Semua Bab 霧の中、君という雫: Bab 81 - Bab 90

100 Bab

第81話

「サモエドとゴールデンレトリバーのワンちゃんなの?」杏が尋ねる。「ああ」「じゃあ、お母さんがゴールデンなの?それともお父さん?」子供の世界は、いつでも知りたいことで溢れている。部屋に入ってきた律の声は、意外なほど辛抱強いものだった。「おじさんにもわからないんだ。ネモを引き取った時、もう生後三ヶ月だったからな」雫は唇を噛んだ。瞳が、微かに揺れる。生後三ヶ月の、サモエドとゴールデンのミックス。それは、私が……雨の中で拾った、あの子。本当に、私が拾った子なんだ。あの人は、言ったはずなのに。「飼わない。犬は嫌いだ」「遥、もしあいつを俺の部屋に連れてきたら、ゴミ箱に捨ててやる」それでも……飼っていてくれたんだ。杏は、律の車の下からポテトを拾った時のことを覚えていた。「柏木おじさん、ネモはおじさんが拾ったの?とってもきれいだね」律の声は感情を抑えた、わずかに掠れた響きをしていた。「他の誰かが拾って、俺の家に置いていったんだ」幼い杏には、その言葉の本当の意味はわからない。彼女が手を差し出すと、ネモは指示を待つまでもなく、女の子との触れ合いを喜ぶように、自ら前脚を上げてその小さな手のひらに乗せた。律との距離は、わずか一メートル。雫は、「霧島雫」として、彼の口から、初めて過去の自分について語られるのを聞いた。友達でもなく、元カノでもない。そう、他の誰か。私は、「他の誰か」なんだ。「おじさん、昨日は雨宿りさせてくれてありがとう」娘が、雫が言えなかった言葉を口にした。雫はそれに乗じて、口を閉ざしたままでいた。律は一度雫に視線を向けてから、杏に顔を戻した。「送っていくよ」沈黙を保っていた雫が、口を開いた。「いえ、お気遣いなく。今日は日曜日ですし、外も晴れてきたので、このまま動物園にでも連れて行こうかと思って。ここからならタクシーもすぐ拾えますから」雫は娘を連れてエレベーターに乗り込む。杏は振り返って手を振るのを忘れなかった。「バイバイ、柏木おじさん。バイバイ、ネモ」エレベーターのドアが閉まった、その瞬間。雫は、その場にしゃがみ込んだ。「杏ちゃん、前にママが言ったこと、覚えてる?パパと柏木おじさんがそっくりなこと、絶対に言っちゃだめよ」雫
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第82話

雫が出社すると、同僚の梨奈が真っ先にその顎の痕に気づいた。首ならばまだスカーフで隠しようもある。顎の付け根に残る赤い痕はだいぶ薄くなったとはいえ、色白な雫の肌では、まだうっすらと見て取れた。梨奈は噂好きではあるけれど、こういう時の勘は妙に鋭い。声のトーンをぐっと落とし、悪戯っぽく囁いた。「……さては、何かありましたね、雫さん」「何でもないわ」会話を断ち切るように、雫はパソコンの電源を入れる。「まさか『蚊に刺された』なんて言わないでしょ?こんな真冬に、あたしは信じないからね」梨奈は面白そうに雫の肩をぽんと叩く。「それにしても、ちょっと激しすぎない?顎だなんて……これ、二、三日は消えないでしょ。あ、そうだ。あたしのポーチにコンシーラー持ってるんだけど、すごく使えるやつ。よかったら貸すよ?隠しちゃえば?」言いながら、彼女はさっとポーチからスティックタイプのコンシーラーを取り出して差し出した。雫は一瞬ためらってから、それを受け取り「……ありがとう」と小さく礼を言った。その時、ディレクターである詩帆のオフィスから鋭い声が響き、梨奈が呼ばれた。十分ほどして戻ってきた彼女は、すっかり青ざめた顔で、やれやれと首を振りながら、音を立てないようにそっとドアを閉めた。向かいのデスクの薫が、心配そうに手招きする。「どうしたんですか、梨奈さん。篠宮ディレクター、朝からすごい剣幕でしたけど」「さあね……彼氏とでも喧嘩したんじゃない?」梨奈は声を潜める。「デスクの上にあったもの全部、床に叩き落としてさ。あたしが片付けようとしたら、『出てけ!』だって」そして、さらに声を小さくして付け加えた。「さっきお母さんと電話してるのが聞こえちゃったんだけど、彼氏がしばらく研修かなんかで遠くに行くらしくて、自分の誕生日に会えないって……そんな話だったみたい」雫は無言でペンタブレットの電源を入れた。けれど、ペンを握るその手は、数秒間、宙で止まったままだった。それから半月ほどが過ぎた。オフィスで聞こえてくる詩帆の会話の端々から、雫は、律が安流市へ出張しているらしいということを、断片的に繋ぎ合わせていた。自分の日常を淡々とこなそうと努めていても、嫌でも彼の情報が耳に入ってくる。先日、娘を病院に連れて行った時のことだ。事前に予約サイ
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第83話

皆に囃し立てられながらも、当の本人はただ淡く笑うだけだった。「先生方が何とおっしゃろうと構いません。その手術、お引き受けくださったと解釈しておきますので」民夫の追及に、雫はぽつりと一言を口にした。「同級生……です」そして、慌てて付け加える。「彼とは、高校の時の同級生で……」それを聞いて、民夫はようやく合点がいったように頷いた。「なるほど。じゃあ、高校の時から付き合ってたのかね?」その一言で、雫の中で、第一総合病院心臓外科のエース、ゴッドハンドとまで呼ばれるこの名医への尊敬の念が、ガラガラと崩れ落ちた。目の前の男は、まるで公園でゲートボールに興じている、近所の世話焼きなおじさんと何も変わらない。しかも、とんでもない爆弾発言を平気で放り込んでくる。「堂島主任、もう、冗談はやめてください。私には、六歳の娘がいるんですよ」民夫は軽く手を上げて眼鏡の位置を直した。「いやいや、驚くことはない。君たち、私のことを頭の固い年寄りだと思ってるだろうが、私は意外と考えが柔軟でね。もし君たちが本当に付き合っているなら、大歓迎だよ。あいつに、やっと彼女ができたのかって、こっちが嬉しくなるくらいだ」あの子が誰かのために、手術を「頼む」なんて、初めてのことだったのだ。コンコン、と診察室のドアがノックされ、雫の言葉は遮られた。看護師に呼ばれ、娘を連れて心臓のエコー検査室へ向かう。時間を節約するため、雫は事前に予約サイトを駆使して、超音波科の主任の予約をなんとかねじ込んでいた。おかげで、ほとんど待つこともない。すぐに娘の名前が呼ばれた。だが、検査を終えてエコー室から出てきた人物を見て、雫の表情が二秒ほど、ぴしりと凍りついた。そして、すぐに何でもないという顔を取り繕う。しかし、娘の杏は相手の顔を覚えていた。無邪気で甘い声で呼びかける。「柏木おばあちゃん!」悠美は今日、定期検診で病院に来ていた。大したことはなく、いつもの持病の経過観察だ。傍らには家政婦の安田と、もう一人、上品な雰囲気の中年の女性が付き添っている。彼女は杏の姿を見つけると、ぱっと顔を輝かせた。「あら、杏ちゃんじゃないの。どうしたの、どこか具合でも悪いの?」杏はこてんと首を傾げ、母親の顔を見上げた。一方、雫は唇をきつく引き結び、その視線
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第84話

言った本人に他意はなかったのだろう。だが、言われた方は気まずいことこの上ない。雫には、自分が志穂のどこに似ているというのか、さっぱり分からなかった。なにしろ相手は、メイクも顔立ちも、指の先まで完璧に整えられ、その身には金と権力だけが醸し出すことのできる、人を寄せ付けない気品が漂っているのだから。志穂は優雅な笑みを崩さなかった。「私も、雫さんとは何かのご縁があるような気がするわ」もちろん、それはただの社交辞令だ。姑がこの母娘、特に娘の杏を気に入っている様子で、しかもその子が湊と同級生だという。ここで姑の機嫌を損ねるようなことを言うはずもなかった。志穂は、改めて雫に視線を向けた。透き通るように色が白く、物静かで柔和な印象を与える女性だ。悠美は嬉しそうに、二人の顔を左右に見比べた。「本当にねぇ。鼻の先のほくろまでそっくりで、二人とも本当に綺麗な顔立ち。美人さんだわ」雫は曖昧に微笑み、その言葉を右から左へ受け流した。鼻の先にできたこの小さなほくろは、杏を妊娠してから現れたものだ。普段は、ファンデーションを薄く塗ればほとんど隠れてしまう。今日、病院で柏木家の人々に遭遇したのは、ほんの些細な偶然。そう思っていた。しかし、その夜、ベッドに横になりながらスマートフォンを開くと、トレンドニュースの見出しに『柏木詩織』の名前が躍っているのが目に飛び込んできた。SNSのフォロワーは一千万人を超え、ワールドツアーの次の公演地は松崎市。チケットの先行予約の申し込みは、すでに百万人を突破しているという。雫は、否応なく高校時代を思い出していた。もう二度と会いたくない。あの人たちにだけは。思い出は、決して美しいものばかりではない。むしろ、必死で過去から逃げ出し、決別したいと願い続けてきたのに。その時、スマートフォンの着信音が鳴り響き、雫の思考を中断させた。画面には『祖母』の文字。電話に出ると、懐かしい声が聞こえてきた。「遥かい?あのね、近いうちにお姉ちゃんが婚約することになってね。亮介が、お前とずっと連絡が取れないって心配してたんだよ。もし時間があるなら、一度みんなで集まって食事でもどうだい?」雫は子供用のベッドの縁に腰かけ、すやすやと眠り込んでいる娘の顔をしばらく見下ろしていたが、やがて音を立てな
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第85話

そして今、村の入り口にいる口さがない爺さん婆さんたちの顔ぶれは、少しだけ減っているように見えた。この数年で、何人かは病で鬼籍に入ったのだろう。だが、古い者がいなくなれば、また新しい者がその穴を埋める。この村から、他人の噂話がなくなることは永遠にない。雫が村の中へ足を踏み入れると、一人が声をかけてきた。「お嬢さん、どこの家にご親戚でも?」雫は無視した。両手に提げた荷物がずしりと重い。ただまっすぐに、路地の奥へと進んでいく。祖母である富美子の家は、その一番奥まった場所にあった。赤いペンキで塗られた鉄の門を、雫は持っていた鍵で開ける。中庭では、祖母が洗濯板でごしごしと服を洗っていた。その足元には、二匹のキジトラ猫がちょこんと蹲っている。雫の姿を認めると、富美子は一瞬きょとんとしてから、濡れた手を前掛けで拭いながら立ち上がった。「おやまあ、この子は。急にどうしたんだい、帰ってくるなら一声かけてくれればいいものを」雫は早足で祖母のそばに駆け寄り、持ってきた荷物を足元に置いた。「洗濯機、買ってあげたでしょ?こんな寒い日に無理しないで、洗濯機を使えばいいのに」「たった二枚の服を洗うのに、洗濯機だなんて勿体ないじゃないか」雫は祖母の手を取った。古い木の根のように節くれだった手。その冷たさに、胸が締め付けられる。時の流れは、どうしてこうも早いのだろう。今でも、雫は幼い頃の光景をありありと思い出すことができる。自分が四つだった頃、まだ祖父も健在で、叔父も結婚はしていたけれど、まだまともだった。叔母の顔にも笑みがあり、幼い遥は、二ヶ月違いの従姉と二人でよくこの庭を駆け回っていた。小さな木のテーブルを囲んで、家族みんなで晩ご飯を食べた。そこには、ささやかで、けれど確かな幸せがあった。その夜、雫は実家に泊まることにした。小さい頃からずっと使っていた、自分の部屋で。「お前の姉さん、一昨日婚約したんだよ。そりゃあ立派な式でねぇ。文乃もすっかり変わっちまって……なんでも、お相手の男の人は、ずいぶんと良いご家柄だそうだよ」雫は婚約式には行かなかったし、その詳細を知りたいとも思わなかった。ただ、力なく「うん」と相槌を打つ。富美子も、雫が叔父一家の話を聞きたくないのだと察したようだった。自分ももう年だ。この孫
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第86話

背後から、すっと祖母が近づいてきて、雫よりも先にさっとその写真を拾い上げた。「もうおやすみ。遅いからね」言うが早いか、富美子はベッドに横になると、拾った写真をそそくさと枕の下に滑り込ませた。祖母の機嫌が少し悪くなったのを感じて、雫は「うん」とだけ答えた。この二十七年間、母からの音沙汰は一切ないのだ。きっと、急に母の写真を見て、辛い気持ちになったのだろう。そう思うと、祖母の白くなった髪を見つめるうちに、それ以上何かを問う気にはなれなかった。実家で一晩を過ごし、翌日、帰ろうと玄関に立つと、祖母がキャッシュカードを一枚、雫の手に強く握らせた。「お前がこの数年、あたしに送ってくれた金、全部貯めてあるんだよ。これで杏ちゃんの手術をしておやり。あたしの蓄えも少し足してあるから」雫が遠慮して断ろうとするのを見て、富美子は悲しそうにため息をついた。「お前がこれを受け取らないんなら、どうせ秋恵があたしから巻き上げていくだけさ」その言葉を聞いて、雫はようやくカードを受け取った。帰り道、銀行に寄って残高を確認してみると、この七年間、自分が少しずつ送金してきたお金が、ほぼ全額、そのまま残されていた。祖母は、全く手をつけていなかったのだ。もし今年の年末ボーナスが思った通りに出れば、杏の手術費用はなんとかなりそうだ。そうしたら、祖母も松崎市に呼び寄せて、一緒に暮らそう。自分にとって、彼女はたった一人の、かけがえのない家族なのだから。-安流市。午前十時。律は心臓外科の大手術を見学していた。執刀医は、安流市の心臓外科の第一人者である三上宗文(みかみ むねふみ)。彼が率いるチームによる手術の様子は各メディアで生中継され、七時間にも及ぶ大手術は、ヒヤリとする場面もあったものの、危なげなく成功を収めた。手術室の外で、宗文は五分ほどメディアの取材に応じた後、お役御免とばかりにチームのメンバーを前に押し出す。自身は人だかりの中心からそっと離れると、少し離れた場所に立つ律の姿を見つけ、にこやかに目を細めた。「三上おじさん」「今晩、うちに寄っていきなさい。叔母さんも待ってるよ。ああ、想世もだ。今日君が来ると知ってな、君はまだかって、何度も聞かれたよ」安流市の三上家は、代々続く医者の家系だ。宗文の父、つまり律が「お爺様」と慕う先代は元
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第87話

どんなに彼が自分に冷たくても、もし……二人の間に何かあれば。ううん、たとえ何もなかったとしても、一夜を共にしたという事実さえあれば、柏木家はきっと彼を自分と結婚させてくれるはず。律が最近、篠宮家の令嬢と見合いをしているという話は、耳にしていた。両家はその縁談を前向きに進めるつもりらしい。ならば、どうして、それが自分ではいけないというの。律は酔っていた。意識は散漫で、頭がうまく働かない。それに加え、安流市に来てから数日、どうも体の調子が優れなかった。彼は松崎市を離れて他の街へ行くと、いつも慣れるまでに数日を要する。ただでさえ重かった頭が、今夜の酒でさらに朦朧としていた。目の前の雫の顔が、ふいに近づいてくる。むせ返るような女物の香水の匂いがした。芳醇なローズの香りが、まるで空気中で燃えているようだ。それは、雫の匂いじゃない。彼女の香りは、もっと清潔で、淡い。その考えがよぎった瞬間、律の意識が二割ほど覚醒した。彼は手を上げ、近づいてきた想世の赤い唇を塞ぐと、そのままぐいと押し返した。「律兄さん……」想世は呆然とし、傷ついたような表情を浮かべる。律の瞳に少しずつ理性の光が戻ってくるのを見て、彼女の頬は羞恥心で真っ赤に染まったが、それでも諦めきれなかった。「律兄さん、わたしたち、小さい頃からの知り合いじゃない。わたしが五歳の時、お母さんと一緒に柏木家で半月過ごしたこともあるわ。もし柏木家が誰かと縁組をするなら、どうしてわたしを考えてくれないの」「想世、君は小さい頃、詩織とよく一緒に遊んでいただろう。詩織は俺の姪だ。君のことも、同じように姪だと思っている。小さい頃は、詩織に倣って俺のことを『律おじさん』と呼んでいただろう」「姪……」想世の瞳が、みるみるうちに赤く潤んでいく。律はスマートフォンを取り出すと、眉を顰めながら彼女のためにタクシーを呼んだ。「君に対して、そういう感情は一切ない。さっきは、酔っていたんだ」朦朧とする意識の中で、雫の幻を見た。酒が見せた、儚い夢だと思った。「どうして!律兄さん、わたし、あなたの姪になんてなりたくない。たった二つしか違わないじゃない。ねえ、わたしのことを見てよ」想世はそう言うと、ぐっと唇を噛み締め、両手を背中に回した。ワンピースの背中のジッパーを引き下ろすと、青
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第88話

なぜ自分は、夫も子もいる女に、これほどの衝動を覚えてしまうのか。そんな考えは間違っていると、律はわかっていた。人の道に反している、と。だが、答えは見つからない。一目惚れ?それとも単なる下心か?律は鼻で笑うと、薄い唇の端を歪めた。そんなものは信じない。これまで、美しい女などいくらでも見てきた。想世は美しくないのか?若くて、綺麗で、家柄もいい。それとも――まだ、青木遥を忘れられずにいるからか。遥に一番会いたいと願っていた、まさにその時に、彼女にどこか似た女が現れた。遥は姿を消した。付き合っていた頃のものをすべて律に返し、それでいて、律自身はその場所に縛り付けたまま。先に自分を脅したのは、彼女の方だったのに。なぜ、何食わぬ顔で、黙って去って行ったのも彼女の方だったのか。そんな時に、遥にどこか似た女が現れたのだ。その類似性は、容姿やスタイルといった、目に見えるものではないのかもしれない。むしろ、感覚的なものだ。柔らかな話し方。悔しそうに目を赤くする様。淡く微笑む表情。ふとした仕草、髪をかきあげるその手つきにさえ、遥の面影がちらつくのだ。律は、床まである大きな窓の前に立った。窓ガラスには自らの輪郭が映し出されている。いつも通りの、静かで冷たい表情。だが、胸の奥で荒れ狂う飢えた狼を、どれほどの力で抑えつけているかを知るのは、彼自身だけだった。煙草を三本、立て続けに吸う。律の目の前で、風に煽られた薄水色のレースカーテンがふわりと揺れている。まるで、女が歩くたびに風に翻るスカートの裾のようだ。カーテンの裾が、彼の脚に触れる。あるかないかの、柔らかな感触。男は、すっと目を細めた。スマートフォンを取り出す。中にはSIMカードが二枚。どちらもプライベート用の番号だ。仕事用の番号が入った予備のスマートフォンは、別にある。今、彼はそのうちの見知らぬ番号を使い、雫にメッセージを送った。【青いスカート、とても綺麗だった】【今度から、他の男の前ではあまり着ないでほしい。それに、他の男に笑いかけるのもやめてくれ】なぜなら男という生き物は――自分も含め――ろくなものではないからだ。-眠りにつく直前、雫はそのメッセージを受け取った。驚きのあまり、スマートフォンを放り
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第89話

結局、その一本の迷惑メッセージ以降、特に変わったことは起こらなかった。雫もいつしかそのことを忘れかけていた。生活は普段通り。杏の送り迎えの時に、時々湊に会うくらいだ。湊を迎えに来るのは、家政婦の安田だったり、運転手だったり。静華が来たことも二度ほどあった。だが、そこに律の姿はなかった。湊は、遠くに雫の姿を見つけると、手を振りながら「しずくちゃーん」と叫んで駆け寄ってくる。雫は、この半月ほどの間に、湊が少し痩せたことに気がついた。彼女は男の子の頬に触れ、そっと屈んで微笑みかける。「しずくちゃん、ワンタン食べに行こうよ。前に約束したでしょ」今日、湊を迎えに来たのは静華だった。車を降りた彼女と目が合い、二人はふっと微笑み合う。静華は数歩こちらへ歩み寄ると、息子の後頭部を優しく撫でた。「この子ったら、最近家でダイエットなんてしてるのよ。何も食べないし。もしかして、学校で好きな子でもできたのかしら」そう言って、静華は雫の隣に立つ小さな女の子にちらりと視線を送った。この子は本当に可愛らしい。それに、どこか柏木家と縁があるような気もする。この顔立ち、鼻筋……自分がこの子を抱いて外を歩いていたら、自分の娘だと言っても信じる人がいるだろう。きっと息子は、この小さな女の子が好きなのだと静華は思った。最近も、ベッドに突っ伏して、ミミズが這ったような拙い字でラブレターを書いていた。自分が母親でなければ、息子の書いた字だとは到底判別できない。まるで、なにかの暗号みたい。【おひめさまへ ぼくは、きみにひとめぼれしました】そんなことを書いていたかと思えば、大好物のフライドチキンも激辛ラーメンも食べなくなり、ダイエットまで始めた。――男の子がダイエットを始めたら、それは恋の始まりよ。静華は、ぽん、と息子の後頭部を叩いた。「じゃあ、みんなでワンタン食べに行きましょうか。さ、乗って。雫さん、ご一緒しましょう」雫は笑顔で頷いた。杏は車に乗り込むとき、「おばちゃん、ありがとう」と可愛らしくお礼を言った。静華は車を運転しながら、バックミラーで後部座席の様子を窺った。妊娠中、女の子が欲しくてたまらなかった。結局生まれたのは息子の湊だったが、今、杏を見ていると、心の底から愛おしいという気持ちが湧き上がってくる。
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第90話

女の掌の中で、スマートフォンがぶるりと震えた。律:「?」そして、間髪入れずに次のメッセージが届く。律:「どうした」雫はそのメッセージを見ると、こめかみを押さえ、再び画面を暗くした。-静華は赤信号で車を停めると、弟にメッセージを送った。【さっき知り合ったお友達なんだけど、娘さんが心臓病なの。だから、あなたのアカウントを教えといたわ。ちゃんと追加してあげてね】律の性格からして、友達申請を承認しない可能性がある。そこで静華は、さらにメッセージを重ねた。【私の顔を立ててちょうだいよ。医者としての良心はないわけ?】律からの返信はない。もし車の中に誰もいなければ、すぐにでも電話をかけてまくし立てるところだが、今は耐えて文字を打つしかない。【その親子、今私の車に乗ってるのよ。これからあそこのマンションの前のワンタン屋さんに食べに行くの。その子、すっごく可愛いのよ。一目見れば、うちと縁があるってわかるわ。それに、湊の隣の席なんですって。湊ったら最近ダイエット始めちゃって、学校に行くのに香水までつけていくの。絶対恋してるわ……】それでも律からの返信はない。代わりに、後部座席に座る雫のスマートフォンが、またぶるりと震えた。【これ以上黙っているなら、電話をかける】雫は慌てて文字を打ち込んだ。【申し訳ありません、柏木先生。先程は誤ってキーボードに触れてしまいました】そして、もう一文付け加える。【お騒がせしました】【これはプライベート用のアカウントだ。病状について相談があるなら、火曜か木曜の外来で俺の診察を予約してくれ】律から送られてきたその言葉に、雫はしばし沈黙した。どうしてうっかりキーボードなんかに触れてしまったのだろうと、後悔が押し寄せる。しかも、よりにもよって気まずい薔薇のスタンプまで送ってしまうなんて。相手の事務的で冷たい口調に、彼女はそっと画面を消した。数分後。スマートフォンが、また震えた。【火曜の午前はもう予約で埋まっている。急ぐなら、予約を追加することも可能だ】雫は、きゅっと唇を噛む。【いえ、結構です】そして、一言付け足して送信ボタンを押した。【お手数はおかけしませんので】それは、この上なく丁寧で、他人行儀な、事務的な言葉だった。-雫にとって、柏
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