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嘘つきな花嫁は、愛に縛られて
嘘つきな花嫁は、愛に縛られて
Author: 音夢

第1話

Author: 音夢
県立病院・産婦人科。

桜庭美咲(さくらば みさき)は、検査結果とエコー写真を手に廊下を進み、診察室の扉の前に立った。

中からは、夫・桜庭拓也(さくらば たくや)と医師の声が聞こえてくる。

「奥さんの体と子宮は今、妊娠にすごく適した状態だよ。子供が欲しいなら、早い方が絶対いい。あっちも、そう長く待てるわけじゃないからね」

ドアをノックしようとした美咲の手が、空中でぴたりと止まった。

あちら?どういう意味……?

拓也の声は、いつもと同じく耳に心地よい低音だったが、どこか投げやりな響きが混じっていた。

「できるだけ早くする」

「奥さんは同意してくれたのかね?」と医師が問いかける。

拓也は冷笑を浮かべ、鼻で笑った。「あいつは俺に惚れている。俺が望めば、産んでくれるさ」

「そんなことをして、彼女に死ぬほど恨まれてもいいのか?」

「重要か?」拓也の声音は緩み、愉悦すら漂わせる。「たとえ恨まれようと、あいつは俺から離れられない」

報告書を握りしめた美咲の手に力がこもり、紙がくしゃりと音を立てた。

会話の全貌は理解できない。だが、胸の奥底で、漠然とした嫌悪と不安が膨れ上がっていく。

思い返せば、一週間前から拓也に検査を急かされ、ようやく今日、産婦人科に足を運んだのだった。

結婚して二年。子供について話し合ったことなど一度もない。表向き、拓也は優しい夫を演じ、人前では彼女を甘やかす仕草さえ見せた。だが美咲には分かっていた。彼の感情は、冷たい水のように淡泊で、どこか遠い。

結局、この結婚は一枚の婚約書によって結ばれただけ。

その婚約書は本来、美咲の腹違いの妹に宛てられたものだった。だが四年前、妹が腎不全を患い、妊娠に支障を来す恐れが出たため、婚約は美咲に回ってきた。

七年間、拓也を想い続けた美咲にとって、彼と結ばれたことは夢のような出来事だった。

だが、いま彼はいったい、何を企んでいるのか。

数分間、胸の動悸を必死に鎮め、美咲はノックをして診察室に入った。

表情は努めて穏やかに装う。

笑みを浮かべ、二人の前に歩み寄った。「白井先生、これが私の検査結果です」

白井千尋(しらい ちひろ)は拓也の幼馴染で、その声を聞くと、気まずげに視線を泳がせた。

「ああ、データはすでに確認いたしました。あなたの体は……妊娠にとても適しておりますね。お若いうちに頑張られるとよろしいかと」

そう言って、意味ありげに拓也を見た。

拓也は微笑みながら美咲の華奢な肩を抱き寄せ、自信に満ちた顔で唇を歪めた。

「聞いたか?俺との子供を産んでくれ」

美咲はその瞳を見返した。心は乱れ、彼の真意を読み取ることはできない。

さきほどの会話が耳にこびりつき、胸の奥に苦い澱が広がっていた。

「うん」力ない微笑を浮かべ、彼女は千尋に向き直る。

「先生、二年前、妹に腎臓をひとつ提供しました。妊娠すると、腎臓がひとつしかない私には負担が大きすぎるのでは?影響はありませんか」

千尋は小さく咳払いし、慎重に言葉を選んだ。「理論上は問題ございません。ご安心ください。妊娠されましたら、僕が全面的にサポートいたしますので」

美咲は静かに頷き、それ以上は何も尋ねなかった。

病院を出て、家路につく車内。

ハンドルを握る拓也の横顔を、美咲はそっと見上げた。

拓也は子供の頃から奔放でやんちゃだったが、大人になるにつれて落ち着きを見せた。けれど、彼をそう変えたのは――美咲の異母妹、中島詩織(なかしま しおり)の存在だった。

スポーツカーは猛スピードで夜の道を駆け抜け、拓也は上機嫌な様子を隠そうともしない。

胸のざわめきを抑えきれず、美咲は探るように口を開いた。

「どうして急に子供が欲しいなんて言い出したの?結婚前は、子供はいらないって……ディンクスがいいって、そう言っていたのに」

その瞬間、拓也の手がハンドルを握りしめ、強張ったのが分かった。

何をそんなに緊張しているの?

美咲はじっと彼を見つめる。十八歳で初めてこの顔を見たときから、ずっと心を奪われてきた。

けれど、拓也と詩織は両親公認の婚約者同士であり、互いに想い合う幼馴染でもあった。

もし詩織が重い病を患わなければ、自分に順番が回ってくることなど、決してなかったはずなのだ。

赤信号で車を停めた拓也は、片手を伸ばして美咲の頭を撫でた。

しかし、その子供をあやすかのような仕草は、むしろ美咲の胸に不安の影を落とした。

「お前に似て、俺にも似た子供がいたら、欲しくないか?」

拓也がじっと美咲を見つめる。その多情な瞳は、路傍の犬にすら愛情を注いでいるかのように見えるだろう。

その言葉に心をかき乱された美咲は、うろたえながらも話題を逸らした。「友達が言っていたのだけど、ここ数日、毎晩のようにバーで詩織を見かけるそうよ。腎臓を移植したのに、あんなにお酒を飲んで大丈夫なのかしら。腎臓への負担が大きすぎるわ。きちんと養生しないと、また悪くなってしまう」

詩織の名が出た途端、拓也の表情から一切の温度が消えた。

彼は感情のままにアクセルを踏み込み、車を急発進させた。不意の加速に、美咲の身体が跳ね上がる。

「ねえ……もっとゆっくり走って」美咲は強張る手で、シートベルトを固く握りしめた。

拓也の声もまた、氷のように冷えきっていた。「なんだ。あの時はさも大義名分のように腎臓を提供しておいて、今さら惜しくなったのか?」

美咲の目頭が、瞬く間に熱くなった。

下唇を強く噛みしめ、美咲は憤りに満ちた瞳で拓也を睨みつけた。

「どうして、そんな酷いことが言えるの?あなたが私に頼まなければ、私が腎臓を提供するなんてこと、あったと思う?」

「腎臓一つで桜庭家の嫁の座が手に入ったんだ。美咲、お前にとって悪い取引ではなかっただろう?」拓也の口調には、底知れない軽蔑と嘲りが滲んでいた。

その一言は、美咲からすべての言葉を奪った。

涙が静かに頬を伝い、胸の内にはどす黒い雲が垂れ込めてくるようだった。

車はあっという間に家に着いた。重い心を引きずるように車を降りた美咲は、報告書とバッグを放り出すと、逃げるようにバスルームへ向かった。

頭の中では、病院で交わされていた拓也と千尋の会話が繰り返し再生される。けれど、いくら考えても、あの言葉の意味するところが掴めない。

外では甘い顔を見せ、家では氷のように冷たい。この二年間の拓也の態度を思い返せば、彼が自分に何を望んでいるのか、おおよその見当はついた。

結局のところ、彼が心から自分を求めたことなど一度もなかったのだ。詩織のことをわずかでも悪く言えば、それだけで逆鱗に触れたかのように態度を豹変させるのだから。

シャワーを浴びてバスルームから出た途端、不意に両腕を掴まれ、頭上へと持ち上げられた。

美咲が反応する間もなく、熱を帯びた唇が雨のように降り注ぎ、驚きに見開かれた彼女の唇を塞いだ。

拓也の身体からは、いつもと同じ、彼特有の香りがした。

そのキスは、いつもながらに強引で、有無を言わさぬほど横暴で、そしてどこか執拗だった。

美咲の息が苦しくなるほど求められた後、ようやく拓也は彼女の身体を軽々と抱え上げると、ベッドへと放り投げた。

覆いかぶさってきた拓也の身体を、美咲はとっさに両手で押しとどめた。

「やめて。そんな気分じゃないの。朝から病院へ行って疲れているの、休ませて」

あからさまな拒絶を浮かべた彼女の表情に、拓也は不快げに眉をひそめた。「美咲、お前のその恨みがましい顔が、俺は一番気に食わないんだ」

美咲は鼻の奥がつきんと痛むのを感じ、堪えきれずに声を震わせた。下唇を噛みしめ、絞り出すように言い返す。「気に食わないなら、しなければいいじゃない。子供だって、作らなければいい」

すると次の瞬間、拓也の纏う空気がふっと和らいだ。彼は手を伸ばして美咲の髪を梳き、身を屈めてその額に唇を寄せた。

まるで別人のような、優しさ。

ただ、その優しさが本心からのものか、あるいは計算されたものなのか、美咲には判別がつかなかった。

彼は低く掠れた声で、互いの鼻先が触れ合うほど顔を寄せ、囁いた。「なあ、美咲。今日は排卵日だろう……いい子にしてくれ」

美咲の心臓が、氷水に浸されたようにきゅっと縮こまった。

美咲が何かを言い返すよりも早く、拓也の動きは再び熱を帯び、大胆さを増していった。

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