ホテルの車寄せには、何台もの高級な黒塗りの車が整然と停まっていた。金沢商工会議所のレセプションを終えた正装の男性たちや、ドレスに身を包んだそのパートナーたちが、滑り込むように次々と車に乗り込んでゆく。シャンデリアの光が漏れるホテルのエントランスは、夜の金沢の街に華やかな輝きを添えていた。
その中に、穂乃果と拓海の姿もあった。夜も更け、降り出した細やかな雨がアスファルトを濡らし、黒いインフィニティのボディは黒曜石のように艶めき輝いた。白い手袋をはめた運転手が、恭しく後部座席のドアを開け、「お待たせいたしました」と丁寧に二人を迎え入れた。
穂乃果は革のシートに身を預け、ようやく小さく息をついた。叔父たちとの緊張感溢れる対峙を乗り越えた安堵と、織田家の重圧に耐えた疲れが、彼女の肩を重くしていた。車内の静かな空気と、革のほのかな香りが、穂乃果の心を少し落ち着かせた。隣に座る拓海は、銀縁眼鏡を外し、ネクタイを緩めながら軽く微笑んだ。
「よくやったな、穂乃果」
「あれで良かったでしょうか?」
「充分だよ、叔父たちもこれで何も言って来ないだろう」
彼の声は穏やかで、どこか労うような響きがあった。だが、穂乃果の胸には、叔父たちの冷ややかな言葉「金目当てか」という棘がまだ刺さったままだった。確かに1,000万円の契約金が彼女を引き込んだが、
マホガニーの重厚な扉を勢いよく蹴破った拓海は、部屋に踏み込むと同時に、鋭い視線を叔父へと突き刺した。本革のソファに悠然と腰掛け、脚を組む叔父は、まるで王様のような態度で彼を見返した。「穂乃果!」隣に座る穂乃果を一瞥した拓海は、彼女の手首に粗布で縛られた赤い痕を見つけた瞬間、顔を強張らせた。銀縁眼鏡の奥で光る拓海の目は、怒りと決意に燃え、太々しい叔父の顔を一瞬たりとも逃さず凝視した。「叔父さん……これは拉致ですよ。立派な犯罪だ!」拓海の声は、普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないほど感情的で、部屋の空気を切り裂くように響いた。穂乃果は、その剣幕に息を呑んだ。拓海がこんな風に声を荒げる姿は初めてだった。彼女の心臓は高鳴り、叔父と拓海の間に漂う緊張に、思わず身を縮めた。「どこにそんな証拠があるんだ?」叔父の声は低く、嘲るような響きを帯びていた。夕日の赤い光が窓から差し込み、叔父の顔を半分影に沈めた。表情は読み取りづらかったが、目だけは異様な光を放ち、拓海への敵対心を隠そうともしなかった。「監視カメラの映像がある。川口の証言もある」と、拓海は一歩踏み出し、叔父との距離を詰めた。「お前のところの執事か……老耄が見間違えたんだろう」叔父は鼻で笑い、ソファの
重苦しい車内の空気を切り裂くように、キュルキュルキュルとタイヤが滑る音が響いた。ワンボックスカーの急激な動きに、穂乃果の体は大きく左右に揺さぶられ、縛られた手首に粗い布がさらに食い込んだ。彼女はこの場所が地下駐車場に下るスロープに違いないと確信した。暗闇の中で、車が螺旋状に降りていく感覚と、コンクリートの壁に反響するエンジン音が、彼女の恐怖を増幅させる。車はキュッと鋭い音を立ててブレーキを踏み、穂乃果の身体は前に持っていかれ、シートベルトが肩に食い込んだ。痛みが走り、息が詰まる。「おと………!」穂乃果が声を上げようとした瞬間、口は粗い布で乱暴に塞がれた。ざらつく布の感触と埃っぽい匂いが、彼女の喉を締め付ける。後部座席のスライドドアが勢いよく開き、車内に連れ込まれた時と同じ屈強な男が、穂乃果を肩に担ぎ上げた。彼女の体は軽々と持ち上げられ、地下駐車場の冷たい空気に晒された。「んー!んー!」猿轡を咬まされた穂乃果の叫び声は、コンクリートの壁に虚しく反響し、すぐに吸い込まれて消えた。自動ドアが開く音が響き、冷たい空調の風が汗ばんだ穂乃果の首筋を震わせた。全身が凍えるような感覚の中、彼女の心は拓海との契約婚約を思い出す。あの1,000万円の小切手で義父の300万円を支払い、過去を断ち切ったはずだったのに、なぜこのような事態に陥ったのか。カツカツと複数の革靴の音が近付き、穂乃果を囲むように響いた。整髪料の甘ったるい匂いが鼻につき、彼女の胃を締め付ける。囲む者たちは誰も言葉を発せず、ただ重い沈黙が彼女を圧迫した。義父の欲に塗れた声、500万円の報酬を口にするあの卑劣な姿が脳裏をよぎる。
くたびれたスーツの義父の背後に、黒いワンボックスカーが勢いよく停まった。低いエンジン音が庭の静寂を切り裂き、運転席では黒いサングラスをかけた男性がハンドルを握っていた。バックミラーには楓のような葉の芳香剤が左右に揺れ、まるで不穏なリズムを刻んでいるようだった。後部座席には目隠しの黒いカーテンが掛かり、車内の様子を一切伺わせない。穂乃果はその異様な光景に足が竦んだ。織田家の広大な庭が、突然見知らぬ脅威に侵されたかのように感じられた。彼女の心臓は早鐘を打ち、額の汗が冷たく頬を伝う。「穂乃果ぁ、お義父さんと一緒においで」義父の声は低く唸るようで、欲望に塗れたギラギラした目が穂乃果を捕らえた。彼のくたびれたスーツは、かつて彼女に300万円を無心した時の薄汚れた姿と変わらない。拓海との1,000万円の契約婚約でその金を支払い、縁を切ったはずだったのに、なぜ今ここにいるのか。義父の手がゆっくりと穂乃果の腕へと伸び、彼女の肌に触れる前に、穂乃果は反射的に叫んだ。「いやっ!」その手を振り払うと同時に、ワンボックスカーの後部座席のスライドドアが勢いよく開いた。車内から屈強な二人の男が飛び出してきた。黒いサングラスに黒いシャツ、黒いスラックス。穂乃果が最後に目にしたのは、彼らの醜く歪んだ口元だった。ニヤリと笑うその表情に、彼女の全身に恐怖が走る。
朝食を終え、手持ち無沙汰な穂乃果は生垣の雑草を抜いていた。織田家の広大な庭は、彼女がかつて働いていた狭いオフィスの窮屈さとは対照的だった。あのオフィスでは、コピー機の単調な音を聞きながら会議の資料を延々と印刷し、蛍光灯の下で時間を刻んでいた。そんな日々に慣れていた穂乃果にとって、織田の邸宅は広すぎ、静かすぎる空間だった。豪華な装飾の部屋や、磨き上げられた廊下は、彼女をどこかよそよそしく突き放すようで、居場所を見つけられないまま時間だけが過ぎていく。軍手を履いた穂乃果は、ふと庭の片隅に座り込んだ。生垣の根元に生えた雑草を握ると、草の硬い感触が指先に伝わり、湿った土の匂いが鼻腔をくすぐった。額に滲む汗が一筋、頬を滑り落ち、地面に吸い込まれる。頭上には青い空がどこまでも広がり、照りつける太陽が容赦なく肌を刺した。その熱さは、まるで全身で呼吸をするかのように、穂乃果の体に染み込んでくる。彼女は目を細め、空を見上げた。雲一つない空は、織田家の重厚な雰囲気とは裏腹に、どこか自由で軽やかだった。雑草を抜く単純な作業は、穂乃果に不思議な安心感を与えた。庭の片隅で、穂乃果は自分の存在を確かに感じられた。織田家の華やかな世界に馴染めない自分と、こんなささやかな自然の中でだけ安らげる自分。そのギャップが、彼女の心に小さな波を立てる。その時だった。「…………ほ、穂乃果」穂乃果が額の汗をタオルで拭っていると、聞き覚えのある男性の声
穂乃果が目覚めると、そこに拓海の姿はなかった。ベッドの向こう側は冷たく、シーツには彼の温もりの痕跡すら残っていない。今日は商工会議所の理事総会が開かれると言っていた。昨夜のレセプションに続き、織田コーポレーションの代表取締役兼社長は休む暇がない。拓海の忙しさは、穂乃果が彼と過ごす時間をいつも少しずつ削っていく。「社長さんも大変だなぁ……」穂乃果はベッドのシーツを整えながら、ぼんやりと呟いた。指先が滑らかな布地をなぞるたび、昨夜のレセプションの記憶が鮮明に蘇る。シャンデリアの光がきらめく会場、グラス越しに響く笑い声、そして拓海と対立している叔父たちの冷ややかな視線。爪先から頭の天辺まで品定めされているような不快感が、穂乃果の肌にまとわりついたまま離れない。彼らの目は、穂乃果が本物の婚約者かどうかを怪しむように鋭く、まるで彼女の存在そのものを値踏みしているようだった。織田家の重鎮である叔父たちの薄い笑みと、その奥に潜む猜疑心が、穂乃果の胸に重くのしかかる。穂乃果はシーツを整える手を止め、窓の外に広がる朝の光を見つめた。これから彼らと対峙してゆくのかと思うと、身震いがした。拓海のそばにいることで、穂乃果は彼の戦いに巻き込まれていくのだろうか。愛する人を支えたいという思いと、未知の闘争への不安が、彼女の心の中でせめぎ合う。拓海の不在が、部屋の静けさを一層深く感じさせた。穂乃果は髪を掻き上げ、パジャマを着替えることにした。「…&
ホテルの車寄せには、何台もの高級な黒塗りの車が整然と停まっていた。金沢商工会議所のレセプションを終えた正装の男性たちや、ドレスに身を包んだそのパートナーたちが、滑り込むように次々と車に乗り込んでゆく。シャンデリアの光が漏れるホテルのエントランスは、夜の金沢の街に華やかな輝きを添えていた。その中に、穂乃果と拓海の姿もあった。夜も更け、降り出した細やかな雨がアスファルトを濡らし、黒いインフィニティのボディは黒曜石のように艶めき輝いた。白い手袋をはめた運転手が、恭しく後部座席のドアを開け、「お待たせいたしました」と丁寧に二人を迎え入れた。穂乃果は革のシートに身を預け、ようやく小さく息をついた。叔父たちとの緊張感溢れる対峙を乗り越えた安堵と、織田家の重圧に耐えた疲れが、彼女の肩を重くしていた。車内の静かな空気と、革のほのかな香りが、穂乃果の心を少し落ち着かせた。隣に座る拓海は、銀縁眼鏡を外し、ネクタイを緩めながら軽く微笑んだ。「よくやったな、穂乃果」「あれで良かったでしょうか?」「充分だよ、叔父たちもこれで何も言って来ないだろう」彼の声は穏やかで、どこか労うような響きがあった。だが、穂乃果の胸には、叔父たちの冷ややかな言葉「金目当てか」という棘がまだ刺さったままだった。確かに1,000万円の契約金が彼女を引き込んだが、