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第2話

Author: 音夢
拓也が彼女を解放したのは、夕暮れが迫る頃合いだった。

結婚して二年、二人のベッドはいつも呼吸が合っていた。しかし、これほどまでに狂乱的になったことは、一度たりともなかった。

その事実が、なおさら美咲に拓也の真意を疑わせる理由となった。

一体、彼は何を望んでいるのだろう?

美咲は疲れ果てた身体を引きずるように起き上がり、洗面所へ向かおうとした。しかし拓也に腰を抱き寄せられ、再びベッドへと倒れ込む。

首筋に温かな息が触れ、美咲は声を潜めて言った。

「お風呂に入ってくる」

「里恵さんに鶏のスープを煮るよう頼んでおいた。ちゃんと飲め。体を休めて」

彼のキスが美咲の髪に細かく散り、一瞬、愛されているような錯覚を抱かせた。

だが、病院でのあの会話を思い出すと、彼女ははっと我に返る。

「休んで、子どもを産め。この一週間で、あなたが私に最も多く投げかけた言葉ね」

美咲は顔を背けながらも、鼻先がかすかに彼の薄い唇に触れ、二人の視線がぴたりと合う。

「でも、そんなに私が嫌いなら、なぜ私に子供を産ませようとするの?」

「午後だけで三回もしたのに、それでも嫌ってるっていうのか?」

「あら?じゃあ、なぜ電気を消したの?カーテンも全部閉めたでしょ?私のことを誰だと思っているの?」

美咲の言葉が終わると同時に、彼の瞳にわずかな感情の揺らぎが見て取れた。

眉をひそめ、不機嫌そうな表情に整った顔が一瞬陰る。

「冷たくするのもダメ、優しくするのもダメなのか?美咲、俺を怒らせるなよ」

「拓也、あなたの演技って、本当に下手ね」

そう言い放ち、美咲は起き上がり、洗面所へ向かった。

洗面を終え、洗面所を出る直前、美咲は緊急避妊薬を一粒飲み込む。

拓也が何をしようとしているのかはっきりするまでは、絶対に妊娠しないと心に決めていたからだ。

夕方、身支度を整えると、美咲は車で美術大学へ向かった。

彼女は美大油画科の修士二年生。今日は一日、病院に行くために休みを取っており、夜には学校のアトリエに戻り、絵の仕上げをしなければならなかった。

美咲はアトリエに夜の十時過ぎまで滞在し、その後、駐車場まで歩き車に向かう。

夜のキャンパスは人気がほとんどなく、美咲が一人で歩いていると、突然背後から誰かに襲われ、次の瞬間には口と鼻を押さえられ、意識を失った。

目を覚ますと、天地が回転するような感覚に襲われ、自分が睡眠薬で昏睡させられたのだと確信する。

まぶたには千鈞の重みがかかっているようだったが、ふと傍らで話し声が聞こえてきた。

「久しぶりに仕事が入ったな。今日のこれ、雇い主が腎臓一つに六億円出すってんだから、本当に太っ腹だよ」

「太っ腹ってより、腎臓で命をつないでるんだろ。金持ちにとって六億円なんて屁みたいなもんさ、命には代えられねえからな」

「まあな。でも聞いたところによると、この女、腎臓が一つしかないらしいぞ。摘出したら即死じゃねえか?」

「六億円もらったら、さっさと海外に逃げるんだ。誰が俺たちを捕まえられるってんだ?」

ここまで聞いて、美咲は全身の血の気が引くのを感じた。

腎臓一つに六億円も払うだって!?

頭に浮かぶのは、二年以上前に自分が詩織に腎臓を提供したときの顔だ。

彼女は回復するやいなや、毎日のようにタバコに酒、夜更かしをやめず、この前も急性腎不全で倒れたばかりなのに、退院して数日もしないうちに同じ生活に戻っているという。

間違いない。きっと、彼女だ。

だが、詩織が普段こそ威張り散らしてわがまま放題とはいえ、まさか闇医院に頼んで美咲の残る片方の腎臓まで買い取ろうとするとは、夢にも思わなかった。

その二人は、まだ美咲が目を覚ましたことに気づいていない。美咲はこの機に乗じ、そっと手を伸ばし、探るようにしてメスを一本見つけ出す。

市立病院、救急科。

美咲はよろよろと救急室まで歩き、番号札を受け取り、病院の公共ベンチに腰を下ろす。

スマホを取り出し、震える手で一つの電話をかけた。

病院に来る道中、彼女は泣き続け、一言も話せなかった。病院に着いてようやく電話をかける気力が湧いたのだ。

電話がつながるまで長い時間がかかり、受話器の向こうからやや苛立った男の声が響いた。「何か用か?」

美咲は声を詰まらせ、泣き声を帯びて言った。「どこにいるの」

「忙しいんだ」

「私、怪我したの。誰かに拉致されて、腎臓を取られそうになったの。絶対、詩織よ」

「美咲、もし被害妄想があるなら、治療を受けたほうがいい」

冷たい言葉が胸に突き刺さり、わけのわからない怒りが湧き上がる。

歯を食いしばり、激昂して言い返した。「怪我したって言ってるでしょ、拉致されたんだよ!」

ほとんどヒステリックになった美咲を、周囲の患者たちも見ていた。

「どこだ?」拓也は数秒間沈黙し、「裕司に病院まで送らせる」

「あなたに来てほしいの」美咲は下唇を噛み、口調を強めて言い張った。

「忙しいんだ」

相手も譲らなかった。その口調は冷たく、彼女が拉致されたことなど、まるで気にかけていないかのようだった。傷の程度にも、無関心である。

拓也が気にかけているのは、ただ一つ、彼女が妊娠できるかどうかだけなのだ。

美咲は憤慨して電話を切った。髪をかきむしりたい衝動に駆られたが、誤って傷ついた頬に触れてしまう。

彼女の顔、首、腕には、大小無数の傷が刻まれていた。

もし彼女が咄嗟にメスを掴み、一人を刺し、もう一人を脅すことができず、さらにスマートウォッチの自動通報機能も作動しなかったなら、美咲の脱出は、決して叶わなかっただろう。

だが、たとえこんな目に遭っても、拓也は冷淡なままなのだ。

美咲が救急処置を終え、薬を受け取りに向かう途中、救急蘇生室の前を通りかかった。

入口では騒ぎが起きており、白いロングドレスを着た女性が、狂ったように地面に座り込んでいた。

「私に触らないで!シャントでも透析でもなく、私は腎臓移植を受けたいの!」

「中島さん、腎臓提供者は順番待ちが必要で、そう簡単には見つかりません」

主治医が近づき、詩織を支えようとしたが、平手打ちを食らった。

「あっちに行って!私が欲しいもの、手に入らないわけないでしょ?ただの腎臓でしょ?」

その時、背の高い男性が詩織に近づいた。見覚えのあるその姿に、少し離れた場所で成り行きを見守っていた美咲の全身が震えた。

拓也だった。

拓也は身をかがめ、詩織を抱き上げ、なだめるように言った。

「いい子だから、まずは蘇生室に入ろうね?」

子供をあやすような口調だった。

さっきまで自分に見せた冷淡な態度と比べ、美咲は全身が凍りつくような感覚に襲われた。

主治医も傍らで説得を続ける。

「中島さん、透析をお拒みになったことで、以前昏睡状態に陥ったことをご記憶ですか?このまま透析を受けなければ、体内の毒素が排出されず、命の危険があります」

「すぐに腎臓は手に入るんだから、移植するの」

詩織の美しい顔は、ヒステリックに歪んでいた。

この言葉で、美咲の推測は確信に変わる。拉致は確かに、詩織が仕組んだことだった。

そして今、拓也がここにいる。彼はすべてを知っているはずだ。

彼は、何を思っているのだろう?

ヒステリックな詩織は医療スタッフに囲まれ、中へ連れて行かれた。

拓也は秘書の堀裕司(ほり ゆうじ)に電話をかけようとしたが、振り向いたとき、少し離れたところにぽつんと立つ美咲の姿を見つけた。

左頬にはガーゼが貼られ、首や腕には包帯が巻かれている。見るからに惨めで、傷だらけだった。

視線が合った瞬間、拓也の目に、一瞬ではっきりと狼狽が浮かんだ。

彼は動揺した。

美咲は彼を一瞥すると、踵を返して去った。

拓也は追いかけようとしたが、主治医に呼び止められた。

彼が追って来ないことは、美咲の予想通りだった。

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