紗季は一歩一歩、陽向の目の前へと近づいていった。「この数年間、私の子どもで、本当に辛い思いをさせてしまったわね」紗季の柔らかい言葉を聞いた陽向は、思わず笑いそうになったが、わざと真剣な顔を作った。「私はいい母親じゃなかった。無理やり宿題をさせたり、ゲームやスマホを制限したり、アイスやジャンクフードも食べさせなかった。全部、あなたの自由を縛ってきた。でも、もう安心して。これからは何も口出ししない。あなたが美琴さんがいいと思うなら、その人をお母さんにすればいい。私は何の異論もないわ」その言葉は、まるで最後の別れを告げるように重苦しかった。――紗季はもうすぐ死ぬ。夫に裏切られ、子どもからは疎まれ。ここまで生きてきて、紗季の人生は惨めな失敗のように思えた。陽向の顔から笑みが消え、眉がきゅっと寄った。「ママ、わざと嫌なこと言ってるんでしょ?」紗季は冷たく視線を逸らした。「違うわ。本気よ。今すぐ美琴さんを『ママ』と呼んでも、私は何も思わない。最初から、あなたを産まなかったことにすればいいの」そう言い終えると紗季は伏し目がちに顔を落として、足早に立ち去った。紗季が去った後陽向は呆然と立ち尽くした。説明できない恐怖が胸に込み上げた。泣きたくなった。母に捨てられるということは、世界中から見放されることと同じだった。その時、陽向の腕時計型電話が鳴った。発信者が美琴だとわかると、陽向の表情はぱっと明るくなり、さっきまでの恐怖をすっかり忘れた。笑顔で通話をつなぐ。「美琴さん!」その声を、車に乗り込む直前の紗季が耳にした。足が一瞬止まったが、振り返らずに車内へ入った。酒場に着いた紗季は、薄暗い廊下を抜け、個室の前まで来ると、扉が半開きになっているのに気づいた。中では隼人が数人と賑やかに飲んでいた。誰かが冷やかすように声を上げた。「隼人、最近ついに憧れの人が側に戻ってきて、モテ期だな?」「そうそう。初恋の人が現れたって話、俺たちも聞いたぞ!」「家には賢い奥さん、外には美しい恋人。俺だったらどっちを選ぶか分からんぜ!」隼人は扉に背を向けていた。そのため、紗季からは彼の表情が見えなかった。だが、その言葉を隼人は否定も制止もしなかった。紗季の顔がさっと青ざめ、踵を返した。紗季は隼人と結
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