県立病院・産婦人科。桜庭美咲(さくらば みさき)は、検査結果とエコー写真を手に廊下を進み、診察室の扉の前に立った。中からは、夫・桜庭拓也(さくらば たくや)と医師の声が聞こえてくる。「奥さんの体と子宮は今、妊娠にすごく適した状態だよ。子供が欲しいなら、早い方が絶対いい。あっちも、そう長く待てるわけじゃないからね」ドアをノックしようとした美咲の手が、空中でぴたりと止まった。あちら?どういう意味……?拓也の声は、いつもと同じく耳に心地よい低音だったが、どこか投げやりな響きが混じっていた。「できるだけ早くする」「奥さんは同意してくれたのかね?」と医師が問いかける。拓也は冷笑を浮かべ、鼻で笑った。「あいつは俺に惚れている。俺が望めば、産んでくれるさ」「そんなことをして、彼女に死ぬほど恨まれてもいいのか?」「重要か?」拓也の声音は緩み、愉悦すら漂わせる。「たとえ恨まれようと、あいつは俺から離れられない」報告書を握りしめた美咲の手に力がこもり、紙がくしゃりと音を立てた。会話の全貌は理解できない。だが、胸の奥底で、漠然とした嫌悪と不安が膨れ上がっていく。思い返せば、一週間前から拓也に検査を急かされ、ようやく今日、産婦人科に足を運んだのだった。結婚して二年。子供について話し合ったことなど一度もない。表向き、拓也は優しい夫を演じ、人前では彼女を甘やかす仕草さえ見せた。だが美咲には分かっていた。彼の感情は、冷たい水のように淡泊で、どこか遠い。結局、この結婚は一枚の婚約書によって結ばれただけ。その婚約書は本来、美咲の腹違いの妹に宛てられたものだった。だが四年前、妹が腎不全を患い、妊娠に支障を来す恐れが出たため、婚約は美咲に回ってきた。七年間、拓也を想い続けた美咲にとって、彼と結ばれたことは夢のような出来事だった。だが、いま彼はいったい、何を企んでいるのか。数分間、胸の動悸を必死に鎮め、美咲はノックをして診察室に入った。表情は努めて穏やかに装う。笑みを浮かべ、二人の前に歩み寄った。「白井先生、これが私の検査結果です」白井千尋(しらい ちひろ)は拓也の幼馴染で、その声を聞くと、気まずげに視線を泳がせた。「ああ、データはすでに確認いたしました。あなたの体は……妊娠にとても適しておりますね。お若いうち
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