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第7話

Author: 音夢
拓也は病院でのあの夜を思い返すたび、胸の奥に苛立ちが込み上げてきた。

「それより、詩織がひょろこを拉致したって、本当?とんでもない度胸だな」

千尋は裏稼業の噂には通じていたが、まさかこんな身近で起こるとは夢にも思わなかった。

「ああ」

「詩織のこと、このまま放っておくつもり?」

「そんなわけないだろ」

「だよね。それで、どうするつもり?」

「お前は自分のことだけ心配してろ。お前のリップの跡さえなければ、あいつも今夜あんなに俺にキレることはなかったんだ」

一瞬、千尋は呆気に取られた。だが、すぐさま怒りが爆発した。

「はあ!?拓也、あんたそれでも人間なの?無理やりキスさせたのは、そっちでしょ!」

その言葉が言い終わる前に、拓也は無造作に電話を切った。

洗面所から出て寝室へ戻ると、部屋には誰もいなかった。

拓也はナイトウェアを一枚つかみ、乱雑に羽織ると、美咲のアトリエへ向かった。

新居の内装を決める際、拓也はわざわざ一番大きな部屋を美咲のアトリエにあてがった。主寝室よりも広いその空間を、美咲はほとんど一人で占領し、誰にも邪魔されたがらなかった。

アトリエの扉を開ける。しかし、中に美咲の姿はない。

だが、拓也の視線はすぐさま一枚のキャンバスに吸い寄せられた。

彼は目を細め、その切れ長の美しい瞳でキャンバスを凝視する。歩み寄った先には、美咲の手による一枚の油絵が立てかけられていた。

大きなクスノキ。その下に並んで座る十代の子供が二人。

少年は本を開き、少女はその肩に寄りかかっている。背後には、荒れ果てた広大な庭が広がっていた。

拓也には見覚えがあった。そこは美咲が捨てられた孤児院。その庭も、巨大なクスノキも、彼の記憶に深く刻まれている。

木陰に寄り添う二人が誰であるかなど、言うまでもない。かつて孤児院で共に過ごした、美咲と守だった。

拓也の瞳孔が細まり、込み上げる感情が抑えきれなくなる。

やはり、美咲はいまだに守のことを想っているのだ。幼馴染として共に過ごした日々を懐かしみ、その記憶を絵に残すほどに。

拓也は、今すぐにでもこの絵を粉々に引き裂いてやりたい衝動に駆られた。

踵を返し、乱暴に扉を閉めて部屋を出て行く。

ちょうどそのとき、洗面所から出てきた美咲は「バンッ」という音を耳にした。外の風雨が激しく、ドアが煽られたのだろうと考え、気にも留めなかった。

彼女は油絵の前に立ち、携帯を取り出して一枚の写真を撮り、守に送った。

【どうかな、この絵】

まもなく返信が届く。

【ありがとう。すごく気に入ったよ。希実が見たら、きっと喜ぶだろうな】

美咲は微笑んで打ち込む。

【絶対に希実ちゃんを見つけようね。双子にはテレパシーがあるって言うし、希実ちゃんもきっと、どこかであなたが想っているのを感じてるよ】

大きく息を吐いた。守と希実の誕生日前に、この絵を仕上げられたことに胸をなでおろす。

美咲が十五歳のとき、守の双子の妹雨宮希実(あまみや のぞみ)は孤児院で行方不明になった。

拉致されたという噂もあれば、実はすでに亡くなっていて、孤児院が責任を逃れるために隠しているのだという説もあった。

当時、守は狂ったように希実を探し続けたが、結局何ひとつ手がかりは得られなかった。

あれから十年。今なお消息は途絶えたままだ。

だから美咲は、希実の面影を記憶に留めているうちにと、この絵を描き上げ、守への誕生日の贈り物にしようと決めたのだ。

絵の中で希実は兄の肩に寄り添い、守は本を読んでいる。静謐で、美しい一場面だった。

その夜、美咲が主寝室に戻ると、拓也はすでに眠りについていた。

さきほどの口論の余韻が尾を引き、二人は互いに背を向け、まるで天の川を隔てるかのように布団の間に距離を置いたまま眠りについた。

翌朝、美咲が目を覚ますと、拓也はすでにシャツに袖を通し、ネクタイを結んでいるところだった。

無意識に歩み寄り、彼のネクタイに手を伸ばす。

結婚当初から、拓也は毎朝そうして欲しいと彼女に命じてきた。

横暴な男だと分かってはいたが、ネクタイを結ぶくらいで損をするわけでもない。美咲は一度も断ったことがなかった。

いつものように彼の前に立ち、細い指先をネクタイへ伸ばす。だが、触れた瞬間、拓也はするりと身をかわした。

美咲の手は空を切る。

彼女は一瞬きょとんとしたが、すぐに顔を上げ、拓也を見つめた。その眼差しは、冷め切っているようで、どこか戸惑いを含んでいた。

彼は背が高すぎて、美咲は見上げるしかない。その角度から最も鮮明に映るのは、青々とした顎の剃り跡と、喉仏だった。

間違いなく、拓也は男性的な魅力に溢れていた。

しかし、その性格は、やはりどうしようもなくクソだった。

「いらない」

拓也はこわばった顔のまま、ただ一言を吐き捨てた。

その言葉を耳にした美咲は、淡々と頷いた。

「そう」

毎朝ネクタイを結ぶ必要がなくなるのなら、それはむしろ自分にとって都合がよかった。

だが、背を向けて歩き出そうとしたその瞬間、手首を掴まれ、強引に振り向かされた。

美咲は眉をひそめる。もとより胸の奥に鬱屈したものが溜まっていたところへ、この仕打ち。苛立ちは一気に膨れ上がった。

「いらないと言ったら、本当にやってくれないのか」

怒りを帯びた声音には、信じがたいという思いと、拗ねたような恨みが滲んでいた。

美咲はこめかみをぴくりと引きつらせる。

「拓也、自分が何を言ってるか分かってる?いらないって言ったくせに、私の方からお願いしてまで結んであげろってこと?」

「二年続けた習慣を、お前はあっさり捨てられるんだな。なら、二年も共に過ごした相手すら、結局は簡単に捨てられるってことか」

拓也は感情を押し殺した声で吐き出す。

「何が言いたいのか、分からない」

冷たい表情のまま言い返すと、美咲は力を込めて彼の手を振りほどいた。白い手首には赤い跡が残った。

数歩進んだところで、ふとあることを思い出す。

仕方なく踵を返し、深呼吸を一つして、なおも不機嫌な顔を崩さない男に向き合った。

「今夜、父の還暦祝いの食事会があるの。一緒に来て」

その一言で、拓也はまるで弱みを握ったかのような顔をした。

機嫌を持ち直した彼は、曲がったままのネクタイを直そうともせず、美咲の前に立ち、ぐっと身を屈めて顔を寄せてきた。

吐息が頬にかかり、くすぐったさと痺れるような感覚が走る。

「お前の家族の前で、メンツを立てろってことか?」

「断ってもいいわ」

胸の奥に切なさが込み上げる。こんな些細なことさえ、彼には嘲笑の種にされているようだった。

「一緒に行ってやってもいい。ただし、お前の誠意を見せてもらおうか」

「誠意って何よ。お金なら持ってないわ」

眉間の皺は、一向に消えない。

この男と話すのは、いつだって骨が折れる。

拓也は鼻で笑った。

「俺が金に困ってるように見えるか?」

「じゃあ、何が欲しいの」

「キスしろ」

美咲はためらいもなく彼の頬に唇を触れさせた。イケメンにキスするくらい、彼女にとっては痛くも痒くもない。

この顔に触れたいと思わない女が、果たしているだろうか。

「それだけか?誠意が足りないな」

拓也の声には、すでに甘えにも似た調子が混じっていた。

美咲は手を伸ばし、彼の首に腕を回すと、つま先立ちになり、薄い唇にそっと口づけた。

拓也は無意識のうちに舌を伸ばした。だが、その柔らかさに触れた刹那、美咲はするりと腕をほどいてしまう。

「これでいいでしょ。夜の六時に、美大の西門に迎えに来て」

「迎えにも行けって?なら、もっと誠意が必要だな」

「拓也、いい加減にして」

美咲の声音は、威嚇して爪を立てようとする子猫のようだった。

「貸しにしといてやる。夜に返せ」

拓也はネクタイを直しながら口角を上げる。

「約束しただろ。俺の子供を産むって」

夜に求められた「誠意」とは、このことだったのか。

美咲はさらに抵抗感を覚え、さっさと背を向けて出て行った。

美術大学。

美咲は午前中は授業に追われ、午後は服飾デザイン科の学生たちのために、色彩コーディネートの参考役を務めることになっていた。

彼らが近く大規模な国内コンテストに参加するため、学科の教員が美咲に、絵画や色彩に関する助言を求めてきたのだ。

数人の後輩たちと議論を交わしていたその最中、一人の初老の女性が教室に入ってきた。

年齢を重ねているにもかかわらず、その立ち居振る舞いには気品が漂い、まるで貴婦人そのものだった。

「桜庭先生、こちらが服飾デザイン科の学部生たちです。今年のデザインコンテストに出場する予定でして」

顔を上げた美咲は、不意にその女性と視線を交わした。

桜庭玲子(さくらば れいこ)。拓也の母親である。

彼女は美咲の姿を認めた瞬間、まるで存在しないかのようにふるまい、わずかに顎を上げて、すっと視線を逸らした。

美咲は心の中で苦笑する。玲子は昔から、常に自分を見下していた。

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