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All Chapters of 霧の中、君という雫: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

運転席に座る男の顔を直視はしなかったが、バックミラーから注がれる値踏みするような視線を、肌で感じていた。今の電話、あまりに拙い芝居だっただろうか。この先、家に着くまでの四十分間、本当に何事もなく過ごせるのだろうか。恐怖と、そして言いようのない悔しさが込み上げ、雫は一瞬たりとも気を緩めることができなかった。ただひたすら、窓の外を流れる景色に意識を集中させ、記憶にある帰り道から僅かでも逸れないかを注視し続ける。ほんの少しでも見慣れない道に入ろうものなら、全身の神経が張り詰めた弦のように、ぴんと硬直した。運転手は、その後も何かと理由をつけて雫に話しかけてきた。その言葉の端々には、女性をモノとしてしか見ていない、侮蔑的な響きがまとわりついている。「お嬢ちゃん、肌が真っ白だねえ。つるつるしてそうだ。旦那さん、幸せもんだな、こりゃあ」「車ん中、寒かねえだろ。上着、脱いだらどうだい」「へえ、旦那さん医者なのかい。そりゃ儲かってんだろうなぁ。じゃなきゃ、あんたみたいな別嬪さん、養えやしないもんな」それから、約二十分が経過した頃だった。静寂を破り、雫のスマートフォンが再び震えた。画面には「柏木律」の三文字が浮かび上がっている。彼女はすぐに応答ボタンを押した。「もしもし……」「マンションの入口に着いた」短い一言だったが、雫の胸に温かい感謝の念が込み上げてくる。すぐさま自分の現在地を伝えた。「私は今、篠山通りの辺り。あと二十分くらいで、そっちに着きます」まさか、律が本当に電話をかけ直し、そして来てくれるなんて思ってもいなかった。この一本の電話で、雫の心は驚くほど軽くなっていた。タクシーは既に馴染みのある市北区に入っており、車窓から見慣れた街並みが流れ始めると、彼女はようやく安堵の息をつくことができた。やがて、車がマンションのエントランス前で停車する。雫は、地獄から解き放たれたかのように、素早くドアを開けて飛び出した。運転手の方を振り返ることもせず、俯いたまま早足で道路を渡り、マンションの敷地へと向かう。その時だった。どん、と硬い胸板に真正面からぶつかった。ふわりと、清冽で涼やかな男性物の香水が鼻をかすめる。パニックと緊張で足元が覚束なかった上に、目の前に突然人が現れるとは夢にも思わず、雫は体勢を崩し、ぐらりと後ろ
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第52話

夜の九時四十五分、駅前のワンタン屋。客がいる限り、店主は暖簾を下ろさない。夜勤明けの客が、遅い夕食をとりに立ち寄ることも多い。雫は、目の前の丼に盛られたワンタン麺を夢中で啜っていた。空腹と、先ほどまでの恐怖。そして、深まる秋の夜気。湯気の立つ熱いスープが、凍えた心と体を芯からじんわりと温め、ささくれ立った感情を優しく解きほぐしていく。雫は、ラー油をたっぷりとかけていた。本当は、そこまで辛いものが得意なわけではない。けれど今は、背中にじわりと汗が滲むほどの辛さが心地よかった。生活の匂いに満ちたこの小さな店に包まれていると、不思議と心が安らぐ。顔なじみの近所の人たち。にこやかな女将さん。そして目の前には、長身で、無愛想で、けれど誰よりもよく知っている男の姿。雫はまた俯いて、夢中で麺を啜った。いつもなら好んで食べないチャーシューが、今夜はなぜか、格別に美味しく感じられた。律は箸を手に取ると、眉間に皺を寄せ、スープの中から干しエビを一つ一つ丁寧に取り除いている。「柏木先生、今夜は本当にありがとうございました」「ああ」彼は短く応えると、俯いてワンタンを一つ口に含んだ。しかし、次の瞬間、まるで何か不味いものでも吐き出すかのように、眉間の皺を一層深くする。彼が頼んだのは「全部入り」で、様々な種類の餡が楽しめるものだった。しかし、運悪く最初に口にしたのがエビワンタンだったのだ。プチプチとした人工的な卵の食感と、安物のエビが放つ生臭さが脳天を突き抜け、律の表情が険しくなる。その冷淡で不機嫌そうな様子は、電話口で聞こえた、どこか悪戯っぽく「じゃあ、マンションのエントランスで待ってる」と囁いた声の主と、到底同一人物とは思えなかった。雫は彼の様子を見て、思わず忠告する。「あ、それと……その、皮が少し赤く透けて見えるのも、エビワンタンです。今日は来たのが遅かったから、もう残り物しかなくて。たぶん、先生の丼にも二つくらいは入ってるんじゃないかな」彼が、魚介類を好まないことを彼女は知っていた。かつての青木遥も知っていたし、今の霧島雫も、知っている。しかし、今の雫は、かつての、あの太った少女のように、彼の好みに合わせて甲斐甲斐しく世話を焼いたりはしない。以前の彼女の恋は、あまりにも病みつきで、卑屈すぎた。あの頃の自分から、今の自分にな
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第53話

雫が席に戻ると、そこに律の姿はなかった。彼女が座っていたのは窓際の席だ。古めかしいアルミサッシの窓ガラスには、数日前に降った雨の跡が筋状に残り、そこに埃が付着してこびりついている。雫は、ぼんやりと窓の外に目をやった。律が、店の外で煙草を吸っていた。男の身体は高く、そして引き締まっている。チャコールグレーの薄手のセーターが、広い肩幅と細い腰のラインを際立たせていた。深まる秋の夜風が、彼が吐き出した紫煙を瞬く間に吹き散らし、額にかかる短い髪を揺らす。律は目を細め、立て続けに二本目の煙草を吸い終えようとしていた。この七年という歳月で、お互い、本当に変わってしまったのだと雫は思った。昔の律は、こんなにヘビースモーカーではなかった。食事の途中で席を立ってまで、一服しに行くようなことは決してなかったはずだ。七年。時はあまりに速く流れ去った。目の前の男の容姿に、時の流れはまるで跡を残さなかったかのようだ。むしろ、年を重ねるごとに、その端正な顔立ちには深みと色気が増している。それに比べて、自分は……雫は、窓ガラスに映る自分の、どこか頼りない痩せた輪郭に目を落とした。もし、このまま「霧島雫」として、彼と他人行儀な友人でいられるのなら、それも悪くないのかもしれない。同じ街に暮らし、時々、偶然どこかで顔を合わせて、ごくありふれた友人のように、こうして一緒に食事をする。雫は、再び彼の姿に視線を向けた。彼は誰かと電話で話している。何を話しているのかは聞こえない。煙草を挟んだ指が、力なく垂れている。明るいとは言えない、埃をかぶった窓ガラス越しに、彼が指先で軽く灰を落とすのが見えた。煙草の先端の赤い光が、明滅を繰り返す。笑っていない時の、黙っている時の彼の顔は、ひどく冷たい。その冷ややかさは、骨の髄から滲み出してくるような、本質的なものに思えた。十一月の松崎市の夜は、もうすっかり冷え込んでいる。律は、短くなった煙草を携帯灰皿でもみ消した。電話の向こうの相手に、彼は低い声で告げる。「今、メッセージでナンバーを送った。調べておけ。あの運転手、たぶん常習犯だ。ライドシェアを隠れ蓑に、女性客相手にみだらな真似を繰り返してる。少し灸を据えてやれ」「了解です、律さん。それと、来週の土曜、セイジさんの結婚式ですけど、ベストマンをお願いしたいって。俺か
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第54話

「なら、どうして俺に電話した。あの運転手が、車を降りてマンションまで君を追うつもりだったことに気づいてたか。君と、姑さんと、それに娘さん……女しかいない家で、何かあったらどうするつもりだったんだ。あんな辺鄙な工場地帯へ夜中に出向くなんて、自分の身の安全を考えたことがあるのか」彼の表情は険しく、その眼差しは氷のように冷たい。「もし今夜、俺が来なかったら、どうなっていたと思ってる」雫は返す言葉もなかった。やがて、か細い声で絞り出す。「今夜のは、本当に、たまたまなんです……これからは、気をつけます」「君の旦那さん、M国で年収数千万稼ぐエリートエンジニアなんだろ。それなのに、奥さんが深夜まで身を粉にして働かなきゃならないなんて、どういうことだ。母親や娘が病気で苦しんでる時ですら、顔も見せないのか」律はじっと雫を見つめた。目の前の女は透き通るように肌が白い。だが彼の脳裏に焼き付いているのは、一時間ほど前、車から転がり落ちるようにして彼の胸に飛び込んできた時の、あの怯えきった、助けを求めるような瞳だ。フミさんが入院していた時も、杏の定期検診の時も、付き添いはいつも雫、ただ一人だった。律は当直の合間に、ナースステーションで看護師たちが噂話をしているのを耳にしたことがある。「17号室の佐藤フミさん、息子さんはすごく優秀で、年収数千万も稼ぐM国のエンジニアなんですって」と。彼は、一歩、彼女ににじり寄った。そして、その顔を覗き込むように身を屈める。「霧島さん。君は、あの男の妻なのか。それとも……タダで使える家政婦か」電話口で、貴之は言っていた。あの運転手は常習犯で、過去に強制性交等罪で服役した前科がある、と。深夜の冷たい風が、雫の頬を撫でていく。目の前に立つ、手が届きそうなほど近くにいる男。彼の影は、雫の全身をすっぽりと覆ってしまいそうだった。雫は、掌を強く、強く握りしめる。「柏木先生。これは、私のプライベートな問題です。私には私の仕事があって、真剣に取り組んでいます。今夜、残業でタクシーを使ったのは本当にたまたま……私が、パニックになって、冷静じゃなかっただけなんです。先生には、ご迷惑をおかけしました。本当に……助けていただいて、ありがとうございました」彼女が使う丁寧すぎる言葉の一つ一つが、よそよそしく、彼との間に見えない壁
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第55話

雫は何も言わなかった。大人の世界なんて、こんなものだ。昨夜味わった恐怖と苦痛を、たいして親しくもない異性が本気で理解してくれるなんて、期待するだけ無駄だ。彼女は当たり障りなく生地の件を話し、にこやかに電話を切った。「ママ、先生がね、来週みんなで遠足に行くんだって。ママも来てくれる?」朝食を済ませ、娘を学校へ送ろうと玄関を出たところで、杏が鞄から一枚のプリントを取り出して雫に手渡した。任意参加の同意書だ。今度の土曜日は久しぶりの晴天らしく、幼稚園では文化公園と植物標本園へ行く野外活動を企画しているらしい。チケットは園でまとめて購入してくれるという。雫は一瞬、参加させるのをためらった。娘の体に負担がかかるのが怖い。しかしその一方で、娘にはクラスに溶け込んで、楽しい思い出をたくさん作ってほしいと願う気持ちもあった。雫はすぐに返事をせず、しゃがみ込んで娘の髪を優しく撫でた。「杏ちゃんは、行きたい?」「うん。湊くんと約束したの。湊くんのパパとママも一緒に来るんだって」杏は期待に満ちた瞳で雫の手をぎゅっと握りしめる。「ママも一緒に来てくれる?先生、パパとママも連れてきていいよって」娘の屈託のない笑顔を見て、雫はこくりと頷いた。「……うん」娘を幼稚園に送り届け、L&Mデザインスタジオに戻ると、雫はデスクに腰を下ろしてようやく一息ついた。水を一口飲んだ、その時だった。スマートフォンの画面が光り、メッセージの着信を告げる。湊からだ。( • ̀ω•́ )✧君だけの王子様✧:「雫おばさん、土曜日、杏ちゃんと一緒に来る?」「うん」と返信し、雫は続けてスタンプを送った。「湊くんも、パパとママと一緒に来るの?」( • ̀ω•́ )✧君だけの王子様✧:「うん。パパは一緒だけど、ママはすっごく仕事が忙しいんだって」杏、すこやかに:「よしよし」( • ̀ω•́ )✧君だけの王子様✧:「🌹🌹🌹」金曜日の夜。柏木家。湊はトイレに籠城し、この世の終わりのような大声で泣きじゃくっていた。律が実家の玄関をくぐった途端、その泣き声が耳に飛び込んでくる。「どうしたんだ」悠美が、トイレのドアを叩いていた。「湊くん、泣かないで。おばあちゃん、今すぐママに電話してあげるからね」ソファに腰かけた洋治は、こめかみを揉みなが
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第56話

おばあちゃんが付き添う、という言葉を聞いて、湊はふんと鼻を鳴らしながら便座から飛び降り、ばたんとドアを開けて出てきた。しかし、まだ泣き声は止まらない。「……プルダックポックンミョン、どこ?」悠美は慌てて湊の涙を拭う。「まあ、そんなことで泣かないの。明日はおばあちゃんが一緒に行ってあげるから。ね?キッチンにプルダックポックンミョンがあるし、安田さんが湊くんのためにフライドチキンも作ってくれたわよ。大好きなハニーマスタードソースもつけてね」悠美は、この孫が目に入れても痛くないほど可愛かった。この広い柏木家で、孫の代にあたるのは、長男の家の詩織と、この湊の二人しかいない。だが、その内実は複雑だった。長男の健人は、そもそも洋治の亡き親友の忘れ形見であり、柏木家の養子である。その健人と妻の志穂が、長く子宝に恵まれなかった末に施設から引き取ったのが詩織なのだ。血の繋がりはないとはいえ、もちろん大切な孫には違いなかったが。そして、跡取りであるはずの末の息子、律は、結婚どころか恋人の影すらない。悠美が、いつか律の腕に抱かれた、正真正銘の「柏木家の孫」の顔を見られる日は、永遠に来ないのかもしれない。だからこそ、娘が生んでくれたこの腕白な外孫、湊の存在が、何物にも代えがたい宝物なのだ。普段から何かと甘やかし、あれこれと食べさせては、その体をまんまるにさせていた。悠美は愛おしげに頷くと、孫の手を引いて夜食を食べにキッチンへと向かった。翌朝。悠美は、遠足のために動きやすいカジュアルな服装に着替えた。しかし、寄る年波には勝てない。階段を降りる途中、彼女はぐらりと体勢を崩し、足を捻ってしまった。「奥様、大丈夫でございますか」家政婦の安田が、慌てて駆け寄り悠美を支える。「わーい、きょうはえんそくだー!」小さなリュックを背負った湊が、スキップでもしそうな勢いで階段を降りてきた。遠足に行けること、雫おばさんに会えること、そして美味しいお弁当が食べられること。楽しみなことばかりで、胸がいっぱいなのだろう。しかし、祖母の苦しげな声に気づくと、ぱっと表情を変えて駆け寄ってくる。「おばあちゃん、どうしたの?大丈夫?」「だ、大丈夫よ、おばあちゃんは平気……、いったたた……!」孫を安心させようと笑顔を作ったものの、一歩踏み出した
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第57話

悠美は息子を睨みつけた。その言い草、先程の洋治とそっくり!まったく、どこまで似た親子なのだろうか。「私の足、こんなになっちゃったし……あなた、今日は忙しいの?いつも仕事で疲れてるでしょうから、ちょうどいいじゃない。湊くんと一緒に外へ出て、気分転換でもしてきたら」「いや、忙しい。今日はセイジと貴之に会う約束があるんだ」「セイジくん、結婚するんですってね。この間、招待状が届いてたわよ。見てごらんなさい、あの子はあなたより一つ年下でしょうに。桐生さんちの息子さんも、最近、堂島さんところのお嬢様とずいぶん親しいみたいだし、そろそろ何かあってもおかしくない頃よねぇ」「おばあちゃん」湊は悠美の腕を掴んでぶんぶんと揺らす。そんな話は後にして、早く叔父さんを説得してくれ、と目で訴えかけていた。悠美は一つ咳払いをすると、湊を安心させるようにちらりと見た。そして、目の前の律をキッと睨みつける。むっとした顔で言い放った。「いいから、あなたが行きなさい!この母親の頼み一つ、聞けないって言うの!」「……わかったよ。言う通りにする」湊はぱっと顔を輝かせ、手を叩いて喜んだ。律の気が変わらないうちにと、一目散に外へ駆け出し、停めてあった彼の車に乗り込んでしまう。律は二階に上がると、ラフな私服に着替えた。今日は気温も丁度いい。黒いジャケットに、インナーは同色の薄手のセーターだ。安田が氷嚢を持ってリビングへ戻り、悠美の足首を冷やしながら、にこやかに言った。「律様、今日のお姿は本当にお若く見えますわ。まるで大学生のようです。旦那様と奥様の良いところばかり受け継がれて……さぞ、お嬢様方に人気でございましょうね」洋治はフンと鼻を鳴らしたが、内心では安田の言葉に同意していた。彼は悠美に「友人と釣りに行く」とだけ告げると、すっと立ち上がり家を出て行った。悠美は、もう足首の痛みなど忘れていた。「あの子は昔から、本当にきれいな顔をしててねぇ。でも、天使みたいなお顔のくせに、とんでもない腕白坊主だったのよ。静華のお下がりの服を着せてたんだけど、ピンクのワンピースなんか着せても、それがまたよく似合ってねぇ。本当に可愛かったわ。むしろ、兄の然の方が、もっとこう……きりっとした顔立ちでね……」そこまで言って、さっきまで上機嫌だった悠美は、ふっとため息を
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第58話

幼稚園の正門前には、数台のスクールバスがクラスごとに停車していた。雫と娘の杏がバスの座席に収まっていると、午前八時十分、先生が点呼を始め、遠足の注意事項を伝え始めた。そして八時十五分になった頃、律が湊を連れて遅れてやってきた。二人はクラスで最後の到着だった。今日のバスは満席ではなく、何人か欠席の園児がいたため、ぽつぽつと空席が目立つ。律は湊を連れて、まっすぐ雫たちの後ろの席へ向かい、腰を下ろした。「雫おばさん」湊がさっそく雫に声をかける。「杏ちゃん、お土産持ってきたんだよ。それに、面白いものもいっぱいあるんだ。ねえ、一緒に遊ばない?」杏が雫を見上げる。「ママ、湊くんと一緒の席に座ってもいい?」雫はきゅっと唇を結んだ。けれど、期待にきらきらと輝く娘の瞳を前にしては、否とは言えない。彼女は静かに立ち上がった。視界の端で捉えた律も心得たように、湊が出てきやすいよう長い脚を引いてくれる。その時、彼の整った横顔も嫌でも視界に入ってしまった。雫は、湊が座っていた席——つまり律の隣には座らなかった。幸いバスには他にも空席がいくつかある。雫は離れた場所にある空席を見つけ、そっと腰を下ろした。自分の行動が、いかにも彼を避けているようで、あまりにもあからさまで、ぎこちないものに思える。心の中で、かすかなため息をつくことしかできなかった。-八時半、バスはゆっくりと動き出した。午前九時二十分、一行は目的地の松崎カルチャーパークに到着した。学校が一括でチケットを購入し、バスを降りた園児たちはクラスごとに列を作って入園ゲートへと向かう。その列の中で、湊がふと髪をかきながら言った。「雫おばさん、さっきどうして叔父さんの隣に座らなかったの?」雫はぴしりと身体をこわばらせた。「え、えっと……わ、私は……」まさかそんなことを訊かれるとは思わず、言葉に詰まる。子供の世界に大人の事情など通用しない。湊にしてみれば、ただの純粋な疑問なのだろう。「あなたの叔父さんが、脚をどけてくれなかったから……邪魔しちゃ悪いなって」ふん、と鼻で笑う声がした。雫のすぐ後ろ、頭上から降ってくる。彼女は思わず首をすくめ、ばつの悪さにぎゅっと目を閉じた。「叔父さん、どうして雫さんにちゃんと席を譲ってあげなかったの?」湊の追及は止
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第59話

「別に。君を理不尽だと言ったわけじゃない」雫は弾かれたように顔を上げ、律をちらりと見た。その瞬間、彼女の手の甲を覆っていた律の乾いた手のひらが、きゅっと力を込めて、その手を握りしめた。灼熱の電流が、二人の触れ合った肌の間を駆け巡ったかのようだった。雫は、はっと息を呑む。ぐいっと腕を引かれた。雫は前によろめき、危うく彼の胸に飛び込むところだった。「すみませーん、ちょっと通してくださいね、ごめんなさい」一人の保護者が子供を連れて、雫の前に並んでいた別の保護者と話すために、列の間に割って入ってきた。その保護者は雫も顔見知りで、入園してすぐの懇談会で一度挨拶を交わしたことがあった。杏も相手の子供ににこやかに手を振っている。その保護者はくすくすと笑いながら言った。「あら、霧島さん。ええと、こちらは湊くんのお父さんよね?お二人、お知り合いだったのね」そしてその視線は、雫と律が握り合ったままの手に、ぴたりと注がれた。手まで繋いで、ただの知り合いではないのだろう、とでも言いたげな、詮索するような眼差しだった。雫ははっとして、慌てて手を振り払った。「そ、そんなに親しいわけじゃ……!」そう言った瞬間、背後から突き刺さる視線が一層重くなった気がした。低く、感情の乗らない男の声が、耳元に落ちてくる。「へえ。先週の夜は俺を『あなた』とまで呼んだのに、今日は『親しくない』、か」雫の全身が、ぴしりと凍りついた。割って入ってきた保護者は、意味ありげに微笑むだけだ。「まあ、わかるわよ」と言わんばかりのその生温かい視線に、雫は気まずく笑い返すしかない。どんな言い訳も、空しく響くだけだろう。「お父さんじゃなくて、僕の叔父さんだよ!」湊が訂正した。「ねえ、雫おばさん。叔父さんと、ちゃんと仲直りできた?」湊はこてんと首を傾げて、真剣な顔で尋ねてくる。まるでそれが、世界で一番大切なことであるかのように。雫おばさんのことが好きだった。だから、もし雫おばさんが叔父さんのことを嫌いだったら、それはとても困るのだ。叔父さんはいつもは冷たくてちょっと怖いけど、本当はすごくすごく優しい人なのだから。湊がここまでこの一件にこだわるとは思っていなかった雫は、この男の子の小さな頭の中に一体どんな世界が広がっているのか、皆目見当もつかなか
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第60話

湊は、両親である准と静華から、そして祖父母から惜しみない愛情を注がれ、柏木家で大切に育てられてきた。「誰かに何かをしてもらったら、自分もその人のために何かをしてあげなさい」そう教えられてきたのだ。これって、何て言うんだったかな。「持ちつ持たれつ」、だ。「あ、あの……けっこうです」雫が唇を引き結び、そう断りの言葉を口にする前に、律はもう彼女の隣に立っていた。湊は杏に手招きをして、にこっと笑いかける。「後で、杏ちゃんと叔父さんの写真も撮ってあげるからね!」こうすれば公平で、みんながお揃いの写真を持てる。僕って、天才かも!と湊は思った。「うん、いいよ!」杏は嬉しそうに頷いた。まさか、自分が律と一緒に写真を撮ることになるなんて。雫は思ってもみなかった。男は片手をポケットに突き刺している。もう片方の腕は自然に下ろされ、その指先が、ほんの一瞬、雫の手に触れた。ひやりとした指の骨の感触。雫は無意識に手を後ろに隠そうとし、そっと息を殺して、まっすぐ前を見た。湊が真剣な顔でスマートフォンを構えている。「叔父さん、笑ってよー」男はかすかに口角を上げた。「雫おばさんも、笑って笑って」雫は、まるで何かの指令を受けたかのように、AIのようなぎこちない笑みを浮かべた。彼の肩と自分の肩が、ほんの十センチしか離れていない。視界の端に、彼の横顔の輪郭が映る。それが、あまりにも鮮明で——湊は次に、杏と律の写真を撮り始めた。律は素直に応じ、その場にしゃがみ込むと、女の子の髪にそっと触れた。子供の髪は驚くほど柔らかく、まるで上質な絹のようだ。律は無意識に、その小さな頭をくしゃりと撫でていた。素直で可愛らしい、瞳のきれいな子だ。だが、その華奢な体つきが、どうにも痛々しく映る。「体調はどうだ。辛くなったら、ちゃんとおじさんに言うんだぞ」そう言った後で、律ははっとした。自分の声が、柄にもなく甘くなっていることに、今さらながら気づいたのだ。どうやら自分は、この小さな女の子が、案外気に入っているらしい。律自身、自分が人当たりがよく、話のわかる人間だとは到底思えなかった。病院では、外来で多くの患者を診ているが、「態度が冷たい」「愛想というものがない」とクレームを入れられたことさえある。ましてや、数回会っただ
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