All Chapters of 澄乃の月、あの日の約束: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

美咲は車から降りるなり、慌てて地下室へ向かった。予想通り、宗真がそこにいた。充血した目は、今にも飛びかかって噛みつきそうな猛獣のよう。来る途中、両親から別荘で起きたことを聞かされていた美咲は、思わず一歩退いたが、鋭い目をした静江に腕をつかまれ、そのまま引き寄せられる。静江は美咲のふくらんだ腹を指さし、誇らしげに宗真に見せつけた。「このお腹の子こそ、あんたの本当の跡継ぎよ!どうせ澄乃さんとは離婚したんだし、今日のうちに美咲さんと入籍して、神城家の正式な嫁にしなさい!」突然の「朗報」に、美咲は頭が真っ白になる。駆けつけた藤崎夫妻も上機嫌で、すっかり未来の義父母の顔をしていた。「美咲は私たちのたった一人の宝物です。そのうえ、神城家の跡継ぎまで身ごもってるのですよ。結婚式は最高級でやってもらわないとね。みんなを招待して、祝儀もたっぷりと……160億は欲しいです。美咲が宗真さんを好きじゃなければ、バツイチ男なんて絶対に嫁がせなかったんですから。それを考えれば、この額だって安いもんですよ」その強欲ぶりに、静江は眉をひそめかけたが、それより先に宗真が狂ったように笑い出した。「宗真……?どうしたの?」息子の異変に、静江は不安を覚える。だが、その手を宗真は振り払った。「澄乃のお腹の子が『父親不明』だって?……澄乃のお腹にいたのは、間違いなく俺の子だ!」真っ先に悲鳴を上げたのは美咲だった。「宗真さん、何を言ってるのですか!?そんなこと言ったら、私は世間の噂で殺されちゃいます!」だが、宗真はもう彼女の望む言葉には耳を貸さなかった。彼女の腹を指差し、怒りを込めて一語一語、叩きつける。「『父親不明』なのは……おまえの腹の子だ。おまえをかばうために、澄乃にあんな汚名を背負わせた。おまえが澄乃を追い出し……俺と澄乃の子を殺したんだ!」その場の全員が凍りついた。最も信じられないという顔をしたのは静江だった。「まさか……メディアの前でも、この前私の前でも、あんたは……」だが、宗真の苦痛に歪んだ表情を見て、静江はようやく理解する。自分の手を見つめ、呆然とつぶやいた。「澄乃のお腹の子……あれは神城家の血筋だったのね……私は……なんてことを……!」藤崎夫妻も何か言おうとしたが、自分たちの娘の顔が血の気を失ってい
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第12話

このプールは深さが二メートルもあるうえ、今は秋の終わり。藤崎夫妻の年老いた身体では、一日一晩どころか、一時間ももたないだろう。生きたいという本能がすべてに勝り、典子は悲鳴のように宗真の名を叫んだ。「三年前のパーティーで、澄乃は誰かに薬を盛られたのよ!」宗真の瞳孔が大きく開く。「今、何て言った?」「澄乃に薬を盛ったのは、他の誰でもない。助けたふりをしていた美咲なの!あのとき澄乃を襲おうとした連中も、美咲が前もって雇ったのよ!」宗真の合図で、ボディーガードたちは藤崎夫妻をプールから引き上げた。美咲は震えが止まらず、声まで震わせながらも必死に否定する。「違います!このクソババアが嘘を言ってます!宗真さん、信じて!もし私が本当にお姉ちゃんに薬を盛って、あの連中を呼んでたなら、どうして自分からあなたに知らせに行ったりするの?」水から引き上げられたばかりの典子は、すでに体が限界に近かった。そこへ容赦なく胸を蹴られ、激しく血を吐く。正雄はもう堪えきれず、立ち上がるや美咲の頬を思いきり叩いた。「この人でなしが!母親にこんな真似をするなんて……!私たちはあのとき、本当に目が曇っていた……おまえのために澄乃を追い出したなんて!」正雄の怒声とともに、三年前の真相がすべて暴かれた。――澄乃が神城家に嫁いだ当初、美咲は嫉妬に燃えていた。藤崎夫妻に頼み込んで一緒にパーティーに出席し、澄乃が両親と話している隙にワイングラスへ薬を入れた。さらに、事前に雇った男たちを二階の部屋で待たせていた。計画では、人前で澄乃が複数の男と一緒にいるところを押さえられれば、神城家は絶対に彼女を許さず、追い出される。そうなれば、自分が「奥様」の座を奪える……はずだった。しかし、そこへ京浜の西園寺(さいおんじ)家の跡取りが突然現れ、「具合が悪い」と部屋に押し入ってきた。計画の続行は不可能になり、美咲はとっさに心配する妹のフリをして宗真のもとへ。澄乃が薬で意識を失っていると告げ、彼を現場へ連れて行った。こうして恩を売ったのだ。その恩を盾に、美咲は少しずつ宗真に近づき、少しずつ我慢の限界を試していった。やがて宗真の心の中に、自分の居場所を作ることに成功し、そして今回、ついに澄乃を神城家から追い出したのだ。だが正雄は、その一部始終を暴いた。それでも美
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第13話

悠真は肩幅が広く、腰は引き締まっていて、整った顔立ちをしていた。普段から多くの女性が近づこうとしたが、誰一人として受け入れたことはない。そのため京浜の社交界では、悠真は女に興味がなく、修行僧にでもなるのではと噂されていた。だが今、彼は歩く速度までゆっくりと落とし、腕の中の澄乃を起こさないようにしている。到着するとすぐ、京浜で一番の特別病棟を手配し、澄乃をそこへ運び入れた。目を覚ましたとき、澄乃が見たのは、紺色のカシミヤコートを着て、ベッドのそばでリンゴを丁寧に剥いている悠真の姿だった。彼の指先でくるくると回る丸いリンゴは、古代ギリシャの彫刻のように美しかった。「起きた?」悠真の瞳は驚くほど澄んでいて、その視線には人を引き込むような力があった。「ちょうどよかった、リンゴ剥いたけど、食べる?」気がつけば、澄乃はそのリンゴを受け取っていた。悠真は慣れた手つきで彼女の前髪をそっと払う。まるで、ずっと前から知り合いだったかのような自然さだ。澄乃は反射的に首をすくめたが、どうしても思い出せない。彼といえば、京浜の西園寺家当主で、メールで数回やり取りをしただけのはずだった。そんな澄乃の戸惑いを見透かしたように、悠真は手を引き、名残惜しげに言う。「忘れたのか?三年前のパーティーで、もう会ってる」脳裏に、断片的な記憶がよぎった。薬のせいで意識が朦朧としていたときに聞いた声。そして、宗真が部屋に入ってくる前、廊下に立っていた悠真の姿――本来なら、一度でも会えば忘れられないような人物だ。だが、あの日の出来事はあまりに苦い思い出で、澄乃は無意識にその記憶を封じ込めていた。悠真の存在ごと。「……あなた、だったのね!」ようやく思い出した澄乃は、少しばかり気まずそうに言った。「気づかなくて……西園寺社長、失礼しました」その呼び方に、悠真の眉がわずかに動く。「悠真だ」数秒の間をおいて、澄乃はそれが名前を呼べという意味だと理解する。だが、それはあまりにも距離が近い気がして……しかし、彼の目は真剣そのものだった。澄乃はためらいながらも、ぎこちなく口にする。「……悠真」その瞬間、悠真の口元がほころび、まるでご褒美をもらった子どものように満足そうな笑みを浮かべた。「じゃあ、俺は澄乃と呼ぶ」澄
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第14話

澄乃が反応するより早く、悠真の母、西園寺由美子(さいおんじ ゆみこ)は腕からアンティークのバングルを外し、彼女の手首にはめた。しわの奥まで隠しきれない笑顔で言う。「写真よりずっと可愛いお嫁さんね。私、本当に気に入ったわ!」「いえ……奥様、私は……」頭が真っ白になっていた澄乃は、「写真より可愛い」という言葉の意味を考える暇もなく、必死に自分と悠真の関係を説明しようとした。だが、言葉を挟む間もなく、由美子は彼女の手を引き、右から左から見回しながら嬉しそうに、そして心配そうに言った。「こんなに痩せて……うちのバカ息子にいじめられたんじゃないでしょうね?あんたはもう西園寺家の娘同然よ。もし息子が手を出したら、お母さんが一ヶ月は寝られないくらいにお灸を据えてやるから!ほら、この頬……こんなにも痩せちゃって。山野(やまの)さん!私が何十年も寝かせた薬草を持ってきて!それと山で採れた天然の高麗人参も!ねえ、澄乃ちゃん、何か苦手な食べ物はある?お母さんね、十年以上台所に立ってないけど、昔は腕に自信があったのよ。外で言われてる『女は痩せてる方がいい』なんて嘘。母さんがぷくぷくに可愛く育ててあげるわ。あんたはこの世で一番きれいな娘なんだから!」澄乃は、親族の年長者からこんなふうに心配されたことなど一度もなかった。彼女は五歳の時、藤崎家に「拐われた」のだ。最初は、自分が本当の娘ではないことを知らず、暴言や虐待も「自分がいい子じゃないからだ」と思い込んでいた。もっと素直で、もっと言うことを聞けば、きっと好きになってもらえると信じて――必死に勉強し、成績は常に学年一位。家事もほとんど一手に引き受けた。それでも藤崎夫妻の態度は変わらず、母は狂気じみた目でこう言った。「私の娘が拐われたんだから、私も他人の娘を奪う。それでやっと釣り合いが取れるのよ!」父は耳をねじり上げながら怒鳴った。「占い師は『金運に恵まれる』って言ったのに、ちっとも役に立たないじゃないか!そんな役立たずなら、山に捨てて狼に食わせてやる!」やがて自分が本当の娘ではないことを知った。彼らにとって自分は、無能な怒りと金欲をぶつけるための道具にすぎなかった。不思議なことに、占いの通りになったのか、澄乃を迎えて二年後には生活が少しずつ上向き、借金を返済した。小さな商売を始め
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第15話

結婚式の招待状を受け取ったとき、宗真は地下室で泥のように酔いつぶれていた。かつては誰よりも誇り高く、揺るぎない存在だった男が、自分がこんなふうに堕ちる日が来るとは思いもしなかっただろう。いや、正確には、澄乃を初めて見た瞬間から、彼は心の奥で誓っていたのだ。この女を、絶対に手放さないと。今でも鮮明に覚えている。あの冬の夜、痩せた小さな少女が木の下で膝を抱え、ほとんど裸同然の姿で凍えるように震えていたことを。鋭い寒風に打たれながらも、その瞳だけは夜空の星のように美しく光っていた。宗真は運転手に車を止めさせ、自分のコートを脱いで少女の肩に掛けた。だが、少女は警戒するように身を引き、吐き捨てるように言った。「どっか行って!」それが、彼女が彼にかけた最初の言葉だった。敵意と警戒、そして恐怖が入り混じった声。だが宗真の耳には、その奥に微かな寂しさが響いていた。まるで、餌を差し出されても背を丸める野良猫のように。夜の闇の中、警戒心に満ちた瞳を光らせながらも、最終的には差し出された手を舐めてしまう、そんな小さな命。理由なんてなかった。ただ、どうしようもなく欲しかった。そして、野良猫に餌をやるときと同じような光景が起こった。宗真は噛まれたのだ。少女は何の武器も持っていなかった。代わりに、乾いた唇を固く噛み締め、怒りをぶつけるように宗真の手の甲に深く食らいついた。痛みよりも、その唇が触れた瞬間の柔らかさのほうが、宗真の心を強く揺らした。血がにじんでも、宗真は手を引かなかった。先に慌てたのは少女のほうだった。血のついた唇が一層艶やかに見え、まるで夜の闇に紛れて現れた、世間を知らぬ吸血鬼のようだった。少女は思わず唇を舐め、震える声で問う。「……なんで、避けないの?」宗真は苦笑し、手を伸ばして小さな頭を優しく撫でた。「ここは寒すぎる。一緒に来ないか?」けれど、小さな野良猫は首を横に振った。「私を愛してくれる人なんていない。信じてくれる人もいない。ここで死んだって構わない」――愛されたいだけなのだ。それは、あまりにもささやかな願いだった。神城家の跡取りとして父を早くに亡くし、親族の野心に囲まれて生きてきた宗真は、心の内を人に見せることを恥としてきた。そして、愛などこの世で最も無意味なものだと信じていた。愛は権力
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第16話

澄乃と結婚するため、宗真は神城家の本家で七日七晩、跪き続けた。灼熱の陽射しが容赦なく照りつけ、脱水で視界が白く霞み、ついには意識が遠のいた。神城家の年長者たちが家の掟を振りかざしたときも、一切怯まず、そのすべてを受けた。ICUに運ばれても、宗真の頭にあったのは、澄乃と一緒にいられるなら、何も恐れるものはない、ということだけだった。二人の間にはずっと子どもができなかった。医者は「体には何の問題もない。ただ体質の相性が悪く、妊娠の確率を下げている」と告げた。だが澄乃は知らない。医者が宗真にだけ打ち明けたもう一つの可能性を。「体質の不一致の背景には、あなたの病的な占有欲が関係しているかもしれません」宗真はそれを澄乃に言えなかった。長年の自信が、その瞬間に崩れた。もしこのせいで澄乃が自分を嫌い、離れていくことになったら、それだけは絶対に受け入れられない。そこで宗真は、理由を「遺伝子に反発し合う因子がある」と偽った。遺伝子レベルの問題は現代医学では解決できないと。そして、このまま子どもを持たない人生を受け入れるようにと、澄乃を説得した。宗真にとって、子どもの有無はどうでもよかった。澄乃がそばにいてくれるなら、それでいい。だが、澄乃が日ごとに眉を曇らせ、ついには注射や薬まで用意し始めたのを見て、宗真は決断する。精神科医の治療を受け、澄乃への占有欲の「病的な部分」を別の対象へ移すことにしたのだ。ちょうどその頃、あるパーティで美咲が澄乃を助けた。医師は「これは絶好の機会です」と言った。そして、美咲が「転移先」となった。医師は毎週のように宗真に催眠をかけた。最初は強く拒んでいた宗真も、「これは澄乃さんへの恩を返すだけだ」と説得され、少しずつ受け入れていった。やがて、美咲の機嫌を取るために澄乃を後回しにすることも増えた。医師は「治療が効き始めている」と言ったが、宗真は不安だった。愛は切り分けられるものではない、そう思った。すべてを澄乃に打ち明け、治療をやめるつもりだった。しかしその矢先、澄乃が排卵誘発の注射を打ち、匂いのきつい漢方を何杯も飲み、吐いてはまた飲む姿を目の当たりにする。その苦しみに胸を締めつけられた宗真は、永久避妊手術の予約を入れた。だが、手術室に入る直前、澄乃から届いたのは、妊娠が確定したエコ
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第17話

澄乃は、悠真のプロポーズを受け入れた。これが、神城家と宗真から永遠に離れるための代償なのだろう、と彼女は思った。今や神城家と張り合えるのは、西園寺家しかない。悠真と結婚すれば、宗真がどれほど望んでも、強引に彼女を連れ戻すことはできない。それに悠真も、由美子からの結婚催促から解放される。澄乃は心の中で決めていた。悠真との結婚式は形だけのもので、礼とし「Sumino no Tsuki」の著作権を無条件で西園寺家に譲る。結婚後も悠真の私生活には干渉せず、彼が本当に愛する女性を見つけたら、潔く身を引くつもりだった。こうすれば、お互いに必要なものを得られ、負い目も生まれない。その考えを正直に悠真に打ち明けたが、彼は予想に反して喜ぶ様子を見せなかった。複雑で、どこか寂しげな瞳でじっと彼女を見つめ、まるで飼い主に捨てられた小動物のように言った。「それが君の望みなら……俺は構わない」澄乃はその視線を避け、見なかったことにして、心の中の決意を揺るがせなかった。そう思っていても、由美子の存在は澄乃の心を揺さぶった。西園寺家に住むようになってからの数か月、由美子は心から澄乃を娘のように可愛がってくれた。彼女の好みをすべて覚え、毎日自ら台所に立って工夫を凝らした料理を作り、少しでも多く食べさせようとする。澄乃がピアノ好きだと知れば、すぐに音楽室を改装し、ウィーン音楽院で教える友人に頼んで遠隔レッスンまで用意した。デザイン室で図面を引いていれば、一緒に作品の細部を熱心に語り合い、毎回的確なアドバイスをくれて、新しい発想を引き出してくれる。このとき澄乃は初めて知った。由美子は西園寺家とは別に、自ら立ち上げた会社を経営し、誰にも依存せず、自分の力だけで成功してきた女性だということを。「女は誰にも依存しちゃいけないのよ。藤のツルみたいに誰かに絡みつくんじゃなくて、自分で大きな木になって、枝を広げて、全部の風雨から自分を守るの。お母さんはそうやって生きてきた。澄乃ちゃんも、きっとそうなれるわ」かつて藤崎家では、母と呼ぶべき女が狂ったように睨みつけ、愛してると言いながら殴り、「なんで私の娘の代わりに、この家で贅沢できるの」と罵った。神城家に嫁いでからは、義母が「あなたのため」と言いながら外出も許さず、自分が作った「Sumi
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第18話

ドアを開けると、壁一面に澄乃の写真が並んでいた。学生時代、教壇の前で問題を解いている姿。教室で机に向かい、必死にペンを走らせている姿。卒業式で口元をほころばせ、カメラに向かってピースしている瞬間。大学のサークルで活動に参加している姿――ほとんどが、澄乃が結婚する前の時間を切り取ったものだった。それだけではない。澄乃がかつて使っていたノート、行方不明になった消しゴムの半分、壊れた定規まで、机の上に整然と並べられている。「これ……どうして……」澄乃は信じられないというように声を漏らす。由美子が微笑んで言った。「もちろん、全部悠真のコレクションよ。あの子、小さい頃は私も父親も仕事で忙しかったから、港南で暮らす伯母の家に預けてたの。そこであなたを一目見て気に入ったくせに、肝心なところで臆病だから、ずっと話しかけられなかったのよ。その後、父親に海外修行に出されて、帰ってきたときにはあなたはもう宗真さんと一緒だった。あの時の悠真ときたら……紹介した女の子なんて全部断って、毎日この写真だけで生きてるようなもんだったわ。あんなに明るかった子が、無愛想な仏頂面になっちゃったんだから」澄乃の脳裏に、ふといくつかの断片的な記憶がよみがえった。学生時代、いつもそばについてくる小さな男の子がいた気がする。けれど、ある日突然、その子は姿を消した。最初は妙に落ち着かず、違和感ばかりが残ったが、やがて時間とともにその存在は薄れていった。そういえば、由美子と初めて会ったとき、「写真よりずっと可愛い」と言っていたっけ。まさか、その小さな男の子が悠真だったなんて。そんな昔から知り合っていたなんて――「ったく、あのバカ息子、あんなに好きなくせに取引結婚なんて受け入れて……どうせ裏じゃこっそり泣いてたに決まってるわよ」そのときの悠真の寂しそうな目を思い出し、澄乃の胸に痛みが走った。少し、酷いことをしたのかもしれない。由美子は続けた。「あの子ね、あなたには黙ってるけど、こっそり会社を作って『Sumino no Tsuki』シリーズをそこの看板商品にするつもりなのよ。利益も全部、あなたの名義に入るようにしてる。心臓を差し出せって言われたって、きっと迷わず差し出すわね。ほんと、バカで可愛い子なのよ。母親としては、あの子が好きな人と結婚
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第19話

西園寺家の披露宴は、盛大かつ華やかに催された。国内の名士だけでなく、港南市からも多くの顔ぶれが集まり、会場は煌びやかな衣装と香水の香りに満ち、社交の場らしい笑い声と挨拶が絶えなかった。久しぶりに姿を現した宗真に話しかけようと、何人もがグラスを手に近づいたが、すべて断られた。表面では何も言わないが、背後では囁きが飛び交う。「宗真さんって、前はあんなに自信満々だったのに……なんだか一気に老け込んだみたい」「知らないの?奥さんと離婚して、それきり消息が途絶えたのよ。しばらくは探し回って、もう狂気じみてたって」「嘘……あれだけ愛妻家だったのに?」「愛妻家でも、結局は奥さんの妹と関係を持って、メディアの前で『そっちの子が自分の子だ』って認めたのよ。知ってる顔と心は別物ってやつ」「それは自業自得だわ。聞いた話だと、あまりの落ち込みように精神科まで通ってたらしいけど……この様子じゃ効果なさそうね」宗真は強い酒を一口であおり、胸の奥の苦味と寂しさを押し込めた。会場に入ったときから一通りの顔ぶれを確認していたが、大半はすでに調べ終えている相手。数人は軽く探りを入れてみたが、求めている情報は得られなかった。結局、この披露宴も時間と労力の無駄か。そう思い、せめて酒で酔い潰れ、夢の中で澄乃に会えることを願おうと席を立った。そのとき、数人の給仕が果物皿を運んで通りかかった。皿の上には、形の整ったリンゴがいくつも並んでいる。なぜか、そのリンゴが宗真の視線を引き寄せた。――澄乃の大好物だ。足音を忍ばせ、宗真は給仕たちのあとを追った。厚い絨毯の敷かれた細長い廊下。踏み出す一歩一歩が、抑えきれない鼓動となって胸を打つ。幸い、今日は客も多く、見慣れぬ顔も珍しくない。給仕たちは披露宴の喜びに浸っておしゃべりに夢中で、背後の男には気づかなかった。やがて、彼女たちは一室の扉を開いた。「奥様、式の前に少し果物を召し上がってくださいませ」室内から聞こえた声に、宗真は思わず立ち止まった。この呼び方――中にいるのは、悠真が今まさに迎えようとしている花嫁だ。ここで踏み込めば、見つかったときあまりにも無作法になる。胸にかすかな期待が灯り、次の瞬間、酒が醒めたときのように重く落ちた。胃の奥が、また疼き出す。発作は容赦なく襲って
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第20話

澄乃は一瞬、固まった。入ってくるのは悠真だと思っていた。笑顔まで準備していたのに、そこに現れたのは、今この瞬間も、この先の人生でも二度と会いたくなかった男、宗真だった。笑みは瞬時に凍りつき、代わりに警戒が浮かぶ。宗真はそんなことなど気にも留めない。澄乃に会いたい――その想いで、もう狂いそうだった。出発前、せいぜい澄乃に関する手がかりが得られれば上出来だと覚悟していた。まさか、こんな形で本人と再会するとは、この上ない幸運としか言いようがない。身体が先に動いた。澄乃を力いっぱい抱きしめる。「澄乃……俺の澄乃……会いたくて会いたくて、もう狂いそうだった。本当に、もう限界なんだ……」抱きしめて初めて、自分がまだ生きていると感じた。だが澄乃は、全力で突き飛ばした。「離して!」その声は、あの凍える冬の夜に聞いた叫びと重なった。宗真は一瞬、時空がねじれたような錯覚を覚える。そうだ。一度この小さな猫を手なずけた自分なら、二度目もできるはずだ。宗真は勢いよく飛びかかり、壁に押し付けた。その手は猫の後頭部を守りながら、血走った瞳で顔を両手に挟み、ずっと欲してやまなかった唇をむさぼるように奪った。痛みに澄乃は眉をひそめる。「離せ……っ!離してってば!」必死に宗真の肩を押し、舌が唇をこじ開けようとした瞬間、思い切り噛みついた。「っ……!」血の味が口内に広がり、宗真の動きが止まる。澄乃はその隙を逃さず、部屋を飛び出した。数歩進んだところで、温かな胸にぶつかる。「澄乃、どうした!?」悠真の声。そして、その視線の先には、狂気をはらんだ目で立ち尽くす宗真。「離せ!澄乃は俺のものだ!」宗真が飛びかかり、悠真の顔面に拳を叩き込む。悠真も応じる。「澄乃はもうお前の妻じゃない!今は俺の妻だ!」「違う!澄乃は俺のものだ!永遠に一緒にいるって言った!」「手のひらで大事に守ってきた人を、お前は散々傷つけた!そんな奴のところになんて戻るはずない!」二人の巨体がもつれ合い、凄まじい取っ組み合いになる。澄乃は慌てて警備員を呼び、ようやく二人を引き離した。悠真のタキシードの蝶ネクタイは半分ちぎれ、整った顔は青あざだらけだ。澄乃は胸を締めつけられながら、血を拭ってやる。「痛む?痛かったら
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