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All Chapters of 霧の中、君という雫: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

彼女が「ご自重を」と口にするのは、これで二度目だった。律は、すっと手を離した。雫はすぐさま手首を引き抜き、その場を去ろうとする。一歩、踏み出す。だが、彼の支配からは逃れられなかった。律が長い脚を横に差し出し、彼女の行く手を塞ぐ。男の、一メートル九十に迫る長身が、彼女の視界を完全に塞いだ。両腕を彼女の左右につくと、背後の壁に手をつき、その顔を覗き込む。二人の間の距離は、手のひら一枚分もない。律は、彼女を射抜くように見つめた。その表情の、ほんの些細な変化さえも見逃さない。「高二の二組に、霧島雫なんて名前の生徒はいなかった。……お前、一体誰なんだ」雫の心臓が、大きく跳ねた。眉を寄せ、必死に思考を巡らせる。ワンタン屋で、何組だったかと訊かれた時、とっさに「二組」と嘘をついた。まさか、本当に調べるとは。「柏木先生、私がどこの高校の何組だろうと、あなたには何の関係もないはずです。私たちは、親しい間柄じゃない。あなたの今の行動は、明らかに医者と患者の家族という関係を逸脱しています。私は……」雫の視線が、一瞬泳いだ。「……訴えることだって、できますから」彼は、ふっと笑った。その表情はどこまでも余裕に満ちている。律は一つのメールアドレスを口にすると、こう告げた。「これは、科の内部告発用ボックスだ。こっちから訴えた方が、処理が早い」彼女が黙り込むのを見て、律は手を伸ばした。その指が雫の顎を捉え、ぐいと上を向かせる。「覚えたか?」「昔の名前は、榎木雫(えのき しずく)です。『榎』に『木』。高二の二組にいて、二学期から転校しました。その後、事情があって姓を変えたんです。あなたにラブレターを渡したこともありますよ。でも、忘れちゃいましたよね。あなたに手紙を渡す女の子なんて、掃いて捨てるほどいたでしょうから。……この答えで、満足いただけましたか」雫の頭は、猛烈な速さで回転していた。彼女は、実在の出来事を織り交ぜた、完璧な嘘を構築した。女の澄んだ瞳が、まっすぐに彼の目を見つめ返す。その表情には、一片の動揺も見られない。だが、胸の内側では、心臓が喉から飛び出しそうなくらいに、激しく脈打っていた。榎木雫という人間は、実在した。ラブレターを渡したという出来事も、実際にあった。「あれは、高二の二学期、
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第32話

律は、はっと手を離した。指先に、生温かい湿り気が残っている。男の声は、ひどく掠れていた。「……すまない」後には、短くも、長い沈黙だけが残された。雫が洗面所を去った後も、律は壁にもたれたまま、動けずにいた。制御不能な何かが、彼の心を激しく揺さぶる。それが、涙を浮かべて自嘲気味に彼を見つめた、あの女の悲しげな眼差しのせいなのか。それとも、どこか見覚えがあると感じていたこの女が、自分が心の奥底で求めていた人物ではなかったという、ただの失望のせいなのか。自分が追い求めていた真実。彼女から感じる、あの奇妙な既視感。それは全て、彼女のどこかに遥の面影を重ねていたからだ。わかっている。彼女は、青木遥ではない。だが、まるで何かに取り憑かれたように、彼は全くの別人であるはずの二人を、無理矢明理に一つに繋ぎ合わせようとしていた。律は手を上げ、疲れた眉間を強く揉んだ。どうかしている。俺は、どうかしている。-榎木雫という名前。それが、二人の関係を奇妙な均衡へと引き戻した。真実と嘘を巧みに織り交ぜて雫が紡いだ物語が、律を納得させたからだ。あれから一ヶ月、雫が律に会ったのは二度。一度目は、雫が病院にフミさんの薬を取りに行った時だった。彼の診察室に入ってから出るまで、わずか四分。雫が出ていくまでの間、律の態度は他の患者の家族に対するそれと何ら変わりはなかった。ただ冷ややかな声で服用の注意点をいくつか告げ、二週間後にまた数値を検査しに来るようにと、事務的に伝えただけだった。二度目は、ショッピングモールでのこと。雫が会社の同僚たちともつ鍋を食べに行った店で、上司の篠宮詩帆が律と一緒に食事をしているところに鉢合わせたのだ。結局、人数も多いからとテーブルをくっつけて、みんなで一緒に食事をすることになった。誰かが「篠宮ディレクター、彼氏ができたんですねー、ご馳走してくれないと」と囃し立てる。詩帆は頬を赤らめ、「あら、いいわよ。ここは私が出すわ」と嬉しそうに言った。そう言って律の腕に自分の腕を絡ませて座ろうとしたが、彼はすっとその腕を抜いてしまう。詩帆はちらりと彼に視線を送った。柏木家の三男坊である律が、この界隈でクールでストイックだというのは有名な話だった。二人とも結婚適齢期ということもあり
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第33話

数歩進んだところで、ぴたりと足が止まる。化粧室は廊下の突き当たりにあり、その脇の窓が開け放たれて、簡素な喫煙スペースになっていた。窓辺に寄りかかるようにして立つ男の姿。律だった。窓枠に背を預け、指先に挟んだ煙草を一口吸うと、力なく腕を下ろす。その手の甲には、青い血管がくっきりと浮き出ていた。薄いグレーのシャツを着ていて、開け放たれた窓から吹き込む夜風が、その背後で静かに揺れている。律だった。窓枠に背を預け、指先に挟んだ煙草を一口吸うと、力なく腕を下ろす。その手の甲には、青い血管がくっきりと浮き出ていた。シャツの袖は無造作に腕の中ほどまで捲り上げられ、手の甲から浮かび上がった血管は、肘の内側へと続いている。雫は、無意識に彼を見つめていた。ふと、律がスマートフォンから顔を上げた。その眼差しはどこまでも冷めているのに、瞳だけがやけに黒い。一瞬、視線が交錯し、律が小さく頷いた。雫も会釈を返し、すぐに俯いてその場を通り過ぎようとする。余計な言葉は、何一つない。むしろ、互いに意識して距離を置いているかのようだ。雫がその場を立ち去ろうとした、まさにその時。化粧室から出てきた別の女性が、彼女の背中に向かって声をかけた。しかし、その声は雫の耳には届かない。「あの、お姉さん、口紅、落ちましたよ」-雫が席に戻ると、隣に座っていた薫が、何やら意味ありげな視線を送ってきた。雫がスマートフォンを開くと、薫と梨奈、そしてもう一人の同僚との四人のグループチャットには、あっという間に「99+」の通知が溜まっていた。「さっき、こっそり篠宮ディレクターの彼氏の写真撮っちゃった。こんな最悪のアングルなのに、イケメンすぎない?」「ていうか、もはやCGでしょ、これ!」「本物のイケメンって、どんな歪んだ盗撮にも耐えられるんだね……!」「篠宮ディレクター、オフィスだといつも偉そうなのに、彼氏の前だと急にしおらしくなるんだから」「でもさ、あの男の人、篠宮ディレクターにちょっと冷たくない?」「あ、わかる。なんかそっけない感じするよね」「でも、お家同士が決めた婚約なんでしょ?もしかして、もうすぐ結婚とか?」誰かが、詩帆のアシスタントで内部情報に詳しい梨奈に話を振った。梨奈:「え、聞いてないけどな。内緒にしてるんじゃない?
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第34話

薫は普段からファッション誌を読み漁っている上に、クライアントと接する部署なだけあって、こういうことには目ざとい。スマホでさっとその時計を検索すると、雫の返事も待たずに一人で喋りだした。「……あった。ニッチなブランドだけど、すっごいこだわりのあるデザインモデルだって。これ、車より高いじゃん。こんなマニアックなブランド買う人って、よっぽどの時計通だよ。篠宮ディレクターの彼氏って、一体何者なのよ……」薫はおしゃべりで、特にゴシップネタになると話が止まらない。配車を待つ間、夜風が吹き抜けていく。雫は、ふと肌寒さを感じた。ちょうどその時、予約した車がやってきた。二人はそれに乗り込む。薫は一人で喋っていても別に退屈しないタイプだ。雫が口数の少ない性格なのは知っていたが、まさか返事が返ってくるとは思わなかったらしい。「家柄が釣り合ってるんでしょうね。篠宮ディレクターのお祖父様って、昔、国のお偉いさんだったんでしょ。相手の方も、きっと相当な家柄なのよ」薫はこくこくと頷く。「だよねー。ああいうお金持ちって、家柄とか一番気にするもんね」車は走り出し、いくつかの交差点を過ぎた。しかし、その先でぴたりと動かなくなってしまう。少し先に見えるスタジアムから、ライブの音が響いてくる。「あーあ、こっちの道、通るんじゃなかったなあ」運転手がため息をつく。「有名な歌手がコンサートやってるんですね。知ってたら、別の道をお願いしたんですけど」薫が窓の外を見ながら言った。人気歌手のライブとあって、会場の周りはファンでごった返し、道路はどこもかしこも大渋滞だ。車は、まるでカタツムリのようにノロノロとしか進まない。雫は、なんだかどっと疲れていた。夏の夜気に蒸されたレザーシートの匂いが、車内にむっと立ち込めている。頭が重く、目を閉じてシートに背中を預けた。利用したのは格安の配車サービスで、エアコンはついておらず、窓が開いているだけだった。窓から流れ込む生ぬるい空気を吸い込むと、今夜食べたもつ鍋が胃の中でぐるりと渦を巻いた。こみ上げてくる不快感を、雫は必死に喉の奥へと押し戻した。四車線ある道路は、どこもかしこも亀の歩みだ。ほんの少しずつ、そろりそろりと前に進むだけ。その時、不意に薫が雫の腕をぎゅっと掴んだ。「ねぇ、見て!篠宮ディレクターと彼
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第35話

煙にむせて、遥は一度咳き込む。彼の胸元の服を掴み、さらに数回咳をしながら言った。「ここ、大学の近くだよ……」見られたらどうするの?もう夜の十時過ぎで、あたりに人影はなかったけれど。この時、遥は心のどこかで、淡い期待を抱いて彼を見つめていた。あの頃の自分は、少しだけ痩せて、もともと整っていた顔立ちが、ようやく表に出てき始めていたから。綺麗でいたいと思わない女の子なんていない。好きな人には、一番綺麗な自分を見てほしい。今日彼が来ることを、今夜会えることを知っていたから、わざわざ化粧までしてきたのだ。なのに彼は、そんなことにはまるで気づいていないようだった。ただ、一言、こう尋ねただけ。「一日いくらだ」「……ろ、六千円」遥が答えると、その瞳の奥にかすかな失意が宿った。「一日のバイト代よ」律は薄く笑った。「別に何も聞いてないが。何を考えてるんだ」彼は腕時計に目を落とす。「七時半にはここに来てた。お前が入れたコーヒーを二杯も飲んだのに、お前は一度も外を見ようとしなかったな。遥、その目は飾りか?」「見てたわ」――そうは言えなかった。一緒にバイトに入っていたのは、同じ大学の学生だった。もし律のところへ行ったりしたら、二人の関係が知られてしまう。その夜、遥は都心にある律のタワーマンションを訪れた。彼に小さなギフトボックスを渡され、開けてみて、と言われる。中に入っていたのは、レディースの腕時計だった。今、彼の腕で時を刻んでいるものと、同じデザインの。ニッチなブランドで、控えめながらも洗練された、非常に高価なもの。もちろん、当時の遥にそんなことはわかるはずもなかった。高級ブランドなんて、誰でも知っているような有名なものしか知らなかったから。「たいしたもんじゃない。その辺で買った」と律は言った。遥は信じなかった。すると彼は、彼女の顔をじっと見つめて、こう言ったのだ。「六千円。お前の一日の給料だろ」当時はまだインターネットも普及しておらず、そのブランドは、上流階級の間だけで知られるような存在だった。――その腕時計は、別れた後、遥が律の実家へ郵送した。雫は、窓の外に目をやっていた。車の窓枠に置かれた、男の手。その手首には、ゴールドとブラックのコンビカラーの腕時計が巻かれている。彼が灰を落とす
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第36話

そこへ、母の悠美からビデオ通話がかかってきた。詩帆との仲はどうかと尋ねてくる。そして、明日は詩帆の母親である蓉子(ようこ)さんが家に遊びに来るから、律も帰ってきなさい、と言う。「母さん、ちょうどいい。俺の代わりに断っておいてくれ」「あたたた……胸が……胸が苦しいわ……救急車を呼ばないと……」「救急車を無駄遣いするのはやめてくれよ。あんたが救急車なんか呼んだら、今日の当直は俺の同僚だから、結局俺が病院に呼び出されることになる。家の薬箱に何でも揃ってるだろ」三時間前も、悠美はこの手を使った。血圧が高いと騒ぎ立て、律に詩帆との食事を承諾させたのだ。「この親不孝者!また血圧が上がってきたわ……」悠美は蓉子とは麻雀仲間で、週に一度は卓を囲む仲だった。詩帆のことも大層気に入っており、息子と結ばれればこれほど嬉しいことはないと思っている。合うか合わないかは、とにかく一度会ってみなければわからない、というのが彼女の持論だった。「篠宮さんちのお嬢さんがどうしても嫌なら、私から断ってあげるわ。じゃあ、堂島さんとこの子は?美大の先生で、しっとりした雰囲気の美人よ。時間を作って会ってみない?」悠美がそう言っても、電話の向こうからは返事がない。「ねえ、聞いてるの?病院にだっているじゃない、矢野宗一郎(やの そういちろう)院長の娘さん。あなたに気があるんでしょ?あのお嬢さんにも会ったことあるけど、いい子だったわよ」母の言葉を聞き流しながら、律は運転に集中していた。ちらりとスマートフォンに目をやると、母のアイコンは可愛らしい動物のキャラクターに変わっている。少し前に甥っ子が面白がって設定したらしいのだが、母本人はえらく気に入っているらしかった。もう六十歳を過ぎているというのに、気持ちだけは四十代のままなのだ。「母さん」彼が口を開きかけた、その時だった。「もうどうでもいいわ!とにかく、今年は誰か一人、家に連れてきなさい!あんたがそこらの若い女優やアイドルを好きだっていうなら、それでもいいわ。この母さんが許すから!お父様には私から話しておくわ。家柄さえちゃんとしていれば、もう誰でもいいから!」悠美は、ついに全ての条件を投げ捨てた。以前は、芸能人が柏木家に入るなんて絶対に認めないと、あれほど息巻いていたというのに。悠美は寝椅子に寝そべり、
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第37話

この末息子がどんな性格か、父親である自分が一番よくわかっている。幼い頃から聡明で、二人の兄よりもずっと優秀だった。あの誘拐事件さえなければ……幼い律は、双子の兄弟である然が、誘拐犯に目の前でなぶり殺しにされるという地獄を経験した。この出来事を境に、律の人格はまるで別人のように変わってしまった。かつては家中の誰にも手を焼かせるほどのわんぱくだったのが、寡黙で、冷淡で、誰にも心を開かない青年に。長男の健人は亡き親友の息子で、引き取って我が子同然に育ててきた。律もこの兄を心から慕っている。洋治としては、二人の息子に柏木グループを継いでもらいたかった。だが、律は家業を継がずに医の道を選び、自ら七年もの海外留学へ行ってしまった。一族の権力争いに関わることを、まるで避けるかのように。だからこそ洋治は、この実の息子に対して、どこか負い目を感じていた。悠美は続けた。「あの子ね、律はきっと、ずっと彼女のことが忘れられないのよ」洋治も、頭の固い人間ではない。今は自由恋愛の時代だ。息子の結婚を、政略の道具にするつもりはなかった。「家柄さえちゃんとしていれば、ごく普通の家庭の娘でも構わん。律が本当に好きなら、お前にとっても願ったり叶ったりだろう」「でも、その子、結婚してるみたいなの……だけどね、もしそのお嬢さんが結婚していたとして……それでも、まだ律のことを想ってくれていたら……」「悠美ッ!」洋治が眉を吊り上げる。「お前は、一体何を考えているんだ!」「ちょ、ちょっと考えてみただけじゃないの……」悠美は耳をほじりながら、弱々しく言い返す。「そんなに怒鳴らなくてもいいでしょ」「考えるだけでも許さんッ!」柏木家は、百年の歴史を持つ名家だ。息子の嫁に、一度嫁いだ女を迎えるなど……そんなことが、許されるはずがない。そんな馬鹿げたことが起きるなら、俺は棺桶に入ってからでも、這い出てきてこの家の門の前に立ちはだかってやる!洋治は心の中で、固く誓った。-律が、実家の寝室で両親がそんな言い争いを繰り広げていることなど、知る由もなかった。その頃……彼は書斎のデスクで、海外の希少な重篤症例に関する論文に目を通していた。だが、どうしても気持ちが落ち着かず、活字がなかなか頭に入ってこない。律は、このところ続く情緒の乱れも、あの女――霧島雫に心を
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第38話

木曜日、律は休みを取っていた。午後の時間を使って、心療内科の予約を入れた。選んだのは、第一病院から区を一つ跨いだ、市北区にある第三病院だ。なにしろ律は第一病院の医師であり、若手のホープとして病院側の宣伝もあって、同業者にはかなり顔が知られている。心療内科にかかること自体は別に恥ずかしいことではないし、現代人なら誰しも多少なりと心に問題を抱えているものだ。それでも、わざわざ遠い病院を選んだのは、そういうことだった。予約の時間が来て、診察室の前に立つと、律は思わず自嘲の笑みを漏らした。病を認めたがらない患者の気持ちが、今なら痛いほどわかる。心の奥底に押し込めた秘密を、見ず知らずの他人に話したいわけではない。だが、そうでもしなければ、この苦しみから解放される術がなかった。律は意を決して、診察室のドアを開けた。担当は加可谷という女性医師で、当たり障りのない質問から診察は始まった。律は、最近の自身の精神的な状況について、ぽつりぽつりと話し始めた。「あなたの初恋の人……彼女のことを、愛していましたか?」女医は静かにそう尋ねた。律はわずかに眉を寄せた。数秒間黙り込み、その問いには答えなかった。医師は目の前の男を観察する。マスクで顔の半分は隠れているが、その体格や纏う雰囲気から、家柄も容姿も人並み外れて優れていることは容易に想像がついた。女性に不自由するようなタイプでは、まったくない。「好きではなかったけれど、何らかの事情で、仕方なく付き合っていたとか?」医師の問いかけに、律は反射的に言葉を遮った。「……その話はやめていただきたい」女医はもう一度彼に視線を送り、ふっと笑みを浮かべた。「彼女は太っていて、綺麗でもなく、あなたには不釣り合いだった。それなのに、付き合わざるを得なかったから、ずっと屈辱的に感じていたとか?」「……いえ、そういうわけでは……」律は眉をひそめる。「彼女と別れた時、解放されたと感じましたか?」「……だから、話題を変えてくださいと」律の表情が険しくなる。「別れを切り出したのは、どちらから?」律は深く息を吸い込むと、唇を固く結んだ。医師は、すべてを察したように微笑んだ。「では、こうしましょう。彼女がどんな人で、あなたたちがどんな風に過ごしてきたのか、それを聞か
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第39話

思えばあの時。律があえて無茶な要求を突きつけたのは、彼女を試すような、困らせたいという気持ちがあったからだ。女医は目の前の男を静かに見つめた。エリート然とした佇まいとは裏腹に、こと恋愛に関しては、ひどく不器用で、こんがらがっている。好きではなかったと言いながら、贈り物を返されたことに不満を漏らし、馬鹿だと言いながら、誰よりも努力家だった彼女の姿を鮮明に記憶している。好きではなかったと言いながら、二人で過ごした些細な出来事を驚くほど詳細に覚えている。人を好きになるきっかけは、第一印象の容姿かもしれない。いわゆる一目惚れというものだ。だが、その相手が本当にどんな人間なのかは、長く時間を共に過ごさなければ決して分かりはしない。彼が語る女性は、おそらく、第一印象の容姿で彼を惹きつけたわけではないだろう。それでもなお、彼は彼女を忘れられずにいる。「……どうして、別れることになったんですか」「俺が……留学することになったからだ」それは、律にとって避けられない選択だった。松崎市に残るという道もあったが、それは兄を裏切ることになる。自ら柏木家の跡継ぎの座を放棄した。幼い頃に巻き込まれた誘拐事件で、双子の兄を失ってから、律はそのトラウマから抜け出せずにいたのだ。かつての奔放さは影を潜め、一夜にして、他人を寄せ付けない冷めた人間へと変わってしまった。「お話を聞く限り、彼女はとても可愛らしくて、誠実な女の子だったようですね」律は何も言わなかったが、小さく頷いた。「あなたは頻繁に彼女の夢を見る。それと同時に、別の女性の夢も見て、しかも出会って間もないその女性に性的な衝動を覚えている。二人がとても似ていると感じているけれど、当然、彼女たちは別人です。あなたは……後から現れた女性を、初恋の人の代わりに見ているということでしょうか」「違う」律は即座に否定した。雫を、遥の身代わりだと思ったことは一度もない。確かに、雫から受ける印象は遥によく似ていた。だが、彼女が「榎木雫」だと知ってからは、それまでの自分の疑念がいかに馬鹿げたものであったか、そしてそんな自分自身に嫌悪感さえ覚えていた。だからこそ、時折雫と顔を合わせることがあっても、意識して他人行儀に振る舞ってきたのだ。「あなたの初恋の人の話から総合的に判断すると……
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第40話

それは、まるで霧を払うように、彼の心の最も深い部分を鋭く突く一言だった。律はドアの前に立ち尽くす。表情こそ普段と変わらぬ無関心さを装っていたが、ドアノブを握るその手には、強く力が込められていた。「柏木さん。同じ女性として、あなたのお話を聞いて、お伝えしたいことがあります。……彼女は、あなたに自分のことを話したくなかったのではなく、話せなかったのかもしれません。自分に自信がなくて、とても繊細で、傷つきやすかったから。あなたのお話では、彼女は容姿であなたを惹きつけたわけではない、少しふくよかな女の子だったそうですね。そして、何らかの手段であなたを脅して、付き合うことを強要した。彼女も分かっていたはずです。あなたとの関係が、長くは続かないことを。彼女は必死に勉強し、努力を惜しまず、そして心優しい。まるで、灼けつくような日差しの中で、それでも必死に生きようとする、一本の雑草のよう。あなたは、野良猫を助けるために一週間も空腹を我慢するなんて馬鹿げていると思ったかもしれない。でも、心のどこかで、そんな彼女に強く惹かれていたのではありませんか。……なぜなら、本当はあなた自身も、その猫を助けたいと願っていたから。あなたたちは二人とも、根は優しくて、脆い人間なんです。ただ、それを覆う殻が違うだけで。彼女は何かを盾にあなたを脅し、恋人にさせた。でも、柏木さん。考えたことはありませんでしたか。彼女があなたを脅すことを選んだ時、同時に、自分が最も大切にしていた何かを、捨てなければならなかったということを。幼い頃から、いつも光の中にいたあなたとは違う。彼女の人生に、もし一筋の光が差したとすれば、それはきっと、あなただった。あなたは、誰にも知られない関係だったと言いました。けれど、彼女にとっては、暗闇の中で唯一灯る、小さな希望の光だったのかもしれません」律は、はっとした。瞳の奥が、ゆっくりと深い色を帯びていく。脳裏に、遥の声が蘇る。「……私、泥棒なんかじゃない。信じてくれる?」「もし、彼女がもう新しい人生を歩んでいるのなら……どうか、祝福してあげてください」帰り道、律はアクセルを強く踏み込んだ。カウンセラーの言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。遥を祝福する気になど、なれなかった。かと言って、これ以上彼女の消息を探ろうとも思わない。
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