転席に乗り込む。後部座席
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第42話

「ううん、いいよ。わたしも、ひっかいちゃってごめんなさい」雫は、湊の顔を改めて見つめた。娘の髪を引っ張った男の子が、まさか律の甥だったなんて。彼の姉に会ったことはないけれど、血の繋がりというのは、本当に不思議なものだ。気のせいかもしれない。でも、湊と杏の目元が、どことなく似ているように思えてならなかった。テーブルの下で、男の長い脚がすっと伸びてくる。また、彼女の脚に触れた。雫は俯いてテーブルの下を見る。自分は、もうこれ以上下がれないほど後ろに座っているというのに。さすがに、わざとではないだろう。考えすぎだ、きっと。視界に、彼の脚が突き刺さるように現れる。黒く上質なスラックスに包まれた、長い脚。雫は、さらに少しだけ、無理な体勢で後ろに身を引くしかなかった。律は、こういうジャンクフードが好きではなかった。口の周りをべとべとにしながら頬張る湊と、その隣で上品に食事をする小さな女の子を眺める。透き通るように白い肌に、葡萄の実のように大きく黒い瞳。清潔感のある、愛らしい子だ。長年の病のせいか、体はひどく華奢に見えた。「ママ、あーんしてあげる」杏はピザを一切れ手に取ると、雫の口元へ運んだ。箱の中には、もう最後の一切れしか残っていない。杏はその最後の一切れを指さし、律を見上げた。「おじさん、これ食べる?最後の一個、あげる」「おじちゃんは食べないよ!僕が食べる!」湊が、そのぽっちゃりした手で、素早くピザに掴みかかった。律は、甥の手をぴしゃりと叩く。油でべとべとになったその手を、心底嫌そうに見ながら言った。「誰が食わないと言った」湊の手からピザを奪い取ると、律は一口かじってみた。意外に、悪くない。「おじちゃん、いつもこういうの食べないじゃん……」最後の一切れを食べ損ねた湊は、唇をぺろりとなめると、恨めしそうな目つきで叔父を見つめた。律はピザを食べただけでなく、湊がずっと狙っていた自分用のオレンジジュースまで飲み干してしまった。普段、律が湊を連れてこういう店に来た時は、甘い飲み物には一切口をつけない。だから、余った一杯はいつも湊のものになるのがお決まりだったのだ。今日に限って、律は最後の一滴まで飲み干してしまった。「……おじちゃん」湊の表情が、さらに哀愁を帯びる。「なんだ?」男は優雅な仕草で紙ナ
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第43話

今日の雫は、オートミールミルクと味付け卵という朝食を持参していた。だが、口にする暇はなかった。午前中は丸々会議で潰れたのだ。L&Mデザインスタジオが婦人服ブランドの大型案件を二件受注し、その担当者も来社していた。雫はスタジオの共同経営者である藤堂行南に呼ばれ、昼にはその担当者たちとの会食に同席することになった。雫は、ああいったビジネスランチの類いは得意ではなかったが、勧められるままに酒も少し口にしてしまった。結局、今日一日、ろくにものを食べていない。そして、午後四時ごろ。学校の担任から、娘が後ろの席の男の子と喧嘩をしたと電話があり、早退して慌てて駆けつける羽目になったのだ。口にしたものといえば、ピザを一切れだけ。その油の匂いが、今になって胃からせり上がってくる。雫の顔は青ざめ、体がぐらりと揺れたかと思うと、その場にうずくまった。低血糖は、娘を産んで以来の持病だった。頭が、ぐわん、と鳴る。視界に白いノイズがちらついた。遠のく意識の中、娘の声が聞こえた気がして、雫は杏の手を強く握りしめる。大丈夫、少し休めばよくなるから心配しないで、と伝えたかった。その時、不意に背後から伸びてきた腕が、彼女の腰をぐっと抱き寄せた。そのまま、大きな歩幅で前へ進んでいく。雫の視界は、めまいでもう真っ白だった。なんとか目を細め、無意識のうちに相手の胸元の服を掴む。顔を上げると、そこには、はっきりとした輪郭を持つ顔立ちがあった。すっと通った鼻筋に、シャープな顎のライン。徐々にめまいが引いていくと同時に、ひやりと冷たい気配が彼女を包み込む。雫はその顔を見つめていた。律が車のドアを開け、彼女を後部座席へとそっと降ろす、その間もずっと。目の前の顔が、すぐそこにあった。息が止まるほどの、至近距離。彼女は思わず呼吸を忘れた。男の黒くまっすぐな睫毛が見える。彼がふと目を伏せた瞬間、目尻の皮膚のくぼみに、小さな黒子があるのが見えた。それが彼の目元に、過剰なくらい深い陰影を与えている。昔も、そうだった。遥が初めて彼の腕の中で目を覚ました朝、こんなふうに間近で見た律の瞼に、とても小さな黒子があるのを見つけたのだ。想いが溢れてどうしようもない時、彼女はよく、大胆にその場所に指先で触れたものだった。律はコンソールボック
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第44話

「律さん、今夜もオールか?」涼しげな外面とは裏腹に、その骨の髄までが、世を斜に構えたような不遜さに満ちている。学年トップの成績が、すべての雑音を黙らせる。喫煙、サボり、ゲームセンターでの徹夜……そんな素行不良の生徒と彼を結びつけて考える者など、誰一人いなかった。教師たちの間では、彼はどこまでも「品行方正な優等生」だったのだ。雫はシートに深く身を沈め、強張った体を緩めようとした。口の中に残っていたチョコレートが、ゆっくりと溶けていく。けれど、こんなにも狭い空間では——めまいはだいぶ治まったものの、胸の奥からはじわりと吐き気がこみ上げてくる。空気には、微かな高級紳士香水の香りと、レザーシートの匂いが混じり合っていた。雫は、僅かに眉を顰めた。不意に、すぐ隣の窓が数センチほど開けられた。流れ込んできた夜風が、不快感を和らげると同時に、意識を少しだけはっきりとさせた。雫は、思わず彼の方を見た。律は前方を見据え、運転に集中している。片手でハンドルを操るその手首には、やはりあの高級ニッチブランドの腕時計があった。彼はこのブランドがよほど好きなのだろう。七年前に彼女に贈られた時計も、同じブランドのものだった。道中、湊はずっとおしゃべりを続けていた。子供の世界は屈託がなく、明るい。雫は、キノコ頭にくりくりとした大きな瞳、そしてぷっくりとした頬を持つその男の子を、心から可愛いと思った。もし、あの子が生きていたら。今頃、この子と同じくらい大きくなっていたはずだ。杏のお兄ちゃんになるはずだった、子。けれど、生まれてすぐに酸素欠乏で窒息し、懸命の救命措置も虚しく、息を引き取った。この六年間、忙しない日々に追われる中で、その悲しみはもう忘れてしまったかのように見えたかもしれない。けれど、彼女自身だけは知っている。十月十日、お腹で育てた我が子を、どうして忘れられるだろうか。顔さえ見ることができなかった。意識が朦朧とする中で知らされたのは、双子を産んだこと、そして、男の子の方はこの世に生を受けてからわずか二十六分で、もう息をしなくなった、ということだけ。律はバックミラーに目をやった。女の表情が、ふと陰ったことに気づいたのだ。彼は手を伸ばし、助手席でぺちゃくちゃと喋り続けるぽっちゃりとした甥の頭を、ぽん、と軽く叩いた。こ
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第45話

湊は男のズボンを掴んだ。杏にまで聞こえてしまったじゃないか。男たるもの、金がないなんてあってはならない。ましてや、綺麗な女の人の前で金を持っていないなんて、どれだけ恥ずかしいことか。だが、母である静華が、学校帰りにジャンクフードを買うのを心配して、彼のお年玉を根こそぎ自分の口座に移してしまったのだ。雫の方から湊を食事に誘った。もう時間も遅い。娘もピザを少し食べただけだから、ちゃんとした主食を食べさせたかったし、何より、律にここまで送ってもらったのだ。これはそのお礼のつもりだった。湊は顔を真っ赤にして、男のプライドを守ろうと躍起になった。「雫おばさん、僕、お金持ってるから!おじさんに預けてるだけだから!」律はもうからかうのをやめ、顎をくいっと動かして店の方を示した。それだけで、湊はぱっと顔を輝かせ、杏の手を引いてワンタン屋へと駆け込んでいく。律は雫を一瞥すると、その色の薄い唇を見て眉を顰めた。「低血糖なら、三食きちんと時間通りに摂ること。栄養バランスも考えろ。朝食の時間は遅らせるな。主食を抜くのもだめだ」「……うん」彼はすたすたと店に向かって歩き出す。雫はその広い背中を見つめ、後を追った。店に入るなり、雫は店の女将に自分が支払うと伝えた。そうすれば、何の負い目も感じずに済む。再会して以来、彼女は常に律との間に、危うい均衡点を探していた。彼が家まで送ってくれた。ならば、この食事代は、そのお礼だ。湊の食べっぷりは実に見事だった。「今まで食べたごはんの中で、いっちばん美味しい!」などと大絶賛するものだから、色白でぷくぷくした頬の可愛い子がそんなことを言うものだから、女将はすっかり湊を気に入ってしまい、サービスの小鉢と目玉焼きを二つ、テーブルに運んできてくれた。食事が終わると、湊はテーブルの下でこっそりと律に手を差し出した。「おじさん、お願い。ニ千円でいいから貸して。四千円にして返すから」ここで男のメンツを潰すわけにはいかないのだ。律は口の端を上げて笑うと、スマホを操作して彼のキッズケータイにニ千円を送金した。湊はぴょんと椅子から飛び降り、意気揚々と女将の元へ支払いに行く。しかし、女将から雫がすでに支払いを済ませたと聞かされ、小さな眉をきゅっと寄せた。「雫おばさん、僕がご馳走するって言ったのに、おばさんが払っちゃ
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第46話

律は車を走らせ続けた。道中、そのぽっちゃりした甥の言葉は、完全に無視していた。柏木家の玄関前で甥を降ろすまで、その調子だった。湊はふんっと鼻を鳴らす。「大人になんか、わかるわけないよね。でも、僕、もう雫おばさんとLINE交換したもん。チャンスはあるって信じてる」律はあまりのくだらなさに、思わずタバコに手が伸びた。だが、指に一本挟んだところで、助手席の小さな子供の姿を見て、ぐっと堪える。やや掠れた声で言った。「あの人は結婚してる。それに、君は娘さんと同じくらいの歳だろ」「年が下なのは僕のせいじゃないし、それに、今どき年下の男の子って人気なんだから。おじさんにはわかんないよ、雫おばさんがどれだけ綺麗か。ピザを僕にくれて、髪も撫でてくれたんだよ。すっごくいい匂いがしたし、肌は真っ白で、笑うとすっごく優しいんだ。僕に気があるに決まってる……」「ああ。こんなによく食べるちびデブは、初めて見たんだろうな」「僕のこと、悪く言わないでよ!雫おばさんは、僕のこと可愛いって言ったんだから」湊はもう律と話すのをやめた。彼は腕時計型のキッズケータイを開くと、バッテリーが切れそうなことに気づき、慌てて律の車で充電を始めた。と、同時にLINEを開くと、雫からボイスメッセージが届いていることに気づいた。【ありがとう。湊くんも、とっても可愛いわよ】湊は、わざと音量を最大にして、律に聞かせた。「女のお世辞を真に受けるな。綺麗な女は嘘つきなんだよ」「じゃあ、なんでおじさんのことは可愛いって言わないで、僕にだけ言ったのさ。僕にだけ言ってくれたってことは、僕のこと、いいなって思ってるってことじゃん」律は湊のぷにぷにした頬をむにっとつまみ、薄い唇に笑みを浮かべた。「半月前、学校でおもらししたのは、どこのどいつだったかな?」湊はかあっと顔を赤らめた。拳を握りしめ、必死に男の尊厳を守ろうとする。「まだ子供なんだから……それに……あの時は、お水飲みすぎただけだもん」男の子はそう言い捨てると、車を降りた。「バイバイ」も言わず、むすっとしたまま家の中へ入っていく。律は車のドアに寄りかかり、タバコを吸っていた。柏木家の家政婦である安田が、湊の小さなランドセルを持ってやりながら、律に声をかける。「律様、今夜はご自宅で夕食を?」「母には、いらな
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第47話

十一月中旬。学校でインフルエンザが流行り始めた。子供というのは抵抗力が弱いもので、一人がかかれば、あっという間にクラス中に広がる。杏は心臓が弱い。もし感染したら大変なことになると心配した雫は、大事をとって一週間、学校を休ませることにした。だが、思わぬことに、先に熱を出したのは雫の方だった。フミさんと娘に移すわけにはいかない。なにせ、一人はお年寄り、一人は小さな子供なのだ。雫はフミさんにマスクをしてもらうよう頼んだ。するとフミさんはそんな雫を笑って、「あんたの体の方が、あたしや杏ちゃんよりよっぽどひ弱じゃないのさ」と言った。雫は会社を休み、近所のクリニックで三日間、点滴を打ちに通ったが、一向に良くならない。熱は上がったり下がったりを繰り返している。昼に食事を届けに来てくれたフミさんは、ちゃんとした病院で血ぃ抜いてもらって、調べてもらいなさいよ、と強く勧めた。本当は明日行こうと思っていた。熱のせいで体は鉛のように重く、怠い。けれど、部屋の入り口に佇んで、心配そうに自分を見つめる娘の姿が目に入った時、そんな考えは吹き飛んだ。目は泣き腫らしている。その瞳には、母親を案じる気持ちだけが、いっぱいに満ちていた。今すぐ駆け寄って抱きしめてやりたい衝動を、雫は必死でこらえた。うつしてはいけない。雫は、自分の母親の顔を知らずに育った。杏を産んだ時、自分はまだ二十一歳になったばかりだった。どうやって母親になればいいのか、分からなかった。けれど、杏はまるで美しい天使のようだった。杏が三、四歳の頃、住んでいた屋根裏部屋の屋根が雨漏りしたことがあった。あいにくの雨で、管理会社の人はすぐには直しに来られなかった。雨漏りの場所は、ちょうどリビングの真ん中だった。雫は床にプラスチックの洗面器を置いて、ぽた、ぽたと滴る水滴を受けていた。その様子を見ていた杏は、テレビで見た大人の真似でもするように、とても真剣な顔で、こう言ったのだ。「お母さん。わたしね、おっきくなったら、すっごくおっきいおうちをかってあげる。お母さん、ひとりだけがすむおうちをね」-病院の点滴室。雫は二重にしたマスクをして中に入ると、そこは人でごった返していた。大人、老人、子供連れの家族……ようやく順番が来て、雫は空いている席を見つけて腰を下ろし
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第48話

果たして、次の瞬間、詩帆と律が雫のすぐ隣に腰を下ろした。熱でぼうっとしていた雫の頭は、一瞬にして冴え渡る。彼女はぐっと俯き、顎をジャケットの襟の中に隠すと、顔をそむけるようにして反対側を向いた。不快だったはずの澱んだ空気の中で、男が纏う冷たい気配だけが、まるで目に見えない糸のように、じりじりと雫の神経を締め付けていく。鼻は詰まり、喉も痛いはずなのに、なぜか、男の匂いだけははっきりと嗅ぎ取ることができた。まるで、彼女の体そのものが、彼の全てに過剰に反応しているかのようだ。雫は点滴のパックを見上げた。早く、早く終われ、と心の中で念じながら。だが、ちょうど新しいパックに交換したばかりだった。頭痛を訴えたため、今打っているのは脳圧を下げるためのマンニトールで、滴下速度は遅く設定されている。律は手元のスマホに目を落とした。母の悠美からメッセージが届いている。詩帆の容態を尋ねる内容だった。今日の午前中、詩帆は母の蓉子と共に柏木家を訪れていたのだ。悠美は最近インフルエンザで熱を出し、喉を痛めて静養中だった。ただの風邪とはいえ、見舞客は絶えなかった。その場で詩帆が体調を崩してしまい、悠美は自分がうつしてしまったのではないかと気に病んでいた。律は今夜が夜勤だったため、彼女を病院まで連れてきたというわけだ。律は母に、大丈夫だから心配せず、家でゆっくり休むようにと返信した。「律さん、本当にごめんなさい。今日はおば様のお見舞いに伺ったのに、かえって私が風邪を引いちゃうなんて」「いいんだ。水分をよく摂って、点滴が終わったら家でゆっくり休め」「うん、ありがとう、律さん」詩帆は、律の前では驚くほどしおらしくなる。会社での彼女とは全くの別人だった。篠宮家と柏木家は家柄も釣り合っている。会社でも、梨奈たちが「篠宮ディレクター、近々ご結婚かもね」などと噂していたのを耳にしたことがある。雫には、周囲の時間の流れが、ひどくゆっくりと感じられた。そっと顔を傾け、視界の端で彼の姿を盗み見る。すぐ、隣にいる。偶然にも、今日の彼もまた、黒いマウンテンパーカーを羽織っていた。その黒が、彼の冷たい玉のような白い肌を一層際立たせている。だが、その生地の質感は、雫の着ているものとは天と地ほどの差があった。雫のパーカーは、ショッ
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第49話

若い看護師は、にこりと笑った。「あら、柏木先生。いらしてたんですか」律のその顔は、この病院では有名人と言ってもよかった。看護師はちらりと律の隣に目をやる。そこには、シャネルのセーターにベージュのチェック柄カシミヤコートを羽織った、いかにも育ちの良さそうな、綺麗な女性が座っていた。その詩帆が、雫の方を見た。そして、眉を顰める。「……霧島さん?」雫は小さく頷くと、フードを脱いだ。「篠宮ディレクター」詩帆は、彼女のひどい声を聞いて、くすりと笑った。「あらまあ、霧島さん。すごい声ね、どうしたの。全然気づかなかったわ」そして、律の方を向き直る。「律さん、この人は私の部署の部下なの。前に一度、もつ鍋屋の『あかり』で一緒に食事したでしょう。覚えてる?」もちろん、詩帆は律がそんな些細なことを覚えているとは思っていなかった。ただ話の流れで口にしただけだ。そもそも、雫とは個人的な付き合いもない。住む世界が違うのだ。もっとも、雫のデザインの才能は抜きん出ており、行南も彼女を高く評価している。とはいえ、所詮は平凡な家庭の出で、離婚歴のある子持ちだ。詩帆はただ、律の前で、そして会社の部下の前で、自分の親しみやすさを演出したかっただけだった。雫は微笑むと、それきり黙り込んだ。自分の靴を見つめ、床を見つめ、点滴を受けている手を見つめる。そして、その視界の端には、すぐ隣に座る律の姿があった。遠ざかっていく看護師が、ナースステーションで「柏木先生の彼女、見ちゃった」などと噂話をしているのが聞こえる。雫は、ぎゅっと目を閉じた。じりじりと肌を焼くような視線が、自分の顔の上を何度か行き来するのを感じる。ここに座っていることが、まるで針の筵のようだった。詩帆の優しい声が、律と何気ない日常の会話を交わしているのを聞くともなしに聞く。やがて、詩帆の携帯が鳴った。相手は律の母、悠美からだった。「律は一緒にいる?」「ゆっくり休むのよ」と気遣う言葉が聞こえてくる。詩帆は甘い声で「ええ、すぐ隣で点滴に付き添ってくれているわ」と答えた。雫は顔を上げ、点滴パックを見つめた。ぽたり、ぽたりと、液体が落ちていく。チューブを伝い、腕へ、そして血管の中へ。三十分後、ようやく点滴が終わった雫は、そそくさとその場を立ち去った。律は、その背中
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第50話

そして、身体を右側のドアにできる限り寄せ、腕をドアにぴったりと押し付けた。そんなことをしても無駄だと分かっていながら。車のドアには、とっくにロックがかかっていたのだから。雫は、最悪の事態だけは考えたくなかった。しかし、車窓の外に広がるのは、ぽつりぽつりと街灯が立つだけの、だだっ広い道。時折、数台の車が通り過ぎるだけだ。ここはまだ松崎市の郊外で、道の両脇には工場らしき建物が影のようにそびえ立っている。人気のない、寂れた郊外。胸が締め付けられるような圧迫感を覚えながら、雫は努めて平静を装って言った。「まだ八時半ですし、そんなに遅い時間でもないかと」「あんたみたいな別嬪さんを夜遅くまで働かせるなんて、旦那も隅に置けないねぇ。俺の嫁さんだったら、もったいなくて絶対外に出さねえけどな」運転手の視線が、雫のすらりとした首筋に突き刺さる。その白い肌をいやらしく目でなぞり、男は舌なめずりをした。バックミラー越しに、その視線が絡みつく。一見、人の良さそうな顔立ちをしているのに、その眼差しは卑猥で、粘りつくようだ。雫の心臓が、どくん、と不安に脈打った。片手はバッグの中の催涙スプレーを握りしめ、もう片方の手でスマートフォンを取り出す。窓の外に流れる暗闇を横目に、雫は佐々木淳に電話をかけた。彼が手配してくれたタクシーなのだから、せめて今の自分の状況と位置だけでも伝えておきたかった。しかし、呼び出し音は虚しく響くだけで、一向に繋がらない。きっとまだ仕事中なのだろう。途端に、雫の心臓が冷たくなる。若い女性がタクシー運転手に襲われる――そんな陰惨なニュースの見出しが、次々と脳裏を駆け巡った。スマートフォンを握る指先が、小刻みに震えているのが自分でも分かった。なんて運が悪いのだろう。数秒の逡巡。額にはじっとりと冷や汗が滲む。いっそ警察に通報してしまおうか、という考えが頭をよぎる。だが、男はまだ、卑猥な言葉を口にしただけだ。それだけで通報しても、まともに取り合ってもらえないかもしれない。下手に騒ぎ立てて、相手を逆上させてしまったら……?職場のデザインチームは、女性ばかりだ。雫の生活圏内に、いざという時に頼れる男性はほとんどいなかった。雫はメッセージアプリを開き、親友の万理華に現在地情報を送った。そして、今の状況を簡潔に打ち込む。すぐに既読が
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