運転席に座る男の顔を直視はしなかったが、バックミラーから注がれる値踏みするような視線を、肌で感じていた。今の電話、あまりに拙い芝居だっただろうか。この先、家に着くまでの四十分間、本当に何事もなく過ごせるのだろうか。恐怖と、そして言いようのない悔しさが込み上げ、雫は一瞬たりとも気を緩めることができなかった。ただひたすら、窓の外を流れる景色に意識を集中させ、記憶にある帰り道から僅かでも逸れないかを注視し続ける。ほんの少しでも見慣れない道に入ろうものなら、全身の神経が張り詰めた弦のように、ぴんと硬直した。運転手は、その後も何かと理由をつけて雫に話しかけてきた。その言葉の端々には、女性をモノとしてしか見ていない、侮蔑的な響きがまとわりついている。「お嬢ちゃん、肌が真っ白だねえ。つるつるしてそうだ。旦那さん、幸せもんだな、こりゃあ」「車ん中、寒かねえだろ。上着、脱いだらどうだい」「へえ、旦那さん医者なのかい。そりゃ儲かってんだろうなぁ。じゃなきゃ、あんたみたいな別嬪さん、養えやしないもんな」それから、約二十分が経過した頃だった。静寂を破り、雫のスマートフォンが再び震えた。画面には「柏木律」の三文字が浮かび上がっている。彼女はすぐに応答ボタンを押した。「もしもし……」「マンションの入口に着いた」短い一言だったが、雫の胸に温かい感謝の念が込み上げてくる。すぐさま自分の現在地を伝えた。「私は今、篠山通りの辺り。あと二十分くらいで、そっちに着きます」まさか、律が本当に電話をかけ直し、そして来てくれるなんて思ってもいなかった。この一本の電話で、雫の心は驚くほど軽くなっていた。タクシーは既に馴染みのある市北区に入っており、車窓から見慣れた街並みが流れ始めると、彼女はようやく安堵の息をつくことができた。やがて、車がマンションのエントランス前で停車する。雫は、地獄から解き放たれたかのように、素早くドアを開けて飛び出した。運転手の方を振り返ることもせず、俯いたまま早足で道路を渡り、マンションの敷地へと向かう。その時だった。どん、と硬い胸板に真正面からぶつかった。ふわりと、清冽で涼やかな男性物の香水が鼻をかすめる。パニックと緊張で足元が覚束なかった上に、目の前に突然人が現れるとは夢にも思わず、雫は体勢を崩し、ぐらりと後ろ
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