All Chapters of そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜: Chapter 231 - Chapter 240

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第231話

「……息子を、そんなに叱ってほしいのか?」俊彦は、康人の怒りを帯びた声をしばらく無表情で聞いていたが、ふいに鋭い視線を向けて言い放った。「秀一は私の息子だ。お前が説教する筋合いはない」生意気で、情がない――そんな言葉を俊彦ですら秀一に言ったことはないのに、康人がここで喚き散らすなど論外だった。まさか俊彦を庇うように言った言葉が、本人に真っ向から突き返されるとは思わず、康人の顔は一気に赤くなる。言葉がもつれ、しどろもどろになった。「い、いえ……そういう意味じゃ……ただ、綾と美穂のことで焦って――」「今さら焦ってどうするんだ?」俊彦の声は冷えきっていた。「焦るぐらいなら、自分の妹と姪をちゃんと教育しておけ。今みたいな勢いを少しでも彼女らにも向けていれば……玲を挑発するなど、そんな身の程知らずな真似はしなかった!」康人の視界が一瞬、暗くなる。どうして全部自分の責任になっているのか――理解が追いつかなかった。「俊彦さん……!俺はずっと港市で仕事してましたし、美穂や綾のそばにも……いや、もういいです、全部俺が悪い!でも、今はとにかく二人を留置場から出さないと……!」認めるべきところは認める。最優先は、身内を救い出すことだ。康人はすでに独自のコネを使って二人を助け出そうとした。しかし秀一の指示が徹底しており、抜け道がすべて塞がれていた。残る望みはただ一つ――俊彦。首都で唯一、秀一と渡り合える人物。だが、俊彦の答えは冷酷だった。「俺は動かん。今回の件は、あの二人へのけじめだ。秀一の妻を軽んじ、挙げ句の果てには脅そうとした――その代償は払わせるべきだ」そして俊彦は、声を低く落とした。「……これは始まりにすぎん」言うやいなや俊彦は一歩踏み込み、康人の胸ぐらをつかみ上げた。「康人。十三年前秀一が拉致された事件――桜木家は、本当に無関係なんだろうな?」その怒りは鋭く、容赦がなかった。康人は目を見開き、反射的に首を横に振った。「も、もちろんです!十三年前、あなた自身が桜木家を調べたでしょう?それに犯人は、どれも特別に訓練されていた傭兵だったじゃないですか!俺らみたいな一般人が、接触できるような相手じゃありません!」美穂が俊彦と結婚するより前、桜木家は首都でも弱小の一族だった。紀子に便宜を図ってもらうことで、ようやく細々
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第232話

弘樹は追いかけることなく、その場に立ち尽くし、康人の狼狽えた後ろ姿をじっと見送っていた。しばらくして、細い指で金縁の眼鏡を押し上げ、意味深な一言を呟いた。「十三年前の拉致事件、か……」……その頃、外では風が強まり、空を覆っていた雲が吹き散らされ始めていた。一方そのころ、玲は雨音と一緒に過ごしていた。もっとも、今回は玲が雨音を訪ねたわけじゃない。雨音が、美穂と綾が連行されたというニュースを見て、わざわざ車を飛ばして会いに来たのだ。ふたりは恵子が用意してくれた軽食をつまみながら、のんびりとした時間を過ごしていた。美味しいものを前にすると、雨音のおしゃべりスイッチは自然と入る。「いやー、他人の醜態って、どうしてこんなにスカッとするんだろうね。玲ちゃん、見た?あの母娘が警察に連れて行かれた時の写真。美穂さんなんて、いつも貴婦人気取りだったのに、警察に腕つかまれた瞬間、膝ガクガクで全然立ててなかったじゃん」雨音は楽しそうに続ける。「綾なんてもっとひどいよ。藤原家のお嬢様が、警車に押し込まれて大泣き。鼻水で顔ぐしゃぐしゃ。しかもあの子、病院からそのまま連れて行かれたでしょ?だから昔の遊びまくりエピソードが全部掘り返されたの」かつて綾は、玲を貶めようと嘘まで流した。「芸術専攻の女子は私生活が乱れがち」――だが蓋を開ければ、乱れていたのは綾のほうだった。大学に入る前から二回の中絶、大学に入ってからもう一回。誰がどう見ても、綾の方がよほど「奔放」だ。今や首都の社交界は、綾の醜聞で持ち切りだった――よくそこまで隠してたよね、と皮肉まで飛んでいる。そして、彼女と政略結婚した弘樹は「お人好しのカモ」だと陰で散々笑われていた。玲はそこまで聞くと、小さく息を飲み、表情がわずかに固くなる。雨音が首をかしげた。「玲ちゃん、今なんか考えてた?」玲は少しだけ眉を寄せ、低く答えた。「……弘樹のことを考えてたの。綾がこんな状況で、世間からも叩かれてるのに、あの人、何もしていない。愛しているなら、留置場に会いに行くとか、せめて噂を抑えるとか、動きそうじゃない?でも……彼は何もしてない」弘樹は「心配しているような顔」を見せていた。けれど、綾を救い出すための具体的な行動は一つもしていない。――これは単なる怠慢?いや、違う。玲の胸の奥で、
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第233話

雨音の言葉には、親友としての深い心配がにじんでいた。玲は一瞬まばたきをし、答えようと口を開きかけるそのとき。スマホが震え、メッセージが届いた。差出人は弘樹。そして表示されたのは、たった一行だけの文章。【玲、秀一のそばは危険すぎる。これ以上彼と一緒にいてはいけない。頼む、いつかお前を迎えに行かせてくれ】少し回りくどい言い方だが、にじみ出る焦燥と切迫した空気が、その一文全体に滲んでいた。玲の隣に座る雨音も、画面はしっかりと見てしまったようで――最初に抱いていた心配どころではなく、今度は本気で慌て始めた。「ちょ、ちょっと待って玲ちゃん!まさか……この言葉を真に受けたりしないよね?弘樹くんのこの曖昧な態度、明らかに惑わせようとしてるだけでしょ!あなたを藤原さんから引き離そうとしてるに決まってるって!」「秀一のそばは危険」の意味は雨音にもわからないが、玲と秀一を見守ってきた人間として、今、秀一のために玲の気持ちを引き止めておく必要があると思った。「ここ最近、あなたと藤原さんがどうやって距離を縮めてきたか、私はずっと見てきたよ?時間のほうというと、弘樹くんと過ごした十三年に比べたら短いかもしれない。でも、藤原さんがあなたをどう支えて、どう尊重してきたか――あれ、弘樹くんが三十年かけてもできないレベルだからね!それに、藤原さんってあなたのことをずっと前から好きだったんでしょ?ようやく想いが通じたのに、ここで捨てられたら……藤原さん、可哀想すぎるよ!」言いながら「男を不憫がるのもどうかと思うけど」と小声で付け加えつつも、雨音の表情は真剣そのもの。玲はそんな雨音を見ながら、ぱちりと瞬きをした。そして弘樹からのメッセージを削除しながら、思わず苦笑してしまう。「雨音ちゃん、私ってそんなに……都合次第で人を切り捨てるような恩知らずに見えるの?私は秀一さんから離れる気なんてないよ。まして弘樹のところへ戻るなんて絶対にありえない。たとえ弘樹に何か事情があったとしても――私を傷つけ、縛りつけた事実は消えないから」もっとも、玲は完全に吹っ切れたうえ、秀一のことを本気で好きになっている。彼に裏切られない限り、たとえそのそばがどれほど危険でも、一緒に向き合うつもりだ。その言葉に、雨音はうるっと目を潤ませ、口を手で押さえた。「玲ちゃん、よかった
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第234話

「そうそう」雨音が満足げに目を細めて笑う。「藤原グループのオフィスで服を脱いで、藤原さんを誘惑しようとしたんだよ?あれで放り出されても当然でしょ!それにね、あの日、玲ちゃんは弘樹くんにも絡まれてたじゃん?あれ絶対、弘樹くんとひなはグルになってたよ。どう考えても怪しいって!」玲は否定しなかった。むしろその瞳は、雨音の推測を肯定するように深い色を帯びる。実際その通りだった。ロイヤルホテルで一度目、藤原グループで二度目――弘樹とひなは、とうに手を組んでいた。次は、彼らがどんな仕掛けをしてくるのか、まったく読めない。雨音は玲を慰めるように続ける。「玲ちゃん、あんまり心配しすぎないで。弘樹くんがどれだけ未練たらしく悪あがきをしても、あなたには藤原さんがいるでしょ?ほら、今回だって綾があなたを陥れようとした時、藤原さん、ドライブレコーダーのデータを見つけてくれたでしょ?それに、あの運転手ともきちんと話をつけたし……さすが社長って感じだよね!」しかし玲は小さく首を振った。「違うの、雨音ちゃん。ドライブレコーダーの映像を見つけたのは秀一さんだけど……あの運転手と話したのは彼じゃないの」事故の運転手は、すでに美穂と綾に買収されていた。秀一は最初から運転手に圧をかけて証言を変えさせるという発想を持っていなかった。ドライブレコーダーの映像データさえあれば、運転手の証言など覆せる。だから秀一は、わざわざ時間を割いて追い詰めようとは思わなかった。にもかかわらず――運転手は突如、裏切った。そしてその証言は、美穂に致命的な打撃を与える形になった。この展開は玲にとっても予想外だった。「え?藤原さんじゃないの?」雨音はぽかんとした。「じゃあ誰がその運転手を説得したの?」「わからない。でも、今はそこじゃない」玲はすっと席を立つ。迷いのない瞳は、決意で強く光っていた。「雨音ちゃん……弘樹が、他人と組んで秀一さんの邪魔をしたのはこれで二度目。もうこれ以上は許せない。彼が、『私が振り向くかもしれない』なんて甘い妄想を持つのも……そろそろ終わりにしたい」弘樹の執着は、玲が本気で秀一を選んだとは信じていないからこそ続く。ならば、はっきりと突きつければいい。もう二度と希望を抱けないように。雨音は慌てて目を丸くする。「ちょ、玲ちゃん!な、なにする気
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第235話

「な、なんだこれは?私の目がおかしくなったのか?」会議室で、藤原グループでも最古参の株主が、突如として窓の外を見て叫び声を上げた。その声につられるように、他の株主たちも一斉に立ち上がる。誰かの手からは保温マグが滑り落ち、中のお茶さえ床にぶちまけられた。秀一は眉をわずかに寄せた。株主たちがここまで取り乱すのを見るのは、初めてだ。訝しげに視線を後方へ向け――次の瞬間、彼自身もぴたりと動きを止めた。漆黒の瞳に、ほんの一瞬だけ、空白が生じる。そこには巨大な屋外ビジョン。普段は企業広告や3D映像を流し、首都の象徴として観光客が必ず写真を撮る名所。――その大画面いっぱいに、【藤原秀一、高瀬玲はあなたが大好き!】という、ピンク色の大文字が煌々と映し出されていた。秀一は席から勢いよく立ち上がり、十数秒ほどその光景を凝視したが、文字が消える気配はない。むしろ次々と、死ぬほど甘ったるいセリフが流れ始めた。【秀一さん、キャンディー百万個分愛してる!】【秀一さん、赤い糸をたぐりよせたら、あなたにたどり着いた!】【秀一さん、あなたの名前は私の一番好きな音だよ!】……会議室は凍りついたように静まり返った。株主たちは顔を引きつらせ、今にも心臓発作が起きるかのように、胸元を抑える。それだけではない。甘いセリフが続いている途中、洋太が真っ赤な顔で、大きな花束を抱えて飛び込んできた。「社長、こちらは奥様から届いた100本のバラです。それと奥様からの伝言を預かっております――『他人がしてもらえることは、あなたにも全部してあげたい』と」玲が新居に泊まった初めての夜、秀一が彼女にたくさんのサプライズを仕掛けた。あのとき、まだ自分の気持ちが悟られてはいけないと、彼は遠回しに「他人が持っているものなら、君にもすべて手に入れてほしいと」と言った。そのセリフを、玲は何倍も派手にして彼に返した。堂々と、真昼間に、街中の視線を集めて――秀一へ告白したのだ。秀一の胸は、まるで内側から熱に焼かれるようだった。机に手をつく指先は、興奮と動揺でじんと痺れている。無意識のうちにスマホを取り出し、玲へ電話をかける――だが返ってきたのは、無機質な「応答なし」のアナウンスだけ。隣の席では、友也が窓の外の甘すぎるメッセージと、赤いバラを交互に眺めながら、
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第236話

「そうだそうだ、恋だの愛だのために、こんな大騒ぎを起こして……外の歓声、聞こえてないか?撮影してる人までいるぞ!」「社長、前から噂は聞いてましたが――玲さんは、あなたと結婚してから、前より反抗的になったようですね。それはそうと、今回のはさすがにやりすぎてはいませんか?ちゃんと注意しないと、あなたの顔まで潰されますよ?」株主たちは好き勝手に言い立て、玲の行動をこれでもかと誇張して責め立てた。そのとき、秀一が、ふいにスマホを机へ置いた。一斉に声が止まる。次の瞬間、彼らは秀一の冷ややかなまなざしに射抜かれ、身をすくめた。「妻が『愛してる』と言ってくれたんだ、嬉しい以外、何がある?顔が潰される?そんなことはどうでもいい。彼女が望むなら、命だって差し出す」まるで雷に打たれたように、株主たちは固まった。彼らは、巨大スクリーンの告白やバラの花束を見た秀一が、怒りや困惑を覚えると信じて疑わなかった。――だが、現実はその真逆。秀一は、歓喜で理性が吹き飛びそうだった。玲は自分のためにここまで準備し、誰にも告げずに大胆な愛情表現をした――その事実が胸を焼き尽くすほど嬉しい。十三年間、自分は彼女への思いをひたすら胸にしまってきた。だから、こんな日が来るなど、夢にも思わなかったのだ。次の瞬間、秀一は会議室を出た。株主たちを置き去りにし、その勢いのまま会社を飛び出す。家へ戻る車のアクセルは、自然と深く踏み込まれていた。――しかし、玲が用意したサプライズは、まだ終わりではなかった。玄関をくぐった瞬間、秀一は思わず足を止める。家中が、色とりどりの風船でいっぱいなのだ。丸くふくらんだ風船が床いっぱいに散らばり、天井にも揺れている。その真ん中で、玲が、しゅるしゅると空気が抜けて逃げ回る風船を追いかけていた。秀一に気づいた玲は、慌ててその場に立ち止まり、逃げていく風船を放置する。「し、秀一さん?どうしてこんなに早く帰ってきたんですか?まだ定時には……」玲は本来、じっくり時間をかけて風船を大量に膨らませ、以前秀一が用意してくれたように、壁一面に風船を飾るつもりだった。だが秀一が早く帰宅したせいで、作業は中途半端なまま。秀一は一歩、また一歩と近づいてくる。その端正な顔は、深く影を落とし――どこか危険なほどに沈んでいた。「定時じゃ
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第237話

秀一の熱を帯びた息が、一気に玲へ覆いかぶさってくる。強く、彼女の全てを求めるようなキスは、容赦なくその唇を攻め立てる。玲は息が追いつかず、白い頬が桃色に染まっていった。視界が揺れはじめた頃、ようやく秀一が彼女を離した。とはいえ、ほんの指一本ほど距離が離れただけで、彼の漆黒の瞳はまだ玲を深く捕らえたままだ。その声は、掠れた低さで胸を震わせる。「玲……本来なら、今日のことは男がやるべきだったんだ」あんなに大胆な告白。首都のど真ん中で、あれだけ堂々と自分を想ってくれることを伝えてくれた――秀一は、嬉しすぎて理性が吹き飛びそうになった。だが、落ち着いた瞬間、現実を理解してしまう。女の子があれほど目立てば、無責任に噂される。媚びてるだの、男を追いかけてるだの、そういった悪いレッテルが貼られるかもしれない。玲が自分を愛してくれるのは嬉しい。しかし、彼女が傷つくのは耐えられなかった。けれど、玲は息を整えながら、迷いなく首を振った。「この世界で、男がやるべきで、女がやらないほうがいいことなんて、本来ないはずです。それに、秀一さんは今まで私のために、もっと大変なことをたくさんしてくれました。悪い噂がばら撒かれることだって、私よりずっと多く経験してきたでしょ?」玲は彼の胸へそっと身を寄せ、指先でシャツの裾をきゅっとつまむ。「だからね……秀一さんだけが悪い噂を全部背負って、私だけが無傷だなんて、そんなの嫌なんです。だって、私たちは夫婦なんでしょ?夫婦なら一心同体、いいことも悪いことも分かち合うべきなんです」秀一は言葉を失った。彼はずっと独りだった。玲と結婚したあとでも、自分が暗いところに落ちても構わないから、玲だけは光の中に置きたい。そんなふうに考えていた。だが今、玲は自ら暗い影に足を踏み入れ、彼の手をしっかり握りながら告げた――肩を並べて一緒に進みたい、彼となら闇に飲み込まれても大丈夫だと。それが正しいのか、秀一にもわからなかった。だがこの瞬間だけは、胸の奥に沈んでいた暗い影が、ゆっくりと温かな光へ溶けていくのがわかる。秀一は玲を見つめ、再び彼女の唇をそっと奪った。さっきまでの嵐のような激しさとは違って、今度のキスは柔らかく、花弁を撫でる春の雨のように優しい。この二日間、「勉強」を重ねたことで、秀一のキスも見事に上達し
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第238話

もしこれが別の日だったなら――玲も、秀一に続きを許していたかもしれない。お互い想い合っている今、流れに身を任せるのも自然だ。それに、玲はもう弘樹と別れた身。彼のために自分を縛る必要もない。ただ――今日は本当に都合が悪かった。痺れる手のひらで、玲はそっと秀一のたくましい肩を押した。「秀一さん……あ、あの、私、今日は生理で……身体が……」この先を強行されたら、傷つくのはきっと秀一のほう。玲の言葉に、秀一の動きがぴたりと止まる。瞳の奥にまだ熱は残っているのに、その炎を外へ溢れさせることはもうできなかった。「……さっき、痛くしなかった?」秀一はゆっくり身を離し、そっと毛布を引き寄せて玲の白い肌を隠す。深く息を吸い込み、落ち着かせるように言う。「俺、先に着替えてくる。あとで生姜湯を作ってあげる」「あ、大丈夫ですよ、ご自分のことを優先して……」こんな状況でまだ自分の体調を気にかけてくれるなんて――玲は、胸の奥が熱くなった。そして……ふと、ひとつの大胆な考えが浮かんだ。「秀一さん、その……もしよかったら……私が手伝いましょうか?」立ち上がろうとした秀一の手を玲がそっと掴む。真っ赤になった顔が半分、毛布の中に隠れながら、彼女の瞳が水面のように揺れていた。「私も、この頃はちょっと『勉強』してたので……」秀一がいつも、どうすれば玲が気持ちよくなるのか勉強していた。だから玲も、同じように――少しだけ男の人を喜ばせる方法を学んでみたのだ。その瞬間、空気が止まった。玲は、自分の発言が大胆すぎて秀一が固まったと思った。ところが、顔を上げた瞬間、秀一の瞳の奥で、押し隠しきれない熱が爆ぜた。「玲……どれくらい、学んだ?」低く掠れた声。「全部、俺に見せて」その言葉を最後に、秀一は迷いなく毛布の中へ潜り込んだ。どれほど星が瞬いたのか。シルクのシーツを揺らした波が、何度押し寄せたのか。かすかに震える声がようやく途切れたころ、秀一はそっと毛布をめくり、ぐったりとした玲を抱き上げた。そのまま浴室へ連れていき、丁寧に洗い流して髪の水気を飛ばし、新しく整えたベッドへそっと寝かせる。シーツに触れた瞬間――玲は深い眠りに落ちた。夢の中でぼんやり考える。これから軽率なことは言わないようにしよう。彫刻で手を痛める前に、ほかのこと
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第239話

その頃、秀一はすでに出社していた。玲がスマホを手に取ると――昨夜、寝る前には八割ほど残っていたはずのバッテリーが、なぜか空っぽで電源が落ちている。充電をつなぎ、ようやく画面がついた瞬間。目に飛び込んできたのは、弘樹からのほぼ百件に迫る不在着信だった。理由はすぐに察した。秀一が、わざと出なかったのだ。そして、出ないまま好きなだけかけさせた。玲はまったく怒らなかった。むしろ当然だと思えた。弘樹が何度も裏から手を回し、自分を揺さぶってきた。それを思えば、電話一晩スルーされる程度など、むしろ「親切」にすら感じる。玲は通話履歴を閉じると、そのまま見なかったことにした。折り返すつもりも、気にかけるつもりもない。だがそのとき、スマホが再び震えた。また弘樹か、と眉を寄せつつ画面をのぞく。しかし映っていた名前は、まったく違った。雨音だったのだ。「もしもし、雨音ちゃん?こんな朝から電話なんて、もしかして、昨日の告白の件、早速ツッコミに来た?」玲は軽く笑いながら電話に出た。ところが、返ってきたのは震えている涙声だった。「玲ちゃん……山口さんは、ずっと私のアート展のスタッフチームにいたの……今日になってようやく気づいたけど……さっき私、彼女に辞めてもらうつもりで話したんだけど、『チームに入ったからには出ない』って言われた。友也が、『そのまま働いていい』って約束したからだって……」玲は、その場で息を呑む。そして次の瞬間には、体の疲れを忘れ、階段を駆け下り、古城のほうへ車を走らせていた。……数日前。玲はすでに、雨音のアート展にこころを見つけていた。その夜すぐ、秀一と真剣に話し合い、秀一も友也へ直接電話して「きちんと対応するように」と念押ししていた。だから玲は、問題は水面下のうちに収束し、雨音に知られる前に食い止められると思っていた。だが、まさか友也は、こころをそのままアート展に置き続け、挙げ句彼女に約束までして、堂々と雨音に食ってかかれるよう仕向けたとは。その結果、普段は強気な雨音が他人に助けを求めるほど追い詰められる事態に。玲は、怒りで指先が震えた。今の彼女は反骨心だけではない、心の奥底で、確かな殺意すら芽を出していた。車を飛ばし、目的地へ到着。勢いそのままに建物へ駆け込み、雨音のいるオフィスを目指す。案
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第240話

「山口さんが言ってたの。藤原グループが今回のアート展をスポンサーしてくれたけど、その中の一億は、友也個人の出資だって。彼が出資したのは、自分を私のプロジェクトに入れたいからって。私が今回開くのは、彫刻家Rの復帰展だってことは、友也も知ってた。注目度は最高で、関わったスタッフはそれだけでキャリアを積めるって。だから友也は、山口さんをディレクター補佐として参加させた。アート展が成功すれば、彼女の将来が一気に開けると思ったみたい」こころは以前、友也の両親に国を追い出され、三年間、海外で散々な生活を送ってきた。当然、まともな学歴も職歴も積めなかった。大学ではアートを専攻していたが、退学していた。そんな状態で再び帰国し、芸術界に入り込みたいなら――雨音とRの話題性を利用するのが最も手早い。「でも……どうして私が、彼女に踏み台を貸してあげなきゃいけないの?」雨音の肩が細かく震える。「玲ちゃんも知ってるでしょ。私がアートディレクターを目指してたとき、先輩の荷物持ちを二年もしてた。そのあと独り立ちして、家の影響力に頼らず、全部自力でここまでやってきたの。なのに友也は、たったの一言で、私に彼の初恋に便宜を図れなんて……どうして、私が彼女の成功の土台にならなきゃいけないの?」友也の意図は明白だった。職歴ゼロ、学歴も途切れたこころを、いきなり最前線の超一流プロジェクトに放り込み、今後何十年も「私は水沢雨音のアート展に関わった」と外で吹聴できる肩書を与えるつもりだ。雨音の言う通り、彼の一言でこころが有名ディレクターになれるのなら、雨音にとっては不公平すぎる。玲の胸にも、怒りがじわじわ燃え上がった。「雨音ちゃん、アート展はあなたのもの。そこで輝くべきは、あなたとあなたのチームよ。他の誰かが横入りなんて……絶対、させないわ」その言葉に、こころが涙を拭きながら口を開く。「……高瀬さん、なんでそんなひどいことを言うんですか?友也くんは一億も出資したんですよ?スポンサーには、プロジェクトに関与する権利があります。あれほどのお金を出してくれたのに、私をチームに入れることくらいなんてことないでしょう?高瀬さん、あなたは秀一さんの妻で、強気だってのはわかります。前に病院でも、私にすごく冷たくしてました……でも今日は、私と雨音さんの問題であって、あ
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