高橋悠綾(たかはし ゆあ)はウィ音楽大学への研修枠の申請を終えたばかり、婚約者である早川時紀(はやかわ ときのり)から電話がきた。「ロイヤルクラブ、888号室、10分で来い」窓の外は、しんしんと雪が舞っていた。彼女は一瞬、はっとしたが、それでも言われた時間通りに時紀の指定した場所に着いた。「お義姉さん、本当に来たんだね!さっき早川社長とゲームしてたんだけど、『悠綾は俺にはベタ惚れだから、10分以内に絶対来る』って言うんだ」「信じられなかったけど、今は信じるよ」「お義姉さん」という言葉は、本来は敬称だが、今の悠綾の耳には、露骨な侮辱にしか聞こえなかった。彼女は唇をぎゅっと結んで返事もせず、人々の真ん中に座る時紀を見つめた。彼の腕の中には、愛くるしい女性が寄り添っていた。その女性は悠綾も知っている小林莉奈(こばやし りな)だった。時紀が経営する芸能プロダクションに最近入ったばかりのインターンで、彼らと同じ大学の後輩だった。「だから言っただろ、悠綾は俺にベタ惚れだから、絶対来るって。彼女は俺と結婚するためなら、何でも言うことを聞くんだぜ」時紀は自慢げに語りながら、エビをむいて莉奈の口に運んだ。莉奈もまた、はばかることなく時紀の頬にチュッとキスをした。この光景に、悠綾の胸の奥がちくちく疼いた。莉奈のキスのせいでも、時紀が彼女のことを「自分にベタ惚れ」といったせいでもなかった。ただ彼が莉奈のためにエビをむいた、それだけの理由だった。彼女と時紀は二人とも音楽大学の出身で、作詞作曲が彼女の得意分野であるのに対し、ピアノやベースなど様々な楽器は時紀の十八番だった。だから、時紀を追いかけ始めてから、彼女は彼のその手を宝物のように思うあまり、どんなことでも彼自身にさせることは決してなかった。恋心が最も熱かった頃は、顔を洗うためのタオルさえも絞って、彼に渡していたほどだった。そんなにまで大切に思い、気遣っていたあの手が、今、他の女のために硬いエビの皮をむいていた。なんて皮肉なんだろう。次の瞬間、莉奈の言葉が彼女の考えを遮った。「時紀先輩、あなたの手は楽器を弾くための手ですよ。私のためにエビなんて、むかなくていいんです。ちょうど悠綾先輩がここにいるじゃないですか。彼女は、いつも時紀先輩のお世話してるんでしょ
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