穂乃果は織田家の執事、川口と名乗る男性と銀行の応接室に通された。マホガニーのテーブル、身体を包み込むような革のソファー、高価な調度品が飾られていた。重厚な空気が漂う部屋は、穂乃果の住んだアパートの埃っぽさとは別世界だった。ソファーに腰掛けた穂乃果は、白い髭を生やした川口の横顔を一瞥し、その落ち着いた佇まいから拓海の家庭環境を想像した。
石造りの邸宅、恭しく並んだメイド、リビングには高級な革のソファにマホガニーのテーブル、豪華な花が飾られ、なぜかアフガンハウンドまで登場した。彼女の脳裏に浮かぶその光景は、まるで映画のセットのようだった。だが、その華やかなイメージは、穂乃果に居心地の悪さを感じさせた。彼女の人生—擦り切れたカーテン、狭いキッチンとはあまりにかけ離れていた。
川口は静かに書類を広げ、穂乃果に契約の詳細を説明し始めた。低く落ち着いた声は、まるで彼女の選択を許さないかのようだった。「織田様の意向により、桔梗様の新たな生活は全て整えられております」と彼は言った。
「失礼します。桔梗様」銀行の頭取だと名刺を差し出した男性は、穂乃果の手から拓海のサインが入った小切手を受け取った。落ち着いた仕草で小切手が本物であることを確認すると、彼は帯付きの札束を穂乃果の前に山のように積み上げた。彼女は初めて見る1,000万円の存在に慄いた。札束の重厚な存在感は、彼女のこれまでの人生、薄給の給料袋や使い古した財布とはあまりに異質だった。
「ご確認ください」と頭取が言うと、
穂乃果は、拓海への複雑な思いを胸に抱え、市役所の窓口に妊娠証明書を提出した。証明書を受け取った女性職員は、柔らかな笑顔で「おめでとうございます」と穏やかに微笑み、可愛らしいピンクの母子手帳を差し出した。「ありがとうございます」と、穂乃果は小さく答えたが、その声には力がなく、表情は暗く沈んでいた。手にした母子手帳の鮮やかな色は、まるで新しい命の喜びを象徴しているようだったが、穂乃果の心には重い影が落ちていた。契約で結ばれた拓海との間にできた子供に、果たして明るい未来はあるのだろうか。彼女の指先は母子手帳を握りしめ、わずかに震えた。本来ならば、今すぐにでも拓海に連絡し、喜びを分かち合いたいという衝動が穂乃果の胸を締め付けた。あの満月の夜、拓海が熱く彼女の名を呼び、情熱に身を任せた瞬間が脳裏に蘇る。だが、その記憶は同時に叔父の冷たい言葉を呼び起こした。「お前を選ぶはずがない」。拓海との関係は、愛ではなく契約の上に成り立っている。この子は、拓海にとって何を意味するのか。受け入れられるはずがないという思いが、穂乃果の心を冷たく縛った。窓口の喧騒や、職員の穏やかな声が遠く聞こえ、彼女の視界は母子手帳に固定された。市役所の窓から差し込む午後の光が、穂乃果の手に持つピンクの手帳を優しく照らした。外では、通りをゆく人々の笑い声や車の音が日常の喧騒を織りなしていたが、穂乃果の心は静かな嵐の中にあった。この子を守るために、自分は何をすべきなのか。拓海に真実を告げる勇気はあるのか。穂乃果は母子手帳を胸に押し当て、そっと目を閉じた。
穂乃果は最近、体調の異変を感じていた。ここしばらく、微熱が続き、身体にまとわりつくようなだるさが消えない。拓海にベッドで抱かれていても、かつて感じた熱いときめきは薄れ、身体の奥がそれを拒むように冷たく重かった。芳子さんと台所で食事の準備をしている時も、味噌汁の香りが鼻につき、胃に圧迫感が広がった。初めは、叔父との諍いや慣れない邸宅での生活から来るストレスだと考えていた。だが、吐き気が頻繁に襲うようになり、ただ事ではないと不安が募った。「…………どうしたんだろう」と、穂乃果はひとり呟いた。鏡に映る自分の顔は青白く、目の下にはうっすらと影が落ちている。拓海にはまだ何も言えなかった。彼の優しい眼差しやシダーウッドの香りに包まれるたび、心は安堵するのに、身体は正直に異変を訴えていた。穂乃果は意を決し、総合病院を受診することにした。病院の待合室は、消毒液の鋭い匂いと、ざわめく人々の声で満ちていた。子供の泣き声や、看護師の呼び出しのアナウンスが響き合い、穂乃果の心をさらにざわつかせた。「桔梗さん、桔梗穂乃果さん、三番ドアにお入り下さい」
満月が夜空に白く輝き、冷たく澄んだ光を地上に投げかけていた。邸宅の障子には、庭の笹の葉がそよ風に揺れ、影がゆらゆらと揺れている。その夜は特別だった。叔父の手から穂乃果を無事に取り戻した拓海は、邸宅の玄関をくぐるなり、家政婦の芳子さんに「夕食は済ませてきた」と短く告げ、人払いをした。芳子さんは一瞬だけ心配そうな視線を向けたが、拓海の決然とした口調に何も言わず、静かに下がった。実際、穂乃果は昼から何も口にしていなかった。叔父との諍いに巻き込まれ、恐怖と緊張の中で空腹を感じる暇すらなかったのだ。「大丈夫か」彼女の顔は青白く、目にはまだあの部屋の重苦しい空気が残っているようだった。拓海はそんな穂乃果を気遣うように、彼女の手をそっと握り、静かな廊下を歩き始めた。月光が窓から差し込み、畳に淡い光の帯を作り、まるで二人の心を照らすかのようだった。穂乃果の指は冷たく、わずかに震えていたが、拓海の手の温もりがそれを静かに包み込んでいた。「少し休め」と、拓海は低い声で言い、穂乃果をベッドルームに導いた。そこには、障子の向こうに広がる庭の静寂と、満月の光が作り出す穏やかな空気があった。穂乃果は畳に腰を下ろし、ようやく息をついたが、心の奥ではまだ叔父の言葉が重く響いていた。「……お前を選ぶはずがない」。その言葉が、彼女の胸に小さな棘のように刺さっていた。拓海はそんな彼女の様子に気づいたのか、無言で隣に座り、ただ静かに寄り添った。笹の葉の揺れる音が、夜の静寂
マホガニーの重厚な扉を勢いよく蹴破った拓海は、部屋に踏み込むと同時に、鋭い視線を叔父へと突き刺した。本革のソファに悠然と腰掛け、脚を組む叔父は、まるで王様のような態度で彼を見返した。「穂乃果!」隣に座る穂乃果を一瞥した拓海は、彼女の手首に粗布で縛られた赤い痕を見つけた瞬間、顔を強張らせた。銀縁眼鏡の奥で光る拓海の目は、怒りと決意に燃え、太々しい叔父の顔を一瞬たりとも逃さず凝視した。「叔父さん……これは拉致ですよ。立派な犯罪だ!」拓海の声は、普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないほど感情的で、部屋の空気を切り裂くように響いた。穂乃果は、その剣幕に息を呑んだ。拓海がこんな風に声を荒げる姿は初めてだった。彼女の心臓は高鳴り、叔父と拓海の間に漂う緊張に、思わず身を縮めた。「どこにそんな証拠があるんだ?」叔父の声は低く、嘲るような響きを帯びていた。夕日の赤い光が窓から差し込み、叔父の顔を半分影に沈めた。表情は読み取りづらかったが、目だけは異様な光を放ち、拓海への敵対心を隠そうともしなかった。「監視カメラの映像がある。川口の証言もある」と、拓海は一歩踏み出し、叔父との距離を詰めた。「お前のところの執事か……老耄が見間違えたんだろう」叔父は鼻で笑い、ソファの
重苦しい車内の空気を切り裂くように、キュルキュルキュルとタイヤが滑る音が響いた。ワンボックスカーの急激な動きに、穂乃果の体は大きく左右に揺さぶられ、縛られた手首に粗い布がさらに食い込んだ。彼女はこの場所が地下駐車場に下るスロープに違いないと確信した。暗闇の中で、車が螺旋状に降りていく感覚と、コンクリートの壁に反響するエンジン音が、彼女の恐怖を増幅させる。車はキュッと鋭い音を立ててブレーキを踏み、穂乃果の身体は前に持っていかれ、シートベルトが肩に食い込んだ。痛みが走り、息が詰まる。「おと………!」穂乃果が声を上げようとした瞬間、口は粗い布で乱暴に塞がれた。ざらつく布の感触と埃っぽい匂いが、彼女の喉を締め付ける。後部座席のスライドドアが勢いよく開き、車内に連れ込まれた時と同じ屈強な男が、穂乃果を肩に担ぎ上げた。彼女の体は軽々と持ち上げられ、地下駐車場の冷たい空気に晒された。「んー!んー!」猿轡を咬まされた穂乃果の叫び声は、コンクリートの壁に虚しく反響し、すぐに吸い込まれて消えた。自動ドアが開く音が響き、冷たい空調の風が汗ばんだ穂乃果の首筋を震わせた。全身が凍えるような感覚の中、彼女の心は拓海との契約婚約を思い出す。あの1,000万円の小切手で義父の300万円を支払い、過去を断ち切ったはずだったのに、なぜこのような事態に陥ったのか。カツカツと複数の革靴の音が近付き、穂乃果を囲むように響いた。整髪料の甘ったるい匂いが鼻につき、彼女の胃を締め付ける。囲む者たちは誰も言葉を発せず、ただ重い沈黙が彼女を圧迫した。義父の欲に塗れた声、500万円の報酬を口にするあの卑劣な姿が脳裏をよぎる。
くたびれたスーツの義父の背後に、黒いワンボックスカーが勢いよく停まった。低いエンジン音が庭の静寂を切り裂き、運転席では黒いサングラスをかけた男性がハンドルを握っていた。バックミラーには楓のような葉の芳香剤が左右に揺れ、まるで不穏なリズムを刻んでいるようだった。後部座席には目隠しの黒いカーテンが掛かり、車内の様子を一切伺わせない。穂乃果はその異様な光景に足が竦んだ。織田家の広大な庭が、突然見知らぬ脅威に侵されたかのように感じられた。彼女の心臓は早鐘を打ち、額の汗が冷たく頬を伝う。「穂乃果ぁ、お義父さんと一緒においで」義父の声は低く唸るようで、欲望に塗れたギラギラした目が穂乃果を捕らえた。彼のくたびれたスーツは、かつて彼女に300万円を無心した時の薄汚れた姿と変わらない。拓海との1,000万円の契約婚約でその金を支払い、縁を切ったはずだったのに、なぜ今ここにいるのか。義父の手がゆっくりと穂乃果の腕へと伸び、彼女の肌に触れる前に、穂乃果は反射的に叫んだ。「いやっ!」その手を振り払うと同時に、ワンボックスカーの後部座席のスライドドアが勢いよく開いた。車内から屈強な二人の男が飛び出してきた。黒いサングラスに黒いシャツ、黒いスラックス。穂乃果が最後に目にしたのは、彼らの醜く歪んだ口元だった。ニヤリと笑うその表情に、彼女の全身に恐怖が走る。