All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 221 - Chapter 230

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第221話

「うん、ケンカも、揉めたりもしてなかったの」綾は美穂の問いに、ふわりと笑ってみせた。その表情には、隠しきれない幸せがにじんでいる。「確かに秀一は弘樹さんの前で、私のことをいろいろデタラメ吹き込んでたけど、弘樹さんは全然怒らなかったの。むしろ私の体のほうを心配してくれて。ねぇお母さん、弘樹さんって、私が思ってたよりずっと私のこと好きかもしれないわね!」実際、秀一に過去を暴露された瞬間、綾は血の気が引いて震え上がった。移動用ベッドから転げ落ちる勢いで弘樹にすがりつき、足にしがみついて泣きながら謝ったのだ──若気の至りだった、だから見捨てないで、と。そう必死に訴えた彼女を、弘樹は驚くほど静かに受け止めてくれた。優しく抱き起こし、ハンカチで涙を拭いながら「気にしてない、俺は見捨てたりしない」と言ってくれたのだ。その一言が嬉しくて、綾は丸一日浮かれっぱなしだった。以前の弘樹の冷たさも、きっと仕事で余裕がなかっただけ──そう思えるほどに。だが、綾の話を聞く美穂の眉間には、逆に深いしわが寄っていた。いくら懐の深い男でも、愛している相手の過去を知ったときには、多少なりとも動揺するはずだ。嫉妬や独占欲、疑い──そういう色がまったく見えないのは、果たして弘樹の愛が深いからか、それとも……美穂の顔がさらに険しくなる。けれど今日ここに来た本題は、弘樹のことではない。ひと呼吸おいて、美穂は切り出した。「綾。今回の事故、いったいどういうことだったの?どうして車に撥ねられるようなことになったの?」「そんなのもちろん、玲のせいよ!」綾は玲の名前を出した途端、それまでの笑顔が消え、憎しみで身震いした。秀一が玲の味方をしたせいで痛い目も見たはずなのに、綾は喉元過ぎれば熱さを忘れるタイプで、美穂を前にした途端、怒りの矛先を迷いもなく玲へ向けた。もし玲が弘樹を誘惑しなければ、あの日、自分がカッとなって玲を車で追い掛けたりしなかった。もし玲を道連れにできていれば、自分だけが子宮を損傷し、母になる資格を失いかけるなんてことにはならなかった。そう思えば思うほど、綾の胸には怨みが積もっている。「玲はまだ弘樹さんを諦めてないのよ!友達が撮って送ってくれた写真を何度も確認したもん。玲、前と別人みたいに色気出して……あれが誘惑じゃなかったら、なんなのよ
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第222話

美穂は口元にわずかな笑みを刻み、低く問いかけた。「綾。あんたを撥ねたあの運転手、どんな人か調べた?」「調べたわ。ただの一般人よ」綾は鼻で笑った。「あの日、誰かを迎えに行くのに急いでたみたいで、スピード出しすぎたんだって。事故のあと、自分が訴えられるかもしれないってわかってビビり散らして、顔さえ出してこないの。たぶん、扱いやすいタイプだと思うわ」「そう。だったら、この好機を逃すわけにはいかないわね」美穂はスマホを手に取ると、落ち着き払った声で続けた。「綾、あんたからその運転手に連絡しなさい、『罪を償う機会を与える』って」この事故を利用すれば、玲を押さえ込むことができるかもしれないと、美穂は思った。……そのころ、外の嵐はいつの間にか過ぎ去り、翌朝には明るい陽光が差し込んでいた。玲は仕事場で制作の合間、恵子が届けてくれたベーコンサンドを頬張っていた。これも秀一が気を利かせ、「作業に没頭して食べそびれないように」とわざわざ頼んでくれたものだ。彫刻作業は体力を使う。いくら一日三食をちゃんと取っていても、お腹がすぐ空く。かつて高瀬家にいたとき、玲はまともに食べられない日々が長かった。けど今、自分が空腹かどうかを、気にかけてくれる人がいる。その事実が胸をじんわり温め、サンドイッチはいつもより何倍も美味しく感じられた。ただ唯一の問題は、昨日、秀一に長くキスされたせいで、舌がまだ少し痺れていることだった。そんなタイミングで、玲のスマホが突如震えた。画面には「藤原美穂」。予想もしない相手だった。通話に出ると、相手の声は妙にゆったり、そして妙に意味ありげだった。「玲さん、どうして私が急に連絡したか……もうわかってるわよね?最初は何があったのか知らなかったけど、綾から全部聞いたの。あんた、綾の婚約者を誘惑した上に、彼女を車の前に突き飛ばしたそうじゃない?そんな法を犯すようなことをしておいて……今度ばかりは秀一さんでもあんたを庇いきれないわよ」美穂は演技じみたため息をつきながら続けた。まるで玲がすでに囚われの身であるかのように。玲は数秒、言葉を失ったが、次の瞬間、状況を理解した。「綾の婚約者を誘惑した」のくだりはおいておく。そういう綾からの言いがかりなら珍しくない。しかし──「綾を車の前に突き飛ばした」とは?
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第223話

「玲、綾は今回、子宮が破裂しかけたの。どう考えても重傷に分類されるわ。国の法律では、故意に人を重傷に追い込んだ場合、傷害罪として扱われて、十五年以下の懲役が課せられるの。玲さんってまだ二十一歳でしょ?もし十年も刑務所に入ることになったら、女として一番いい時期が全部無駄になってしまうじゃない」美穂は、さも心配しているかのような声色で、畳み掛けるように続ける。スマホ越しで顔は見えないはずなのに、玲には今の美穂がどんな顔をしているのか、容易に想像できた。玲は手にしていたサンドイッチを置き、淡々と切り込んだ。「美穂さん、わざわざ事故の運転手を買収して、こんな作り話まで用意したってことは……私を刑務所に入れたいだけじゃないですよね?」玲の言うとおりだ。玲は秀一の妻ではあるものの、美穂にとって直接利益が脅かされる存在ではない。そんな相手ひとりのために、ここまで手を回す必要はない。美穂は満足げに笑みを深め、むしろ嬉しそうに言った。「その通りよ、玲さん。確かにあんたは娘の婚約者を奪おうとしてたけど、それは若い子同士の揉め事だし、私個人はあんたに恨みなんてないわ。けれどね、この数年、秀一さんは藤原家に対してあまりにも強圧的すぎたの。だから玲さん。もしあんたが、これからこちら側に立って、秀一さんの動きを少しでも見張ってくれるなら……今回の件は、私が見逃してあげてもいいのよ?」美穂にとって、自分の利益が最優先だ。特に、十三年前のあの拉致事件は、ダモクレスの剣のように、いつまでも彼女の頭上に吊るされている。だから美穂は、秀一のそばに置ける「目」が欲しかった。何があったとき、秀一の動きに即座に対応できるように。今、玲の弱みは自分が握っている。そして綾のスマホには、弘樹と玲の写真も残っている。ここまで手札が揃っていれば、玲が逆らえるはずがない――美穂は、そう思い込んでいた。だが、数秒の沈黙のあと、玲は大きくため息をついた。つい折れてくれるのかと美穂が思った瞬間、玲はふっと笑った。「美穂さん……どうやら、弘樹が自分の失敗について、何も話してなかったみたいですね」もし弘樹が今までの失敗談を前もって美穂に伝えていれば、美穂は玲と秀一を分断しようとすることがどれだけ無意味か理解できただろう。言い終えると、玲は美穂が何か言う前に電話を切
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第224話

「えっ……秀一さん、まさか本当に警察に行くつもりなんですか?」玲は驚き、思わず問い返した。「藤原家のような名家って、警察沙汰になるのを嫌うんじゃないですか?体裁もありますし、会社の評判にも……」玲は今でも忘れられない。昔、高瀬家で「靴を盗んだ」と濡れ衣を着せられ、通報しようと口にした瞬間、弘樹の顔が陰り、まるで厄介者を見るような冷たい目を向けてきたあの時のことを。けれど秀一は、迷うどころか自ら動こうとしている。――藤原家や会社の影響を、本当に気にしないのか?電話から返ってきた秀一の声はまっすぐで、まるで玲の耳元へ顔を寄せて囁くようだった。「玲。君が理不尽に傷つけられて、それを黙って見ているほうが……俺にとってよほど体裁が悪い」そもそも秀一は、玲が巻き込まれた事故について、最初から徹底的に調べるつもりだった。ただここ数日、ふたりの距離が一気に縮まり、心が通じ合った幸福に浸っていたせいで、行動が後回しになっていただけ。綾と美穂が、自ら墓穴を掘りにきてくれたなら、その望みを叶えてやるだけだ。玲は声を出さなかったものの、真っ赤に染まった頬と、震えるほど甘く痺れた胸の内が、そのまま答えになっていた。……正直、今すぐ秀一と「勉強」がしたい。今日は、何時間でも。一方その頃。電話を切られた美穂は、胸の奥にイヤな予感が広がった。理由はわからないが、今回の反撃はむしろ自分を追い詰めるのではないかという不安があった。そう考えていると、余計に落ち着かず、娘へ視線を向ける。「綾……ねえ、本当に玲は今でも弘樹さんのことを諦めてないのよね?まだ弘樹さんに執着してるのよね?」もし玲の気持ちがすでに変わっていたら。もし秀一を好きになっているのだとしたら――さっきの「勧誘」は、とんでもなく愚かな行為になってしまう。だが病室のベッドで美穂が作ったスープを飲んでいた綾は、妙に落ち着き払っていた。「もちろんよ。だって、私が弘樹さんを奪ったとき、玲がどれだけ惨めそうだったか見たでしょ?それに、送った写真だってそう。好きじゃなきゃ、あんなふうに弘樹にしなだれかかったりしないって」綾は、玲と美穂の電話のやり取りもすべて聞いていた――玲なんて、ただの虚勢だ、と。「それに、仮に玲が今日のことを秀一に告げ口したとしても、何も変わらないわよ。秀一なんて、
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第225話

制服姿の警察官たちが厳然と現れ、その先頭に立っていたのは――秀一の秘書である洋太だった。美穂と綾は、その光景に完全に固まり、不意を突かれたように言葉を失う。その間に、洋太は手帳を開きながら二人へ視線を向けた。「うちの社長と奥様は仕事が非常に立て込んでいて、直接お越しになる時間がありません。ですので、指定された代理人として、お二人にお伝えします。まず――藤原綾さん。あなたは昨日、わざと奥様の車を止め、挙げ句の果てに奥様の名誉を汚し、正気を失ったように奥様を強引に引っ張って車道へ連れ出し、危うく事故を起こすところでした。これにより社長は非常にご心配され、あなたを道路交通法違反および傷害未遂の二点で告訴することを決定しました。次に――藤原美穂さん。自分の娘があれほど愚かで無分別な行動をとっているのに、その管理を怠り、むしろ一緒になって暴れ、事故の運転手を買収しようとした上、偽証まで作って奥様を陥れようとした。これには社長も強い嫌悪感を示され、教唆犯罪と偽証の二点で告訴することを決めました。最後に――社長と奥様は、あなたたちの謝罪を受けるつもりも、和解するつもりも一切ありません。今回の件は、きっちり刑務所に入って、反省していただくことになります」洋太は手帳を閉じ、小さく息をつきながら警官に向き直る。「警察の皆さん、この二人の身柄をお願いします。ただ……特にベッドの方の彼女、下手をすると噛みついてくるかもしれません。お気をつけて」小声で、綾の「狂犬ぶり」まで伝える念の入れようだった。警官たちは一瞬目を見合わせた。洋太の話を聞いて、どう対応すべきか、ためらってしまうほどだった。しかし――当の綾と美穂は、もう限界に達していた。特に綾は、ここまで容赦なく言われ、秀一と玲の顔が見えなくても、二人が自分を嘲る姿が容易に脳裏に浮かぶほどだった。怒りで血が逆流し、下腹部が痛むほどに興奮する。「道路交通法違反?傷害未遂?そんなの全部、玲が弘樹さんに手を出したからでしょう!」玲が弘樹を誘惑しなければ、自分だって玲に絡む必要などなかったのだと、綾は叫ぶ。その言葉に、洋太はふっと笑った。秀一と玲から事前に指示されていた通り、彼はスマホを取り出し、画面を綾へ向ける。「奥様は社長と結婚してから、社長しか見ていません。あなたが見た写
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第226話

弘樹の金縁眼鏡の奥で、淡い色の瞳がわずかに揺れた。だが綾のもとへ歩み寄る頃には、すでにいつもの静かな表情へと戻っていた。「綾。俺が愛しているのはお前だけだ、玲なんかに興味があるわけがないだろ?あの日、藤原グループの前で玲を引き止めて、曖昧な言葉を口にしたのは、俺と美穂さんの目的が一致していたからだよ」自分は秀一と玲の関係を揺さぶり、玲を利用して、美穂と綾に手を貸すつもりだった、と。その一言に、綾の疑念は一瞬で霧のように晴れた。だが同時に、胸の焦りは強くなる。「じゃあ、最初からそう言ってくれればよかったじゃない!そしたら私、玲の車なんて止めなかったのに……!」弘樹は小さくため息をついた。「あの日、ずっと落ち着いて俺の話を聞いてほしかったんだ。説明しようとしたのに、お前があまりに感情的だったから……」綾は言葉を詰まらせた。確かにあの日は、写真と社員たちの噂のせいで、完全に頭へ血が上り、話なんて耳に入らなかった。自分はいつもそうだ。一度スイッチが入ると、周りが見えなくなる。そして美穂も、真っ青になった表情で全てを悟る。娘が告げた「玲が弘樹を誘惑した」という話は、完全な誤情報。本当はただの誤解で、むしろ自分たちのほうが悪かった。だが、もう取り返しのつかないところまで来てしまった。警察が来ている以上、玲が簡単に許してくれるはずもなく、秀一も引かないだろう。そう理解しつつも、美穂は最後の抵抗に出た。バシン――!甲高い音が病室に響き、綾の頬が大きく跳ねた。「なんてことをしてくれたの?あんたが勝手に暴れなきゃ、私が玲さんを冤罪で貶めるような真似をしなかったわ!玲さんは昔から素直で優しい子よ、あんたが言うようなことをするわけないじゃない!」怒鳴ったかと思えば、今度は急に猫なで声で洋太へ向き直る。「安東さん、誤解は全部解けましたし……綾が退院したら必ず玲さんに謝りに行かせるわ。だから今日は、警察の方々を連れて、もうお引き取りください」――いつものように、なかったことにして押し通すつもりだった。だがその浅知恵は、秀一にはお見通しである。洋太は、思わず笑いをこぼした。「美穂さん。綾さんが奥様を危険にさらしたこと、あなたがグルになって奥様を陥れようとしたこと……その全てがビンタひとつでチャラになると、本気で思ってるん
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第227話

奥様に手を出したあなたたちが悪かった――洋太のその皮肉が耳に届くと同時に、美穂の顔はゆがみ、ほとんど錯乱しかけていた。一方の綾は、もともと怪我で体が痛むうえに、美穂からの強烈な平手打ちで片側の頬が真っ赤に腫れ上がっている。その激痛の中で、綾もまた堰を切ったように叫び返した。「秀一のやつ、玲なんかのために私にこんな仕打ちだなんて、ひどすぎるでしょ!映像では玲が弘樹さんを誘惑してなかったとしても、普段はいつも弘樹さんに纏わりついるし、私を不快にさせて……あいつは弘樹さんを奪う気があるからに決まってるよ!第一、玲の誘惑が冤罪だとしても、もう一つあるでしょ?あの日、玲が私を強引に引っ張って道路に飛び出したせいで、私は大怪我をしたのよ!腹部をひどく傷めて、子宮まで危なかった。この責任はどうしたって玲にあるでしょう!私を捕まえるなら、玲だって一緒に捕まえなさいよ!」綾は、警察へ命令する口調で言い切った――自分だけが地獄を見るなんて、絶対に許さない。玲も道連れにしてやる。その言葉に、弘樹の目が鋭く細まった。彼は静かに拳を握りしめる。だがそのとき、先に口を開いたのは洋太だった。彼はゆっくりスマホを取り出し、微笑んだ。「綾さん、あなたが強気なのは道路に監視カメラがなかったことと、事故の運転手があなたの味方っていう、その二つの理由だけですよね?それに弘樹さんも真相が言えるわけがありません。まあ、その辺は全部理解しています。でもね、忘れてませんか?道路にカメラがなくても――車にはちゃんとついてるんですよ。しかも、うちの社長が奥様のために用意した特注車です。安全装備も録画機能もトップレベル。広角で、高画質のドライブレコーダーが、当日の一部始終を全部撮ってました。病院に来る前、私はその映像――綾さんが発狂して奥様を道路に引きずり出した瞬間を、警察へ提出しました。それで、運転手の口だけの証言、まだ必要だと思います?」洋太の言葉は軽いが、突きつけられた現実は容赦がない。人の嘘は、証拠の前ではなんの価値もないのだ。綾の表情が凍りつき、先ほどまでの自信は跡形もなく消えた。その瞬間、病室の扉が勢いよく開き、一人の中年男性が慌てて飛び込んできた。事故を起こした運転手だ。彼は警察を目にすると土下座でもしそうな勢いで泣き始めた。「刑事さん!すみませ
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第228話

次の瞬間、警察が近づき、美穂と綾を連行しようとすると、二人は人生で初めて大勢の前でこんな大恥をかき、しかも留置場行きだと悟り、感情が一気に崩れ落ちた。美穂は弘樹に向かって叫ぶ。「早く桜木家に連絡して!兄さんと俊彦さんに助けてもらうのよ!」「イヤだ、私は藤原家のお嬢様なの!まだ入院中だし、留置場なんて絶対イヤよ!」綾もまた弘樹を見つめ、手足をばたつかせながらしがみつこうとする。「弘樹さん、私、まだ怪我がちゃんと治ってないの。これからあんたの子を産むためにも、子宮を大事にしないと……警察に連れていかれるなんてイヤ!お願い、守ってよ、ねえ!」涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、腕を掴んで必死に泣き叫ぶ綾。しかし警察の手は容赦なく、結局二人は事故の運転手とともに、きっちりと連れ出されていった。洋太は任務を終え、手帳とスマホを手に持って、すぐに秀一のもとへ報告に戻っていく。病室には弘樹がひとり残された。俯いたまま、綾が連行されていくときに見せた痛ましい表情は、彼女の泣き声がエレベーターの奥へ消えるのと同時に、静かに消え失せていった。隣で控えている彼の秘書はその変化に驚くこともなく、ウェットティッシュを差し出しながら言う。「社長、綾さんが留置場に連れていかれましたが、助けて出す手配をしますか?」弘樹はティッシュを受け取り、綾に掴まれた腕を念入りに拭っていく。その白く長い指は赤くなるほど擦られていた。まるで触れられた痕跡ごと削ぎ落としたいかのように。そしてティッシュを丸めて捨て、低く冷えた声で答えた。「必要ない。綾は玲に何度も危害を加えてきた。留置場に入ったなら、しばらくは出さなくていい。玲のための、せめてもの復讐だ」一拍置き、感情を押し殺したまま続けた。「それと──綾はまだ身体が完全に治っていないうちに、やるべきことをやっておくように」「あんたの子を産むために、子宮を大事にしないと」と泣きわめいた綾の声が、弘樹には耳障りで仕方がなかった。秘書はその意味を悟り、すぐにスマホを取り出して指示を飛ばした。ほどなくすれば、「朗報」が届くだろう。……一方その頃、綾と美穂が警察に連行され、留置場に収監されたニュースは、瞬く間に首都どころか国全体に広がり、大騒ぎとなった。由緒ある家柄の人間が、こんな見苦しい形で捕まるなど前
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第229話

俊彦は言葉を失った。秀一が言う「あの親子たち」が誰を指すのか、父である彼には痛いほどわかっている。しばらく重苦しい沈黙が流れた後、俊彦はようやく低く声を絞り出す。「秀一……お前、今いったい何をしている?十三年前の拉致事件を探っているのか?あれは当時、俺が徹底的に調べた。桜木家は本当に関わってなかった。だからこそ、私は美穂と結婚したんだ」その言葉は偽りのない本音だった。紀子は彼が長年心の奥にしまってきた女性。彼女は死の間際まで、自分ではなく、かつて婚約者だった男を想っていた。そのことが俊彦には何十年経っても棘となり、紀子に裏切られた気持ちを抱え続けていた。だがそれでも、紀子を傷つけた相手を妻に迎えるような真似だけは絶対にしない。だから十三年前、美穂は秀一の拉致に関わっていないと確信してから、彼女と結婚したのだ。父子仲は最悪のままだったが、それでも藤原家の当主として、俊彦にはわかっていた。秀一は再び十三年前の真相に手を伸ばしている、と。だからこそ言うべきだ。息子が憎しみに飲まれる前に。「秀一、もしお前が桜木家への疑いであの母娘を容赦なく潰したんだとしたら……考え直せ。憎しみで自分を見失うな!」その言葉を遮るように、秀一の拳が重い音を立てて机を叩いた。そして手にしていたスマホを置き、ゆっくりと父を見据える。「藤原俊彦、勘違いするな。十三年前、母さんの自殺について、俺自身が調べるつもりだから、あなたの説明を聞く気はない。今回あの母娘を叩き潰したのも、桜木家を疑ったからじゃない。ただ、彼女たちは玲に何度も手を出し、俺の忍耐の限度を完全に踏み越えたからだ。特に綾。あいつは玲を掴んで道路に飛び出したんだ。もし彼女の企みが成功して、玲が車にはね飛ばされて死んでしまったら……俺がどうなるか、想像もしたくない」誰にも言っていないことだが、この二日間、秀一もこの間の玲と同じように、悪夢を見続けていた。夢の中で、彼は久しく味わっていなかった恐怖に引きずり込まれていたのだ。だからこそ、あの事故以来、秀一は「勉強」のたびに玲を逃がさなかった。彼女が涙で潤んだ目になるまで、自分の腕の中に閉じ込め続けた。俊彦は息を呑む。その目が、深い黒へと沈み込んでいく。やがて長く息を吐き、彼は目を閉じた。「……玲は、お前の母さんみたいにはな
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第230話

秀一は、結婚当初から玲に「自分の思うままに生きていい」と約束していた。ここ最近、彼が守り抜いてきたおかげで、玲はようやく本来の明るさを取り戻しつつある。その芽生えた活気を、再び誰かに踏みにじらせるつもりはない。いま俊彦にこうして時間を割いて話しているのも、責任の所在をはっきりさせるためだ。もし美穂母娘への報復で怒りを抱えているのなら、その矛先は秀一一人へ向ければいい。玲に対して、少しの不機嫌すら見せることは許さない。俊彦は黙り込んだ。世間で「秀一は妻を溺愛するあまり身内すら眼中にない」と噂されているが、その言葉はどうやら大袈裟でも何でもないらしい。なぜなら、秀一は玲のために復讐しただけではなく、その復讐がもたらした負の結果をすべて自分一人で背負い、玲の名誉を守ろうとした。俊彦は秀一の言葉に呆れてはいるが、もう問い詰める気力すら残っていない。「……わかった。玲には絶対に何も言わない、怒ったりもしない。ただな、秀一、妻を甘やかすにも限度ってもんがあるだろう。このところ十三年前の拉致事件だけじゃなく、玲の実家のことまで探っているらしいな?」「そうだ」秀一は否定しなかった。椅子にもたれ、静かに言い切る。「玲を傷つけた全員に、代償を払ってもらう」それがどちら側の人間であろうと関係ない。やったことには必ず痕跡が残る。それは誰かが犯した罪である以上、償いが必要だ。俊彦はその言葉に目を伏せ、ドアへ向かう前につぶやいた。それは秀一に向けた言葉であると同時に、自分自身への確認でもあるようだ。「……十三年前の拉致事件は、本当に桜木家とは無関係なんだ。だからこそ、美穂と結婚した。紀子とお前を傷つけた人間を、俺が見逃すはずがないだろ?」秀一は薄く口元を動かしたが、何も返さなかった。そのまま洋太を呼び、俊彦を外へ送り出す。藤原グループの社員はもう慣れていた。俊彦が怒りの形相で社長室へ入り、そして不満を押し殺したような表情で出てくる――そんな光景を何度も見てきた。だが今日は違う。出てきた俊彦の顔には、不満よりも空虚さが漂っていた。外で待っていた桜木康人(さくらぎ やすひと)と弘樹も、思わず目を見張ったほどだ。「俊彦さん、その……美穂たちの件で秀一とうまく交渉できなかったから、そんなに落ち込んでいるんですか?」康人はおそるおそる尋
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