春の陽はやわらかく、東京下町の路地を歩く直哉の頬をやさしく撫でていった。官吏登用試験の合格通知を受け取った翌朝、彼は不動産案内書を手に、浅草と神田のあいだの古い町並みに足を踏み入れていた。舗装もまばらな石畳、両側には瓦屋根の低い家が続き、道端では子供たちが竹馬で遊んでいる。町屋の軒先からは洗濯物がたなびき、どこかの家からは煎餅を焼く匂いが風にのって漂ってきた。まだ朝も浅いというのに、商いの声が賑やかだ。「新しい大根はいかがです」「おい、今日は良い鰯が入ってるぞ」野菜籠を肩にした女衆や、古道具を並べる老人たち。そんな日常の喧騒のなかを、直哉は手にした案内書の地図と見比べながら歩いた。少し前まで自分は、こんな庶民の空気とは縁遠い世界にいたのだと、改めて思う。桂木邸の静謐な廊下、白檀の香、行灯の光。あの空間では、日々の暮らしの音すら霞の向こうに感じていた。だが今は、町のざわめきや人の声、土と汗と焼き物の混じったこの匂いが、やけに新鮮に感じられる。「三崎さん、いかがです? この家、南向きで日当たりは抜群です」傍らで不動産屋の青年が軽快に話しかけてきた。案内書には「五軒長屋」と記されている。表戸を開けて覗くと、六畳二間に小さな台所、裏には申し訳程度の庭。踏み石と砂利が敷かれて、縁側からは雑草混じりの土がのぞいていた。「おひとり住まいでしたら十分かと」直哉は縁側に腰を下ろし、庭を眺めた。椿や南天が根を張る庭は、手入れが行き届いていないものの、日差しを浴びて明るかった。ふいに、誰かがこの縁側で昼寝をしている情景が思い浮かぶ。白い着物の袖を垂らし、風に髪をなびかせる人の姿。自分だけのための家を探しているつもりだった。だが、この小さな庭や縁側を見ると、不思議と「ひとりで使う」という前提が霞んでいく。否応なく思い出されるのは、彰人のことだった。椿油の香り、笑い声、膝枕に頭を乗せて甘えてくる仕草。そのすべてが、この未来の部屋のどこかに重なってくる。「こちらの家はすぐに借り手が決まりそうでして…どうなさいます?」案内人の声で、現実に引
Last Updated : 2025-09-25 Read more