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第8話

Author: 音夢
そもそも、美咲が拓也との結婚を許されたのは、詩織に腎臓を一つ提供したという「功績」があったからにほかならない。

もし詩織が健康であったなら、義母の玲子にとって、理想の嫁は彼女であったに違いなかった。

だが、不運にも詩織は病により子を授かりにくい身体となり、桜庭家のような名家からは嫁入りを拒まれてしまったのである。

中島グループがいかに巨大な上場企業であろうと、その数千億に及ぶ資産でさえ、桜庭家の前では取るに足らなかった。

桜庭家が求めていたのは、釣り合う家柄、そして何よりも跡継ぎを産める嫁だったのだ。

だからこそ、拓也が美咲を娶りたいと申し出たとき、父である桜庭安雄(さくらば やすお)は激怒し、息子を執行役員の職から解き、実家で三日二晩、跪かせるという罰を与えた。

それでも拓也は一歩も引かなかった。倒れる寸前になり、ついに玲子が夫に慈悲を乞い、美咲はようやく「桜庭夫人」という座を手にしたのである。

美咲はずっと思っていた。拓也は詩織を骨の髄まで愛している。だからこそ、詩織への恩を返すために、灼熱の太陽の下で跪くことも厭わず、自分と結婚したのだと。

けれど玲子にとって、そんな拓也の考えは愚かにしか映らなかった。母親として、息子の本心がわからないわけがない。拓也が本当に望んでいたのは、他ならぬ美咲だったのだ、と。

義母が嫁を気に入らないなど、一般家庭でもよくある話だ。

まして玲子のような名家の出で、輝かしい経歴を誇る女性に見下されるのも、致し方ないことだと美咲は諦めていた。

だから努めて、玲子に向かって微笑み、軽く会釈する。

けれど玲子は、その挨拶を無視し、すっと顔を背けた。

隣にいた後輩が、そっと囁く。

「先輩、桜庭先生とお知り合いなんですか?先生、ファッションデザインの分野ではすごく有名なお方なんですよ」

美咲は力なく笑った。

「ええ、知り合いではあるけれど、親しいわけではないの」

桜庭家に嫁いで二年。顔を合わせたのはこれで三度目にすぎなかった。結婚式と、大晦日、そして今日。

そのとき、美咲の担当教員が玲子を伴って近づき、にこやかに紹介した。

「先生、こちらが美咲さんです。油絵科の修士二年で、服飾デザイン科の学生たちに色彩設計を手伝ってもらっております。彼女は大変優秀で、数々の賞も受賞しているんですよ」

玲子は冷ややかな視線を一瞥だけ送り、淡々と「分かったわ」と応じると、踵を返して立ち去った。

その背を見送りながら、美咲は小さく息を吐いた。この人の前に立つと、全身が強張り、些細な失敗すら許されぬ気がしてならなかった。

夕刻六時。

作業を切り上げた美咲は、鞄を肩に掛け、美術学部の西門へと足を速めた。

人を待たせるのは嫌いだ。まして相手が拓也なら、なおのこと。

けれど門前に着いてみても、見渡す限り拓也の車は見当たらない。

腕時計を確かめる。六時を少し過ぎたところ。美咲は拓也にメッセージを送った。

【西門に着いたわ。今どこ?】

五分、十分。待っても返信はない。もちろん、車の影もなかった。

苛立ちが募り、ついに電話をかけたが、応答はなかった。

そのときになってようやく悟る。自分はすっぽかされたのだ、と。

腹の底から怒りがこみ上げる。午後の拓也の言葉と態度が甦る。あれは初めから欺くための芝居だったのか。

自分を騙すほどの価値が、本当に自分にあるのだろうか。

あるいは、守が家まで薬を届けてくれた一件で、機嫌を損ねた仕返しなのか。

だとしても、彼自身はまったく非の打ちどころがないと言えるのだろうか。

いつの間にか40分も門前に立ち尽くし、スマホも充電が切れて自動的に電源が落ちてしまった。

せめて電池が残っているうちにタクシーを呼べばよかったと、いまさら後悔する。配車アプリも使えない。

キャンパスに戻って誰かに充電器を借りるしかないか、そう思った矢先、一台の銀色のアルファードが滑るように目の前で停まった。

窓が下がる。現れたのは、玲子の気品に満ちた横顔だった。

「乗りなさい」

「お義母さま」

美咲は、やっとの思いで声を絞り出す。

「私も中島家へ向かうところよ」

玲子の声は、有無を言わせぬ響きを帯びていた。

抗う術もなく、美咲は車に乗り込む。

車内。玲子の隣に座る心境は、まさに針の筵だった。

玲子はiPadのデザイン画に目を落としたまま、顔も上げずに問う。

「拓也を待っていたの?」

「はい。今朝、家を出る前にそう約束しましたので」

玲子は唇の端をわずかに吊り上げ、嘲るように言った。

「あの子は来ないわよ」

美咲の心臓が、不吉な音を立てて跳ねた。

「今日の午後、詩織が病院でシャントの手術を受けているの。簡単なものとはいえ、拓也が付き添っているわ。まだ終わってはいないはずよ」

その一言で、美咲の頭の中は真っ白になった。足場が崩れ落ちるように、自分の存在がぐらりと揺らぐのを感じる。

つい先ほど口にした「今朝、約束しましたので」という言葉が、途端に空々しく、独りよがりな響きへと変わる。

夫への理解できない想いと無力感が胸を塞ぎ、言葉すら出てこない。いや、それどころか、心の奥底から微かな嫌悪が芽吹き始めていた。

美咲の蒼白な顔をちらりと見て、玲子はiPadをぱたりと閉じる。そして淡々と告げた。

「あなたたち、子作りをしているそうね」

「はい。拓也が、そう計画を」

呆然としたまま、美咲はぼんやり頷くしかなかった。

玲子は、憐れむとも嘲るともつかぬ眼差しを向ける。

「では、あの子がなぜ急にあなたとの子を欲しがったか、知りたいとは思わない?」

美咲の胸が、きゅう、と締めつけられる。まるで巨大な掌に心臓を鷲掴みにされたかのように。緊張が血流を駆け巡り、指先まで震え出す。

玲子は続けた。

「これから話すことは、あなたには耐えがたいかもしれない。でも、美咲、これは善意からなのよ」

「どうしてですか」

自分の声が震えているのを、自分自身で聞き取れる。

玲子は磨き上げられた爪先を眺めながら、冷ややかに言い放った。

「新しい腎臓のためよ」

美咲の呼吸が止まった。

「三年前、あなたが詩織に提供した腎臓はもう駄目になった。残された選択肢は透析か再移植。その二つだけ。子供の腎臓を使う移植なんて耳慣れないでしょう。でも成人より術後の経過は良好で、薬の量も少なく済む。しかも長く機能する可能性が高いの」

言葉が脳に届くより早く、美咲の思考は完全に停止した。喉はからからに渇き、声を出そうとしてもひりつくだけだった。

玲子は爪から目を離し、再び美咲を見据える。片眉をすっと上げて。

「これで分かるでしょう。拓也がなぜ、あなたに子を産ませようとしているのか」

頭のてっぺんから足先まで、血の気が一瞬で引いていく。胸が裂けそうな痛み。怒り、恐怖、そして底知れぬ失望が、脳髄を駆け巡った。

「どうして、私の子でなければならないのですか」

掠れた声が、途切れ途切れに漏れる。

「あなたは既に詩織に腎臓を提供して、その適合性が証明された。しかも、あなたと詩織は血を分けた姉妹。当然でしょう」

体裁を保つ余裕など、もうなかった。涙が頬を伝い、次から次へと溢れ落ちる。美咲はそれを乱暴に手の甲で拭うと、深く息を吸い込み、震える声で問い詰めた。

「拓也が、そう言ったのですか」

「それ以外に何があるというの?」玲子は冷ややかに答える。「私がこれを打ち明けたのは、決定権をあなたに委ねるためよ」

「決定権?」美咲は怪訝に眉をひそめる。

「ええ。離婚の決定権よ」

玲子の声は冷徹だった。

「私はずっとあなたが気に入らなかった。だから、この真実を知ったあなたに、拓也と別れてほしいの。慰謝料が欲しいなら、いくらでも。他に望むものがあれば、それも用意してあげる」

美咲は乾いた笑いを漏らした。なるほど。真相を明かしたのは、こちらから離婚を切り出させるためだったのか。

「分かりました」美咲は奥歯をきつく噛みしめる。「慰謝料はいりません。ただ一つだけ、約束してください」

「何でも言いなさい」

「離婚した後も、絶対に、詩織と拓也の結婚だけは認めないでください」

玲子は鼻で笑った。

「私があれほど反対した結婚を、今さら認めると思う?意外ね。あなたの執念も、なかなかのものだわ」

憎悪が、心の底から逆流するように湧き上がる。もはや平静を装って座っていることさえ困難だった。

「いいわ。約束しましょう」

玲子は静かに頷いた。

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