All Chapters of 去りゆく後 狂おしき涙: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

「翔太は自作自演してるの。わざと私とこの土地を争ってるんだよ」紗季はスマホを隼人に差し出した。動画の中で、翔太はまるで子どものように楽しそうに遊んでいた。誰が見ても、それは監禁から解放されたばかりの人間の姿には、とても見えなかった。紗季は、隼人が翔太のこの振る舞いに憤るだろうと思っていた。だが隼人は最後まで動画を見ても、怒りの色を一切浮かべなかった。スマホを紗季に返しながら、隼人は気楽そうに言った。「翔太はもともとああいう性格だ。何かあると、まず気を紛らわせるために楽しみを見つける。そうすれば一人で塞ぎ込んで、どんどん鬱っぽくならずに済むからな」紗季はゆっくりと眉をひそめた。隼人は笑みを浮かべながら、紗季の頬を軽くつまんだ。「大丈夫、考えすぎるな。この土地は必ず俺が取り戻してやるから」その瞬間、紗季の瞳にかすかな嘲りがよぎった。隼人が土地を取り戻す頃には、自分はもうこの世にいない。――もういい。頼れないのなら諦めるしかない。七年も自分を欺いてきた男を、どうして信用できるだろう。紗季は何も言わずに背を向け、二階へ上がっていった。仕方なく隆之に電話をかけた。こちらは満天の星が広がる静かな夜だが、受話器の向こうはざわめきに包まれていた。隆之は驚いたように言った。「紗季、そっちはもう夜だろ?こんな時間にどうしたんだ?」紗季は視線を落とし、実家の土地の件を話した。隼人が幼なじみのために土地を譲ったと聞いた瞬間、隆之の声は怒りに染まった。「お前をそんなふうに軽んじ、約束も守らない男だ。離婚を決意するのも当然だ!安心しろ、今すぐ秘書をお前のところへ送る。その土地は必ず俺が手に入れてやる」その声音はいつも通り落ち着いていて信頼に足り、さらに紗季への甘やかしがにじんでいた。紗季は隆之が自分を恋しく思っていることを悟り、こらえきれず涙をこぼした。慌てて涙を拭い、声を整えた。「うん。お兄ちゃん、もう少し待ってて。あと数日で私も戻るから」遠く離れた隆之は焦る気持ちを抑え、しばらく彼女を慰めてからようやく電話を切った。紗季にはわかっていた。隆之なら必ず土地を手に入れると。彼女は急いで身支度を整え、丹念に化粧を施した。鏡の中の病的にやつれた顔は、一瞬で華やかさを取り戻し、別人
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第42話

紗季と剛士は気軽に昔話を交わしながら、ほどなくしてレストランの個室に通された。食事を取りながら、紗季は今の状況を剛士に語った。剛士はどこかへ電話をかけ、切ったあと冷ややかに笑った。「調べがついた。この土地の名義人は翔太の遠縁の従兄だ。お前の言ったとおり、自作自演だった」紗季は驚かなかった。隼人の態度がそのまま周囲の態度を決める。隼人が美琴を大切にする以上、翔太もまた全力で紗季を排除し、障害を取り除こうとするだろう。「土地は取り戻せる。すでに手は打ってあるからな。あの従兄はろくでなしだから、扱いやすい」そう言いながら、剛士はスペアリブを取って紗季の皿に置いた。「それより……お前は本当に隼人や子どもを捨てられるのか?隼人はお前の初恋の相手だろう。子どもだって、お前が大出血して命懸けで産んだんだ」紗季の瞳には一片の揺らぎもなく、淡々と答えた。「誰だって、自分の命より大切なものなんてないわ。私は自分が何を望んでいるか分かってるよ。彼らを手放すことは、あなたたちが想像するほど難しくはないの」かつて紗季は、隼人を好きじゃなくなるのは、自分が死ぬときだと思っていた。しかし今は、死が目前に迫ったことで、逆にどうでもよくなっていた。絶対に捨てられないと思っていたものもすべて手放せるのだ。剛士は紗季の急な変化に驚き理由を問いただそうとしたが、その前に個室のドアがノックされた。ウェイターが料理を運び入れた。二人は会話を続けていたが、廊下に立つ人影には気づかなかった。しばらくして、紗季は鼻血が出そうな気配を感じた。剛士に悟られぬよう口実を作り、席を立って洗面所へ向かった。だが外に出た瞬間、壁にもたれる人影を見た。翔太だった。翔太は鼻で笑った。「紗季、たいしたもんだな。いつの間に他の男と繋がったんだ?隼人は知ってるのか?お前が表向きは健気ぶって、裏では好き勝手やってるってな」紗季の足が止まり、翔太の姿を目にした途端吐き気を覚えた。体調の悪い今はなおさらだ。冷ややかな表情で言い放った。「翔太、もういい加減にして。今まで私が譲歩していただけよ。もう我慢はしない」「なんだと?やったことを認めないのか?さっきの男、俺は見たこともない。そんな奴と二人きりで食事?どう考えても普通な関係じゃないだろ!」
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第43話

翔太は思わず振り返ったが、目の前の相手を見極める暇もなく、一撃の拳をまともに受けるとその場に叩き倒された。無様に床へ転がり、顔面に鋭い痛みが走った。口の中に鉄のような血の味が広がり、起き上がる間もなく胸を踏みつけられた。剛士には空手の腕前がある。磨き上げられた革靴のつま先を翔太の胸に強く押しつけ、見下ろす瞳には冷ややかな軽蔑が宿っていた。「よくも紗季に手を出したな!」その言葉に紗季の胸がかすかに震え、静かに剛士の背後へ歩み寄った。翔太は悔しさと怒りで発狂しそうになりながらも、胸の痛みに息を詰まらせる。「お、俺は……間違ってない……お前ら、不倫してるんだろ……ああっ!」言い終わる前に、さらに二発の蹴りが叩き込まれた。剛士は容赦なく拳と蹴りを浴びせ、その音が廊下に響きわたると両側の個室から客たちが顔をのぞかせた。人々は次々と外へ出てきて様子をうかがった。翔太は反撃する隙もなく一方的に殴られ蹴られ続け、頭を抱えて床にうずくまり、錯乱して叫んだ。「紗季!なに突っ立ってんだ!止めろよ!俺、殺されるよ!」紗季は冷ややかに見下ろし、淡々と告げるた。「私に手を出した時、自分がこうなることを考えなかったの?殺されても自業自得よ」「このっ……覚えてろ!紗季、お前……ああああっ!」翔太が罵声を浴びせた瞬間、剛士の拳が再び顔面を撃ち抜いた。最終的には、駆けつけたレストランの従業員たちが必死に剛士を引き離した。そのころには翔太の衣服は乱れて体中に靴跡が残り、顔は腫れ上がって身動きできなくなっていた。剛士は名刺を翔太の胸元に叩きつけた。「文句があるなら、俺の弁護士が相手にする。それから――お前の従兄に奪われた東邦不動産グループの土地の件も、一緒に清算させてもらおう」その言葉に翔太の体は強張り、信じられないといった表情で剛士と紗季を見た。自分が仕組んだ計画は極めて巧妙なはずだったのに、どうして二人に突き止められたのか。もし隼人に自作自演が知られたら……必ず激怒するに違いない。喉が焼けつくように唾を飲み込み、さっきまで隼人に告げ口してやろうと考えていた翔太は、今やどうすべきか分からなくなっていた。剛士は袖口を整え、紗季に目で合図を送った。その視線に胸が温かくなり、紗季は剛士と共に店を後にした。
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第44話

リビングはまるで真昼のように明るかった。隼人はソファに腰を下ろし、テーブルの上にはすっかり冷めきったコーヒーが置かれていた。紗季が入ると、不意に隼人と目が合った。その深い眼差しに射抜かれる。紗季は一瞬身を強ばらせたが、すぐに視線を逸らして靴を履き替えた。紗季が何も言おうとしないため、隼人は眉をひそめた。「さっきまでどこへ行ってた?こんな時間まで帰らないで」紗季は淡々と答えた。「ちょっと用事があっただけ」「その用事って……男と二人きりで個室に入ることか?しかも翔太をあんな姿にして?」隼人はスマホを取り出した。画面には、殴られて顔が腫れ上がった翔太の痛々しい自撮り写真が映っていた。紗季は靴箱に手をついた。その手には赤く腫れた痕が残り、翔太に強く握られた跡が生々しく刻まれていた。「先に手を出したのは翔太よ。殴られて当然じゃない」隼人の顔はさらに険しくなった。「あの男は誰だ?前にお前と接触していた医者か?それともまた新しく知り合った男か?」強引な問い詰めに紗季は不快感を隠さなかった。「誰であろうと、私は潔白よ。翔太の言葉を信じたいなら勝手にすればいい。私が自分を証明する義務なんてない」そう言って紗季は隼人を避けながらすり抜け、そのまま立ち去ろうとした。隼人の瞳に暗い嫉妬の色が宿った。彼は紗季を力ずくで抱き寄せ、強引に唇を重ねた。突然のことに紗季の体は硬直した。唇が触れた瞬間、隼人が裏で美琴とどんな関係を持っているのかが脳裏をよぎり、吐き気が込み上げた。震える体で隼人の唇に噛みつき、振り上げた手で叩こうとした。隼人はその手を押さえ込み、唇から血を滲ませながらも痛みを気に介さず、目を伏せて問い詰めた。「今はもう……俺に触れられるのも拒むのか?」紗季は冷笑を浮かべた。「私に触れなくても、他に満たしてくれる女がいるじゃない」その一言が隼人の怒りを煽った。彼には理解できなかった。自分は他の女に手をつけたことなどなく、長年ただ紗季だけを想い続けてきたのに。理性を失った隼人は、紗季の腰を抱え上げ、吐き捨てるように叫んだ。「だったら今夜はお前が応える番だ!妻なら果たすべき務めだろう!」「放して!」宙に浮いた紗季は必死に抵抗した。だが男女の力の差は歴然で、紗季は隼人
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第45話

午前三時。別荘の明かりはまだ消えていなかった。隼人はベッドの脇に立ち、家庭医が紗季を診察する様子を見つめながら、顔に複雑な後悔の色を浮かべていた。――今すぐ自分を殴り倒してやりたい。最近の紗季は体が弱り、抵抗力も落ちているというのに、そんな彼女をあんなふうに苦しめてしまった。もし紗季に何かあったら……考えるだけで胸が張り裂けそうだった。「隼人様」家庭医が軽く咳払いをして聴診器を外した。隼人は眉を寄せた。「どうだ?紗季は大丈夫なのか」「ええ……その、少々激しすぎたせいで鼻血と一時的な失神を起こしたのでしょう。これ以上は絶対に控えてください。奥様の身体はあまりにも弱っていて、とても耐えられません」医師自身どう伝えるべきか迷っていた。まさかこんな状況に直面するとは思っていなかったのだ。隼人は目を閉じ、低くつぶやく。「分かった……無事ならそれでいい」「では薬を処方しておきます」家庭医は薬箱をまとめながら、ふと問いかけた。「そういえば、奥様は普段どんな薬を服用されていますか?確認しておきたいのです。薬の相互作用を避けるためです」隼人は紗季がよく給湯室のそばで薬を飲んでいたことを思い出し、下へ降りてコップを入れてある引き出しを探った。だが、どこにも見当たらない。ふと目を落とすと、ゴミ箱の中に空になった薬箱が捨てられていた。拾おうとしたその時――背後から家庭医の声が響いた。「奥様、目を覚まされましたか。ご気分はいかがですか?」隼人は薬箱を手に取り、急いで二階へ戻った。寝室に入ると虚ろで感情の乏しい紗季の瞳と目が合った。その視線に、隼人の胸は罪悪感で押し潰されそうになった。「紗季、ごめん、俺は……」だが紗季の目はすぐに隼人の手元へ移り、握られた薬箱を見て心がざわめいた。「それ、どうして持ってるの?」隼人は何かに気づいたのか。「見ておかないといけないんです。奥様に薬を処方するには、これまで何を飲んでいたか確認が必要で、同時に服用できないものもありますので」家庭医がそう言って薬箱を受け取ろうとした。しかし紗季は倦怠感の中で身を起こし、薬箱を奪い返した。「ただの鉄分補助剤よ。見せるほどのものじゃないわ。早く薬を出してちょうだい」まるで何かを隠しているかのようなその仕草に。
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第46話

隼人は信じられない思いで紗季を見つめ、その瞳にかすかな悲しい色を読み取れた。結婚してからというもの、紗季がこんな厳しい言葉を投げつけてきたことは一度もなかった。それなのに自分に向かって「出て行け」と突き放すなんて。紗季が日ごとに冷たく、容赦なくなっていくのを隼人は痛感していた。――一体、どこで間違えてしまったのか。「出て行けって言ったの、聞こえなかった?これからは私の許可なしに部屋へ入らないで。私に触らないで!」その言葉は氷の刃のように冷酷だった。隼人の胸は重い槌で打ち砕かれたように痛み、呼吸さえ乱れた。彼は深く紗季を見つめ、これ以上いかなる言い訳も通じないと悟ると、ただ黙って背を向けて部屋を出ていった。扉が閉まるとすぐに、紗季は起き上がり、薬箱をマットレスの下に押し込んだ。そして同じ色合いのサプリメントの箱を探し出し、枕元に置いた。すべてを終えたときには、もう目眩で立っているのがやっとだった。紗季は無理やり体をベッドに横たえ、そのまま意識を手放した。――一階。隼人は無言で窓の外を見つめていた。玲は彼の険しい表情を見てため息をつき、思い切って口を開いた。「隼人様、今回は、あなたが間違っていらっしゃいますよ」隼人は冷たく横目で玲をにらみ、その視線には「黙れ」という無言の命令が込められていた。それでも玲は勇気を振り絞って続ける。「紗季奥様の様子が変わったのは、美琴さんのせいではありませんか?坊ちゃまと美琴さんが親しくなる一方で、紗季奥様と坊ちゃまの関係は悪化するばかりです……」長年屋敷に仕えてきた玲には、すぐに分かっていた。美琴が戻ってきてからすべてが変わったのだ。隼人は目を細め、鋭い眼差しが遠くを見据えるとき冷ややかな色を帯びた。彼は指先を弄びしばらく沈黙したのち、低くつぶやいた。「美琴のせいじゃない。別の人間のせいだ」陽向が母親に懐かないのなら、母親である紗季にできることがいくらでもあったはずだ。優しく導けば聞き分ける子どもに、あえて強硬な態度をとり続けて関係を悪化させ、今では陽向を玲子の家に預けっぱなしにしている。――すべては、あの航平のせいだ。昨日、紗季と食事を共にしていた男。名前を探る必要もない。まず排除すべき相手だ。隼人は視線を戻し、玲に命じた。
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第47話

紗季は屋敷を出ると、真っ先に剛士へ連絡を取り、会う約束をした。彼に事情を説明し、静かに頼み込んだ。「私の友人を、病院に戻してくれない?」剛士はしばらく黙り込み、深く考え込んだ後で口を開いた。「隆之さんは国内でも医学界に幅広い人脈と資源を持っている。彼に頼めば、航平先生を復職させることは可能だろう。ただ……俺には分からない。隼人が自ら追い出した人間を、なぜ自分で彼に頼まないんだ?」「いいえ。私はもう二度と、彼を頼るつもりはないわ」紗季の胸にはあの土地の件がよぎり、深い失望が広がっていた。祖父母の代から受け継がれた土地だと知っていながら、隼人は平然と他人に譲ってしまった。そんな人にこれ以上期待するのはもはや無意味だ。ましてや隼人はすでに自分と航平の関係を疑っている。自分が直接動けば、火に油を注ぐだけだろう。紗季の瞳に宿る失望を見て、剛士は重く息を吐いた。「そうか。お前の結婚生活は本当に救いようがないな。早く解放された方がいい」そう言うと立ち上がり呟いた。「俺が隆之さんに電話してみよう」紗季は小さく微笑み、うなずいた。「ありがとう」隆之の行動は驚くほど迅速だった。わずか二時間後には手続きが完了し、航平は病院に復帰できることになった。その知らせを受けた院長・鈴木啓介(すずき けいすけ)は、すぐさま隼人に連絡を入れた。会社で業務に追われていた隼人は、その報告を聞いた途端、眉間に深い皺を刻んだ。「どういうことだ。俺は確かに航平を辞めさせろと命じたはずだ」「最初はそのつもりでした。ですが、航平先生の背後には大物がいるようで……本院の院長が直々にチームを率いて来られ、航平が解雇されたと聞くなり、僕を飛ばして即座に復職を命じたのです。『稀有な人材だ』とまで言われて……」啓介の声は沈み、電話越しにも落胆が伝わった。「今後はもう、彼には手出しできないでしょう」隼人は携帯を握りしめ、表情を陰鬱に曇らせた。――航平の人脈は、想像以上に広い。本院の院長とそのチームまで動かせるということは、その背後に相当な力を持つ人物がいるに違いない。だが、この病院で自分以上に影響力を持つ存在とは一体誰なのか。考えれば考えるほど、答えは見えなかった。隼人は携帯を取り直し部下に調査を命じた。しかし部下は黒幕
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第48話

紗季は微笑んだ。「私、言いましたよね。あさってには兄の友人と一緒に国外へ発つので……この特効薬は、もう手に入らないかもしれません」「心配しないでください。今すぐ連絡を入れます。滞在先の住所を教えてくれれば、俺が送りますから」航平はすぐに携帯を取り出し、供給ルートへ電話をかけた。だが、数秒もしないうちに――彼の顔から笑みがすっと消えた。その変化に気づいた紗季は、不安げに尋ねた。「どうしたんですか?」航平は大きく落胆した様子で通話を切り、言葉を選ぶように俯いた。やがて力なく頭を垂れた。「すみませんが。このルートはもう使えなくなったそうです。研究機関が投資家と約束したらしく、俺には一切供給しないと……」理由を細かくは語らなかった。だが、紗季にはすぐに分かった。――隼人だ。航平を病院から追い出すことは叶わなかったが、航平が薬を探していると知るや否や、供給そのものを断ち切ったのだ。紗季は袖を握りしめ、胸が詰まって息苦しくなった。隼人は一体、何がしたいの?自分と航平の距離に腹を立て、わざと妨害していたの?航平なら別に困らない。けれど、薬がなければ――自分はまた出血を繰り返し、病状はさらに進む。隼人は自らの手で紗季を追い詰めていた。「ごめんなさい。こんなことになるなんて思わなかったんです。せっかく喜んでくれたのに……」航平は眉を寄せ、苦しそうに言った。「紗季、隼人に頼んでみませんか?もしかしたら供給を繋げてもらえるかもしれません」「いいえ、結構です」紗季は静かに微笑んだ。「国外に戻れば、兄と一緒に直接その医療機関へ行けます。隼人に頼る必要なんてありません」航平は不安げに眉をひそめた。紗季は続けた。「それに、この薬は鼻血を抑えるだけですよね?飲んだからといって助かるわけじゃないですから。私、もう行きますね」バッグを手に立ち上がると、指先まで冷たく痺れていた。貧血で常に胃の不快感と手足の冷えに悩まされていた。「今日はあなたがまたここで働けますか、それを確かめに来ただけですから」蒼白な顔で微笑む紗季を前に、航平は慰めの言葉を探した。だが結局何も言えず、胸を痛めながら玄関まで見送った。――紗季は病院を出た。足の向くまま歩いていると気づいた。昨夜、隼人に弄ばれ
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第49話

目が合った瞬間、美琴はすぐに茶碗を置きにこやかに立ち上がった。「どこに行ってたの?私、ずっと待ってたのよ。もう十数分も経ってるんだから」紗季が美琴と二人きりで向き合うのはこれが初めてだった。差し出された美琴の手を、紗季は表情ひとつ変えず、身をかわして避けた。「私に、何か用?」「そうだわ。さっき玲子さんと電話で話したんだけど、学校で陽向くんの進学手続きに戸籍謄本を提出しなきゃいけないらしいの」美琴の瞳がわずかに揺れた。「玲子さんは来られないから、私に取りに行ってほしいって頼まれたの」そう言いながら、美琴は作り笑いを浮かべ、再び手を差し出した。「だから、戸籍謄本を渡してくれる?」紗季は少し間を置き、視線を上げて美琴を見据えた。紗季と隼人の婚姻届受理証明書は偽造であり、戸籍謄本に紗季の名は存在しない。美琴はそれを見せつけようとしているのか、それとも本当に戸籍謄本を受け取りに来ただけなのか――しかしこの七年間、紗季はそうした事務的なことに一切関わってこなかった。家族関係の証明や各種手続きに必要な戸籍謄本は、すべて隼人が一人で済ませていたのだ。そのため紗季は、黒川家の戸籍謄本を一度も見たことがなかった。そして、隼人が大事な証書を必ず、書斎の金庫に保管していることだけは知っていた。紗季は拳を握りしめ、美琴を真っ直ぐ見た。「隼人に頼んで。証書類は全部、書斎の金庫にあるから。私は暗証番号を知らない」「私、知ってるわ」美琴が突然、紗季の言葉を遮る。「暗証番号は陽向くんの誕生日よ。前に私にそう教えてくれたの」眉を少し吊り上げ、手でどうぞと促す仕草を見せた。「早く持ってきてちょうだい。玲子さんが待ってるの。明日の朝には必要なんだから」紗季の胸は重く沈んだ。――隼人は一度も金庫の暗証番号を自分に教えなかった。真実を知られたくなかったからだろう。だが、美琴にはためらいなく教えていた。そうか。彼らこそが「本当の家族」であり、美琴が知っていて当然なのだ。紗季は固めた拳を静かに開いた。階段を上り、書斎へ向かう。金庫を開けると、中には戸籍謄本のほか、隼人が最も大切に保管していた結婚写真が収められていた。紗季はわずかに震える手で、それを取り出した。それは美琴とのものだと信じ込
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第50話

「次にこういうものが必要なときは、俺に言え。秘書に取りに行かせる。紗季を煩わせるな」隼人の声には、かすかな警告の響きが含まれていた。美琴の笑顔が一瞬ひきつる。隣で平然とした様子の紗季を見て、彼女がまだ戸籍謄本の中身に気づいていないことを悟った。無理やり笑みを保ちながら美琴は唇を噛みしめ、小さな声で言った。「わかったわ。次からは直接、あなたに電話するよ」隼人はわずかにうなずいた。「私だって、玲子さんがあまりに急いでいたから代わりに来ただけよ。そんなに怒らないで……」美琴は胸に手を当て、荒く息をついた。隼人もそれ以上は叱らず、声を潜めて尋ねた。「どうした?また心臓の具合が悪いのか。体調が悪いなら病院でしっかり休め。こんな取るに足らないことで動き回るな」そう言うと隼人は玲に顎をしゃくった。「美琴を送っていけ」美琴は隼人が自ら送ってくれないことに驚き、取り繕っていた平静さが崩れそうになったが、玲に促されるまま渋々その場を去った。美琴の背中が玄関口から見えなくなると隼人はすぐに振り返り、紗季の表情を細かく観察した。「さっき……何か見たか?」紗季は隼人を見つめ、かえって問い返した。「いろいろ見たけど。あなたが言っているのは、どれのこと?」「俺は……」隼人は言葉を詰まらせ、視線を落とした。平然とした紗季の態度を見て、戸籍謄本の内容は目にしていないのだろうと推測し、胸の奥で安堵した。そして、紗季の手をぐっとつかんだ。「前にも言っただろう。最近はおとなしく家にいろ。あの医師とは二度と会うな。そうすればすぐにでも土地を渡す。なのに、なぜ今日も病院に行った?」紗季のポケットには、まだ病院でもらった薬が入っている。隼人の追及に対し、紗季の表情は冷めきっていた。「土地ならもう手に入れた。もうあなたに手間をかけてもらう必要はないわ」「何だと?」隼人の目が大きく見開かれた。「手に入れた?どうやって?」「土地は翔太のものよ。兄の秘書が海外から戻ってきて、翔太と直接、買い取り契約を結んだの。七日間の保護期間が終われば、その土地はすぐに私と兄の名義に変わるわ」嘲るような光を瞳に宿し、隼人の狼狽ぶりを見据える紗季は胸の奥で痛快さを覚えていた。「私が誰と会おうと――もう、あなたが左右でき
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