All Chapters of 明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜: Chapter 41 - Chapter 50

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41.黒き茶の湯

夕暮れの空が、薄墨を流したように静かに沈んでいく。桂木邸の中庭は、昼の光をすっかり失い、軒先に吊るされた風鈴がかすかに鳴る音さえ、余韻のように感じられた。廊下を歩く足音は柔らかく、草履の底が板を撫でるような感触を残している。直哉は、茶室の前で立ち止まった。軋むような緊張が胸を締めつけている。袖口の内側に汗が滲んでいたが、それを拭う余裕はない。呼ばれたのは、昨日の夕刻だった。「父が、貴方に茶を点てると言ってました」彰人が静かにそう告げたとき、その声にわずかなざわめきがあった。茶を点てる──それは、桂木尚道にとってただの嗜みではない。格式と権威、そして意志の表明だった。静かな所作に、彼は全てを込める。襖の向こうから、湯の沸く音が聴こえてくる。シュン…と、釜の中で湯が細く鳴っていた。直哉は、ふかぶかと頭を下げ、襖を開けた。「失礼いたします」中には尚道がひとり、畳の上に正座していた。背筋は凛として伸び、着物の襟も乱れひとつない。炉の前に据えられた釜の湯気が、ゆるやかに空気を揺らしている。夕日が障子越しに茶室を照らしていた。明るさよりも、影のほうが濃い。香炉から立ち昇る白檀の香が、空気をさらに静謐にしていた。尚道は、直哉に目をやる。「そこに」短く促され、直哉は言われた通りの場所に座った。無言のまま、茶が点てられる。棗(なつめ)から茶をすくう音、茶筅のかすかな振動、湯を注ぐ音。それらが交互に繰り返され、室内に規則正しく積み重ねられていく。まるで、ひとつの儀式だった。尚道の所作に、無駄はない。その手の動きのすべてに意味があり、それを乱すものは誰もいない。茶碗が差し出された。直哉は受け取り、礼を尽くしてから口元に運ぶ。苦みの奥に、微かに感じる甘み。温度は適温で、香りは淡く、すべてが整っていた。「結構なお点前でございます」直哉の言葉に、尚道は頷きもせず、ただ茶碗を引いた。湯の音だけが、まだ釜の奥で鳴って
last updateLast Updated : 2025-09-20
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42.膝枕の檻

障子越しに、陽が白く射していた。書斎の床には、午前の光が静かに広がり、白檀の香が柔らかく漂っている。屏風の金箔がわずかに反射し、部屋全体が光に包まれているように見えた。桂木家の次男坊にあてがわれたこの一室は、まるで誰かの意図で世界から隔てられているかのような静けさを纏っていた。直哉は、文机の前に座し、開かれた教本の文字を指で追っていた。傍らには墨と筆、下敷きの和紙。筆先を整えながら、声を落として訊ねた。「こちらの読み方は、覚えていらっしゃいますか」彰人はその隣に座り、身体をわずかに傾けた。椿油をなじませた髪が滑らかに揺れ、香がふわりと広がる。白い指が、直哉の指先へ重ねられる。「忘れてしまいました。……教えてください、もう一度」声は甘やかで、どこか湿り気を帯びていた。直哉は一拍遅れて視線を移す。彰人の顔は、すぐ近くにあった。すべらかな頬、伏せられた睫毛の濃さ、白磁のような肌の下に血が通っているのが見えるほど近い。呼吸が浅くなる。「……これは『観』という字です。心をもって見る、という意味ですね」「観……」彰人はその言葉を繰り返し、そしてふと、指先に力を込めた。「直哉さんは、僕のことを、ちゃんと見ていますか」直哉は一瞬、筆を止めた。視線を落とすと、彰人の目が真っ直ぐに向けられている。「ええ。いつも見ていますよ」「嘘」彰人は、微笑みながら首を傾げた。その仕草は、まるで鏡の中の自分の姿をたしかめるようで、わずかに幼さを滲ませていた。「じゃあ、僕がどんな夢を見ているか、わかりますか」「……夢、ですか」「はい」彰人は身を乗り出し、文机に両肘をついて頬杖をついた。「直哉さんと、ずっとこのままいられる夢です」言葉の温度が高すぎて、空気が揺れた気がした。直哉は筆を置き、深く呼吸を整える。白檀の香が、肺の奥まで
last updateLast Updated : 2025-09-20
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43.夢の外の風音

午後の陽光が、硝子窓を通して教室の床を斜めに照らしていた。帝都大学法学部、その講義室の一角に、直哉は座っていた。真面目な学生らしく、開いたノートには丁寧な筆跡が並んでいる。だが、視線は講義の板書ではなく、遠く窓の向こうへと向いていた。教壇に立つ教授の声が、空気を震わせながら届く。重厚で落ち着いた語調。だが、その声も、周囲のざわめきも、どこか遠くに感じられた。彼の耳には、桂木邸の静けさがまだ残っていた。白檀の香、障子越しの光、彰人の息遣い。あの部屋の温度が、まだ肌の奥に染み込んでいるようだった。「三崎、おい」名を呼ばれ、直哉ははっと我に返った。隣の席の同級生、山田が身を乗り出していた。赤ら顔に笑みを浮かべ、手に新聞の切り抜きを持っている。「中学教員の採用試験、来週が締切だってさ。お前、もう書類出したか?」「……ああ、まだだ」「お前ならすぐ通るだろ。成績も上位だし、推薦状も取れるしな」「いや、……どうだろうな」曖昧に笑って返すと、山田はあっさり頷いて、話題を変えた。「俺は民間に決まったよ。父の知り合いの会社だけどさ。商社」「そうか、それは良かったな」「まあな。就職しても勉強は続けるけどな。お前は? やっぱり文官?」「……考えているところだ」山田はそれ以上詮索せず、ノートに目を戻した。直哉は、再び窓の外を見やった。庭には学生たちが三々五々歩いていた。冬の終わり、まだ冷たい空気のなか、コートの襟を立てた姿がちらほらと見える。春が近づいている。それはつまり、卒業の季節が迫っているということだった。彼らは皆、それぞれの道を歩き出す。社会へ、現実へ。だが、自分は。ふと、教室の隅に掲げられた掲示板が目に入った。そこには「官吏登用試験日程」「教員採用試験要項」などの文字が、墨で書かれた紙に並んでいる。現実が、目の前にあった。講義が終わ
last updateLast Updated : 2025-09-21
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44.夜の紙燭

硯に墨を落としたとき、微かに紙燭が揺れた。夜の書生部屋は静かだった。桂木邸の一日はとっくに終わり、障子の向こうには深い闇が沈んでいる。行灯の小さな炎が畳に揺らめき、低く燃える蝋の匂いが空気に溶けていた。直哉は机に向かい、筆を握ったまましばらく動かなかった。目の前にあるのは、試験願書の控えと、官吏登用試験の要項が記された文書。帝大で配られたものだ。昼間は確かに、この紙を前に、胸の奥に何かが燃え始めていた。自分も前に進まねばならない。社会へ出て、自らの足で立つ時が来たのだと。だが今、その熱は薄れていた。筆先は紙に触れたまま動かず、直哉の視線は紙の上をさまよっていた。掌の下から、彰人の声が甦る。「直哉さんと、ずっとこのままいられる夢です」そのとき、なぜか呼吸が詰まりそうになったのを思い出す。あの目は、あまりにも純粋で、幼くて、それでいて酷く、切実だった。ああいうふうに誰かを見つめたことが、果たして自分にあっただろうか。紙の上に、筆がやっと文字を描き始めた。「志望動機——」たったその五文字を書くのに、どれほどの時間がかかったのか。その下が、続かない。直哉はゆっくりと筆を置いた。硯の墨が、ひとしずく音を立てて沈んだ。外では、誰かが縁側を歩く足音がした。そっと近づき、止まる気配。直哉は身体を強ばらせ、顔を上げた。障子の向こうには、ぼんやりと人影が映っている。あの細身の輪郭、静かな立ち姿。彰人だ。声はない。ただ、じっと立っている。呼ぶでもなく、去るでもなく、ただそこにいるだけで、心が揺れる。なぜ来たのか。直哉の内側で、問いが幾重にも反響した。もしかしたら、昼の表情を覚えていたのかもしれない。話したいことがあったのかもしれない。ただ、顔を見たかっただけかもしれない。それらのどれもが可能で、どれもが確かではない。だからこそ、怖い。足音が、引き返し
last updateLast Updated : 2025-09-21
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45.抱き潰す夜

行灯の灯が、静かに部屋の隅を照らしていた。彰人の私室は、桂木邸の中でもとりわけ静謐な場所だった。夜更けの白檀の香が襖越しに濃く漂い、障子の向こうには風ひとつ通さぬ静けさがあった。深夜の空気は肌にやわらかく、だがどこか湿り気を帯びている。椿油をなじませた髪の香りが、さりげなく寝具に移っている。直哉は、敷かれた蒲団の端に腰掛けていた。彰人はその傍ら、膝を折って座っていた。白い寝間着の裾が足元に落ち、細い首筋が淡い灯りに浮かんでいる。言葉はなかった。だがその静けさは、決して穏やかではなかった。彰人の指先が、そっと直哉の膝の上に伸ばされる。いつもよりほんの少しだけ、爪が食い込むような力のこもり方だった。「……直哉さん」小さな声が沈黙を破った。その声には、涙の音が混ざっていた。「どこにも行かないで」その言葉が、胸の奥に響く。あまりにも細い声で、今にも切れてしまいそうなほどだった。直哉は返事をすることができなかった。彰人の瞳は赤く潤み、細い肩が震えていた。いつもなら柔らかに笑みを浮かべ、子供のような無邪気さを見せる彰人が、今はただ必死に何かにすがろうとしている。その姿を見て、直哉の中で何かが音を立てて崩れた。「僕だけを……見てください」彰人が直哉の手をとり、自分の胸元へと引き寄せた。柔らかな布越しに、心臓の鼓動が確かに伝わる。乱れた呼吸、潤んだ視線、熱のこもった吐息。そのすべてが、直哉の理性を削り取っていく。「……彰人さん」名を呼んだ声は、自分のものとは思えなかった。次の瞬間、直哉は彰人を強く抱きしめていた。それは優しさではなかった。抑えていたものが、限界を超えて零れ落ちた瞬間だった。彰人の肩を掴み、蒲団の上に押し倒す。襟元が乱れ、白い肌が灯りのもとに露わになる。彰人は何も言わず、ただその腕に身を預けていた。だが、指先だけはしっかりと直哉の背中を掴んでいる。「苦しくありません
last updateLast Updated : 2025-09-22
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46.終焉の茶室

桂木邸の庭に面した茶室には、夕陽の赤が障子越しに薄く滲んでいた。釜の湯が静かに沸き、白檀の香が淡く立ちのぼる。張り詰めた沈黙の中、尚道と直哉は向かい合って座していた。尚道の所作は一貫して穏やかで、無駄がない。湯を注ぎ、茶を点てるその指先には、年季と格式の重みが滲んでいる。直哉は正座したまま、頭を下げ、沈黙に従った。茶碗が差し出された。直哉は両手で受け取り、礼を述べる。「頂戴いたします」抹茶の苦味が舌に触れ、肺の奥にまで白檀の香が満ちる。だが、その清らかな一服を味わい切る前に、尚道が静かに口を開いた。「そろそろ…君も次の道を考える頃合いではないか」釜の湯がぼこりと音を立てた。直哉は目線を上げた。尚道の声音は変わらず柔らかい。だが、微かな間と目線の奥には、はっきりとした意志が潜んでいた。「帝大を無事に終えれば、世の中には幾らでも道がある。学びを積んだ者の選択肢は、広い」「…はい」「桂木家に仕える契約も、卒業をもって一区切りとなる。それが双方にとって最も自然なかたちであろう」その言葉に、直哉はゆっくりと茶碗を置き、深く一礼した。「仰るとおりです」形式としては、ただの契約満了の話だ。何ら不自然はない。いや、それどころか、むしろ理に適った判断だった。直哉が桂木家に来たのは、あくまで学費のためであり、その役目が終わるならば退くのが筋である。だが、胸の奥には、小さな棘が刺さったような感覚が拭えなかった。それは、尚道の目が「すべてを見透かしている」と言っていたからだ。決して言葉にはせず、非難もしない。ただ静かに、重く、存在をもって告げる。お前は――家に仕える身として、してはならぬことをした。それでも、騒ぎ立てはせぬ。お前は賢い。自ら退くことができるだろう――と。「君のことは信頼していたよ」尚道は釜に手をかざしながら、穏やかに言った。「彰人にも、良き教師でいてくれた。私から礼を言う」「…勿体ないお言葉です」
last updateLast Updated : 2025-09-22
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47.割れた硝子の約束

直哉が紙燭に火を灯すと、書生部屋の薄闇に揺れる光が生まれた。障子に浮かぶその淡い明かりは、まるで今宵の言葉を慎重に選ばねばならぬと告げているようだった。机の上には辞典と封筒、筆と白紙の便箋がある。どれも触れずにいたまま、直哉は座していた。呼び出したのは彼だった。だが、扉を開けて入ってきた彰人の姿を見た瞬間、胸の奥に何かが音を立てて軋んだ。彰人は普段より控えめな袴姿で、髪も丁寧に撫でつけられていた。まるで、自分がこの部屋で拒まれることを、無意識に悟っていたかのようだった。「…お呼びいただけて、嬉しいです」その声は小さく、笑みを浮かべてはいたが、すでに怯えた色が滲んでいた。直哉は言葉を発するまでに、幾度も喉を鳴らした。硝子を触れるように、慎重に。「彰人さん。今日は…少し、話があるのです」彰人は扉の前に立ったまま、そっと目を見開いた。直哉の視線から、すでに何が語られるのかを察していた。それでも一歩、床を軋ませて近づく。「話、ですか?」「ええ。…どうか、ここにお掛けください」直哉は自らの正面にある座布団を指した。彰人は迷うようにそれを見つめ、ゆっくりと腰を下ろす。その仕草には、もはやいつもの甘えも、頑なさもなかった。息を飲んで、直哉は言葉を継ぐ。「私は、まもなく桂木家を出ます。帝大の卒業も近く、就職も考えねばなりません」彰人の唇が微かに震えた。「…それは、知っていました」「それに伴い、書生としての契約も終了となります。御屋形様からも、今日正式にそう告げられました」紙燭が揺れた。彰人の背筋が、静かに伸びる。だが、視線は落としたまま、顔は動かない。「つまり…それは、私たちの関係も、終わりにするという意味ですか?」直哉は即答できなかった。目を伏せ、言葉を選び、息を詰める。「…いえ。ただ、少しだけ、距離を置く必要があると、そう思っているのです」「距離&hellip
last updateLast Updated : 2025-09-23
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48.祈りと炎の余韻

障子の向こうに夜が深まっていく気配があった。庭の椿はすでに花期を過ぎ、冷えた夜風に散りかけの花びらがひっそりと揺れている。彰人の部屋には白檀の香が淡く残り、行灯の灯は低く、まるで彼の心の内と呼応するようだった。襖は閉ざされたまま、部屋の主は静かに畳の上に座していた。袴の裾は乱れ、袖は握りしめたまま震えている。「…行ってしまったのですね」低く絞られた声が、夜に吸い込まれていった。直哉の気配が消えた部屋は、急に深い闇を孕んだように感じられる。先ほどまで自分の掌の中にあったはずの温もりが、もう遠くなっていた。彰人は両膝を抱き、そっと額を載せた。指先が微かに濡れていることに気づき、掌を見つめる。涙が、知らぬ間に零れていた。「捨てるなんて…言わなかったのに」直哉の言葉は、確かに約束だった。「必ず迎えに来ます」そう言った彼の目は、悲しみにも似て、しかしどこか強く光っていた。けれど、その光が、彰人には少し遠くに思えた。手を伸ばしても、触れることができない場所のような。「本当に…迎えに来てくださるのですか」問いは誰にも届かない。答えも返らない。返らないと知りながら、彼は小さな声で囁いた。髪をほどき、袴を脱ぎ、浴衣のまま布団にもぐりこむ。だが、眠気は訪れなかった。脳裏には直哉の声、あの低くて真っ直ぐな眼差し、そして別れ際に触れた唇の感触が残っている。愛されていたと、思いたい。だがそれは、身体の交わりではなく、言葉でもなく、その沈黙に宿っていた。彼が黙して見つめてくれたこと、苦しげに目を伏せたこと。どれもが、彰人の心に深く残っていた。「好きでした…今でも、好きです」その言葉が、白檀の香のなかに滲んで消える。夜は深まり、障子の向こうでは椿の花がひとつ、はらりと落ちた。一方、直哉は桂木邸の門を出て、夜の町を歩いていた。春とはいえ夜気は冷たく、上着の襟元をかき寄せながら、彼はゆっくりと歩を進めていた。静かな路地に灯る行灯が、道の端を
last updateLast Updated : 2025-09-23
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49.春の別れ、知の実り

帝都大学の門をくぐった瞬間、直哉はひとつ深く息を吸い込んだ。春の匂いが肺の奥まで流れ込んでいく。土と若草、石畳の隙間にほころびはじめた桜の甘い香り。朝の光は澄み、石造りの校舎の壁面にまぶしく反射していた。今日は卒業式だった。正門から講堂まで続く道には、学生たちが思い思いの袴や詰襟、時には洋装を身にまとい、弾む声を交わしている。誰もが未来の話に花を咲かせ、笑い、時折涙ぐむ。自分も、その輪のなかの一人なのだと、直哉は歩を進めながら実感した。本来なら、これほどまで晴れやかな日に、心がふいに締め付けられることなどないのかもしれない。しかし胸の内には、何かが大きく変わろうとしている手応えと、しんと冷えた湖面のような静けさがあった。講堂に入ると、濃紺のガウンを纏った恩師たちが、壇上で学生の名を次々と読み上げていた。式次第が進み、ひとりひとり証書を受け取るたび、拍手が響く。自分の名が呼ばれる。歩み出る。胸に差し込む日差しの熱と、壇上から注がれる無数の視線。そのすべてを、はっきりと覚えていた。証書を受け取る手がわずかに震えた。名を読み上げた教授が、そっと微笑んだ。「三崎、よく努力したな」「ありがとうございました」短く、だが確かな声で応える。客席に戻る途中、何人かの友人と視線を交わす。皆、口元を引き締めながらも、涙を堪えているのがわかった。自分も同じだった。やがて式は静かに終わり、校舎の外には再びにぎやかな声が満ちた。庭の桜はまだ蕾が多い。だが、そのうちいくつかはもう、淡い桃色の花弁をほころばせていた。学友の山田が駆け寄ってきた。いつも通りの大きな声だった。「三崎、おめでとう!」「ありがとう」「これからはお互い、社会人だな。大変になるぞ」「そうだな」「でもお前なら、どこででもやれるさ」その声には、嫉妬や羨望の色はなかった。心からの祝福だった。他にも、何人もの友が声をかけてくる。皆、道は違えど、それぞれの新しい日々に向かって歩き出そうとしていた。自分も、歩き出すのだ
last updateLast Updated : 2025-09-24
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50.ひらかれし道

午後の雨は、しとしとと細い糸を垂らすように窓硝子を濡らしていた。直哉は机の前に座り、薄暗い部屋の中で書棚の本背をぼんやりと見つめていた。春の雨は決して冷たくないが、陽の差さぬ午後はどこか時間の輪郭を曖昧にしていた。部屋の隅には、袴と羽織が丁寧に畳まれている。卒業式で身につけたそれは、もう新しい役目を終えていた。机の上には手紙や書類が積まれている。進路希望調査票や推薦状、封も切らぬ官公庁からの通知。自分で揃えた下宿案内の地図も、何枚も折り目がついていた。静寂を破ったのは、玄関のほうから届いた郵便配達の声だった。「お届けものでございます」細い声。直哉は椅子を引いて立ち上がり、廊下に出る。板張りの床は薄ら寒い。玄関口まで行くと、雨傘を差した配達夫がひとつの封筒を差し出してきた。白無地の封筒に、表書きは端正な楷書で彼の名が記されている。「ご苦労様です」受け取ったとき、紙の重さが指先に伝わった。ふいに胸が騒ぐ。直哉は廊下に戻り、静かに自室の扉を閉めた。雨の音だけが、遠くから絶えず続いている。机に戻ると、封筒を掌でしばし転がした。中身は、薄くも分厚くもない。だが、この一枚に、自分のこれまでの歳月と、これからの人生が詰まっていると知っていた。震える指先で封を切った。中から現れたのは、一枚の紙。しっかりした公用紙。活字で、見慣れた通知文が記されている。「このたびは、官吏登用試験に合格されましたこと、ここに通知申し上げます――」目を閉じた。墨の匂い、紙の手触りが鮮やかに意識に浮かぶ。知らず指先に力がこもる。肩から静かに息が抜けていく。ずっと、ここを目指してきた。帝大に入ったときも、桂木家で書生として働いた日々も、すべてはこの瞬間のためだった。彰人と出会い、失い、すべてを抱えてきた自分のすべてが、この一行に詰まっている。手紙を読み終えると、ゆっくりと椅子に腰掛けた。窓の外の雨は弱まらず、軒先をたたいている。この部屋に来たときは、何もなかった。新しい畳の匂いと、粗末な机、冷たい水差し。桂木家の華やかさとは違い、質素で、だが誤魔化し
last updateLast Updated : 2025-09-24
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