All Chapters of 明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜: Chapter 21 - Chapter 30

58 Chapters

21.昼の影、夜の熱

昼下がりの桂木家は、外の蝉の声が遠く響くほか、ほとんど音のない静けさに包まれていた。廊下を吹き抜ける風は弱く、障子越しの光は緩やかに傾きはじめている。庭の樹々の影が畳に長く伸びるたび、季節の移ろいもゆっくりと流れるように感じられた。私室では、彰人が机に向かい、直哉がその横で教本を指差しながら、淡々と漢文の解釈を語っている。昼の直哉は昨夜の熱とは別人のように冷静で、厳格ですらあった。だが彰人には、直哉が自分の手を導いたときの熱や、唇が額に触れた感触が、指先にまだ微かに残っている気がしてならなかった。直哉は時おり筆の握り方を確かめるように彰人の手に触れ、そのたびに彰人の心臓がひどく騒いだ。夜に触れ合った手のぬくもりが、昼の光の下ではいっそう鮮やかに蘇る。墨の香と、昼下がりの甘い空気。直哉の指が自分の肌をなぞる感覚を思い出しては、彰人は呼吸が浅くなる。「ここは、こう読み下します」直哉が穏やかな声で言葉を繋ぐ。教本に視線を落としながらも、彰人の横顔にときおり目をやっているのが分かった。彰人は小さく頷き、視線を机の上の半紙に落とした。だが、耳の奥では昨夜の囁き声が何度も蘇る。「分かりました」彰人の声は自分でも分かるほど掠れていた。直哉はその声の震えに、わずかに眉を動かす。「疲れましたか」その一言が妙に優しく、彰人の胸の奥をくすぐる。昼間の直哉は、あくまで教師の顔を装うけれど、その眼差しの底に、夜の熱が眠っていることを彰人は感じてしまう。「いいえ、大丈夫です」彰人は微笑んでみせるが、その微笑みにも夜の名残が隠れている。直哉はしばし黙り、彰人の手を包むようにして持ち上げる。「指先が冷えていますね」直哉が、まるで何気ない仕草のように彰人の手を自分の手で包む。だがその手の温度は、昨夜の熱をすぐに蘇らせた。彰人は自分の鼓動が、ふいに速くなるのを感じる。「…昨日、寝冷えしたのかもしれません」彰人の言い訳めいた言葉に、直哉は静かに目を伏せる。だが唇の端が、僅かに揺れていた。その瞬間、二人の間の空気が昼の光のなかで緩やかに色づく。ふと障子の向こうから女
last updateLast Updated : 2025-09-10
Read more

22.蜜の夜

夜の静けさが、桂木家の奥座敷にゆるやかに満ちていく。障子の外で虫の声が微かに重なり合い、行灯の灯りが畳の上に淡い金色の輪郭を描く。白檀と椿油の香が室内をくぐもらせ、昼間の理性も社会の名残も、ゆっくりと夜の帳に溶かされていった。彰人の私室には、ふたりだけのための濃密な空気が息づいていた。直哉は障子を閉め、静かに息を整える。彰人は布団の上で膝を抱え、じっと直哉を見つめている。その瞳の奥に、夜の闇を照らす火の粉のような不安と期待が滲んでいた。「今夜も、…ここにいてくださいますか」彰人が低く呟いた。直哉は言葉で答えず、彰人の傍らに膝をつき、そっと肩を抱いた。その腕は、もはや何者からも彰人を守り、隠し、そして支配することだけを求めていた。彰人の細い体を包み込み、静かに唇を寄せる。「…彰人さま」息を重ねるたび、熱が肌から肌へ伝播していく。直哉の手が彰人の首筋をなぞり、肩を伝い、背を撫でる。彰人の体は昨夜よりもさらに柔らかく、指先が触れるたび、微かに震えた。その震えが、直哉の理性を遠くに追いやる。「痛くしない」そう呟く直哉の声は、どこか必死だった。彰人は目を伏せ、頬を赤らめながら、そっと唇を差し出す。その唇を、直哉が覆う。最初はゆっくりと、だが次第に熱を孕み、噛みつくような深さに変わっていく。彰人の息が、唇の隙間から零れた。指先が襦袢の紐をほどき、襟を外していく。肌が露わになるたび、彰人の胸が波立つ。白い肌に直哉の手が這い、胸元に唇を落とす。吐息と指先が乳首に触れ、彰人の身体は痛みに近い感覚に身を委ねていく。恥じらいも、羞恥も、すべてを直哉の求めに差し出した。「直哉さん…」名前を呼ぶ声が、夜気に吸い込まれる。直哉は彰人の太腿に手を滑らせ、膝を開かせた。椿油の瓶が小さく転がる音がした。直哉は自分の指に油を馴染ませ、彰人の秘めた場所にそっと触れる。彰人の身体が跳ねる。「怖くない」直哉は囁く。彰人は頷き、ぎゅっと直哉の手を握る。その後は、言葉も思考も溶けるようだった。直哉の手が、指が、身体の奥を優しく、時に強く攻める。
last updateLast Updated : 2025-09-10
Read more

23.深まる渇き

蜜月の日々が幾度か巡った。桂木邸のなかで季節がゆっくりと移ろい、白檀と椿油の香が染みついた私室は、ふたりだけの世界として閉ざされていった。日常の静けさは続いているはずなのに、彰人と直哉の間に流れる空気は以前とはまるで違っていた。朝になると、彰人は直哉が部屋に来るのを待ちわびるようになった。障子越しに射すやわらかな日差しが、直哉の影を映すと、胸の奥が微かに疼く。直哉が姿を現せば、彰人の表情は自然と明るくなり、彼の手が自分に触れるのを待つ指先は、いつもより落ち着きを失っていた。「おはようございます、彰人さま」直哉の低い声が障子越しに響くと、彰人は思わず唇に微笑みを浮かべてしまう。「おはようございます、直哉さん」朝の挨拶にすら、夜の残り香が漂うようだった。ふたりの間に漂う空気は、淡い緊張と、確かな熱を孕んでいる。筆の持ち方を指導する直哉の手が彰人の手の甲に触れると、彰人は声にならぬ息を漏らす。教本をめくる指先、半紙に落ちる墨、静寂のなかの小さな音にすら、互いへの執着が滲み出ていた。彰人はふと、直哉が自分に背を向けて立つ時間がやけに長く感じられることに気づく。その背中を追いかけるように視線を向けてしまう。直哉が女中や執事と言葉を交わすとき、彰人の胸はざわついた。理性では理解できぬ苛立ちが、知らぬうちに積もっていく。昼下がり、書斎で彰人が書きものをしていると、遠くで直哉の笑い声が微かに聞こえた。使用人たちの仕事ぶりを見ていた直哉が、何かに応じて静かに笑っただけのことだった。そのたった一度の笑いが、彰人の心を冷やし、嫉妬の色を滲ませる。胸の奥で、独り占めにしたいという衝動が膨らんでいく。夕刻、彰人はわざと廊下で直哉を待った。障子を押し開けて現れた直哉が、ほんの一瞬驚いたように目を見開く。その瞳を確認し、彰人はほっと息をつく。「もうお戻りですか」彰人の問いに、直哉は優しく微笑む。「はい、彰人さまのお部屋に伺おうと思っておりました」ふたりの目が合う。何気ないやりとりにさえ、強い安堵が混ざるのを、彰人は隠せなかった。それは直哉も同じだった。日が沈み、私室に灯がともされると、
last updateLast Updated : 2025-09-11
Read more

24.蜜月の檻

蜜月の時は、永遠に続くもののように思えた。彰人の私室は夜毎、行灯と白檀の香で満ち、畳と布団に残る体温は、朝になっても微かに消えずに残った。窓の外で小鳥がさえずる頃、まだ二人の身体は寄り添ったまま眠り、夜の余韻が髪や肌の奥深くまで染み込んでいた。朝、彰人が目覚めると、すぐそばに直哉がいる。寝息に混じる彼の吐息を耳元で感じるだけで、満たされた幸福に溺れる。互いの腕は緩く絡み、布団の中で指先が微かに動く。動かぬ世界のなか、唯一確かなものが、直哉のぬくもりとその腕の重さだった。「おはようございます、彰人さま」直哉が低く囁く。彰人はうなずき、眠たげな目をしたまま、首をすり寄せる。「おはよう…直哉さん」その一言で、ふたりの世界は密やかな聖域となる。邸内に朝の支度の音が広がり始めても、私室だけはまだ夜の残り香が満ちていた。直哉が布団を抜け出すとき、彰人は無意識にその裾を握りしめる。「……どこへ行くのですか」まだ子供のような声音で尋ねる彰人に、直哉は目を細めて振り返る。「茶を入れて参ります。すぐに戻ります」その言葉にようやく指を緩め、彰人はほっとしたような息をつく。日常の些細なやり取りでさえ、ふたりの世界を守るための儀式になっていた。昼間の桂木家は静かだった。奥座敷の障子越しに庭の陽射しが滲み、風が畳の目を撫でていく。彰人は直哉と机を挟んで座り、筆を握りながら、時折ぼんやりと直哉の横顔を見つめる。「彰人さま、こちらの詩句はどう解釈なさいますか」直哉の問いかけに、彰人は筆を紙から離し、小さく首を傾げる。「直哉さんが傍にいると、どうしても…他のことが考えられなくなる」その無邪気な呟きに、直哉の顔がふっと緩む。「私も同じです」それだけで、彰人の頬に赤みが射す。日々のすべてが互いに染められ、ふたりの世界の色となる。夜がくると、彰人は自ら行灯に火を入れる。白檀の香を強めに焚き、椿油の瓶を指で転がす。直哉が私室に現れる前から、心と身体がわ
last updateLast Updated : 2025-09-11
Read more

25.帰邸の足音

白檀の香が満ちる座敷には、穏やかな昼下がりの光が障子越しに差し込んでいた。初夏の柔らかな陽射しは、畳の目を斜めに照らし出し、涼やかな影を作っている。風はなく、庭の枝葉も微かに揺れるのみ。蝉の声もまだ遠く、まるで時間が閉じ込められたような静けさがそこにあった。彰人は膝を揃えて座し、文机に置かれた筆を手に取っていた。直哉が教えてくれた筆の持ち方を思い出しながら、半紙にゆっくりと文字を描いていく。墨の香と、筆先が紙をなぞる微かな音が耳に心地よい。けれど、その平穏は唐突に破られた。障子の外から、使用人のひとりが駆け足で近づき、呼吸を整える間もなく告げた。「旦那様が…本日、夕刻にお戻りになるそうです」筆先が止まり、墨が一点に滲んだ。彰人の手から筆が滑り落ち、畳の上に静かに転がる。誰もその音に触れようとはしなかった。使用人は頭を深く下げたまま動かず、空気が瞬時に凍りつく。「…そう」彰人の声は細く震え、白檀の香にかき消されそうだった。使用人が下がった後も、しばらく彼は動けずにいた。白い指先が膝の上で静かに揺れている。まるで、自身の内に湧き上がる感情を、それだけでどうにか制御しようとしているかのようだった。直哉はすぐ隣で、黙ってその様子を見つめていた。座敷の端に置かれた行灯の側に座り、背筋を伸ばしている。だがその眼差しには、理性と感情の狭間で揺れる微かな揺らぎがあった。「…父上が戻るとは、思っていなかった」彰人がぽつりと呟いた。「お盆にも正月にも、お戻りにならなかったのに…」その声には、戸惑いとも恐れともつかぬ響きがあった。彰人の視線は畳に落とされたまま動かず、直哉のほうを一度も見なかった。直哉は静かに呼吸を整え、口を開いた。「突然の知らせに、動揺するのは当然です」「動揺…というより」彰人はゆっくりと顔を上げ、直哉を見た。「怖いのかもしれません。あの人に会うのが」その目は、まるで深い井戸の底を覗き込んだようだった。澄んではい
last updateLast Updated : 2025-09-12
Read more

26.父の視線

夕刻の客間は、静まり返っていた。障子の向こうから差し込む陽はすでに傾き、畳の上に長く斜めの影を落としている。白檀の香がかすかに漂う空間に、風の通り道はない。閉ざされた屋敷の奥、空気さえ張り詰めたような空間の中心に、桂木尚道の姿があった。姿勢は端正で、着衣に乱れは一切ない。裾の折り目までもが几帳面で、まるで華族の手本のような完璧さを纏っている。だが、その瞳は冷たい。静謐を湛えながらも、何も受け入れない拒絶の色が滲んでいた。直哉は、正座したまま一言も発さず、尚道の対面に座していた。目を逸らすことも、睨み返すこともせず、あくまで礼儀を守る立場で。敷居の上に一線引かれたような距離が二人の間に横たわっていた。彰人は、その横に控えるように膝をついている。口を閉ざしたまま、視線を伏せ、ほとんど動かない。空気と同化するような静けさで、その場にいることを許されている。ただの「存在」として。尚道は最初に、ゆるやかに微笑んだ。だが、その笑みに情はなかった。「三崎君、わざわざ時間を取ってもらってすまないね」直哉は深く頭を下げる。「お呼びいただき、光栄に存じます」「いや、君の指導のおかげで、彰人も随分と字が整ってきた。見違えるようだ」「過分なお言葉です。彼の才が、もともと優れておりましたので」尚道の瞼が少しだけ狭まった。微細な変化だったが、それは直哉の言葉が意に沿わなかったことを示していた。彼は自分の手で管理されていないものに価値を認めない。彰人の才を褒めることは、即ち尚道の管理の及ばぬ部分を肯定することになる。「そうかもしれない。しかし才などは、導く者の手に委ねられるものだ。人の器とは、生まれよりも、環境と導きで決まるものだと私は考えている」直哉は言葉を挟まず、再び頭を下げる。尚道は顎を引いて満足げに頷いた。「さて、本題だが――彰人の将来について、君には知っておいてもらいたいことがある」一拍の間が空く。直哉は顔を上げ、静かに耳を傾けた。「次男ではあるが、桂木家の名を背負うにはふさわしい縁談が必要だと、私は考えている。先方とはすでに話を進
last updateLast Updated : 2025-09-12
Read more

27.兄の手、届かぬ距離

夜の桂木邸は、ひどく静かだった。庭の端に据えられた石灯籠が、淡く揺れる火を灯している。虫の音が間断なく響き、風もないのに葉の擦れる気配がする。縁側に敷かれた竹の簾越しに、庭の闇が緩やかに広がっていた。彰人はその縁に腰を下ろしていた。裸足のまま、膝を抱えて。広がった白い着物の裾が、簾の影に溶け込んでいる。冷たい木の感触が、掌と足の裏を通じてじんわりと染みてくる。けれど、寒いとは思わなかった。むしろその冷たさは心地よかった。熱を持て余しているわけでもないのに、内側だけがじわじわと重く、息をするたびに胸の奥がじりじりと擦れる。尚道の姿が頭から離れなかった。あの静かで断定的な声、隙のない振る舞い、そして彰人に向けられた冷ややかな視線。それらは、もう驚きでも悲しみでもなかった。ただ、沁みついて離れない黴のように、彰人の内側に残り続けていた。後ろから、襖が音を立てて開いた。「ここにいたか」優しい声だった。兄の声は、いつもそうだった。低く、柔らかく、誰の心にも入りやすい声。彰人は振り返らずに、夜の庭に視線を向けたまま答えた。「暑くて、部屋にいられなかったの」篤人(あつひと)は何も言わずに歩み寄り、彰人の隣に静かに腰を下ろした。きちんと揃えられた足元。やや広い肩幅。所作ににじむ品の良さ。それらは兄として、そして桂木家の長男としてのすべてを体現していた。「父上と話していたとき、お前がずっと黙っていたのが気になって」「うん」「無理もない。あの人はいつも、決めたことしか言わないからな」「そういう人だって、最初からわかっていたもの」「だけど、苦しかっただろう」篤人の言葉には、疑問の色はなかった。そう感じたに違いないという確信に満ちた声音。彰人はようやく、少しだけ兄のほうに顔を向けた。薄闇の中でも、その優しい眼差しがよくわかった。「苦しい、と思う気持ちが…どこかに残っていたら、まだ救われたのかもしれないな」「彰人…」「もう、あの人に何か
last updateLast Updated : 2025-09-13
Read more

28.唯一の逃げ場

夜が深まりきった頃、直哉の部屋には行灯の灯りだけが灯っていた。紙障子を通して柔らかに揺れるその灯りは、空間全体を包み込むように温く、それでいてどこか心細い光だった。墨と紙の匂いが僅かに漂う静けさの中、直哉は机に向かっていた。筆は止まり、手元の書面を見つめていても、その文字が目に入っているわけではなかった。今日のことが、脳裏にこびりついて離れない。桂木尚道の言葉、彰人のうつむいた横顔、そして、何もできなかった自分自身。筆を置き、肩を落としたその時、襖が唐突に開いた。振り返るより先に、足音が畳の上を駆けるように近づいてきた。白い着物の裾が視界に入る。息を切らせたまま、彰人がその場に立っていた。瞳の奥に、何かが張り詰めた光を宿している。「直哉さん」声が震えていた。明らかに、普段の彼ではなかった。いつもならば、襖の外から声をかけ、静かに現れる。丁寧に礼を尽くし、慎ましさを装う。それが彰人の常だった。「どうしたのですか…こんな夜更けに」直哉が立ち上がるより早く、彰人は床に膝をつき、両手を伸ばした。「来てしまった、ごめんなさい。でも…もう、抑えられなかった」肩が震えていた。白い指先が、直哉の裾を掴む。「お願い、直哉さん。僕を捨てないで」その言葉が、まるで刃のように胸を突いた。「僕は…あなたしか、もういないの。誰にも、僕のことなんて見えてない。兄さんも、父上も、みんな僕を“次男坊”としてしか見ていない。人間じゃなくて…ただの、家の飾り物みたいに扱ってくる」直哉は、何も言えなかった。彰人の言葉は、淡々としていながらも、どこか切実で、今にも崩れ落ちそうな危うさを孕んでいた。「僕が笑っていても、泣いていても、きっと誰も気づかない。気づいたふりをして、優しい言葉をかけてくるだけ。でも直哉さんは、ちゃんと僕を見てくれた。僕の中を、見てくれた」直哉は膝をつき、彰人と同じ高さに視線を合わせた。「彰人さん、あなたは…」
last updateLast Updated : 2025-09-13
Read more

29.名を呼ぶ声に

障子の向こうは、完全な闇だった。月も雲に隠れ、風ひとつ吹かない夜。深く、息の詰まるような静寂が屋敷を包み込んでいた。直哉の部屋の中には、蝋燭が一本だけ灯っている。火は細く、頼りない明かりを行灯の中で揺らしていた。時折、芯が焦げる小さな音だけが、空気の重さを切り裂いている。直哉は、敷布の縁に腰を下ろし、背を丸めるようにして座っていた。白い寝巻の袖口から覗く手は、指先に微かな緊張を帯びている。先ほど彰人の涙と声に触れてから、時間はたっていないはずなのに、体感では随分と長い沈黙だった。隣には、彰人が静かに座っている。顔を伏せ、両膝を抱えた姿勢のまま、言葉を発さない。その肩が、時折わずかに上下していた。泣いているのか、震えているのか。どちらにせよ、今この瞬間の彼には、理性というものがほとんど残っていないのがわかる。蝋燭の灯が、彰人の睫毛の先に光を落とした。その小さな震えすら、直哉の目には痛々しく映る。「直哉さん…」ようやく絞り出された声が、室内の静けさを震わせた。その声は、たしかに彼の名を呼んでいた。どこかにすがるように、怯えを滲ませながらも、微かな光のような響きだった。直哉は顔を上げた。彰人は膝の間から、彼を見ていた。頬には涙の筋があり、視線はまっすぐだった。感情があふれすぎて、制御できなくなった子どものような眼差し。「どうして、そんなふうに僕の名前を呼ぶんですか」直哉の問いは低く、優しかった。彰人は、両膝を下ろし、まっすぐに直哉のもとに身を寄せた。距離はほとんどなかった。畳の上にわずかに手を置き、指先が、そっと直哉の頬に触れる。「怖いの。直哉さんが、どこかへ行ってしまうんじゃないかと思って」震えるその指が、肌の温度を確かめるようにそっと動く。「僕は…何も持ってないの。家の名前はあるけど、それは僕のものじゃない。父も兄も、僕のことなんて人間として見てくれない。綺麗にして、黙っていればいい…ただそれだけ」指先が、直哉の頬から耳の下へと滑った。触れているのに、す
last updateLast Updated : 2025-09-14
Read more

30.縁談の書状

桂木邸の応接間には、微かな白檀の香が漂っていた。障子越しの光がふわりと室内に射し込み、畳の上に淡い格子模様を描いている。昼下がりの柔らかい陽射しだったが、それはどこか乾いていて、肌の奥まで沁み込むような湿度を欠いていた。彰人は、正座の姿勢のまま、膝の上で両手を静かに重ねていた。襖の向こうから女中が下がる音がし、室内に静寂が戻る。正面に置かれた朱塗りの盆には、封をされたままの書状が一通。桂木尚道の印が封蝋に刻まれている。兄の篤人が、それをそっと手に取り、封を切る。「父上からの文だ。読んで構わないな?」彰人は目を伏せたまま、ゆるく頷いた。篤人は丁寧に中の文を広げ、目を通す。部屋の空気が、わずかに動いたような気がした。「正式な話だ。縁談の件、相手は九条伯爵家の長女だそうだ」言葉が、障子に当たって弾かれ、空気の中に広がっていく。その音が、やけに硬質に響いた。「年齢もお前と近く、聡明で品のある娘だと聞いている。父上は先方とも旧知で、すでに幾度かの書簡を交わしていたらしい。今日の文で、ほぼ承諾の意を示した形になるだろう」彰人は、何も言わなかった。ただ、視線を畳に落としたまま、まばたきすらせずにいた。篤人は、少し声の調子を柔らげる。「安心しろ。相手は立派な家柄だし、嫁ぐのではなく迎える形になる。お前にとっても決して悪い話ではないはずだ。これで、家の中での立場も…」「兄さん」彰人の声が割って入った。掠れていて、しかしよく通る声だった。篤人は口を閉じた。「…ありがとうございます。お伝えいただき、感謝します」それだけを言って、彰人はゆっくりと立ち上がった。膝を崩す音さえ、畳に吸い込まれて消えるようだった。「部屋に戻っても?」「ああ。今日は少し、気を落ち着けてくれ。父上も急かしているわけではない」彰人は浅く礼をして、静かに襖を引いた。足音を立てぬよう廊下を歩き、誰とも目を合わせず、自室の障子を開けて中に入る。障子を閉めると、ふたたび
last updateLast Updated : 2025-09-14
Read more
PREV
123456
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status