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別れても平穏。あなたなしでも、私は幸せよ

別れても平穏。あなたなしでも、私は幸せよ

By:  稼ぎマスターCompleted
Language: Japanese
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高橋悠綾(たかはし ゆあ)はウィ音楽大学への研修枠の申請を終えたばかり、婚約者である早川時紀(はやかわ ときのり)から電話がきた。 「ロイヤルクラブ、888号室、10分で来い」 窓の外は、しんしんと雪が舞っていた。彼女は一瞬、はっとしたが、それでも時間通りに時紀の指定した場所に着いた。 「お義姉さん、本当に来たんだね!さっき早川社長とゲームしてたんだけど、『悠綾は俺にはベタ惚れだから、10分以内に絶対来る』って言うんだ」 「信じられなかったけど、今は信じるよ」 「お義姉さん」という言葉は、本来は敬称だが、今の悠綾の耳には、露骨な侮辱にしか聞こえなかった。 彼女は唇をぎゅっと結んで返事もせず、人々の真ん中に座る時紀を見つめた。彼の腕の中には、愛くるしい女性が寄り添っていた。 その女性は悠綾も知っている小林莉奈(こばやし りな)だった。

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Chapter 1

第1話

高橋悠綾(たかはし ゆあ)はウィ音楽大学への研修枠の申請を終えたばかり、婚約者である早川時紀(はやかわ ときのり)から電話がきた。

「ロイヤルクラブ、888号室、10分で来い」

窓の外は、しんしんと雪が舞っていた。彼女は一瞬、はっとしたが、それでも言われた時間通りに時紀の指定した場所に着いた。

「お義姉さん、本当に来たんだね!さっき早川社長とゲームしてたんだけど、『悠綾は俺にはベタ惚れだから、10分以内に絶対来る』って言うんだ」

「信じられなかったけど、今は信じるよ」

「お義姉さん」という言葉は、本来は敬称だが、今の悠綾の耳には、露骨な侮辱にしか聞こえなかった。

彼女は唇をぎゅっと結んで返事もせず、人々の真ん中に座る時紀を見つめた。彼の腕の中には、愛くるしい女性が寄り添っていた。

その女性は悠綾も知っている小林莉奈(こばやし りな)だった。

時紀が経営する芸能プロダクションに最近入ったばかりのインターンで、彼らと同じ大学の後輩だった。

「だから言っただろ、悠綾は俺にベタ惚れだから、絶対来るって。彼女は俺と結婚するためなら、何でも言うことを聞くんだぜ」

時紀は自慢げに語りながら、エビをむいて莉奈の口に運んだ。

莉奈もまた、はばかることなく時紀の頬にチュッとキスをした。

この光景に、悠綾の胸の奥がちくちく疼いた。

莉奈のキスのせいでも、時紀が彼女のことを「自分にベタ惚れ」といったせいでもなかった。

ただ彼が莉奈のためにエビをむいた、それだけの理由だった。

彼女と時紀は二人とも音楽大学の出身で、作詞作曲が彼女の得意分野であるのに対し、ピアノやベースなど様々な楽器は時紀の十八番だった。

だから、時紀を追いかけ始めてから、彼女は彼のその手を宝物のように思うあまり、どんなことでも彼自身にさせることは決してなかった。

恋心が最も熱かった頃は、顔を洗うためのタオルさえも絞って、彼に渡していたほどだった。

そんなにまで大切に思い、気遣っていたあの手が、今、他の女のために硬いエビの皮をむいていた。

なんて皮肉なんだろう。

次の瞬間、莉奈の言葉が彼女の考えを遮った。

「時紀先輩、あなたの手は楽器を弾くための手ですよ。私のためにエビなんて、むかなくていいんです。ちょうど悠綾先輩がここにいるじゃないですか。彼女は、いつも時紀先輩のお世話してるんでしょ?残りのエビ、全部むいてもらいましょうよ。私たちから彼女へのお誕生日プレゼントってことで」

そう言われて初めて、悠綾は今日が自分の誕生日だったことを思い出した。自分ですら忘れていた。

「君の言う通りだ」

時紀は莉奈を愛情あふれる眼差しで見ると、足を組み、軽い口調で悠綾に命令した。

「じゃあ、君、残りのエビ、全部むいてくれ。ついでに、ここにいる全員のグラスに酒をついで回れ。終わったら、さっさと失せろ」

個室内は、ほんの数秒、静まり返った。

みんなが悠綾が反抗するのではないかと思ったその時、彼女はしゃがみ込み、エビをむき始めた。

一つ、また一つ。終わった頃には、悠綾の手は腫れ上がり、指先から血が滲んで、痛みで全身の震えが止まらなかった。

彼女は服の端で血をさっと拭い、痛みをこらえながらも震える手で、その場にいた全員のグラスに酒をつぎ終えると、最後は振り返ることなく去っていった。

背中の後ろからは、どっと湧き上がる笑い声と、時紀の誇らしげな自慢話が聞こえてきた。

「ほら見たか?俺にベタ惚れなんだよ、言うことはなんでも聞くんだ」

「さすが早川社長!メッチャすげー!」

悠綾はケーキ屋に寄り、自分のために割引した誕生日ケーキを一つ買って帰った。

ろうそくに火をともし、23歳の誕生日を祝い、これからの人生が平穏無事に過ごせますようにと願いを込めた。

そして、ノートを取り出すと、今回、時紀が自分に与えた傷を書き記した。

時紀、あなたは知らないでしょうけど。

私は、あなたを許すのは十回までと決めていたの。今日で八回目。

あと二回だけ。それで私は、あなたのもとを離れる……
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第1話
高橋悠綾(たかはし ゆあ)はウィ音楽大学への研修枠の申請を終えたばかり、婚約者である早川時紀(はやかわ ときのり)から電話がきた。「ロイヤルクラブ、888号室、10分で来い」窓の外は、しんしんと雪が舞っていた。彼女は一瞬、はっとしたが、それでも言われた時間通りに時紀の指定した場所に着いた。「お義姉さん、本当に来たんだね!さっき早川社長とゲームしてたんだけど、『悠綾は俺にはベタ惚れだから、10分以内に絶対来る』って言うんだ」「信じられなかったけど、今は信じるよ」「お義姉さん」という言葉は、本来は敬称だが、今の悠綾の耳には、露骨な侮辱にしか聞こえなかった。彼女は唇をぎゅっと結んで返事もせず、人々の真ん中に座る時紀を見つめた。彼の腕の中には、愛くるしい女性が寄り添っていた。その女性は悠綾も知っている小林莉奈(こばやし りな)だった。時紀が経営する芸能プロダクションに最近入ったばかりのインターンで、彼らと同じ大学の後輩だった。「だから言っただろ、悠綾は俺にベタ惚れだから、絶対来るって。彼女は俺と結婚するためなら、何でも言うことを聞くんだぜ」時紀は自慢げに語りながら、エビをむいて莉奈の口に運んだ。莉奈もまた、はばかることなく時紀の頬にチュッとキスをした。この光景に、悠綾の胸の奥がちくちく疼いた。莉奈のキスのせいでも、時紀が彼女のことを「自分にベタ惚れ」といったせいでもなかった。ただ彼が莉奈のためにエビをむいた、それだけの理由だった。彼女と時紀は二人とも音楽大学の出身で、作詞作曲が彼女の得意分野であるのに対し、ピアノやベースなど様々な楽器は時紀の十八番だった。だから、時紀を追いかけ始めてから、彼女は彼のその手を宝物のように思うあまり、どんなことでも彼自身にさせることは決してなかった。恋心が最も熱かった頃は、顔を洗うためのタオルさえも絞って、彼に渡していたほどだった。そんなにまで大切に思い、気遣っていたあの手が、今、他の女のために硬いエビの皮をむいていた。なんて皮肉なんだろう。次の瞬間、莉奈の言葉が彼女の考えを遮った。「時紀先輩、あなたの手は楽器を弾くための手ですよ。私のためにエビなんて、むかなくていいんです。ちょうど悠綾先輩がここにいるじゃないですか。彼女は、いつも時紀先輩のお世話してるんでしょ
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第2話
悠綾は、別に小心者だったわけではない。小さな傷つきは記録せず、ただ胸が張り裂けそうになるほどの、重大な出来事だけを書き留めていた。三ヶ月前、大晦日の夜、時紀にプレゼントを届けようと駆けつける途中で、彼女は交通事故に遭った。だが時紀は、莉奈の「時紀先輩と一緒にいたい」という一言で、彼女を冷たい病院に置き去りにした。一ヶ月前、時紀の誕生日にケーキを届けるのが遅れた彼女は、莉奈に煽られて罰で酒を飲まされ、時紀にアルコール中毒になるまで飲まされ、病院で胃の洗浄を受けた。一週間前、莉奈が無礼を働いて取引先を怒らせ、土下座での謝罪を要求された時、時紀は彼女を引きずって相手の会社前で立たせ、まる七時間も立たせ続けた…………悠綾はノートを引き出しに戻し、窓外の漆黒の空を見つめた。彼女は時紀を愛していた。とても、とても愛していた。なぜなら時紀は、彼女にとって天から降ってきたような救い主だった。両親が亡くなった後、親戚と知人からいじめられて自殺しようと、ビルの屋上に立っていたあの時、突然現れてくれたのが時紀だったのだ。当時の彼女はまだ十二歳、時紀は十三歳だった。十三歳の時紀は言った。「人生、思い通りにならないことなんて山ほどある。そんなことで飛び降りるか?降りてこい。人生ってのは、結構素晴らしいもんだよ」時紀の「人生は素晴らしい」というその一言で、彼女は二度と死を選ぼうとはしなくなった。代わりに自分の進むべき道を探し始め、音楽を学び、歌詞や楽譜を研究し、音楽大学に合格したのだ。偶然にも時紀とは同じ大学、同じクラスだった。しかも彼は学生会長だった。時紀がいる場所では、いつだって彼が一番輝いていた。しかし、時紀はとっくに彼女のことを忘れていた。その後、彼女は時紀を狂ったほど追いかけ、何でもし、媚びへつらい、やがて時紀の母である早川由紀子(はやかわ ゆきこ)と偶然知り合った。由紀子は強引に時紀に彼女と結婚させようとし、早川家の嫁にしようとした。時紀も家族の圧力には抗えず、ついに彼女を「婚約者」として受け入れた。しかし、その仕打ちはより一層ひどくなり、彼女の目の前で浮気をすることも日常茶飯事だった。卒業後は莉奈という後輩をことのほか可愛がり、正式な婚約者である彼女の気持ちなどちっとも顧みなかった。悠綾の心は針で刺される
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第3話
「いらないなら捨てろ」時紀はドアを勢いよく閉め、書斎へと向かった。その大きな音に、家全体が揺れたような衝撃を悠綾は感じた。彼女は嘲笑するように鼻をすっと通したが、結局そのブレスレットには手を触れず、ただテーブルの上にぽつんと置いたままにした。それから二日間、悠綾は時紀の姿を見ることはなかった。時紀に関するすべての動向は、莉奈のSNSを通じて知ることになった。この二日間、彼らはずっと一緒にいて、時紀は優しい良き男に変身していた。莉奈を高級レストランに連れて行き、彼女のためにステーキを切り、エビの殻をむいてやった。それに専用のシャンプー台まで買い、莉奈の髪を洗ってやるほどだった。あのいわゆる「楽器を弾くための手」も、莉奈の前ではただの手同然になっていた。悠綾は彼女の投稿一つ一つに「いいね」をつけた。まるで舞台の外から物語の中の役者を見る観客のように。三日目の夜、ブライダルサロンから明日がウェディングドレス選びの日だと連絡が入り、ようやく悠綾は時紀に電話をかけた。「明日、ウェディングドレス選びの日よ。忘れないで来て」電話の向こうで、時紀が口を開くより先に、莉奈の泣き声が聞こえてきた。「時紀先輩、結婚するんですね……それじゃあ、私たち……私、時紀先輩と離れるのが寂しいです」時紀は優しい声で慰めた。「仕方ないんだ、家からの圧力でな。でも安心しろ、莉奈、君への気持ちは、結婚しても絶対に変わらないからな」悠綾は黙って電話を切った。翌日、時紀は約束の場所に現れた。しかし、莉奈も一緒だった。莉奈は可愛らしいピンクのセーターを着て、チャーミングで愛らしかった。「悠綾先輩、私、時紀先輩と離れるのが寂しくて、でも、先輩たちの結婚式を壊すわけにはいかないから、それで私、ブライズメイドをさせてもらおうかなって。悠綾先輩、気にしないですよね?」悠綾は胸にわだかまりを感じ、冷たく言った。「気にする」「時紀先輩、彼女は……私がブライズメイドになるのを嫌みたいです」莉奈のその可哀想な様子に、時紀は胸を痛めた。彼はすぐに彼女を抱き寄せた。「大丈夫だ、俺が君をブライズメイドにするって言ってるんだから。彼女が俺と結婚したくないって言わない限り、俺に逆らえない。さあ、ブライズメイドドレスを選びに行って」「ありがとう、時
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第4話
これは彼女がここ数年で初めて、時紀に強く言い放った言葉だった。時紀も一瞬呆然とした。そんな悠綾に違和感を覚えた。しかし、悠綾が自分に媚びへつらってきた日々を思い出し、加えて彼女がそれほど自分と結婚したがっていることを考えると、途端に自信が戻ってきた。「悠綾、君はいつもそうやって小さいことにこだわるな?単なる服のことで何をいちいち争ってるんだ。『早川家の奥様』の座まで手に入るのに、まだ何が不満なんだ?」悠綾は奥歯を噛みしめたが、結局何も言わなかった。口論に何の意味もないからだ。彼女はその時、一体なぜ、時紀を好きになってしまったのだろうと思ってしまった。あの幼い頃にかけられた、救いの言葉だけだろうか?ブライダルサロンを出た時には、すでに外は暗くなっていた。ちょうど向かいに鍋屋があり、莉奈はすぐ時紀の腕を掴んで甘えた。「時紀先輩、こんなに寒いんだから、三人で鍋食べませんか?辛口のスープで暖まりましょう」「ああ、君の言う通りにしよう」時紀が躊躇いもなく承諾するのを見て、悠綾は思わず彼を見つめた。以前、彼女も一緒に鍋を食べようと提案したことがあった。しかし、普段からあっさりとした味を好む時紀は、決して応じてはくれなかった。それが今、莉奈のためなら簡単に折れた。やはり愛しているかどうかは、はっきりと分かるものだ。「君も一緒に来い」時紀が悠綾を見た。悠綾は相変わらず冷めた表情で、目に輝きがなく、何にも興味がないように見えた。そんな彼女の姿は、時紀に強い違和感を抱かせた。まるで何かが一瞬で過ぎ去り、掴みどころがないような気がした。しかし、悠綾はそこまで自分を愛しているのだから、大したことはないだろうとまた考え直した。そう思うと、再び自信が湧いてきた。「その不機嫌そうな顔、誰に向けてやってるんだ。莉奈と鍋を食べに行くって承諾しただけだぞ?そんな態度取る必要あるか?」「別に、入りましょう」悠綾は反論するのも面倒くさかったし、ちょうどお腹も空いた。時紀はどこかおかしいと感じ、眉をひそめながら悠綾の後を追い、鍋屋に入った。莉奈のリクエスト通り、時紀はピリ辛鍋を注文した。料理はすぐにテーブルに並んだ。悠綾は二人の向かいに座り、淡々とした表情で二人のやり取りを眺めていた。時紀が気遣いながら莉奈に
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第5話
彼女の顔に、自分を心配する様子が微塵も見えないことに、胸の内がむなしく揺れた。「ちょっと出てくる」時紀は痛みに耐えきれず、胃薬を買いに行って痛みを和らげようと席を立った。しかし彼が出て行った途端、莉奈は箸を置き、挑発的な目で悠綾を見た。「悠綾先輩、驚きました?あんなに辛いものが食べられない時紀先輩が、私のためなら一番辛い鍋を食べてくれるなんて。悠綾先輩が以前お願いした時は、時紀先輩は断ったって聞きましたけどね」悠綾の手が一瞬止まった。莉奈も時紀が辛いものが苦手だと知っていたのか。わざとだったのだ。彼女は莉奈が本当に時紀を好きかと思っていたが、所詮その程度だった。悠綾は彼女を一瞥しただけで、これ以上争う気はなかった。彼女は時紀から離れる決意をして以来、この二人が何をしようと、もうどうでもよくなっていた。「正直に言いましょう。ブライズメイドになると言ったのもわざとです。さっきも自分が選んだのがウェディングドレスだと知っていて、わざと悠綾先輩に見せつけました!あなたたちの結婚式当日、私がウェディングドレスを着て時紀先輩のそばに立てば、悠綾先輩の年増の顔もきっとみすぼらしく見えるでしょう悠綾先輩はたまたま早川夫人を助けただけで、なんで早川家の花嫁候補になれたんですか?時紀先輩はあんなに優秀なのに、どうして悠綾先輩みたいな人と結婚するんですか?私こそが早川家の花嫁になるべきなんです」悠綾はついに我慢できず言い返した。「あら、そんなに早川家の花嫁になりたいのなら、早川夫人のところに行って、花嫁をあなたに変えてもらったら?どうせあなたもウェディングドレスを選んだんだし」莉奈の顔色が一気に曇った。早川夫人は彼女が嫌いだった。どうしても気に入らなかったのだ。悠綾がわざと自分を辱めたと思い、テーブルの上のグラスを掴むと悠綾に向かって浴びせようとした、その時、ちょうど入口から男が戻ってくるのが見えた。彼女は手の軌道を急変させ、グラスの水をまっすぐ自分の顔に浴びせた。「きゃっ! 悠綾先輩、何するんですか!」悠綾は莉奈のこの芝居に呆然とした。「私じゃない」と言いかけたところで、時紀が駆け寄り、莉奈を抱き寄せて庇った。莉奈の涙が瞬時にぽろぽろと零れ落ち、これ以上ないほど可哀想な様子だった。「時紀先輩、私、あのドレス返品しま
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第6話
悠綾が外へ出たとき、空には再び細やかな雪が舞い始めていた。 街には車の影も人の姿もなく、彼女がスマホで配車を試みても、ドライバーは誰も応じなかった。 残り三キロの道を、雪に足を取られながら独りで歩いて帰るうち、体の芯まで凍えそうになった。ようやく家に辿り着き、充電ケーブルを挿した途端、スマホが鳴った。 ウィ音楽大学へ応募した際の連絡先だと彼女は覚えていた。 「高橋悠綾さんですか? 当校の研究生としてのご入学が決定しました。十五日以内のご来校は可能でしょうか」「はい」ウィ音楽大学への留学はかねてからの夢だった。これまで時紀への想いを優先し、研究生への応募をずっと見送ってきたのだ。 今さら自分を犠牲にする必要などない。しばらく休むと、彼女は荷物を片付け始めた。驚いたことに自分の所持品は極めて少なく、服は数着だけだった。むしろ時紀の物が大半を占めていた。 彼女が贈った祝日プレゼント、誕生日プレゼント、そして日々のラブレターの数々だった。 悠綾はふと笑みを漏らした。これまで時紀を追いかけるために、どれほど心血を注いできたことか。 ただ彼がプレゼントに手を触れることは一度もなく、包装さえ解かなかったのだ。ならば、去る前に全て処分しよう。時紀宛ての品々を段ボールに詰め込み、マンションのごみ置き場へ運んだ。 片付けを終えた頃には、夜も更けていた。疲労が全身に浸みる悠綾は、残りの整理を諦めて洗面所に向かった。 鏡に映った自分を見つめ、そこにいる人物が別人のように感じられた。 どうしてここまで変わってしまったのか。憔悴した面差し、眉間に刻まれたかすかな憂い。かつての叔父の家で虐げられる日々の中でも、彼女の瞳には光が宿っていたのに。間違った人を愛することは、これほど人を色あせた存在にしてしまうのか?幸い、もう彼を愛していない……翌朝、リビングには時紀と莉奈の姿があった。悠綾が二人に視線を向けると、表情が冷たくなり、それでも自分のことをやり続けた。莉奈は昨日の出来事などなかったかのように、わざとらしい笑みを浮かべて言った。「悠綾先輩、昨日は私が悪かったんです。私に水をかけたのも当然ですよ。だって私の選んだブライズメイド服の方が悠綾先輩のよりきれいですもの。悠綾先輩の気持ち
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第7話
悠綾もその約束を思い出した。当時、時紀が立ち上げたばかりの音楽事務所は作品不足で、彼女のような作詞作曲の才能がある人を渇望していた。だからこそ時紀は「全楽曲の権利譲渡」を恋人関係の条件にしたのだ。彼女も承諾した。その後、彼女が満足する曲は全て時紀に捧げてきた。今、彼の事務所でヒットしている楽曲のほとんどが、彼女の作品だった。だが莉奈に創作の成果を譲るつもりはなかった。「莉奈が私から奪ったものはもう十分だ。これだけは絶対に譲らない。時紀、諦めなさい」これ以上言う気もなく、彼女は寝室へ入った。時紀が追おうとすると、莉奈が袖を引いた。「やめてください、時紀先輩。あれは悠綾先輩の心血ですもの。譲りたくないのも当然です。私、自力で頑張ります」 時紀もしょうがなく、頷き、「頑張って」と励ました。しかし、彼には、莉奈の視線が遠くのパソコンへ吸い寄せられていたことを気づいてなかった。莉奈の瞳に一瞬、鋭い光が走った……午後、寝室に閉じこもった悠綾が再び姿を見せたのは、二人の去った音を確かめてからだった。 身支度を整え、オトリアのビザ申請に出かけた。窓口で「数日後に書留で郵送します」との説明を受けた。その後数日、時紀は帰宅しなかった。彼の動向は、SNSに生き様を曝す莉奈の投稿で知った。二人で買い物したり、映画を見たり、食事をしたりした。莉奈の家で同棲し、ペアの歯ブラシセット、ペアのマグカップを使い、ついにはSNSのプロフィール写真までペアのアイコンに替えていた。それに、莉奈は投稿した。【あなたと過ごす一秒一秒が宝物。たとえこの幸せが短くても、誰かの夫になろうとしても】悠綾は何を言っていいかわからなかった。第三者であることに、なんでこんなに堂々としてるの?それより辛かったのは「ペアアイテム」の存在だった。かつて彼女がペアグッズを求めると、時紀は「幼稚だ」と返した。彼が拒んだのは「ペアアイテム」ではなく「悠綾との共有」だったのだ。相手が莉奈なら、進んで選ぶというわけだ。スマホを置き、最終荷物を確認していた。当日午後、ビザが届いた。書類を整理し、ネットでオトリアの生活情報を集めようとした。スマホを開いた瞬間、莉奈が期末課題で作曲作詞一位を獲得したニュースが流れた。審査通過曲は、
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第8話
彼女はあの午後、莉奈が家にいたことを思い出した。ちょうどあの日だった。莉奈はその時に彼女のパソコンに細工をしたに違いない。証拠を何も出せない悠綾を見て、時紀はますますこれが莉奈のオリジナルだと確信した。むしろ失望した口調で悠綾に言った。「莉奈が期末で一位を取っただけだろう。まさか君の嫉妬心がここまで強いとはな。音楽界は百花繚乱であるべきなのに、君は若い才能を認められないのか」悠綾の心臓に、無数の針で刺されるような疼みが走った。永遠に、永遠に時紀は自分を信じてくれない……彼女はもうこれ以上争う気もなく、ただ疲れたと感じた。ここ数年、時紀への愛は卑屈で、関係も悪かったが、音楽創作に関してだけは二人の歩調は合い、数多くの優れた曲を生み出してきた。時紀の会社が立ち上がったばかりの頃、彼が心から彼女の作詞作曲の才能と、芸術へのこだわりを称賛してくれたことを覚えていた。だが今、彼は彼女を「嫉妬深い」「他人を認められない」と言った。悠綾は泣きたかったが、涙を飲み込み、最後には投げやりな言葉に変えた。「もうどうでもいい」時紀、これで十回目だ……時紀は、悠綾の瞳の光が次第に消えていくのを目の当たりにした。あの説明のつかない感覚が再び押し寄せた。しかし、彼の高慢さはなおもこう言わせた。「まあいい。莉奈の一位は喜ぶべきことだ。後で家で一緒に食事をしよう」「ええ」悠綾は淡く応えた。今の彼女にはもう何の望みもなく、ただ去るのを待っていた。ビザが下りた時、彼女は既にオトリア行きの航空券を予約していた。時間は明日。皮肉にも、明日は彼女と時紀の結婚式の日だ。かつて彼女が心から待ち望んだ結婚式に、彼女は出席しないことにした。このお祝いの食事を、悠綾はそっけなく、一度も顔を上げずに食べた。食事の途中、莉奈が突然言った。「悠綾先輩、明日は時紀先輩との結婚式ですよね。今夜だけでも時紀先輩を私に譲ってくれませんか?結婚したら、あまり気軽にはいられないので……」時紀も言った。「君と結婚するまでは、俺は自由だ」「分かってる、時紀、あなたは自由よ」以前も、今も、これからもずっと……時紀は悠綾の感情の異変に全く気づかず、ただ優しい口調で彼女に言った。「安心しろ。結婚式が終わったら、必ず埋め合わせはするから」「ええ、楽
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第9話
一晩中、時紀はよく眠れなかった。心に漠然とした不安が渦巻き、何かが起きる予感がしてならなかった。目を覚ました時、莉奈は彼の腕の中でぐっすり眠っていた。彼はわずかに眉をひそめ、布団を跳ねのけて起き上がろうとしたが、莉奈が首に腕を回した。「時紀先輩、最後にもう少しだけハグさせて?もう少ししたら、あなたは悠綾先輩の夫になっちゃうんだから」莉奈は彼にしがみつき、深く、貪欲に彼の匂いを嗅ぎながら、手も次第に大胆な動きを見せ始めた。実は、二人が一緒に過ごしたこの数日間、昨夜ようやく同じベッドで寝たが、関係を持つには至らなかった。彼女はもっと深い関係を求めていた……莉奈は時紀が拒んでいないのを見て、彼の異変にも気づかず、勇気を振り絞って唇を近づけようとした。その瞬間、時紀に押しのけられた。「これは、私自分で望んでることです……」莉奈がもう一度試そうとしたが、時紀は一切の隙を与えず、さっとベッドから起き上がり、準備しておいたスーツに着替えた。莉奈は唇を結び、目に一瞬の寂しさを浮かべたが、彼女も起きてウェディングドレスに着替えた。二人が準備を終えると、ちょうど花嫁を迎える車列が到着した。莉奈がウェディングドレス姿で降りてくるのを見て、一同は呆然とした。車列は悠綾の住む場所へ向かった。距離が縮まるほど、時紀の心の不安は増していった。そして彼は、がらんとした部屋を目の当たりにした。その時、ようやく何かを悟った……「どうして?」時紀は独り言をつぶやいた。悠綾の習慣と彼への愛を考えれば、部屋をおめでたい飾りつけで埋め尽くしているはずだと思っていたのに、なぜ何もないんだ。「悠綾!」時紀が叫んだが、返事はなかった。彼は悠綾の寝室へ行ったが、そこもまたがらんとしていて、何もなかった。家全体に悠綾の痕跡は一切残されていなかった。時紀の心に、初めて慌てる気持ちが湧いた。携帯を取り出し、悠綾に電話したが、向こうからは冷たい機械音が返ってくるだけだった。「すみません。おかけになった番号は、現在つながりません」彼は悠綾にメッセージを送り、あらゆるアカウントにメッセージを残した。結果は全てブロック状態だった……ついには悠綾のアカウントにログインして手がかりを探そうとしたが、何もなかった!あの女は一体
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第10話
ノートの文字は、一つ一つ動いてはいないのに、時紀にはそれが次々と鋭い刃となって、心臓に突き刺さるように感じられた。耐えがたい痛みだった。「悠綾……」時紀は声を潜めて呟き、押し寄せる自責の念で目尻がすぐに赤く染まっていった。成人して初めての涙が、まさか自分がずっと見下していた悠綾のために流れるとは……リビングで待っていた莉奈は、時紀がなかなか出てこないので、ウェディングドレスを引きずりながら寝室に入ってきた。何もかもが空っぽで、悠綾の痕跡一つない部屋を見て、口元に笑みを浮かべながら時紀に近づいた。「時紀先輩、悠綾先輩がいなくなったみたいだから、私があなたの花嫁になりましょうか?」時紀は答えず、ただ暗い目で莉奈を一瞥した。莉奈は一瞬怯えた。それでも勇気を振り絞って、言いたいことを口にした。「時紀先輩、どうしてそんな目で私を見るんですか?私は……本気であなたが好きで、結婚したいんです。悠綾先輩がいる間は言い出せませんでした。どうか私をあなたの妻にしてください。これからあなたの生活を支えさせてください、お願いします」その言葉を聞いて、時紀はふと前回の鍋のことを思い出し、思わず冷たい笑いを漏らした。「君が俺を支える?莉奈、君は俺が辛いものが食べられないと知っていたくせに、無理やり鍋に連れて行ったんだ。その時、俺は胃が痛くて顔色も悪くなっていたのに、お前には見えなかったのか?」莉奈はうつむいて、何も言わなかった。実はその時、彼女は気づいていた。ただ……あまり構いたくなかっただけだ。それに彼女は女なんだから、守られるべき存在なのに、なぜ男である時紀のことを気にかけなければならないの?彼女が黙っているのを見て、時紀はさらに冷たい口調で言った。「だから君はどうやって俺を支えるつもりだ?悠綾は俺が眉をひそめるだけで、体調が悪いことや、何を求めているのかを察してくれた……君には、何もわからない」時紀は抑えていた感情をその瞬間に爆発させ、莉奈を追い払った。そして彼は、悠綾を必ず見つけ出し、謝罪し、許しを請わなければならないと、より強く決意した。これまで彼女を大切にしなかったのは自分だ。自分は畜生以下だ!莉奈が去った後。彼はそのノートを何度も何度も読み返し、読むたびに自ら頬を打った。時紀は空っぽの部屋を見
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