Semua Bab 霧の中、君という雫: Bab 71 - Bab 80

100 Bab

第71話

トレンドを席巻していたその話題は、夕方、雫が帰りの地下鉄に乗る頃には、もう検索しても出てこなくなっていた。あの写真も、ネット上から跡形もなく消されている。雲の上の人々は、そのプライベートな生活を覗き見されることを、決して許さないのだ。それからしばらく、雫の生活には穏やかな時間が流れていた。ある日の午後、買い物から帰ると、階下に住むフミさんの部屋で水道管が壊れ、別の隣家の息子だという青年が直しに来ていた。すっきりとした顔立ちの、感じの良い男性だった。雫は会釈し、ちょうど買ってきたばかりの果物の中からいくつか取り分けて、彼に「お礼です」と手渡した。青年が帰っていく。その背中を見送ったフミさんが、ずいっと雫ににじり寄り、その手を両手でむんずと掴んだ。「ねえ、あんた。さっきの、鈴木さんちの息子さん。市立第六中学校で歴史の先生やってるの。今年で27歳、あんたと同じじゃないの」雫の眉がぴくりと動く。フミさんが何を言いたいのか察して、苦笑いを浮かべるしかなかった。「フミさん、うちにはもう六歳になる娘がいるんですよ」「あら、平気よ。あの子だってお母さん一人に育てられたんだから、そんなこと気にしないわ。それに鈴木さん、すごく考え方が柔軟な人でねえ。この間もダンスのお相手を新しく見つけたって喜んでたくらいなんだから。それにねえ、さっきあの子、あんたのこと何度も見てたよ。まだ若いうちに、自分の幸せもちゃんと考えなきゃ。あたしが見たところ、鈴木くんは真面目でいい子だよ。お仕事だって、先生なんて立派じゃないの」フミさんは、心の底から諭すように言った。雫はフミさんの肩をそっと押し、ソファに座らせると、自分はキッチンへと向かい、買ってきたばかりの果物を洗い始めた。しかし、お節介焼きの老婆は、そう簡単には引き下がらない。すぐにキッチンまでついてきた。「あんたがお見合いする気がないなら、それでもいいんだよ。ただね、あたしには少し蓄えがあるんだ。杏ちゃんの手術のために、まずそれをお使い。あたしに借りたと思えばいいじゃないの」雫は、フミさんが心の底から自分たちのことを心配してくれているのだと、痛いほどわかっていた。胸の奥が、じんわりと温かくなる。「お気持ちは本当に嬉しいです。でも、今年のボーナスが出れば手術代はなんとかなるんです。だから、フミさ
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第72話

自分の気のせいだろうか。この杏ちゃんという女の子が、どうしてこうも──弟の律に似ているのだろう……その考えがよぎった瞬間、静華の心臓がどきりと大きく跳ねた。雫は、そんな彼女の内心には気づかないふりをして微笑んだ。「湊くんに気に入ってもらえて、よかったですわ」そして、無意識に一歩前に出て、娘の体を隠すようにその前に立つ。杏にはクラスメイトの輪に加わるよう促した。今日は顔見知りの子供たちが大勢来ている。すぐに溶け込めるはずだ。ここ数日、松崎市は雨続きだった。悠美は、持病のリウマチが疼く脚をさすりながら、安田に支えられてソファから立ち上がった。その時、ふと、孫の湊が小さな女の子の手を引いて、階上へと駆け上がっていくのが目に入った。子供たちのはしゃぐ姿に、悠美の口元も自然と綻ぶ。だが、不意に視界の端を掠めた女の子の横顔に、彼女ははっと息を呑んだ。なんて愛らしい子かしら。でも……その目鼻立ちが、娘の静華や、息子の律にあまりにも似過ぎてはいないだろうか。いや、まさかね。そんな都合のいい話があるものか。柏木家に、天からこんなに可愛い孫娘が降ってくるだなんて。一人息子の律の性格は、この母である自分が一番よくわかっている。それでも、縁とは不思議なものだ。老婦人は、たった一度見ただけのその女の子を、すっかり気に入ってしまった。ちょうどその時、キッチンから焼きたてのブルーベリーチーズタルトが運ばれてきた。とろりとしたフィリングとバターの甘い香りが、室内にふわりと広がる。悠美は盆を受け取ると、ゆっくりと階段を上がっていった。二階の広々としたシアタールームでは、数人の子供たちがアニメに夢中になっていた。悠美は子供たち一人ひとりにタルトを配って回る。そして、ソファの隅で、他の子たちのはしゃぎ声から少し離れて、静かにおとなしく座っている女の子に目を留めた。華奢で、少し小柄な女の子。透けるように白い肌に、ちょこんと結われたお団子頭。ピンク色のセーターが、その子を瑞々しい小さな苺のショートケーキのように見せていた。悠美の心は、たちまちとろけてしまいそうだった。「いい子ね。お名前はなんて言うのかしら、おばあちゃんに教えてくれる?」「わたし、霧島杏です」「杏ちゃん。本当に素敵な名前ね」悠美は女の子の髪を優しく撫で、その小
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第73話

雪のように白い肌が、かすかに震えている。濡れたように艶やかな黒髪が数筋、白い肩にふわりと散っていた。黒と白が織りなす、鮮烈なコントラスト。律は、自分の呼吸が知らず知らずのうちに重くなっていることに気づいた。ぐっ、と奥歯を噛みしめる。目の前の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。律は、すぐさま踵を返した。ドアノブを強く握りしめる。大きく息を吸い込むと、喉の奥が痒くなるような渇きを覚えた。胸の底から這い上がってくる熱を持て余しながら、掠れた声でひと言だけ絞り出す。「……悪い」そう言って、彼はドアを開けて外へ出ようとした。外から、男性と男の子の足音が聞こえてきた。「パパ、おしっこ!もう我慢できない!」声はすぐそこで、今にもドアを開けて入ってきそうな距離だ。律は素早くドアを閉めると、カチャリと鍵をかけた。ドアノブをガチャガチャと回す音がするのに気づき、律が、低く落ち着いた声で応える。「……入ってる」雫は唇を噛みしめる。必死に心の動揺を鎮めようと、胸元を覆ったまま、男の背中を見つめた。距離は、わずか二メートルほど。広い肩幅。黒い部屋着。少しだけ乱れた短い髪。やがて、二人の視線がぶつかる。雫は洗面台に片手をつき、緊張で体の力が抜けていくのを感じる。声が震えた。「ま……まだ、見てるの……」律の視線は、あまりにも露骨だった。少しも逸らされることがない。その目は彼女の顔から、ゆっくりと胸元へと滑り落ち、呼吸に合わせて上下する身体の、微かな震えまでも見逃さない。男の喉が、まるで焼け付くように渇く。律はぐっと拳を握り締めると、ゆっくりと背を向けた。雫は急いで身なりを整える。濡れた下着の不快さには構っていられない。静華の服に袖を通した。けれど、その服は雫の身体には合わなかった。ウエストはちょうどいいのに、胸のサイズが合わず、窮屈で仕方がない。鏡に映る自分の姿に、雫はうろたえた。思わず胸元を手で隠し、もう一度服の裾を引っぱってみる。静華の服は、ベージュのシンプルなニットだった。伸縮性があり、本来なら身体のラインを綺麗に見せる、上品で控えめなデザインのはずだ。だが雫が着ると、豊かな胸のせいで生地がぱんぱんに引き伸ばされ、半ば透けてしまっている。その下にある、淡い色の下着の輪郭
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第74話

雫が受け取り、中を覗き込む。そこには、真新しい服と……下着が入っていた。律は何も言わず、その顔には隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。昨夜は徹夜勤務で、今朝帰宅したばかり。横になったのは三時間にも満たなかったが、大勢の子供たちがはしゃぎ回る家では、とても眠る気にはなれなかったのだ。律が部屋を出ていくのを待って、雫はすぐに服を着替えた。ブラのサイズは、驚くほどぴったりだった。あまりにぴったりで、雫は耳まで真っ赤に染まる。自分でお店を回っても、ここまで身体に合うものを見つけるには何度も試着を重ねなければならないというのに。彼はただ……一度、見ただけだ。セーターは、シャツ風の小さな襟がついたピンク色だった。値札に目を落とす。ここから一番近いショッピングモールまで、車を飛ばしても往復で二十五分はかかるはず。限界の速さだろう。そしてその値段は、雫にとっては懐が痛む金額だった。雫は律のスマホに、八万円を送金した。服二枚分の値段だ。彼が何気なく手に取ったであろう服一枚が、自分の半月分の給料に相当する。着ていた服を畳んで袋にしまい、書斎を出る。と、そこに立つ人影に、雫は思わず息を呑んだ。律が、まだそこにいた。壁に寄りかかったまま、彼は動かずにいた。黒い瞳が、彼女をすっと射抜く。「サイズは、合ったか」雫はこくりと頷く。ぎゅっと袋の持ち手を握りしめた。そして、か細い声で付け加える。「セーターは……ちょうどよかったです」男はふっと口元を緩めたが、何も言わなかった。「叔父さん、こんなところにいたんだー!」湊の声だ。他の子供たちも、わっと駆け寄ってくる。湊は律の腕にしがみついた。「叔父さん、僕のプレゼントは?」「まだだ。眠い」目の下の隈が隠せないほど、男の顔には疲労が刻まれている。律は大きな手で、わしっと湊の頭を掴んだ。「後でな」「あーっ!叔父さんのせいで、髪型が崩れちゃったじゃないか!」今朝、パパにヘアスプレーまでしてもらって、ばっちり決めてきた髪型だったのに。律は口の端をかすかに吊り上げると、寝室の方へ向かって歩き去った。くるりとその場で回ってみせ、湊が得意げに言った。「しずくちゃん、このスウェット、すごくいいね。僕、これ毎日着る」男の子は、もらった
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第75話

「おじさん、ありがとう」娘の、あどけなく澄んだ声が耳に届いた。見れば、律が杏に、切り分けられたムースケーキを渡してあげているところだった。つやつやした苺が乗っていて、いかにも甘くて柔らかそうだ。やがて、雫の視界の端にも、同じ苺のケーキと……骨張った男の指が差し出された。それは、なんでもない仕草だった。食事の席は賑わっていたけれど、誰もが自分のことに夢中だ。ケーキを切り分け、談笑し、写真を撮り合っている。その様子に気づいた者は、ほとんどいなかった。けれど、静華だけは見ていた。彼女は目を大きく見開き、何かとんでもないものを見てしまったとでも言うように、母の悠美に向かってわざとらしく咳払いをした。しかし、悠美は娘に構う余裕などなく、夫の洋治とひそひそ話に夢中だった。「ねぇあなた、あの子を見てちょうだい。なんて綺麗で可愛らしい子かしら……あの鼻筋、あの顔立ち、律にそっくりじゃない」洋治はちらりとそちらに目をやった。確かに、よく似ている、と内心で呟く。だが、口にしたのは全く別の言葉だった。「孫娘が欲しいあまりに、いよいよおかしくなったか。よそのお嬢さんだぞ。律と何の関係があるって言うんだ。あの子はもう六歳で、湊の同級生なんだ。まさか、律が大学の頃に子供を作ったとでも言うつもりか。ありえんだろう」悠美はぶつぶつと呟いた。「私、毎年仏様にお布施をしてるのよ。万が一、私の祈りが聞き届けられたとしたら……」「祈るって、何をだ。どこの馬の骨とも知れん女が腹を大きくして押しかけてきて、律に責任を取れとでも言うとでも祈ったのか。あいつがそんな真似をすると思うか。大体な、あいつ云々の前に、あのお嬢さんを見てみろ。どう見ても律とは面識すらないだろうが」洋治はフンと鼻を鳴らした。孫の誕生日でなければ、この現実離れした妄想に浸る妻に、とくとくと説教の一つでもくれてやるところだ。しかし、悠美は普段から洋治との口喧嘩には慣れている。「私、昨日の夜に見たショートドラマを思い出しちゃったの。そっちではね、華麗なる一族の御曹司が帰国して、昔の恋人と再会するのよ。そしたら彼女、彼の子供を身ごもったまま姿を消していて……なんと双子を連れて帰ってきたの!それなのに、姑ときたら、家柄が釣り合わないってヒロインの出自を目の敵にして、あれこれいびり
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第76話

ここから雫の住む場所までは、十一キロほどの距離がある。雨の夜とはいえ、普通に走れば三十分もかからずに着くはずだ。杏は、雫の膝の上でいつの間にか眠りに落ちていた。信号待ちで車を停めた律が、ふと顔を上げた。バックミラー越しに、後部座席に座る女の顔を見つめる。男の、黒く切れ長の瞳は底なしの淵のように深く、その唇は固く一文字に結ばれていた。淡く、静謐な佇まい。雪のように白い頬。そこには、言いようのない既視感と、それでいて、理性ではっきりと分かる異物感――「他人」であるという事実――が同居していた。律は、自分の心の弱さのせいで、この不思議なほど馴染む女を、遥の影として見てしまうことを拒絶したかった。だが同時に、認めざるを得ない。二人が醸し出す雰囲気が、あまりにも似すぎていることを。だというのに、二人は全くの別人なのだ。ではなぜ、これほどまでに似た印象を受けるのか。答えは、一つしかない。――模倣。雫の行為をそこまで卑劣なものだとは思いたくない。しかし、自分の気を引くためだけに、彼の好みに合わせてくる令嬢たちを、律はこれまで嫌というほど見てきた。心の奥底では、無意識に否定している。雫が、そんな打算高い女であるはずがない、と。だが、数々の不可解な符合が、その否定を揺るがす。男は、ぐっと強くハンドルを握りしめた。薄い唇が、音もなく引き結ばれる。バックミラー越しに、彼の視線と、ぴたりと合った。娘の背中を優しく叩いていた雫の指が、ぴくりと強張る。すっと通った鼻筋に、奥二重の切れ長の瞳。深く彫られた眉骨。感情の読めない凪いだ瞳が、値踏みするように、探るように、自分を見つめている。雫の心臓が、どきりと跳ねた。その時ちょうど信号が青に変わり、律は車を発進させた。しばらく走った、その時だった。ぷすん、と軽い音を立てて、車が急に速度を落とす。エンジンが、止まってしまったのだ。律は再びエンジンをかけようとしたが、うんともすんとも言わない。彼は眉をひそめると、ドアを開けて車の外へ出ていった。雫は、窓ガラスを伝って流れる雨筋を見ていた。雨足は少しも弱まる気配がない。律は身を屈めて、止まってしまったエンジンの様子をうかがっている。雨粒に濡れた窓ガラス越しに、雫は、ずぶ濡れにな
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第77話

雫は、小さく頷いた。車を降りる時、雫は傘を差した。律は彼女より一足先に、眠っている娘を抱き上げる。杏は夢うつつに、男の首にぎゅっとしがみついた。温かい頬が、律の肩にうずめられる。男は、ふいに体を硬直させた。胸の奥に、不思議と温かなものがこみ上げてくる。彼は無意識のうちに、片手で女の子の背中をあやすように、軽く叩いた。ふと、寝言が聞こえた。「……パパ」それは、とても小さな声だった。降りしきる雨音に紛れて、雫の耳には届かない。律だけが、確かにそれを聞いた。一瞬、幻聴かと思った。だが、耳元で響いた柔らかく幼い声は、紛れもない現実だ。女の子は彼の肩に顔をうずめて眠っている。柔らかく白い頬。その寝息が、律の肩にかかる。その穏やかな寝息は、まるで彼の心臓の鼓動と、同じリズムで共鳴しているかのようだった。その感覚に、律は一瞬、思考が止まる。身体が、まるで一時停止ボタンでも押されたかのように、動かなくなった。律には分かっていた。この子が、自分を父親だと、間違えているのだと。雫は、つま先立ちになりながら、律と娘の二人に傘を差し掛けていた。彼がなぜ急に足を止めたのか分からず、不思議そうに見つめている。「柏木先生」と、彼女がそっと呼びかけた。その声に、男は我に返った。漆黒の雨の夜だ。彼女は、彼の内心の動揺には気づいていない。その一瞬、彼は、あり得ない空想に囚われていた。もし、本当に、こんなにも愛らしい娘が自分にいたなら。もし、目の前の女が、自分の妻だったなら――と。雨に濡れた彼女の肩が目に入る。律は女の子を片腕で力強く抱き直すと、もう片方の腕を伸ばして、ぐいと彼女の身体を引き寄せた。雫の華奢な体が、彼の胸に密着する。彼女の指が、戸惑いと緊張に、傘の柄をきつく握りしめた。彼の手が、雫の腰をぐっと抱き寄せる。二人の歩幅が、自然と重なった。娘は彼の肩で安らかに眠り、雫は傘を差したまま、顔を上げて、すぐ目の前にある男の顔を見つめた。こんなに小さな一本の傘が、本当に、三人を受け入れてくれるなんて。濡れた服が肌に張りつき、ひんやりと冷たい。けれど、彼の腕の中は、不思議な熱を帯びていた。その熱は、ゆっくりと彼女を灼き、そして、彼自身をも、灼いていた。-
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第78話

「いえ、お構いなく」雫はそう答えた。雨が小降りになれば、タクシーも拾いやすいだろう。正直なところ、前の出来事のせいで、夜に一人でタクシーに乗ることには強い恐怖心が芽生えていた。けれど、生きていくためには、そうするしかないのだ。室内は暖房が効いていて、心地よい暖かさに満ちている。サイドベッドルームにはバスルームが併設されていた。雫はバスルームへ向かい、熱いシャワーを浴びた。ようやく指先の冷たさが和らいでいく。雫は身体が弱い。雨に濡れたまま温かいシャワーを浴びなければ、翌日には決まって熱を出すのだ。指でボディソープのポンプを一回押す。すっと鼻を抜ける、シーソルトの香り。いかにも男性用、という感じの香りだった。そのボディソープのボトルを眺め、雫は躊躇いがちに、ゆっくりとした手つきでバスリリーで泡を立て、身体に滑らせていく。すると、知らない男の人の香りに全身を包み込まれるような、不思議な感覚に襲われた。湯気で満たされた空気は熱を帯び、酸素まで薄くなってしまったかのように感じられる。雫はぬるま湯のシャワーを浴びながら、俯いた。透明な湯の筋が、彼女の白い肌を伝い、滑り落ちていく。潤んだ瞳が、湯に流されていく泡の行方を追う。泡は平坦な下腹部を過ぎ、そこにうっすらと残る、淡いピンク色の傷跡を洗い流していった。-バスルームにはバスローブが用意されていた。男性用のものだ。黒い、滑らかなベロア生地で、腰に帯を結ぶタイプ。雫は唇をきゅっと噛み締め、迷った末にそれに袖を通した。それからヘアドライヤーを手に取り、脱いだ服を乾かし始める。これなら、一時間もすればまた着られるだろう。水に濡れてしまったコートが、少し気掛かりだった。このコートは、デパートのシーズンオフセールで手に入れたものだ。梨奈と一緒に買い物へ行った時、彼女が「雫さんが着ると一万六千円のコートが十六万円に見える」なんておだてるものだから、それに店員さんの熱心な勧めもあって、つい買ってしまったのだ。杏はベッドの上ですやすやと寝息を立てている。雫はその傍らに腰掛けた。スマートフォンの画面では、律が送金を受け取った形跡はまだなかった。受け取る気がないのか、それとも、ただスマートフォンを見ていないだけなのか。慣れない環境だからだろう
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第79話

その瞬間、雫はぴたりと動きを止める。暗闇にぼんやりと浮かぶその輪郭からは、穏やかで浅い寝息が微かに聞こえてくる。彼の眠りを妨げたくない。家の主人の許可なく、勝手に書斎や寝室に入ってケーブルを探すなんて、できるはずもなかった。雫が踵を返し、抜き足差し足でその場を離れようとした、その時。男が、寝返りを打った。身体にかかっていたブランケットが、はらりと床に滑り落ちる。雫はそっと歩み寄り、屈んでそれを拾い上げた。細い指がきゅっとブランケットを握りしめ――一瞬の逡巡ののち、やはり彼にかけてあげることにした。立ち去ろうとした、まさにその瞬間だった。不意に、手首を強く掴まれた。それと同時に、律が目を開けた。どこまでも深い夜の闇と、同じ色をした、射抜くような鋭い瞳。雫は反射的に手首を引こうとするが、相手の力は強かった。「か、柏木先生……あの、携帯の充電がなくなりそうで、充電器は……」けれど、雫の言葉はそこで途切れた。掴まれた手首の力が、わずかに緩んだのを感じたからだ。だが、緩んだはずの無骨な指の腹が、今度は手首の柔らかな肌を、ゆっくりと撫で始めた。ぞくり、と。得体の知れない戦慄が、本能的に身体を駆け抜けた。「雫」律の、掠れた声が、低く彼女の名を呼ぶ。視界は闇に閉ざされているのに、女の肌は白く、淡く光を放っているかのようだ。まるで、夜露に濡れた白バラのように。切れ長で深い瞳が、じっと彼女の顔を見つめている。もう一度、その名が呼ばれた。「……はい」彼の視線に肌が灼けるような気がして、雫は思わず俯いた。空気が、甘く熱を帯びていく。雫もそれを肌で感じていた。心臓が、速鐘のように脈打つ。このままでは、なにか取り返しのつかないことが起きてしまう。「あ……杏が、起きちゃうから……」雫は身を捩り、手首を引こうとする。だが、男の手のひらは焼印のように熱く、その力は、彼女の腕に痕を残さんばかりに強かった。「かしわ……っ、……ん……」言葉は、続かなかった。顎を掬われ、男の薄い唇が、問答無用で覆いかぶさってきたのだ。冷たいほどの、男の香りが彼女を包み込む。雫は目を見開き、睫毛が震える。彼の瞳の奥、黒い渦に自分が飲み込まれていくのがわかった。律のすっ
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第80話

夜通し降り続いた雨は、翌朝になっても、まだ止む気配はなかった。雫が娘の服を整えてやっていると、杏がその首に抱きつきながら尋ねてきた。「どうして柏木おじさんのおうちにいるの?」「昨日の夜、雨がすごかったから、おじさんのおうちで休ませてもらったのよ」「そっか。じゃあ、おじさんにお礼言わなきゃ」娘の天真爛漫な瞳と言葉が、雫に昨夜の不条理なキスを否応なく思い出させた。自分のこの態度も、きっと普通じゃないのだろう。この躊躇いも、怯えも、すべてが自分自身を雁字搦めにしている。常識で考えれば、雨風をしのがせてくれた律に、母娘揃ってお礼を言うのは当たり前のことだ。それなのに、今の雫には、この寝室のドアを開ける勇気さえなかった。「ええ、そうね。柏木おじさんにお礼を言いに行きましょうね」雫は、娘に向かって優しく微笑みかけた。「ママ、ここどうしたの?なんで赤くなってるの?」杏が大きな目をさらに見開いて、雫の顎に残る赤い痕を、不思議そうに、そして少し心配そうに指でそっと触れた。雫は思わず顔を背ける。娘の、何も知らない純粋な眼差しを前に、顔が首筋まで真っ赤に染まっていくのが自分でもわかった。「……蚊に刺されちゃったのよ」「ママ、うそつき。もう冬だよ?」杏はぱちぱちと瞬きをすると、雫の身体にぎゅっと抱きついた。「あ、ママの首にもある」雫は、ぐっと言葉に詰まった。どう説明すればいいのか、わからない。ちょうどその時、ドアの向こうから、何かが動く微かな音が聞こえた。雫が立ち上がってドアを開ける。すると、ネモが部屋に入ってきて、尻尾を振りながらベッドのそばまでやって来た。杏とネモは、じっと互いを見つめ合っている。ゴールデンレトリバーは穏やかな犬種だが、律に飼われているこの犬は特に人懐っこく、誰にでも愛想を振りまく。「こんにちは。わたし、杏っていうの」娘は犬が大好きだった。家でも二匹飼っている。杏が小さな手でネモの顔をそっと撫でると、ネモはべろりとその手を舐め上げた。杏の手は、あっという間によだれでべとべとだ。それでも犬は、少し間の抜けた顔で笑っているように見える。「かわいいね。あなたは、柏木おじさんが飼ってるの?」杏がこてん、と首を傾げる。するとネモも、その仕草を真似するように、同じように首
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