彼女が「ご自重を」と口にするのは、これで二度目だった。律は、すっと手を離した。雫はすぐさま手首を引き抜き、その場を去ろうとする。一歩、踏み出す。だが、彼の支配からは逃れられなかった。律が長い脚を横に差し出し、彼女の行く手を塞ぐ。男の、一メートル九十に迫る長身が、彼女の視界を完全に塞いだ。両腕を彼女の左右につくと、背後の壁に手をつき、その顔を覗き込む。二人の間の距離は、手のひら一枚分もない。律は、彼女を射抜くように見つめた。その表情の、ほんの些細な変化さえも見逃さない。「高二の二組に、霧島雫なんて名前の生徒はいなかった。……お前、一体誰なんだ」雫の心臓が、大きく跳ねた。眉を寄せ、必死に思考を巡らせる。ワンタン屋で、何組だったかと訊かれた時、とっさに「二組」と嘘をついた。まさか、本当に調べるとは。「柏木先生、私がどこの高校の何組だろうと、あなたには何の関係もないはずです。私たちは、親しい間柄じゃない。あなたの今の行動は、明らかに医者と患者の家族という関係を逸脱しています。私は……」雫の視線が、一瞬泳いだ。「……訴えることだって、できますから」彼は、ふっと笑った。その表情はどこまでも余裕に満ちている。律は一つのメールアドレスを口にすると、こう告げた。「これは、科の内部告発用ボックスだ。こっちから訴えた方が、処理が早い」彼女が黙り込むのを見て、律は手を伸ばした。その指が雫の顎を捉え、ぐいと上を向かせる。「覚えたか?」「昔の名前は、榎木雫(えのき しずく)です。『榎』に『木』。高二の二組にいて、二学期から転校しました。その後、事情があって姓を変えたんです。あなたにラブレターを渡したこともありますよ。でも、忘れちゃいましたよね。あなたに手紙を渡す女の子なんて、掃いて捨てるほどいたでしょうから。……この答えで、満足いただけましたか」雫の頭は、猛烈な速さで回転していた。彼女は、実在の出来事を織り交ぜた、完璧な嘘を構築した。女の澄んだ瞳が、まっすぐに彼の目を見つめ返す。その表情には、一片の動揺も見られない。だが、胸の内側では、心臓が喉から飛び出しそうなくらいに、激しく脈打っていた。榎木雫という人間は、実在した。ラブレターを渡したという出来事も、実際にあった。「あれは、高二の二学期、
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