All Chapters of 去りゆく後 狂おしき涙: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

「冷えからくる風邪の治療か……」隼人は薬箱に記された一行を読み上げ、わずかに眉をひそめた。ただの平凡な風邪薬にすぎない。それなのに、紗季の様子はどこか不自然で、まるで何かを知られるのを恐れているかのようだった。不思議には思ったものの、隼人はそれ以上深く考えず、自分の勘違いだろうと片づけた。薬箱を元の場所に戻し振り返ると、ちょうど風呂から上がった紗季が入口に立ち、彼の行動を見つめていた。彼女に見られた隼人は、少し気まずそうに咳払いをした。「ちょっと見ただけだよ。そういえば、お前最近鉄分のサプリ飲んでるって言ってなかったか?なんで風邪薬なんだ?」「ええ、少し風邪気味でね」紗季は半乾きの髪を拭きながら歩み寄ると、さらに続けた。「何か問題でも?ほかの薬が見たいなら、持ってこようか」「いや、別に疑ってるわけじゃないさ」隼人は自然に手を伸ばし、タオルを取ってやった。紗季は軽く引っ張ってみたが、抗えずに机のそばへと押さえ込まれる。隼人の力加減は丁度よく、結婚して七年間、いつも変わらなかった。紗季は鏡越しに背後の隼人を見た。深い眼差しと冷ややかな顔立ちは柔らかさに包まれ、俯いて自分を見つめる姿は、この世で最も大切な宝物を慈しむようにすら見えた。――演技がますます巧妙になっている。そう思い、紗季は目を閉じた。これ以上は見たくなかった。隼人が髪を拭き終えると、ふっと身をかがめ、彼女の髪から漂うジャスミンの香りを吸い込んだ。「いい匂いだな」紗季は無言のまま立ち上がり、タオルを取り返した。そのとき隼人は階下に紗季へ渡す物を置き忘れていたことを思い出し、口元を緩めた。「お前に渡したいものがあるんだ」リビングから持ってきた桜餅を差し出した。「店の限定販売日が土曜に変わったんだ。特別に取り置きしてもらった」紗季は目を伏せ、手を伸ばそうとしなかった。隼人は彼女の手に押し込むように差し出した。「どうした?今日は食欲ないのか?」紗季は首を振った。「もう買ってこなくていいわ」隼人は一瞬、聞き間違えたのかと思った。「今、何て言った?」紗季は顔を上げ、真っ直ぐに彼を見据えた。「もう桜餅はいらない。だから、これからは買ってこなくていい」はっきりと言い切るその口調からは、心中を読み
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第52話

紗季が会社に着いたとき、ちょうど翔太が社長室から出てきた。彼は肩を落としてうなだれたまま前も見ずに歩いていたので、紗季に危うくぶつかるところだった。反射的に身を引いた翔太は顔を上げ、紗季の姿を認めた途端、目に侮蔑の色を浮かべた。ポケットに手を突っ込み、鼻で嗤った。「なんでお前がここに来たんだ?」紗季は書類を手にしたまま、冷ややかにすれ違おうとした。「あなたには関係ないわ」翔太は腕を伸ばし、彼女の行く手を遮った。「最近、陽向がお前と暮らさずに玲子の家にいるって聞いたぞ。母親失格もいいところだな。自分の子どもにすら一緒にいたくないと思われるなんて、普段どれだけ嫌われてるか、不要な存在なのかよくわかるな!」声には露骨な嘲りが込められていた。だが紗季の表情は冷淡なままで、翔太が期待していたような取り乱した様子は一切見せなかった。「そうね、人に嫌われるのは当たり前のこと。でも――あなたほど気味の悪い存在じゃないわ」その言葉に翔太の笑みがこわばった。これまで紗季は翔太たちに対して表面上は礼儀を崩さなかった。だが今は、はっきりと軽蔑を示している。翔太は奥歯を噛みしめ、この女の余裕をどう崩すか必死に考えた。「お前がまだ家に住めてるのは、美琴が体調を崩して入院してるおかげだ。もし美琴が元気だったら……隼人を連れて真っ先に市役所に行ってるさ。信じるか?」わざと意味深く笑い、紗季が気にするだろうと思って言葉を続けた。「気になるか?何しに行くのかって。戸籍謄本でも調べてみろよ。そこに誰の名前が載ってるか、よくわかるだろ」紗季は小さく笑った。――最近の翔太は、もう取り繕うことすらしなくなった。こんな言葉で傷つけられると思っているのだろうか。彼女の笑みは静かだった。「そんな暇があるなら、わざと怪我をして同情を買おうとした、自作自演の企みでも気にしたらどう?」翔太の笑顔は一瞬で凍りつき、その途端すべてを悟った。そうか――だからさっき隼人は自分を呼び出して、「友人のよしみで今回は見逃してやる」だとか、「一度で十分だ、二度と繰り返すな」などと口にしたのか……そのとき翔太は、隼人が何を暗に示しているのか理解できなかった。だが――あの土地のことだったとは。紗季は隼人に告げ口しただけでなく、土地その
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第53話

「紗季、どうしてそんなに痩せてしまったんだ?俺のところからそっちに戻って、まだそんなに経ってないのに……ずいぶん痩せて、まるで別人みたいじゃないか!」紗季は足を止めると椅子を引いて腰を下ろした。まさか剛士が何の前触れもなく、隆之とのビデオ通話をつないでいるとは思わず、不意を突かれた格好だった。――隆之にだけは、この姿を見られたくなくて、ずっと連絡を絶っていたのに。この場では説明のしようもない。仕方なく彼女は言葉を濁した。「お兄ちゃん、心配しないで。ちょっと風邪をひいて体調を崩してただけ。食欲も落ちてたから痩せちゃったけど、数日しっかり食べればすぐ戻るわ」だが隆之の表情には、まだ不安が残っていた。「剛士から聞いたよ。どうしても離婚するつもりで、明後日一緒にこっちに来るって。本当にもう隼人とやり直す余地はないのか?」紗季は気楽そうに笑った。そこに未練は微塵もない。「心配しなくていいわ、お兄ちゃん。私の決めたことは変わらない」「そうか、それなら安心だ」隆之の顔がすこし和らぐ。「帰ってきたら、時間を作って遊びに連れて行ってやるよ。気分をリフレッシュしよう。そっちでのことは、捨てるものは捨てて、忘れるものは忘れろ。お前にはもっと輝く人生が待ってるんだから」その言葉に紗季の目頭が熱くなった。――輝く人生?そんなもの、私にはもう残されていない。もし余命のことを打ち明ければ、隆之はどれほど心を痛めるだろう。紗季は慌てて視線を逸らし、気づかれないようそっと涙を拭った。「ちょうど近いうちに、新しいデザインコンテストが始まるんだ。一緒に見に行こうか。他の人の作品も面白いぞ」紗季は思わず息をのんだ。――新しいデザインコンテスト……忘れていた。海外にいた頃、チェロの研鑽を積むかたわら、会社で新作ジュエリーのデザインも手掛けていた。無我夢中で取り組んでいただけなのに、毎年自分のデザインは人気を集めた。隆之に勧められてコンテストに出場し、才能を認められ、気づけば常に優勝していたのだ。隼人と出会う前には、すでに五、六年と連続で優勝を重ねていた。だが隼人に嫁いでからは、チェロもデザインもすべて断ち切っていた。七年の月日が流れ、当時の記者たちは「彼女の引退は天才の墜落だ」とまで書いた。眠っていた
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第54話

見知らぬ番号からの電話だった。応答すると、切羽詰まった声が耳に入ってきた。「早く!あんた、隼人の妻だろ?奴が『ミッドナイト・エコー』のバーで大変なことになってる!すぐ来い!」そう告げるや否や相手は一方的に電話を切った。反応する暇すら与えられなかった。人通りの多い道端に立っていた紗季は、危うく通行人と肩をぶつけそうになった。スマホを握りしめながら、行くべきか迷った。――あまりにも唐突な電話。だが、もし本当に隼人に何かあったのなら、自分に連絡が入るのは自然だ。隼人の携帯に設定されている緊急連絡先は、ずっと自分だったから。結局タクシーを拾い、現場へ向かうことにした。道中、頭の中では隼人に降りかかり得るあらゆる不測の事態が渦巻く。命の危険さえもだ。それでも、もう以前のように――隼人がくしゃみをしただけで、自分が代わってやりたいほど取り乱すことはなかった。紗季は落ち着いたまま、酒場に到着すると階上へ足を運んだ。隼人がよく使う個室のドアを開けると、そこには見知らぬ男たちが数人、ソファに腰を下ろし酒を酌み交わしていた。煙草と酒の匂いが充満し、むっとするほど空気が淀んでいた。心臓が一瞬大きく跳ね、慌てて室内を見渡したが、隼人の姿はどこにもなかった。紗季は軽く会釈した。「すみません、部屋を間違えました」踵を返そうとしたその時、背後から怒声が飛んできた。「待て!」紗季の足が思わず止まり、振り返る。男が彼女に向かってずかずかと歩み寄り、いきなり手首をつかむと、乱暴に個室の中へ引きずり込んだ。「ここをどこだと思ってる!邪魔しておいて『すみません』で済むと思うな!」荒々しい声に一瞬呆然となった。それでも紗季はとっさに手を振り払おうとした。「じゃあ、あなたたちはどうしたいの?」男たちは下卑た笑いを漏らした。「せっかく来たんだ。酒の一杯も飲まずに帰れると思うなよ!」一人がテーブルに度数の高そうな酒を三杯並べ、彼女の前に突き出した。「飲め!三杯飲んだら帰してやる」息が詰まりそうだった。――自分には脳腫瘍がある。酒なんて絶対に飲めない。こんな強い酒を三杯も飲まされたら、そのまま命を落としかねない。追い詰められた紗季は、隼人の名を出すしかなかった。「私は黑川隼人の妻よ。彼
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第55話

男たちは欲望にまみれ、今にも手を出そうとする構えを崩さず、引き下がる気配はなかった。紗季の身体は強張り、視線はスマホの沈んだ酒杯に釘付けになっていた。――飲むしかないのか。深く息を吸い込み、彼女は酒を手に取った。周囲の男たちは手を叩き、声をそろえてはやし立てた。「飲め!飲め!飲め!」心臓は激しく鼓動し、今にも破裂しそうだった。紗季はグラスを握りしめ、一歩後ろに下がる。そして男たちが油断した一瞬を突き、酒を目の前の男に浴びせかけた。男は顔を覆い、よろめきながら後退した。――今だ!紗季はグラスを投げ捨て、全力で駆け出した。「俺たちを騙しやがって!追え!」激怒した男たちは外へ飛び出したが、そこに紗季の姿はなかった。「どこだ!」「タクシーで逃げたか!」男たちはきょろきょろと辺りを見回していたが、まさか自分たちの頭上――窓の開いた酒場二階の洗面所に、探している女が息を潜めて隠れているとは夢にも思わなかった。紗季は口を押さえ、トイレの個室に身を縮めて、ひたすら音を立てまいと必死だった。血圧は急激に上がり、心臓は胸を突き破らんばかりに脈打った。さらに周囲に充満する鼻を刺すような悪臭が、容赦なく彼女を苦しめていた。込み上げてくる吐き気は今までにないほど強烈で、もう抑え切れなかった。ついに紗季は耐えきれず、洗面台に身を乗り出して嘔吐した。胃酸とともに吐き出されたのは、鮮やかな赤い血だった。荒い呼吸のまま顔を上げると、鏡には死人のように蒼白な顔、鼻血を垂らす自分の姿が映っていた。身体は大きく揺れ、足元が崩れそうになった。ちょうどその時、下の階から男たちの声が響いた。「翔太が言ってただろ。隼人社長は病院で美琴につきっきりだって。絶好の機会だと思ったのによ、無駄になっちまったな!」「ほんと理解できねえよ。こんな病人で、見るからに色気もねえ女に、なんで手を焼くんだ?わざわざ俺たちまで使いやがって!」――そうか。自分をここに呼び寄せたのは、翔太だったのか。その頃、隼人は愛する女の傍ら、病院にいるらしい。自分がこうして追い詰められ、命を脅かされている時に……視界が暗転し、紗季は力なく床へと崩れ落ちた。「お嬢さん!大丈夫ですか!」誰かが耳元で呼びかけ、身体を支えられる感触があった。
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第56話

紗季の顔色はますます険しくなった。「剛士さん、あなた……まさかお兄ちゃんに話したんじゃないよね?彼、私の――」「ゴホン!紗季さん」ドアの外から唐突に大きな咳払いが響き、言葉が遮られた。頭がくらくらし、痛みも強くて起き上がれない紗季は、ベッドに伏したまま目だけを入口へ向けた。航平が検査結果を手にしてきて、紗季に目配せをした。「最近は特に、体がひどく弱っています。そのうえ強いショックで倒れて頭も打ったんです。絶対に動いちゃいけません。しばらくは安静にして、横になっていなきゃ駄目です」その言葉で紗季はようやく悟った。航平は剛士に脳腫瘍のことを隠してくれていたのだと。――助かった。まだ知られていない。胸がきゅっと縮み、事の重大さに気づいた紗季は、ごくりと唾を飲み込んだ。「航平先生……この状態で、明日船に乗って海外へ行けるんでしょうか?」「考えるだけ無駄です」剛士が水を汲んで差し出しながら言った。「航平先生も言ってたろ。身体が特に弱っているから長旅は無理だって。数日間は養生して、体が回復してから国外のことを考えろ、ってな」紗季の瞳が微かに揺れ、唇から血色が引いていった。胸の奥が締めつけられるように苦しく、大きな失望感に耐えられなかった。「航平先生……本当に、私は行けないんですか?」航平は視線をそらしつつ近づいた。「もともと、この数日で出発するのには反対でした。まして今夜怪我をしたんです。無理に動くなんてとんでもありません。最低でも一週間は静養が必要です」「そうだな。先生の話じゃ脳震盪だって言うし、安静第一だ。どうせ遅かれ早かれ出ていくんだ。焦るな」剛士も相槌を打つ。紗季は唇を固く結び、言葉を失った。――一週間待てと言われるのは、死刑宣告と同じだ。やっと解放されるはずだったのに、どうしてまだここに留まらなきゃならないの?死が目前に迫っているのに、どうしてこの悲しい場所から早く離れられないの?心は荒れ狂い、収まらなかった。舌を強く噛み、血の味が広がったことでようやく感情を押さえ込み、紗季は深く息を吸った。「剛士さん……今夜、私がバーで襲われたのは、隼人の友達の翔太のせいよ」剛士の笑みは消え、低く鼻を鳴らした。「その件はもう把握してる。すでに人をつけておいたし、お前が
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第57話

航平は病室のドアを閉め、カルテを開いて目を通した。「今回は強いショックを受けたうえに頭も打ったんです。身体へのダメージは大きいです」紗季の指先がわずかに震え、縮こまった。心の準備はしていたつもりなのに、その言葉を耳にした途端、胸の奥が揺さぶられた。紗季は無理に笑みを浮かべた。「はっきり言ってください……私が船に乗れるようになるまで、どれくらい休まなきゃいけませんか?」航平は数秒黙し、ようやく答えた。「七日間入院して養生してから出発するんです。そうでなければ、また思いもよらぬ事態に見舞われるかもしれません」紗季は拳をぎゅっと握りしめた。外の世界はどこにいても危険だ。たとえ翔太を罰したとしても、また別の不意の災難が降りかかるかもしれない。――病院にいるのが一番安全。小さくため息をついた紗季は、体力が尽きかけていることに気づいた。言葉を絞り出そうとしたが、声が弱すぎて航平には聞き取れなかった。航平はベッド脇に身をかがめ、耳を寄せた。「何て言ったんですか?」紗季は必死に唇を動かした。「スマホを……」航平がまだ意味をつかめないうちに、病室のドアが乱暴に開け放たれた。「お前ら、何をしている!」険しい顔の隼人が大股で踏み込み、航平を乱暴に引き離した。航平の白衣は今にも引き裂かれそうになり、後ずさって窓にぶつかった。「航平先生!」紗季が心配そうに声を上げた。だが、その視線はすぐに隼人の体で遮られた。隼人は眉をひそめ、詰問する。「あんなに近づいて、何をしていた?」「ただ病状を話していただけです!そんなことを言う前に、まず彼女がどれほど弱っているか見ってください!」航平は服を整えながら叱りつける。どうしても我慢できなかった。その言葉を聞いて隼人はようやく我に返り、眉を寄せたまま紗季の手を握り、口調を和らげた。「紗季……気を失ったと聞いた。どうしたんだ?なぜ真夜中にバーなんかへ行ったんだ?」ベッドに横たわる紗季には、隼人の手を振り払う力すら残っていなかった。――そう。隼人に何かあったと聞かなければ、バーになど行かなかった。罠にかかることもなかった。紗季は目を閉じ、か細い声で言う。「あなたの『親友』の翔太に聞いたらどう?どうして私をバーに誘い、人を差し
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第58話

看護師が去ると、隼人はいきなり航平を追い払おうとした。「航平先生、お前はこの科の担当医じゃないだろう。ここにいる必要はないはずだ」その言葉に航平は再び憤りを覚え、思わず紗季を見た。紗季は黙ったまま首を振り、制するように合図した。航平は鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。「命が助かった後で、今さら取り入ってどういうことですか」隼人に鋭い視線を投げると、ようやく部屋を後にした。航平が去ると、隼人はベッド脇に近づき、嫉妬を隠そうともせず紗季を見つめた。「航平先生……本当にお前のことを気にかけているんだな」紗季は静かなまなざしで隼人を見返した。「この数時間、私を気にかけてくれたのは彼だけよ。他には誰もいなかった。元気になったら、果物でも買ってお礼をするつもりよ」その言葉に込められた皮肉を察し、隼人の顔はこわばった。自分がこの数時間、美琴のそばに付きっきりだったことを思い出し、返す言葉を失った。「もう二度と翔太をお前のそばに近づけない。あいつがやりすぎたのもあるが、俺がお前を守れなかったのも事実だ。本当に悪かった」隼人は罪悪感に駆られて口にした。紗季が答えようとしたとき、再び病室のドアがノックされる。返事を待たずに看護師が慌てて飛び込んできた。「美琴さんが痛みで気を失いました!すぐに来てください!」隼人は紗季の手をぱっと離し、立ち上がった。「なぜ倒れた?痛み止めは打ったんじゃないのか?」「効いていないようです。今回の発作はかなり重いみたいで!」「わかった、すぐ行く」そう答えた隼人が視線を落とすと、紗季は無表情のままリモコンを取り、テレビをつけていた。隼人は身をかがめ、紗季の髪を撫でながら柔らかく諭す。「いい子にしていろ。お前は衰弱して気を失っただけだ。でも美琴の症状は重い。どうしても行かなきゃならない」紗季は「さっさと行けばいい」と言い放ちたい衝動を抑え、短く答えた。「うん。気をつけて」「行ってくる。また戻るからな」隼人は名残惜しそうに病室を出ていった。扉が閉まると、紗季は目を閉じる。怒りも憎しみも湧かなかった。そんな感情を抱く力すら、もう残っていなかった。テレビから流れる美化された恋愛ドラマに耳を傾けながら、紗季はただ思った。この一生、男に縛られてきた
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第59話

美琴は必死に上体を起こそうとし、荒い息を吐いた。「それなら……隼人、私に車椅子を買ってちょうだい。そうすれば市役所まで押して行けるでしょう?私はあなたと紗季さんの入籍を邪魔したくないの」青白く衰弱した美琴の顔を見て、隼人は彼女に無理をさせたくなかった。彼は美琴の肩を押さえて起き上がるのを止め、穏やかな笑みを浮かべた。「やめておけ。医者も安静にって言ってるだろ。退院なんてとんでもない」「それで……あなた、怒らない?」美琴はおそるおそる尋ねた。隼人は何気ない口調で答えた。「俺と紗季には、まだこれから長い時間がある。ゆっくり話せばいいさ。離婚のことは、お前が退院してからで構わない」美琴の口元にわずかな笑みが浮かび、その瞳には計算めいた光が宿った。彼女は小さくため息をついた。「もうすぐ私の誕生日なのに……また昔みたいに、寂しくひとりで過ごすことになるのかしら」隼人は軽く慰めるように言った。「今年は賑やかになるぞ。玲子叔母さんも陽向も、一緒に祝うって張り切ってる」「じゃあ……あなたは?」美琴は希望を込めた眼差しを向けた。隼人は言葉に詰まった。美琴の誕生日の翌日はちょうど隼人と紗季の結婚記念日だったのだ。少し考え込んだあと、隼人は口を開いた。「俺からお前にサプライズを用意するよ。でも、一緒には過ごせない。記念日は紗季と過ごすんだ」美琴の笑みはその場で凍りつき、唇を無理に引き上げた。「そう……もちろん。あなたたちの結婚記念日が一番大事だもの」だが彼女の胸の奥では憎悪の火が燃え広がっていた。――紗季がいる限り、何もかもが邪魔される。翔太があれほど動いても、紗季を倒すことはできなかった。このままでは隼人の心はますます紗季に傾くだけ。美琴は決して、隼人と紗季に安らかな記念日を迎えてほしくない。絶対に…………その頃、上の階の病室では。紗季のもとに「剛士がすでに事を片づけた」との報せが届いた。これで翔太も無事では済まないだろう。それでも……紗季の胸は晴れなかった。本来ならあと数時間で船に乗る準備ができていたはずなのに。今は、毎分毎秒が苦痛で仕方がなかった。そのとき、病室の外からノックの音がした。ドアが開く。紗季が目を向けると、陽向が保温の弁当箱
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第60話

次の瞬間、病室の外から人の話し声が聞こえてきた。「さっきの子ども、見たか?回診のとき、心臓病の患者さんに豚骨スープを作ってあげてきたぞ」「やっぱり親子なんだろうな。親子の絆って、やっぱり一番胸を打つよな。あんな小さな子が、お母さんのためにスープを作って、しかも手まで火傷するなんて」紗季は一瞬ぽかんとし、思わず手元の保温容器を見下ろした。中身は薄いスープで肉片ひとつ入っていない、ただの汁ばかり。――なるほど。肉がないわけだ。これは陽向が美琴に作ったスープの残りで、隼人に言われて自分のところへ持ってきただけ。紗季は一気に失望の表情を浮かべ、冷たい表情で蓋を閉めると、そのまま容器ごとゴミ箱に投げ入れた。――もうこれ以上、吐き気を催すことなんてないだろうと思ってた。隼人も陽向も、いつもその限界を打ち破って私の忍耐力を試してくる!紗季は胸のむかつきをこらえ、体を起こして弁護士に電話をかけた。その弁護士は、以前別件で相談したことのある人物だった。電話がつながると、紗季は弱々しい声で切り出した。「お時間いただけますか?『親子絶縁状』を作ってほしいんです」紗季と隼人の結婚は偽りでも、自分は子どもの実の母親であり血のつながりがある。しかし今回去ると決めた以上は、隼人とも子どもとも永遠に縁を絶ち切らなければならない。――完全に消え去る。陽向には自分の墓にさえ参る資格を与えない。弁護士が答えた。「明日にはご用意できます。どちらへお届けしましょうか?」紗季は目を閉じた。思い出されるのは、以前陽向に託した「タイムカプセル」。家の裏庭のイチョウの木の下に埋めたものだ。正月になったら一緒に開けよう――そう告げた。中には陽向の大好きな限定版のレーシングカーのおもちゃが入っている。紗季はスマホを強く握りしめ、淡々と言った。「家に届けてください。執事の玲に『子どものためのもの』と伝えて、タイムカプセルの中に入れておいてください」陽向がその絶縁状を開ける頃には――自分はすでに土の下で骨になっているだろう。電話を切ったあと、紗季はゆっくりと体を支えて、ベッドを降りて洗面所へ向かった。ドアを開けると、二人組と危うくぶつかるところだった。二人は慌てて下がるとことわってきた。「すみません、すみません」
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