夕暮れの空が、薄墨を流したように静かに沈んでいく。桂木邸の中庭は、昼の光をすっかり失い、軒先に吊るされた風鈴がかすかに鳴る音さえ、余韻のように感じられた。廊下を歩く足音は柔らかく、草履の底が板を撫でるような感触を残している。直哉は、茶室の前で立ち止まった。軋むような緊張が胸を締めつけている。袖口の内側に汗が滲んでいたが、それを拭う余裕はない。呼ばれたのは、昨日の夕刻だった。「父が、貴方に茶を点てると言ってました」彰人が静かにそう告げたとき、その声にわずかなざわめきがあった。茶を点てる──それは、桂木尚道にとってただの嗜みではない。格式と権威、そして意志の表明だった。静かな所作に、彼は全てを込める。襖の向こうから、湯の沸く音が聴こえてくる。シュン…と、釜の中で湯が細く鳴っていた。直哉は、ふかぶかと頭を下げ、襖を開けた。「失礼いたします」中には尚道がひとり、畳の上に正座していた。背筋は凛として伸び、着物の襟も乱れひとつない。炉の前に据えられた釜の湯気が、ゆるやかに空気を揺らしている。夕日が障子越しに茶室を照らしていた。明るさよりも、影のほうが濃い。香炉から立ち昇る白檀の香が、空気をさらに静謐にしていた。尚道は、直哉に目をやる。「そこに」短く促され、直哉は言われた通りの場所に座った。無言のまま、茶が点てられる。棗(なつめ)から茶をすくう音、茶筅のかすかな振動、湯を注ぐ音。それらが交互に繰り返され、室内に規則正しく積み重ねられていく。まるで、ひとつの儀式だった。尚道の所作に、無駄はない。その手の動きのすべてに意味があり、それを乱すものは誰もいない。茶碗が差し出された。直哉は受け取り、礼を尽くしてから口元に運ぶ。苦みの奥に、微かに感じる甘み。温度は適温で、香りは淡く、すべてが整っていた。「結構なお点前でございます」直哉の言葉に、尚道は頷きもせず、ただ茶碗を引いた。湯の音だけが、まだ釜の奥で鳴って
Last Updated : 2025-09-20 Read more