All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話

綾は、どうしてもその恥ずかしい真実を口にしたくなかった。あの甘ったるい時間のすべてが、実は自分からの仕掛けで、弘樹の方はいつも拒んでいた――そんな屈辱、玲にだけは知られたくない。綾の瞳に鋭さが宿る。玲と秀一を見据え、あざ笑うように唇を開いた。「私はね、こう見えても貞操観念が高いの。弘樹さんは私をすごく愛してくれてるけど、やっぱり子どもを作るのは結婚してからって決めてるのよ。でも、玲。あんたと秀一はもう結婚してるのに、一か月経ってもお腹に何の兆しもないみたいね。もしかしてあんた――子供が産めない役立たずなの?」「……あら、時代錯誤もいいところね」玲は笑みをすっと引き、冷ややかに言葉を返した。「子どもが産めるかどうかで女性の価値を判断するなんて、よくもまあそんなことが言えるわね」一呼吸置いて、玲は静かに続けた。「それにね、私と秀一さんはまだ結婚したばかり。今はお互いをゆっくり知っていく時期よ。二人だけの時間が楽しくて仕方ないの。子どもを焦る理由なんてないでしょ?あなたこそ、私より自分の結婚の心配でもしておいた方がいいんじゃない?結婚しなきゃ子どももできないんでしょ?」「っ……!」綾は一瞬で言葉を失った。玲の一言一言が、まるで自分の急所を正確に突いてくる。そう、弘樹は最近、自ら婚期を延期していたのだ。綾の胸に煮え立つような怒りが込み上げる。だが弘樹はその横顔に気づくこともなく、視線は玲のほうに釘付けになっていた。特に「二人だけの時間が楽しくて仕方ない」という言葉が出た瞬間、その眼差しがわずかに揺らいだ。もちろん、弘樹にはわかっていた。玲と秀一の結婚が愛情による結果ではなく、ただの協力関係に過ぎないことを。彼らに「夜の営み」など、あるはずがないことも。――それでも。あの日、藤原グループのオフィスで、玲が秀一に抱きつきながら口にした愛の告白を思い出すと、弘樹の拳がそっと握りしめられた。彼の中で、焦りが渦を巻く。時間はもう、そう残されていない。早くすべてを終わらせなければ。沈んだ光が弘樹の瞳を掠め、眼鏡のフレームを押し上げる仕草とともに彼は静かに言った。「玲、できないことは、無理をする必要はないんだぞ」「そうよ、弘樹さんの言う通り!子どもができないなら正直に言えばいいじゃない。何意地張ってるの?」弘樹が
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第212話

「どれだけ休養をしようが、品行が乱れていれば意味はない。そうでなければ、子宮壁がここまで脆くなることはないだろう」秀一の声音は冷えきっていて、あまりにも淡々としていた。自分の発言が周りの人にとってどれほど衝撃的なのか、まるで自覚がないかのように。玲は思わず目を丸くした。綾が好き放題してきたことは知っていたが、まさかここまでとは思ってもいなかった。その場に居合わせた看護師まで、「こんな話聞いたことがない」という表情で綾を見ていた。弘樹の目は一瞬で暗く沈み、秀一を刺すように睨みつける。そして綾のほうは、自分の過去がこうもあっさりと暴かれるなんて思わず、とっさに体を起こし、顔面を真っ青にして叫んだ。「秀一、嘘よ!そんなの全部嘘!中絶とか、海外に行ってたとか、全部でたらめよ!弘樹さんの前でそんな――そんな嘘を言わないで!」「……そうか。お前がそう言うなら、なかったことにしよう」秀一は相変わらず揺らがなかった。ただ、弘樹へと視線を滑らせる。「どうやら綾は、このあたりの話を一切していなかったらしい――なら、聞かなかったことにしてあげてくれ」その無慈悲な一言で、綾は暴れ、移動ベッドの脇から床へ崩れ落ちた。腹部に鋭い痛みが走り、綾は息を呑みながら震えた。――言わないほうがマシだった。秀一の、あの追い打ちのほうが、何倍も残酷だった。もう何ひとつ取り繕えず、綾はただ震えるだけだった。その間に、秀一は玲の手を取り、騒ぎを背後に残したまま歩き出す。玲は引っ張られるようにしてついていきながらも、後方から聞こえる綾の泣き声、怒声に思わず振り返った。だが、その気配を察したのか、秀一の視線がすぐさま玲に落ちる。――以前の玲なら、弘樹から離れた後に振り返ることなど決してなかった。秀一はその違いに、静かに目を細めた。……その後の弘樹と綾がどうなったか、玲は知らない。秀一に連れられ、藤原グループ傘下の総合病院でトップの医療陣に改めて検査をしてもらい、そのまま家へ戻ったからだ。長い一日だった。秀一の横顔はずっと硬く、深い影を落としている。空気を和ませようと、玲は何か言おうと口を開いた。――だが、その言葉が出る前に。秀一の腕が玲の手首をとらえ、そのまま部屋へと引き込んだ。気づけば背中が扉に押しつけられ、そのまま強く抱きしめら
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第213話

「そ、そんな急に言われても……その、私はそこまで急いでいるわけじゃなくて……」玲はまったく予想もしていなかった。秀一が、なんの前触れもなく、彼女がこのところ徹底的に避けていた核心に触れてくるなんて。瞬間、顔がサッと青ざめ、胸の奥にしまい込んでいた「逃げ出したい」という気持ちが一気に息を吹き返す。玲は全身でもがき、少しでもこの話を先延ばしにしようと必死だった。だが今回、秀一がその一言を口にした瞬間から、何かを決めきっているようで、玲の腕を抱く手は微動だにしない。「君が俺に告白してから、もうすぐ一週間になる。今日の返事は、決して突然じゃない」――つまり、どうしても今日で決着をつけたいということだ。玲は言葉に詰まり、どう答えればいいのかわからない。そんな時、不意にスマホが鳴りだす。弘樹からの着信だ。まるで前に藤原グループのオフィスにいたときと同じように、彼が乱入してきた。玲の目が一気に輝く。これは救いの手では?「秀一さん、弘樹……多分、すごく大事な話があるんだと思います。少し話だけ――」「玲。今日は誰であろうと、俺の話の邪魔はさせない」秀一の声が静かに、しかし強く遮る。玲が言い終える前に、秀一は彼女のスマホをすっと取り上げ、着信を切ると、そのまま電源まで落とし、遠くのソファへ放り投げてしまった。玲は目を丸くした。秀一がこんな子どもみたいなことをするなんて、信じられない。でも、それ以上に――いよいよ逃げ場がないことを悟り、肩の力が一気に抜ける。そのまましゃがみ込み、赤くなった目を伏せて泣きそうな声を漏らした。「秀一さん……そんなに私と別れたいんですか?三年の契約だったのに、もう終わりにするんですか……?」自分が場違いな告白をしてしまったことは、玲もよくわかっている。この数日、できるだけ大人しく、真面目に過ごしてきたのも、衝動的な告白を水に流してくれないかという、微かな期待があったからだ。けれど――秀一は、容赦などするつもりがないらしい。両耳を塞ぎ、玲は秀一を見ようともしない。小さな身体を、まるで針を立てたハリネズミのように丸め込んだ。しばらくして、彼女の必死の拒絶が効いたように、秀一本人も言葉を見失ったのか、動かずに立ち尽くす。そしてゆっくり膝を折り、玲の前にしゃがみこむと、そっと彼女のうなじに
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第214話

「君に初めて出会ったあの日から、ずっと愛していた。十三年間、君がそっと俺を気にかけてくれていること……気づいていたよ。実は俺も、ずっと君を見守ってた。君が弘樹を好きだった頃は、嫉妬で内臓が焼けるみたいに痛かった。弘樹が君を大事にしてないと知ったときは、悔しさで魂が燃え上がるほどつらかった。だから――君がようやく俺に連絡をくれたとき。俺はその気持ちにつけ込んだ。君の純粋さを利用して、君と結婚した。本当は、婚姻届を出したあの日、世界中に知らせたいくらい嬉しかった。ちゃんとプロポーズして、盛大に君を迎えたかった。でも……俺が君を好きだと知れたら、きっと不安にさせてしまう。そう思って、車の中で指輪をはめるだけにした。役所では、ただ静かに、君と手続きを終わらせただけだった。それからも……気持ちがバレないよう、必死に平静を装ってた。本当は、抑えきれないほど君が好きなのに、愛情を悟られないよう、冷静なふりばかりしてた。だから玲。俺と結婚して得をしたのが君だなんて、二度と言わないでくれ。君と一緒にいることができて……俺の方こそ、人生最大の得をしたのだ」――もし玲が自分のことを気の毒に思って手を差し伸べてくれなかったら、自分なんかが、彼女の隣に立てる資格なんてなかった。「……」玲はもう、何をどう返せばいいのかわからなかった。感情が波のように押し寄せて、心の奥まで震えている。そうか、そういうことだったのか……秀一は、ずっと彼女を愛していた。だからあの日、弘樹や綾に濡れ衣を着せられたとき、誰より早く駆けつけてくれた。ベランダから落下しそうになったとき、あんな顔で抱きしめてくれた。嫁入り道具を失ったときも、首都中を探し回ってくれた。彼が恐れていたのは、玲が自分のあまりにも大きな想いを負担に感じること。けれど玲にとっては、その逆だ。十三年間母親に無視されてきた。弘樹に恋をしても、それを三年も隠し続けなければならなかった。玲が何より欲しかったのは――誰かに、圧倒的なほど深く愛されることだった。そして秀一は、その想いを、誰より強く彼女に向けていた。目尻がじわりと熱を増し、玲は潤んだ瞳を上げて、秀一を見つめた。「秀一さん……本当に、正直に話してくれて……ありがとうございます」まっすぐなお礼に、秀一は膝をついたままわずかに固まっ
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第215話

玲は一見すると従順で清楚。しかしその内側には反骨と大胆さを秘めている。そのすべてが、いま秀一の前で惜しげもなくさらされていた。玲がじりじりと近づいてくる。その愛らしい顔、少し開いた唇。「両想い」という一言が零れた瞬間――秀一の呼吸は一気に火がついたように熱を帯びた。……抱きしめたい。触れたい。……何より、彼女にキスしたい。喉がひくりと震え、秀一はかすれた声で答えた。「ああ。今の俺たちは、もう気持ちが通じ合ってる。間違いなく両想いだ」「……そっかぁ」玲は語尾をふんわりと伸ばし、嬉しさを隠しきれない子どものように素直に頷く。その仕草だけで、秀一の呼吸はさらに熱を増した。これ以上そばにいたら自制が利かなくなる――そう察して立ち上がろうとしたまさにその瞬間。ふいに、首に小さな腕が回った。次の瞬間。甘い香りと柔らかな温もりが、突然唇に落ちた。玲が、彼にキスしたのだ。しかも、びっくりとするほど大胆に。軽く噛むように触れた小さな歯に、秀一の全身は一瞬で硬直した。良い知らせ――これは秀一にとって初キスではない。あの路地で、事故とはいえ玲の唇に触れたことがある。ほんの一瞬だったので、彼は反応に遅れていた。悪い知らせ――今回も、彼はまったく反応できなかった。大混乱のまま我に返った時には、玲はすでに彼の腕から離れ、頬を真っ赤にして距離を取っていた。「秀一さん、もう遅いですし……おやすみなさい!」言い終わると同時に、玲は逃げるように階段を駆け上がり、扉をしっかり閉める。その間、一切の動きに不自然さはなく、しかも不思議なほどに速かった。しかし部屋の中に一人きりになると、玲は扉に背中を預け、胸元を押さえた。心臓が暴れている。常識の範囲から大幅に外れた速さで。でも仕方ない。「両想い」なんて、秀一の低く甘い声で肯定されたら、あんな素敵な唇、そりゃあ我慢なんてできるわけがない。しかも前回のキスは短すぎて、味わう暇がなかった。――そしてわかった。秀一は「甘いもの」が好き。けれどそれ以上に……彼本人が、びっくりするくらい甘かった。……その夜、玲は大きな綿あめに丸ごと包まれているみたいで、眠っていても夢の中で思わず笑いそうになるほどだった。翌朝。玲は早めに起きて、アトリエへ行くつもりだった。昨夜狼藉
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第216話

仕返しを食らい、玲は舌が回らないような声で、途切れ途切れに言った。「秀一さんの雰囲気って……この間と、全然違いますね……」秀一は、頬を染めて目を潤ませている玲を見つめて微笑んだ。先ほど感じた香りも甘さも、もっと深く身体に刻み込むように──「ちゃんと勉強したから」「勉強?えっ……じゃまさか、前から……?」「そうだ。言っただろう、ずっと前から……君を好きでたまらなかったって」玲の言葉を遮り、秀一は低く甘い声で続けた。「玲。もう俺たちは気持ちが通じ合っている。これからは、いろんな勉強を一緒にしていこう」……玲は、秀一の言う「勉強」が、ただのキスだけでは終わらないことを、うっすら察していた。しかもその予感が、嫌じゃないどころか──少しだけ期待してしまっている自分がいる。これはさすがに大問題だ。弘樹とは十年の知り合いで、三年も付き合っていたのに、こんな種類の妄想を一度もしたことがなかった。なのにどうして秀一の前だと、こんなにも簡単にそっち方面に思考が転がるのだろう。いくら考えても答えは出ず、結局玲は、雨音が準備したアート展の会場へ向かい、すべてを親友のせいにした。あれだけ秀一の色っぽい噂ばかり耳元で囁かれていたら、それは思考も歪むわけだ。色々突っ込みを入れると、雨音はいつものいたずらっぽい笑みで言い放った。「玲ちゃん、それはね、二人は本能的に惹かれあってるだけってことだよ。そもそも、愛と性はセットだから、性欲がゼロの恋なんて逆に不健康だと思うよ。今の玲ちゃんは、やっと普通に戻っただけ」玲の動きがぴたりと止まった。もし雨音の言うことが正しいなら──今までの弘樹への愛って、一体……?「まさか、私……弘樹のことを好きだったんじゃなくて、ただ優しくしてくれたから依存してただけ……?」「絶対そう!」雨音はすぐ頷いた。「だって弘樹くんと付き合い始めたとき、まだ子どもだったでしょ?依存と恋愛の区別がつかなくても普通だよ」そして雨音はうんざりしたように続けた。「綾は弘樹くんのことを宝物みたいに囲ってるけど、今玲ちゃんの話を聞いたら、きっともっとメンタル崩壊するよね」昨日、玲が車で外出したのは、雨音が呼び出したからだ。しかしいくら待っても玲が姿を見せず、雨音は不思議に思っていた。まさか綾に道で止められ、事故に遭わさ
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第217話

雨音が企画したアート展は、一週間前から準備が始まっていた。そのせいで古城の広い敷地には、出入りするスタッフがひっきりなしに行き交っている。けれど──玲は、まさかその中に自分が病院で別れて以来、一度も姿を見せなかったこころの姿を見ることになるとは思ってもいなかった。ほんの一瞬、玲は呆気に取られていた。けれど次の瞬間にはその小柄で華奢な影は、どこかへ消え失せていた。雨音が玲の前で手をひらひら振り、呆れたように笑う。「玲ちゃん、どうしたの?スポンサーが藤原グループだって言ったくらいで、そんなに驚いた?」「そうじゃなくて……」玲は自分の固まった反応を雨音が誤解したと気づき、慌てて彼女の手を握った。「雨音ちゃん……アート展に、山口さんを呼んだりした?」「は?何を言ってるの?ありえないって!」雨音は本気で心外だと言わんばかりに、全身で否定した。「私、そんなに心が広い人間じゃないんだよ?これは私が企画したアート展で、スポンサーは藤原グループ。友也がお金を出したわけでもないのに、なんで彼の初恋をわざわざ連れてこなきゃいけないの?」その上──雨音は最近こそ友也に対して気落ちしているが、何年も好きでい続けた相手だ。愛の炎は弱まっても、燻り続ける残り火はまだ消えていない。だから、友也の名前を聞いただけでも胸がちくりとするのに、こころと顔を合わせたいはずがない。玲はそれ以上何も言わず、雨音の肩にそっと手を添えて黙った。そしてもう一度、さっきこころが現れて消えた方向へ視線を向ける。……本当に見間違いだったのだろうか?……いつの間にか空が黒く沈み、今にも雨が落ちてきそうな気配が漂い始めていた。二人は古城で少し話し込んだ後、気持ちの整理ができた雨音は玲を追い出した。「ほら、雨が降る前に帰って制作してきて!私がせっかく準備してるアート展に、あなたの作品が間に合わなかったら意味ないでしょう!」玲も言い返せない。確かにその通りだ。家に戻り、作品作りに没頭していたら──気づけば夕方近くになっていた。粘土で濡れた手をタオルで軽く拭きながらドアを開けると、リビングのソファには秀一が座っていた。ずっと待っていたように、彼はすぐに立ち上がり、温かいタオルを手に近づいてくる。「今日はずっと作業してたか?疲れてないか?」「ううん、ほんの数時間だ
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第218話

藤原グループが彫刻家Rのアート展に出資しているが、実は友也もひっそり一億を差し込んだのだった。だからもし――この機に乗じて、友也が「スポンサーの特権」を使い、こころをスタッフ枠に紛れ込ませたのだとしたら、人数の多いスタッフリストの中で雨音がすぐに気づかないのも無理はない。ましてや会場は広い古城。主催側であっても、全員を逐一把握するのは簡単じゃない。ただ、この一件について、秀一は何も知らなかった。玲もまた、秀一を疑ってはいない。「山口さんを見かけたのは一瞬だけでした。その後すぐ姿が消えちゃって……藤原グループがスポンサーですし、友也さんは今あなたの右腕でしょう?もしかしたら彼は、注目度の高いこのアート展を利用して、山口さんの経歴に箔をつけようとしたのかもしれません。ただ、これは雨音ちゃんにとって大事なアート展なんですよ?友也さんが借りを返したいなら自分で返せばいい。雨音ちゃんを巻き込んで、何の相談もなく二人を同じ場所に放り込むなんて……さすがに勝手すぎると思いませんか?」誰だって、自分の親友が傷つけられるのは我慢できない。藤原グループの出資は確かに追い風だ。玲の復帰にとっても、大きな意味を持つ。けれど、それが雨音を苦しめる結果になるなら、そんな後押しなんていらない。玲は、秀一が友也の親友であることを一切気遣うことなく、思ったことをそのまま口にした。本当なら、昨日ようやく想いが通じ合ったのだから、もっと穏やかに話すべきなのかもしれない。でも――もし秀一が、身内びいきで雨音を犠牲にするような男だったら。そうなら、玲は昨日の告白をなかったことにするつもりだった。夫より、苦しい日々をともに過ごしてくれた親友の方がずっと大事。それが玲の揺るがない価値観だ。しかし、秀一はきちんと向き合い、玲の手を強く握った。「安心しろ、俺は、友也を庇ったりしない。この件について今までは知らなかったが、もし本当に友也が雨音さんに黙って、山口さんをスタッフとして潜り込ませたなら、すぐにでも訂正させる。今から本人に会いに行ってくる」言うが早いか、秀一は立ち上がり、そのまま外へ向かおうとする。玲が慌てて腕を掴んだ。「待ってください!もう雨が降ってきてますよ?大雨になりそうですし、明日にしましょう。それに、さっき言ったことは秀一さんを
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第219話

あのとき、友也のお尻を蹴ったボディーガードは――ただの勇み足かと思っていた。けれど、秀一の今の言葉から察するに、どうやらあの派手な追い出し方は、ボディーガードの独断ではなく、秀一自身の指示だったらしい。その事実に思い至った瞬間、玲の胸につっかえていた息がふっと抜けていく。目尻がゆるみ、顔を上げて秀一を見つめた。「秀一さんって、本当に……すごいです。なんで毎回そんなふうに私を驚かせるんですか?今日、藤原グループがアート展のスポンサーって聞いたときも、ちょっと固まっちゃったくらいですよ」こころの姿を見たショックで、言うタイミングを失っていたが、実はずっと、秀一にこの嬉しさを伝えたかった。秀一は玲を抱き寄せ、その澄んだ瞳を覗き込む。「藤原グループがスポンサーになった件、そんなに驚いたのか?このアート展……君とも何か関係が?」「……」あっ。そういえば、秀一にはまだ――自分が彫刻家Rだと話していなかった。もともとは、アート展が開催される前に秀一に話すつもりだったが、今、玲は気が変わった。彼女は笑って誤魔化す。「だって、雨音ちゃんが頑張ってるアート展でしょ?雨音ちゃんは大切な友達だから、関係ないわけないじゃないですか」「……そうか。それだけの関係なんだな?」「うん、それだけ」「わかった」秀一は薄く口元を上げ、それ以上は追及しなかった。その反応を見て、玲は内心ほっとする――よし、誤魔化せた。藤原グループがスポンサーなら、アート展当日、秀一も現場に行くに決まっている。なら、自分の正体を今話すより、現場で明かして秀一を驚かせたい。そのためには、今からでももっといい作品を仕上げないと。玲は気合を入れ直し、食事を済ませたらすぐに作業に戻ろうと立ち上がろうとしたが――秀一が後ろから腕を回し、そっと抱き寄せた。「玲。どこへ行く?」「ご飯ですよ?秀一さんも、早く帰ってきたのって、一緒に夕飯食べるためじゃ……」「違う」秀一は口元に微笑を浮かべたまま、目だけが深く沈む。「早く帰ったのは、『勉強』のためだ」朝、秀一が言っていた――両思いになったのなら、これからは今まで知らなかったことを一緒に勉強していこう、と。玲が驚いて目を丸くしたその瞬間。重力がふっと消え、次に気づいた時にはもう、秀一の腕の中で抱き上げ
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第220話

そのあと、秀一は友也に電話をかけた。「山口さんを雨音さんのアート展に送り込んだな?」それは問いというより、ほとんど確信の口調。秀一にとって、この件に友也が絡んでいないはずがない。最近、雨音に距離を置かれているせいで元々食欲のなかった友也は、その言葉を聞いた瞬間、さらに顔をしかめて箸を置いた。「秀一、ちょっと待って。何だよそれ?こころが雨音のアート展に?俺、何も聞いてないんだけど?」「……お前は何も知らないのか?」秀一は眉をわずかに上げ、その落ち着いた表情にひとつの結論が浮かぶ。「どうやら山口さん、またお前に内緒で何か企んでるようだな。早く彼女との関わりを絶ちたいというのは、やっぱりお前の一方的な願望でしかなかった」まさに今──こころは友也の知らないところで、勝手に雨音の職場へ向かっている。おそらく会場へ入れたのも、友也の名前を借りたからだろう。友也もそこまで鈍くはない。秀一の言葉に、かすかに残っていた食欲も完全に吹き飛ぶ。「……それ、雨音が言ったのか?いや、違うな。絶対、玲さんに聞いたんだ。じゃなきゃ、こんな早く電話してこないだろ」秀一の性格は長く付き合っていればよくわかる。玲に関わることとなれば、彼は迷いなく即行動する。そして、その事実は同時に、こうも示していた。──雨音はまだ気づいていない。少なくとも、玲は雨音に伝えていない。ほんのわずかな希望が胸に浮かんだ瞬間、秀一が淡々と言い放つ。「雨音さんが気づいていないのは今だけだ。早く山口さんが何をしてるか確認したほうがいい。そして一刻も早く、雨音さんの視界から彼女を消すように。でなければ今回は、本当に離婚届を叩きつけられるぞ」「ちょっ……秀一、脅かすような言い方しないでくれよ……!」友也は唇を引き結びながら、電話を握る手に力を込めた。「こころをちゃんと連れ戻すよ。もともとあのアート展は雨音が企画したものだし、こころの体のためにも放っておくわけにはいかない。もし二人が揉めでもしたら、前にお願いして治療してもらった医者の努力だって全部無駄になるだろ?」必死の弁解を並べたあと、友也は小さく咳払いし、最後だけ妙に意地を張る。「……でも勘違いするなよ。俺がこころを連れ戻すのは、雨音のためじゃない。あくまで事故を防ぐためで──」だが、言い訳の途中で、秀一本人は容
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