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第9話

Author: 音夢
中島家の別荘。

美咲がこの場所に足を踏み入れるのは、半年以上ぶりだった。

理由は二つ。ひとつは、彼女と中島家の縁が薄いこと。もうひとつは、この屋敷に彼女の帰りを喜んで迎える者など、一人もいなかったからだ。

今日の集まりは、父・康二の還暦祝い。体裁を保つためだけに、美咲も招かれたにすぎない。

美咲と玲子が屋敷に到着したとき、拓也と詩織の姿はまだなかった。二人のことを思うと、美咲の胸は重く沈み、息が詰まるようだった。

玄関では、康二と継母・中島麻衣(なかしま まい)が待ち構えていた。だが、それは美咲を迎えるためではない。玲子の姿を見つけるや、麻衣は媚びるように駆け寄る。

「まあ、玲子様、ようこそお越しくださいました。さあ、どうぞこちらへ」

美咲は心の中で冷笑した。事情を知らぬ者が見れば、麻衣を自分の実母と勘違いするだろう。

その皮肉を胸に抱く間もなく、美咲は康二に書斎へ呼びつけられた。

和風の設えの中に漂うのは、旧弊な父と娘の間に特有の、息苦しい空気だった。

机の前に立つ美咲に、康二は座るよう勧めもしない。その光景は、母を亡くし、この広大な家で居場所を失った彼女が孤児院へ送られた、あの日の記憶を呼び覚ました。

「言ってみろ。なぜ妹を、あそこまで追い詰めた」

静かでありながら酷薄な声が、部屋の空気を刺す。

幼い頃から美咲は、この緊張感の中で生きてきた。二十歳を過ぎた今でも、父を前にすると胸の奥が拒絶と圧迫に支配される。

美咲は顔を上げ、父と視線を合わせて言った。

「お父様、何をおっしゃっているのか、分かりません」

「おれを父と呼ぶな。恩知らずな娘を持った覚えはない」

声が鋭さを増す。

「恩知らず?私がですか。それとも詩織が?」美咲は冷静に返したが、目には光がにじんでいた。

「三年前、私は腎臓を一つ詩織に提供しました。それなのに、あの子は自分を顧みることなく、煙草と酒に溺れ、夜更かしを繰り返した。そして今度は人を雇い、私を攫わせ、もう一つの腎臓まで奪おうとした。恩知らずなのは、どちらでしょう」

康二の顔が怒りで歪む。机を叩き、怒鳴りつけた。

「詩織が一時の気の迷いでお前のもう一つの腎臓を手に入れようとしても、それは使えるのがお前のものしかなかったからだ!だからお前を攫わせたのだ!根は純粋な子だ。でなければ他人を攫い、その腎臓を奪っていたはずだ!」

美咲は一瞬、言葉を失った。数秒の沈黙ののち、乾いた笑みを浮かべる。

「呆れてものも言えません。では、お父様のお考えでは、私が腎臓を提供したのが間違いだったと?自業自得だと?」

康二の目には、麻衣との間に生まれた末娘しか映っていない。美咲の命など、眼中にないのだ。

次の瞬間、康二は机の硯を掴み、美咲に投げつけた。彼女が身をかわすと、硯は背後の書棚にぶつかり、甲高い音を立てて砕け散った。

もし避けていなければ、砕かれていたのは彼女の頭だった。

「美咲、お前の命は俺が与えたものだ!今すぐ腎臓をえぐり出して詩織に差し出せと命じられても、逆らうことなど許されん!」

「違います」美咲の声が震えた。「私の命はお父様だけのものではありません。母から授かった命でもあります」

肉親の情など枯れ果てていたはずなのに、この言葉に胸は張り裂けるほど痛んだ。

自分が愛されていない事実を、誰が父の口から聞きたいだろう。まして、疎まれているという事実を。

康二は立ち上がり、美咲の頬を平手で打った。乾いた音が響く。

頬に焼け付くような痛みが広がった。

「警察が病院から詩織を連行した。すぐに警察署へ行って告訴を取り下げろ。さもなくば、このままでは済まさんぞ」

なるほど。警察は確かな証拠を掴んだからこそ動いたのだろう。康二が激怒するのも当然だ。かわいい娘が拘留されたのだから。

「お断りします」

その瞬間、美咲の胸に、霧が晴れるような感覚が走った。

初めて、父に逆らう言葉を口にしたのだ。

康二が再び手を振り上げたが、美咲はそれを避けた。

その行為が、父の怒りをさらに燃え上がらせた。

「美咲、拓也に嫁いだからといって、後ろ盾を得たつもりで調子に乗っているのか。まさか俺の前で威張るとはな」

その言葉が父の口から放たれたことが、美咲には信じられなかった。

世の父親なら、娘が苦労してはいないか、支えがなくて困ってはいないかと心配するものだろう。

だが彼女の場合は、その真逆だった。

美咲は鼻を鳴らした。

「私は何も間違っておりません。誰かの後ろ盾など必要ありませんわ。それに、告訴を取り下げるつもりもございません。私は殺されかけたのですよ。どうして取り下げなければならないのですか?!」

「腎臓ひとつ差し出して桜庭家に嫁いだからといって、一生安泰だとでも思っているのか。拓也が愛しているのは詩織だ。あいつがお前の後ろ盾になるとでも、本気で思っているのか」

その言葉は、顔面を真正面から殴られたかのような衝撃だった。

先ほどから続いていた頬の焼けつく痛みが、さらに鋭く増していく。

世界中の誰もが知っている。拓也は彼女を愛してはいない。

「それが何だというのです?表向きの桜庭夫人は、今もこの私です。お父様、私に手出しができるとでも?」

淀んだ空気の書斎を出ようとしたその時、康二の声が飛んだ。

「待て、美咲。お前は俺の骨董品の花瓶を割った。躾がなっておらん。庭へ出て、そこで跪いていろ」

言葉とほぼ同時に、ガチャンと甲高い音を立てて、机の上の花瓶が粉々に砕け散った。

美咲は悟った。康二はこのようにして、彼女に告訴の取り下げを迫っているのだと。

花瓶は、跪かせるためのただの口実。告訴を取り下げぬ限り、ずっと跪かされる。

さもなくば、この花瓶の代金を口実にして、彼女を刑務所へ送ることもできるのだ。

広大な庭園の真ん中に美咲は跪かされた。

母を失って以来、物心ついた時から何度も跪かされてきた。

だが、これほど大勢の人々の前で辱めを受けるのは、初めてだった。

その日は康二の還暦祝い。宴会場には八つの卓が並び、集まっていたのは皆、新浜の顔役ばかり。

桜庭家は国内随一の富豪。美咲がその夫人となったことを知らぬ者などいない。

それなのに今、実の父の手で庭に跪かされている。

彼女の面子など、すでに地に堕ちていた。

跪き始めてから二時間近く。宴会場では酒が飛び交い、美味なる料理が所狭しと並んでいる。

そこへ、突如として激しい雨が降り出した。

四月の夜はまだ肌寒く、濡れそぼった美咲の体は震えた。

もう、跪き続けるのは限界に近かった。

だが、屈するわけにはいかない。

告訴を取り下げることなど、断じてあり得ない。

雨粒が赤く腫れた頬を打ち、鋭い痛みをもたらす。

顔を上げると、ガラス越しの宴会場に玲子と安雄が見えた。康二と杯を酌み交わしている。

玲子の視線が一瞬、美咲をかすめた。だが、何事もなかったかのようにすぐ逸らされた。

まるで庭で跪く人間など桜庭家とは無関係であり、その体面にも一切関わりがないとでも言うように。

何しろ、美咲が桜庭家の夫人となった経緯は、そもそも人に誇れるものではなかったのだから。

その瞬間、美咲は全世界から見捨てられたように感じた。

離婚したい。ここから去りたい。海外にいる祖母のもとへ行きたい。

両足から力が抜け、頭は重く沈む。熱があることを自分でも悟った。

体がぐらりと傾きかけたその時、不意に頭上に傘が差し出された。

顔を上げると、拓也の秘書である裕司が、黒い傘を携えて彼女の前に立っていた。

意識が朦朧とする中、ふいに体がふわりと浮く。抱き上げられた瞬間、美咲は拓也が来たのだと気づいた。

馴染み深い香りがかすかに漂い、彼女はその腕の中にいた。必死に目を開き、目元の雨水を拭うと、拓也の顔がはっきりと映った。

彼が伏せた瞳には、怒りの色と共に――意外にも、気遣うような光が宿っていた。

拓也が、この私を心配するなんて。

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