Semua Bab 霧の中、君という雫: Bab 61 - Bab 70

100 Bab

第61話

「叔父さん、僕たちもお花見に行こうよ」女の、あからさまに自分を避けていくような後ろ姿を目で追いながら、律は眉間に皺を寄せ、内心に燻る焦燥感を抑えつけた。「行かない」「えー、でも僕、見たいよぉ」律は湊のぽっちゃりとした肩を掴み、その身体をくるりと後ろに向かせた。「お前、二号館でお菓子を買いたいんじゃなかったのか?あっちにはお菓子がいっぱいあるぞ」湊はぺろりと唇を舐め、食い意地には勝てなかったらしい。「……じゃあ、そっちにする」相手がこれほど線を引きたがるのなら、それでいい。そう律は思った。元々、自分たちの間にたいした関係なんてありはしない。医者と、患者の家族。ただそれだけだ。確かに、彼女には少し興味があった。どこか、知っているような……そんな感覚があったし、見た目も悪くない。だが、向こうには夫も子供もいて、自分に対してはっきりと壁を作っている。そんな相手に、これ以上自分から関わっていく意味があるのか。「親しくない」、か。……その通りだ。元より、親しくなどない。二号館にたどり着くと、そこは菓子類が集められたフードエリアだった。百以上もの小さなブースが軒を連ね、様々なスナックや土産物が売られている。値段は外の倍以上はするが、子供を連れた親の多くは、その要求に結局は応じてしまう。今どき、子供の楽しみを無下に奪うような野暮な親はそういないのだ。特に、この世代の親は。律は湊のスマートウォッチにニ千円をチャージしてやると、好きなものを自分で買うように促した。「叔父さん、アイス食べたい」律が眉をひそめる。だが、彼が何か言う前に、湊が大げさな身振りで額の汗を拭ってみせた。「叔父さん、今日すっごく暑いよ。汗もかいちゃったし、アイス食べてもいいでしょ?」律が仕方なさそうに頷くのを見て、湊はぱっと顔を輝かせると、カウンターに向かって背伸びをした。「おばちゃん、アイス四つください!僕はイチゴ味!叔父さんは何がいい?」男の子はこてんと首を傾げて、律を見上げた。律は「俺はいらない。三つでいい」と答えた。「じゃあ、叔父さんの分は僕が食べてあげる!」湊はそう言うと、スマートウォッチで雫に電話をかけた。電話に出たのは杏で、湊は彼女に好きな味を訊ねている。「おばちゃん、ピスタチオのソースのやつ、二つ追加で!」店員
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第62話

湊は無意識に唇を尖らせた。「えっと……ピーナッツだよ。杏ちゃんが教えてくれたんだ。杏ちゃんもママも、二人ともピーナッツアレルギーなんだって」叔父さんの顔が、なんだかすごく怖くなっている。「お、叔父さん……?」どうしちゃったんだろう。ちょうどその時、店員が三つのアイスクリームを差し出した。湊は自分の分を受け取ってさっそく食べ始め、残りの二つは保冷バッグに入れられる。律は湊の襟首を掴むようにして近くのテーブル席に座らせると、低い声で言い聞かせた。「ここで食べてろ。叔父さんが戻るまで、絶対にどこへも行くな。わかったな?」「うん」食べ物さえあれば、湊はどこかへ行ってしまうような子ではない。律はその場を後にした。数歩進むうちに、その足取りはどんどん速くなっていく。一号館と二号館は少し離れている。彼は一号館まで駆け戻った。激しく上下する胸を押さえ、律は固く拳を握りしめる。行き交う人々を茫然と見渡し、必死に人混みの中を探した。深く、息を吸う。胸に、冷たい風が吹き抜けるような感覚。内から湧き上がる震えを、どうしても抑えきれない。脳裏に、ある一つの考えが、あり得ないほど大きく膨れ上がっていく。彼はそれを、捕らえようとした。馬鹿げている。そう思うのに、その考えから逃れられない。もしも……もしも、本当に。その時、律の目に、人波の中に浮かぶ淡いブルーの影が映った。淡いブルーのニットを着て、黒く長い髪を肩まで垂らした、女の後ろ姿。彼は、奥歯を強く、強く噛み締めた。そして、その背中に向かって、声を張り上げた。「青木遥———ッ!」女は、振り返らない。数メートルの距離。周囲の人間が、何事かと彼に視線を向ける。律は数歩で駆け寄ると、力任せに女の腕を掴み、ぐいっと引き寄せた。だが、その顔を見て、眉をひそめる。雫ではなかった。見知らぬ女が、驚いたように律を見上げている。「な、なんなんですか、あなた」律ははっと手を離し、低く呟いた。「……すみません」男は、急速に冷静さを取り戻していく。なんて馬鹿げた真似をしてしまったんだ、と。同じ、ピーナッツアレルギーだというだけで。なぜ自分は、霧島雫を、青木遥だなどと思ったのか。そんなこと、あり得るはずがない。体格からして違う。遥は、彼
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第63話

律の視線が、その羽の生えたうさぎに落ちる。——やけに、見覚えがあった。どこか投げやりで掠れた声が響く。「知り合って何日だって言うんだ。そんな簡単にプレゼントなんてしてると、女に騙されるぞ」「女の子には、こうやってアタックするんだよ」湊は「叔父さんはわかってないなぁ」と言いたげな顔をしたが、いかんせんお小遣いはママに取り上げられている。仕方なく、律の腕にすがりついて揺らした。「叔父さん、お願い!ね、いいでしょ?それに、雫おばさんは僕を騙したりしないもん」そして、こう付け加えた。「女の人に騙されたのは、叔父さんの方でしょ」踊るうさぎをじっと見つめ、律は眉をひそめると、湊の頭にぽんと手を置いた。フン、と鼻で笑う。「誰のデザインだ、これ。うさぎに蜂の羽なんて」「こちらは今年のヒットデザインでして」店員はにこやかに答えた。「とても可愛らしいと、若いお客様に大変ご好評で、当店の売上ナンバーワン商品なんですよ」男は片方の口角を歪めた。その声には、冷ややかな響きが混じる。「不格好だな」七年も前からあるデザインを、よくもまあ今年のヒット作だと言えたものだ。叔父さんの機嫌が良くないのを悟り、湊は今日お金を借りるのはもう無理だと諦めた。頬杖をつきながら、帰ったらおばあちゃんにお願いしよう、おばあちゃんならきっとくれるはずだ、と心の中で算段を立てる。全部ママのせいだ。お小遣いを止められただけならまだしも、貯金箱の中身までごっそり持っていくなんて。おかげで、好きな女の子にプレゼントも買ってあげられない。はぁ……男って、お金がないとつらいなぁ!店員の口元が、ぴくりと引きつった。こんなに格好いい人なのに、なんて言い草……それに、美的感覚どうなってるの?絶対可愛いのに。店内は混み合っており、店員はすぐに別の客の対応に向かった。湊はショーケースに身を乗り出して他の木製品を眺め、スマートウォッチの残高をちらりと確認すると、木製のブロックでできた一輪のバラに狙いを定めた。値段は、ちょうどぴったりだ。その時、不意に顔を上げた湊の目に、見慣れた姿が飛び込んできた。「雫おばさん!」湊がいるということは、律もいる。雫はそう悟った。それでも、娘の手をしっかりと握り、その木工芸品の店へと足を踏み入れた。店内には多くの
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第64話

窓の外の景色が、夕焼け色から深い夜の闇へと移り変わっていく。ふと、雫は凝った首筋を揉みほぐした。その時、パソコンの画面の隅で、メッセージアプリの通知が点滅した。( • ̀ω•́ )✧君だけの王子様✧:「雫おばさん、今忙しい?」杏、すこやかに:「湊くん、もう大丈夫?お腹、まだ痛い?」( • ̀ω•́ )✧君だけの王子様✧:「うん、もうすっかり元気だよ。午後に点滴、三本も打ったんだ」杏、すこやかに:「湊くん、えらかったわね!」雫は、可愛らしいキャラクターがサムズアップしているスタンプを一つ送った。( • ̀ω•́ )✧君だけの王子様✧:「雫おばさんって、ニックネームとかある?」関係を深めるには、まず呼び方からだ、と湊は考えたのだ。( • ̀ω•́ )✧君だけの王子様✧:「僕のこと、レオって呼んでくれていいよ。叔父さんたちもそう呼ぶんだ」雫に、これといったニックネームはない。祖父母だけが、昔、彼女のことを「遥ちゃん」と呼んでいたけれど。彼女が黙っていると、湊がさらにメッセージを送ってきた。( • ̀ω•́ )✧君だけの王子様✧:「雫おばさん、じゃあ僕、雫おばさんのこと『しずくちゃん』って呼んでもいい?」杏、すこやかに:「もちろん、いいわよ!」( • ̀ω•́ )✧君だけの王子様✧:「今まで、誰かにそう呼ばれたことある?」杏、すこやかに:「ううん、ないわ。レオくんが初めてよ」雫は夕食の最中だった。杏が眠っているので、自分も手早く済ませようと、インスタントラーメンを一つ、鍋で煮たのだ。しかし、一口啜ると、なかなかの辛さだった。メッセージの向こうで、湊もインスタントラーメンが食べたい、それも激辛のブルダック麺がいいと言う。どうして今の子は、ああいうのが好きなのだろう、と雫は不思議に思う。杏も好きなのだ。だから雫も、たまに自分のために一袋だけ作り、杏にも少しだけお裾分けしてやることがある。湊のことが、雫はとても好きだった。むちむちした頬、利発そうな顔立ち、そして可愛らしさ。もし、自分の息子が生きていたら……今頃、この子くらいの歳だったのかもしれない。湊とのチャットに夢中になっているうちに、雫はラーメンをほとんど食べ終えていた。( • ̀ω•́ )✧君だけの王子様✧:「しずくちゃん、
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第65話

雫の声を聞いた湊は、必死に爪先立ちになり、律の手からスマートフォンを奪い返そうともがく。男は、薄く唇の端を吊り上げた。細く長い黒い瞳に、悪戯っぽい笑みが宿る。「レオ、お尻はちゃんと拭けたのか?叔父さんに見せてみろ」湊は、小さな拳をぎゅっと握りしめた。「叔父さんっ!」もし湊の顔色を色で表現できるなら、それは間違いなく豚のレバーのような赤黒色だろう。元凶である男の笑みは消えない。湊は恥ずかしさのあまり、布団の中に潜り込んで自分を抱きしめた。叔父さんなんて、大っ嫌いだ!小さい頃から、おばあちゃんに「おじちゃんみたいに格好良くなるのよ」と言われて育ってきたけれど、その叔父さんが、好きな女の子の前で自分に恥をかかせるなんて。男としての尊厳が、木っ端微塵だ。今日一日、もう叔父さんとは口を利かない。湊は固く心に誓った。ベッドの上で「さなぎ」と化した甥を一瞥し、律はこめかみを押さえ、手元のスマートフォンに視線を落とした。二人の視線が、空間でゆっくりと絡み合う。まるでスローモーションのように。時計の針が時を刻む、かすかな音だけが響く。雫が、彼を見つめている。男の目尻はわずかに上がり、その眼差しは深い。そこには、まだ消えやらぬ笑いの色が浮かんでいた。それは、家族といる時にだけ見せる、彼の自然な笑み。雫はわずかに視線を逸らした。何を言えばいいのか、わからない。ビデオ通話を切ろうとした、その時。「佐藤フミさんが退院されて、一ヶ月が経ちましたね」律が言った。「一ヶ月薬を服用されたので、一度来院していただいて、採血と頸動脈エコーでプラークの状態を確認した方がいい」「……はい」雫は答える。「柏木先生、お知らせいただきありがとうございます」今の彼は、本当にただ患者の家族に指示を出す、一人の医師だった。平坦な顔つき、落ち着いて、整然とした声色。律は静かに頷いた。通話が切れる。彼はスマートフォンを湊の傍らにそっと置くと、布団の上から、丸まった甥のお尻をぽんと叩いた。「水、ベッドサイドに置いとくぞ。ちゃんと飲め」湊は返事をしない。律が部屋を出ていくと、湊はもぞもぞと布団から這い出し、スマートフォンを手に取って、真剣な面持ちでメッセージを打ち込み始めた。「しずくちゃん、叔父さんの言ったこと、気にしないで
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第66話

雫が知る限り、柏木家には息子が二人。長男の健人と、そして律だけのはずだった。「二人目の叔父さんは、もういないんだ。僕、生まれた時から会ったことないんだけど、おばあちゃんが言うには、すっごくハンサムで、優しい人だったんだって。僕くらいの歳の時に、いなくなっちゃったの。誘拐されて」生死に関わる話は、いつだって感傷を伴う。だが、男の子にその実感はないようだった。湊は、祖母である悠美から伝え聞いた話を、ただそのまま話しているだけだ。名家の秘められた過去。それが、小さな男の子の口から、何のてらいもなく語られる。湊はすぐにその話題を放り出し、まるで楽しげな小鳥のように、今度はアニメの話へと移っていった。雫は、ふと目を伏せた。律の、憔悴しきった姿を見たことがある。大学一年の時のことだ。彼のマンションで、雫は一晩中、彼を待っていた。夜が白み始めた頃、ようやく彼は帰ってきた。全身が、じっとりと湿っていた。その日は雨など降っていなかった。ただ、外には深い霧が立ち込めていただけだ。彼はどこか、霧深い場所で一夜を明かしたのだろう。濡れた黒髪、虚ろな瞳。帰宅するなり、一言も発さずにベッドに倒れ込んだ。その日、雫には講義があった。朝食の準備だけして、テーブルの上に置いておく。昼過ぎに、雫が彼の部屋に戻ると、テーブルの上の食事は、とっくに冷え切っていた。律は、熱を出していた。固く閉じられた目。赤く上気した頬。だが、その赤みはどこか薄く、弱々しさが滲んでいる。薄い唇が、何かを呟くように、かすかに開閉していた。雫がそばに寄り、耳を澄ますと、掠れた声が聞こえた。「——死ぬべきだったのは、俺だ」あの夜、雫は一晩中、彼のそばに付き添った。薬を飲ませても、吐いてしまう。半ば夢うつつの中で、雫が薬を差し出す手を掴むと、掠れた声で「失せろ」と吐き捨てた。物理的に熱を下げるしかない。雫はアルコールを探し出し、彼の体を拭いてやろうとした。だが、彼はひどく抵抗した。高熱で弱っているとはいえ、昨日から何も口にしていないのだろう、胃の痛みに顔をしかめ、ベッドの上で体を丸めている。差し出した水さえも、その手で払いのけられた。シーツに、じわりと水染みが広がる。いつもの涼やかで穏やかな面影は、どこにも
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第67話

松崎市は十二月に入り、一週間も小雨が降り続いていた。しとしとと、止む気配もない。雫は、仕事の終わりがけ、タクシーを拾おうとした。だが、この前の出来事が、心の隅に影を落としている。結局、雫は地下鉄で帰ることにした。オフィスビルから地下鉄の入り口までは、普段なら歩いて五分。けれど、雨のせいで、七、八分はかかりそうだ。傘を差し、ライトグレーのコートを着ていても、雨を含んだ外気の冷たさは防ぎきれない。視界は、ぼんやりとした水蒸気に覆われている。コートの裾も、跳ね返る雨粒に濡れて、じっとりと重かった。雨が横殴りに吹き付けてくる。雫が足を速めたその時、不意に背後から、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。幻聴だろうか、誰かが自分の名前を呼んだような気がした。北国の晩秋。雨粒を孕んだ風が、頬に冷たく湿った感触を残していく。風は強く、傘を大きく揺らした。バッグの中でスマートフォンが震える。雫は俯いてそれを探すが、じっとりと湿った天気は、何をするにもわずかな苛立ちを掻き立てるようで、思うようにいかない。ようやく、手の中に収まった。湊からの、ビデオ通話の着信だった。雫が、それに応答するよりも早く。背後から、ハイビームの強い光が投げかけられ、彼女の影をアスファルトにくっきりと描き出した。振り向いた雫の視界を、目がくらむほどの白い光が支配する。眩しさに目を開けていられない。車が近づくにつれて、じわりとした熱気が肌を撫でた。見慣れたナンバープレート。そして、運転席に座る男の姿。ワイパーが拭うフロントガラスの向こう、男の顔の輪郭は、雨の中でも冷たく、そして鮮明だった。ひょこりと窓から顔を出した湊が、子供らしい高い声で叫ぶ。「しずくちゃん!遠くからでもすぐわかったよ! 早く乗って、すごい雨だよ!」雫は、車に乗り込んだ。車内は暖房が効いて温かい。けれど、それとは対照的に、どこか冷たさを感じさせる清涼な香りがふわりと漂っていた。ふと顔を上げると、律の冷ややかな横顔が目に入る。彼女が乗り込んだ瞬間、男はすでに車を発進させていた。雫は、思わず唇を開く。「あの、前の地下鉄の駅で……」だが、その言葉は彼の耳には届いていないかのようだった。無言で、カーステレオのスイッチを入れる。黒のマイバッハは、あっと
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第68話

そして、雫の腕の中へと縮こまった。雫は、そんな彼の背中を優しくぽんぽんと叩いてやる。もちろん、律がたくさんラブレターをもらっていたことなど、雫は知っていた。だって、自分も渡したことがあるのだから。「しずくちゃんは、男の子にラブレターあげたこと、ある?」「……うん」雫は少し考えて、それでも、こくりと頷いた。律が、バックミラーに視線を上げた。鏡に映る女のまつ毛が、伏せられている。蝶の羽のように、細やかで密だ。見知らぬ女が一人入ってきただけで、車内の空気が一変したようだった。ふわりと漂う、甘く柔らかな香りが、まるで人の首を絞める細い糸のように、空間に張り詰めている。律は、前方に視線を戻した。フロントガラスの上を、蜿蜒と流れていく水の筋を、ただじっと見つめていた。マンションのエントランスに着くと、雫は車を降りた。そして湊に手を振ると、微笑んで一言添えた。「柏木先生、ありがとうございました」その言い方は自然で、声の調子は柔らかい。瞳にも、かすかな笑みが浮かんでいる。律は、まだ閉じきっていない窓から彼女を一瞥する。雨粒が車内に吹き込んできて、彼は無言で窓を閉めた。そして、車を走らせた。湊は、真剣な顔つきだ。「叔父さん、僕わかってるんだからね。僕としずくちゃんを引き離そうとしてるんでしょ」律は何も言わず、手のひらで軽くハンドルを操り、右のウィンカーを出す。「でも、僕は諦めないから!叔父さんがいくら邪魔したって、僕としずくちゃんの仲は引き裂けないんだからな!」律は、この子が家で悠美とどんなメロドラマに夢中になっているのやら、と眉をひそめた。湊は、なおもぺらぺらと自分の素晴らしい恋物語を熱く語り続けている。律は、ただ一言。「今度、学校の保護者会があっても、俺を呼ぶなよ」その一言が、湊の急所を的確に突いた。男の子は、ぴたりと黙り込んだ。そして、きゅっと首をすくめる。この小さな厄介者を柏木家に送り届けると、律はすぐに帰ろうとしたが、母親の悠美に引き止められた。「こんなに雨が降っているんだもの。今夜は泊まっていきなさいな」「ネモが家にいるんで、帰ります」悠美は彼の腕を掴む。「聞いたわよ、誠司さん、今週末に結婚なんですって?あなたも自分のことを少しは考えなさ
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第69話

律の幼馴染たちが、近々結婚式を挙げる伊達誠司のために、前祝いとして集まっていた。誠司の式は土曜日。その週の水曜のことだった。その場には、律の姿もあった。メンバーは物心ついた頃からの腐れ縁である桐生貴之、加賀序、そして主役の誠司だ。気心の知れた仲間といると、律も珍しく気を許し、酒が進む。窮屈さとは無縁の時間だった。「お、詩帆さんじゃないか」誰かが声を上げた。すかさず誠司が律の肩を叩き、他の連中もニヤニヤと目配せを交わす。律は、フンと鼻で笑った。ソファに深く腰掛け、足を組んでいる。酒が回っているせいか、普段よりも幾分力が抜け、気だるげに瞼を上げて、自分の方へ歩いてくる女に視線を向けた。篠宮詩帆は美しい。そのメイクも、非の打ち所がないほどに完璧だ。彼女は頰を淡く染め、はにかんで俯きながら彼の隣に腰を下ろした。「律さん、そんなに飲んだらまた胃が痛くなるわよ。少し控えなさい」誠司の婚約者である桐生日和(きりゅう ひより)が、笑って茶々を入れる。「もう律さんの心配?詩帆ちゃん、顔真っ赤だよ」「もう、日和ちゃんったら」詩帆が拗ねたように言う。その潤んだ瞳は、まっすぐに律に向けられていた。黒いシャツのボタンを二つ開け、片手でソファの肘掛けに体重を預け、もう片方の手ではグラスをゆっくりと揺らしている。相当飲んだのだろう、色白の肌が薄紅色に上気していた。僅かに目を細め、どこか投げやりな雰囲気で。それが、たまらなく色っぽい。普段の、人を寄せつけない冷たいオーラが消え失せている。その姿に、詩帆の心臓は激しく高鳴った。やんややんやと囃し立てる声に後押しされ、誠司と日和が熱いキスを交わす。この場にいるのは、皆、幼い頃から共に育ってきた気心の知れた仲間たちだ。そのほとんどがパートナーを連れてきている。そんな中、誰かが叫んだ。「次は、いよいよ律さんの番か!」律は柏木家の三男。この親しい仲間うちでさえ、彼の家柄は頭一つ抜けている。だから、友人たちは決して呼び捨てにせず、常に「さん」を付けて呼ぶのが暗黙の了解だった。柏木家の威光もあってか、数歳年上の者でさえ、敬意を込めて彼をそう呼ぶ。それが、この世界での暗黙のルールだった。このコミュニティの人間は、その輪の中で相手を見つけ、添い遂げるのが常
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第70話

隣のクラスどころか、十年以上も経てば、同じクラスの者でさえ、顔と名前が一致しないことなどざらだ。律も、目の前の男に見覚えはなかった。だが、同じ高校だったと言われれば無下にもできず、彼は口の端を引いて微かに笑みを返す。「中村朗(なかむら あきら)です。二組で体育委員をやってました」朗は笑いながら、両手で名刺を差し出した。律がそれを受け取ると、男は名刺を指先で弄びながら、ふと眉をひそめ、何気ないそぶりで尋ねた。「お前のクラスに、榎木雫っていう女子、いなかったか」「榎木……雫、ですか」朗は数秒考え込んだ。「ああ、いましたね。俺の後ろの席でした」実のところ、朗に榎木雫という生徒の記憶はほとんどなかった。そういう名前の人間がいた、という程度で、どんな顔だったかまでは思い出せない。だが、律が尋ねてきたからには、覚えていると答えるのが正解だ。せっかく掴んだ柏木家の御曹司との会話の糸口。朗は必死だった。律がなぜ突然、榎木雫のことなど尋ねるのか見当もつかなかったが、すぐさま当時のクラスメイトに電話をかけ、あちこち聞き回った。そして、宴も終わりに近づいた頃、調べ上げた情報を律に報告した。「榎木雫、今も松崎市にいるみたいです。実家は汲塚町だとかで、数年前に結婚して、旦那さんが松崎の人だから、こっちに残ったそうですよ。もしお会いになりたいようでしたら、俺が連絡を取りますが」コートを腕にかけ、律は立ち上がって出口へ向かっているところだった。今夜は少し飲みすぎたせいか、頭がずきずきと痛む。二、三歩、歩いたところで朗の言葉が耳に届き、ぴたりと足を止めた。朗は、律の顔色をそっと窺う。相手の表情は凪いでいて、何の感情も読み取れない。ただ眉間を揉んでいるその様子は、まるで今しがた自分が口にした榎木雫という名前に、もう興味を失ってしまったかのようだった。-律が家に帰り着くと、愛犬のネモが足元に駆け寄り、頭を擦り付けてきた。律の視線は、テーブルの上に置かれたままのオルゴールへと注がれる。ウサギのモチーフは、どこか愛嬌があり、少しだけ滑稽にも見えた。ぜんまいを巻けば、どこか懐かしいメロディが流れる。彼はそのオルゴールを手に取ると、無言で引き出しの奥へとしまい込んだ。全身の力が抜けるように、ソファの背もたれに体を預ける。雲のように柔ら
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