LOGIN白檀の香る明治の屋敷―― 美貌の御曹司・彰人は、まるで飾られた硝子細工のように、触れることさえ許されぬ存在だった。 そこに書生としてやって来たのは、無骨で実直な青年・直哉。 禁欲と理性を信条に生きてきた彼は、彰人の静かな色香に、知らず心を奪われていく。 すれ違いざまに揺れる睫毛、障子越しの気配、 布団に並んだ夜にこぼれる無防備な吐息―― 美しすぎるそのひとが、少しずつ直哉の理性を侵食してゆく。 布団に並んだ夜、こぼれそうな吐息。 指先が触れただけで、心が揺れる。 そんな折、彰人に“見合い話”が持ち上がる。 現実の影が、ふたりの関係を静かに裂こうとしていた。 身分差と禁忌、理性と欲望が交錯する、耽美と官能の長編BL。
View More桂木彰人は、今朝もまた白い光に目を焼かれていた。襖の向こう、障子越しに広がるのは、色を持たない世界だった。淡く、無機質な明るさが室内のすべてを覆い、どこまでも静かに、そこにあった。
天井に節の目立つ杉板を見上げながら、彰人は仰向けのまま、ゆっくりと瞬きをした。何度繰り返しても、見えるものは同じだった。飽きもせず、退屈もせず、ただそこに存在しているという事実だけが、時間を押し流していく。
右手を持ち上げる。指先にかかるのは、絹の肌掛け。緋色のそれをなぞるように撫でたあと、彰人は静かに起き上がった。布団の端が揺れ、微かな香が立つ。椿油。昨夜、髪に塗ったまま眠っていたことを思い出し、うなじに重さを感じた。
畳に素足を下ろし、立ち上がる。裾を引きずらぬよう、慎重に朝着の帯を締め直し、障子に向かって歩いた。ガラリと開けた先にあるのは、手入れの行き届いた中庭だった。だが、その景色すらも、彼にとっては装飾に過ぎない。
椿の葉が光を弾いていた。風はなかった。蝉の声すら遠く、邸内には自分の衣擦れと足音だけが響いた。
彰人はしばらく黙って庭を眺めていたが、やがて障子を閉め、再び部屋の中央に戻ると、書見台の前に座った。
開いたままの本。昨夜、灯を落とす寸前まで読んでいた漢詩集だった。古い紙の匂いが鼻をくすぐる。指先で頁をなぞるたびに、静電気のような感覚が生まれた。彼にとって、言葉は唯一許された娯楽だった。
だが今朝は、不思議と文字が目に入らなかった。
頬に手をあてた。冷たい。だが、それ以上に感覚が乏しい。生きている実感が、今はどこにもなかった。
「また今日も…」
声に出したとたん、空気がわずかに震えた。
誰に向けたものでもない。それでも、そうしていなければ、自分がこの部屋の一部になってしまいそうだった。
桂木家の次男として生まれた彰人には、「美しさ」以外の役目はなかった。学問も、社交も、外出も許されない。家の名誉にそぐわないとされ、父と兄は彼を「桂木家の瑕疵」として、奥の間に封じた。
彰人自身、言葉にしなくても、それを理解していた。
しかし、理解しているからこそ、それに抗えなかった。
髪を梳かすとき、鏡に映る自分の姿に、どこかうっとりする感情を覚えてしまうことがある。自分が人として愛されることを求められていないとわかっていながら、それでも誰かの手に触れられたいと願う。そうした欲は、罪だった。
その罪を、彰人は自室で一人、幾度も繰り返していた。
脳裏に浮かぶのは、艶本の頁に描かれた、男たちの交わり。肌と肌が密着し、喉がふるえ、唇が触れる場面。墨の滲みが残る紙面に、彰人は指を這わせ、自分の中のなにかを確認するように、何度も読み返した。
一人の夜。椿油を手に取り、静かに、ゆっくりと、誰かの手を想像する。誰でもいいわけではない。だが、特定の顔があるわけでもない。ただただ、指が熱を帯び、自らの肌が震えることでしか、愛を知る術がなかった。
ふと、遠くで音がした。
襖が閉じる音。低く、重く、わずかに反響を伴っていた。誰かが邸内を移動している。滅多に響かない、珍しい音だった。
彰人は思わず立ち上がった。朝着の裾が揺れる。
廊下の向こう、襖の奥で、誰かが話している。使用人の声ではない。男だ。低く、滑らかな声。聞いたことのない響き。
そのとき、胸がふっと熱を帯びた。
心臓がひとつ、強く鳴る。まるで、中から扉を叩かれているような錯覚。自分の中に誰かが入り込んできたような、不確かな感覚。
耳を澄ませる。足音が近づいてくる。
「…誰…」
声に出していた。
答えはない。だが、彰人は知っていた。今、屋敷に何かが入ってきた。外から持ち込まれた、異質の何かが、自分の世界に侵入したのだと。
その瞬間、彼の中の「虚無」が、わずかに崩れた。
薄くひびが入り、そこから淡い光が差し込んできたようだった。
それが希望だと呼べるかは、まだ分からない。ただ、これまで感じたことのないざわめきが、全身を駆け巡っていた。
足音が、廊下の奥で止まった。
再び、静寂。
その静けさのなかに、香が立った。墨のような、重く深い香り。
白檀とは異なる。もっと鋭く、そして落ち着きのある香りだった。
彰人は、思わず障子に手をかけた。
だが、開けることはできなかった。
この世界の境界を、自分から破ることは、まだできなかった。
その代わりに、彼は静かに、床に座った。背筋を伸ばし、正座の形で、香の残り香を吸い込むようにして呼吸をした。
目を閉じると、耳が敏感になる。障子の向こうの気配が、よりくっきりと感じられた。
そこにいるのは、誰か。
自分を見ようとする誰かの視線。
それは、飾り物としての自分に向けられるものではないように思えた。
彰人の指先が、膝の上でわずかに震えた。
鼓動が速い。久しぶりに「今」を生きていると感じた。
それが何を意味するのか、彼はまだ知らなかった。
ただ、その香と、足音と、低い声が、確かに彼を「檻」の外へと導こうとしていることだけは、理解できた。
そのとき、襖が静かに開く音が、確かに聞こえた。
行灯の火が消えて、夜の帳が薄く溶け始めていた。障子の向こうにぼんやりと白みが差し、鳥の声がひとつ、ふたつ、静かな朝の訪れを告げている。布団の中には、まだ昨夜の熱がわずかに残っていた。彰人は直哉の胸元に顔をうずめ、ゆっくりと息を吸い込む。汗と体温、椿油の名残、そしてもう一度確かめるように抱きしめる直哉の腕の重さ。ふたりの身体は裸のまま絡まり、肌と肌が、指先と髪と唇が、まるで互いを離すまいと、執拗に結びついていた。彰人はまどろみの中、何度も夢と現実の境目を漂った。ときおり直哉の心臓の鼓動が耳に響き、その振動が自分の胸にも伝わる。汗ばんだ頬に、直哉の手がそっと触れる。「……もう朝、ですか」彰人の声は、まだ眠りの底にいるような、柔らかくくぐもった音だった。直哉は黙ったまま、彰人の額に唇を押し当てた。細い指で髪を梳き、優しく耳たぶをなぞる。「起きなくていい。今日は誰も、僕たちを急かさない」そう言っているように、抱擁の力がほんの少しだけ強くなる。彰人は、直哉の胸元にさらに深く顔を埋めた。「……夢みたいですね」彰人はそう呟いたが、直哉は首を横に振る。「これは夢じゃありません」その低い声が、身体の奥まで沁み込んでいく。彰人は指先で直哉の背中をなぞり、肩甲骨を探る。互いの脚が絡まり、膝が触れ合う。まだ体の奥には夜の痕跡が残り、ふたりの汗と涙と精液の香りが、布団の隅にしみ込んでいる。その生々しさすら、今は安らかな幸福の一部だった。彰人は、直哉の肩にそっと口づける。柔らかく、何度も、子どものように無心に。「離れたくありません」「離さない」短い会話が、余韻を残して空気に溶けていく。ふたりの間には、もう誰も介入することができなかった。過去の痛みも、喪失も、夜の激しさとともに浄化されていく。いま、ここにあるのは、微かな体温と、再び出会った朝の光だけ。障子の隙間から、春の光がやわらかく室内を照らし始める。畳の香りと、鳥のさえずり。布団のなか、ふたりはまどろみながら、手
彰人の脚が、直哉の腰にきつく絡みつく。行灯の灯りが、ふたりの汗ばんだ素肌に淡い金色の輪郭を落としていた。畳の上に積まれた布団は湿り、肌の上には互いの汗と愛撫の痕が幾重にも重なっている。直哉は彰人の髪に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。白檀と椿油、そして彰人自身の匂い。指先で背中をなぞり、肩甲骨から腰にかけてゆっくり撫で下ろす。彰人の身体は、ひとつ息を吸うごとに波打つように震え、潤んだ瞳が夜の灯に濡れていた。「……直哉さん」苦しげな声が喉の奥で震える。直哉は彰人の顎にそっと指をかけ、正面から見つめた。ふたりの視線が絡み合い、互いの孤独がその瞳の奥で溶けていく。「どうして、こんなにも……」彰人が言葉を継げず、頬を濡らす涙に舌先を滑らせる。塩味が指先にも伝わり、愛しさが増した。「もう、離れません」直哉は低く囁いた。彰人はただ首を横に振る。言葉では追いつけない感情が溢れ、ふたりの身体はより密着していく。彰人の後ろをゆっくりと押し広げながら、直哉は自身を深く沈めていった。粘膜のぬるみと、熱い奥に包まれる感触が直哉の全身に広がる。彰人は眉を寄せて、小さな声で喘ぐ。身体の芯まで満たされ、痛みと快楽が交互に押し寄せる。「……もっと、奥まで」彰人が苦しげに、しかし懇願するように呟いた。直哉はゆっくりと腰を進め、全てを受け止める彰人の奥深くまで、自分のものを埋め込む。彰人の背中が弓なりに反り、指が直哉の背中に食い込む。ふたりの汗が、肌と肌の間に流れ落ちる。畳の上に落ちる水音、布団のきしみ、荒い呼吸と唇を塞ぐようなキス。そのすべてが夜更けの静寂に滲む。「……苦しい?」直哉が問いかけると、彰人は首を振る。「平気、です……あなたじゃなきゃ、もう、駄目なんです」その言葉は、救いのように響いた。直哉は彰人の耳たぶに唇を落とし、頬を舐め、首筋に甘噛みを残す。彰人は啼き声をこぼし、奥で蠢く肉にきつく締めつけた
障子の外で夜風が梢を鳴らしていた。新居の寝間、行灯の灯りがふたりの影を畳に淡く映す。さっきまでの会話の余韻がまだ室内に漂っていたが、今はもう言葉が追いつかないほどの熱が、息づかいの合間に濃密に満ちている。直哉の指が彰人の頬に触れた。わずかに震えるその手が、あごの輪郭をなぞり、耳のうしろの髪を撫でていく。彰人はその動きを拒むこともできず、ただ身を委ねて目を閉じた。肌の奥で心臓が跳ねている。唇が重なったとき、息が止まる。舌がそっと歯列を押し分け、互いの口腔に忍び込む。彰人は小さく呻き、直哉の肩に指を食い込ませる。「……もっと」声にならない声が、直哉の耳に落ちた。直哉は彰人の着物の合わせを静かにほどく。帯が滑り落ち、下着越しの肌が露わになる。膝の内側を指先でなぞると、彰人の身体がぴくりと跳ねる。白檀と椿油の香が、ふたりの間にじわじわと立ち上る。畳に投げ出された布からも、肌の汗と夜の湿気が漂い、衣擦れの音とともに、ふたりの熱を余計に際立たせていた。彰人は直哉の胸元を掴み、わずかに引き寄せた。指先が震えている。だがその力は迷いなく、欲望に正直だった。「……怖いくらい、あなたが欲しい」彰人がそう呟いた瞬間、直哉の理性はふっとほどけた。直哉もまた彰人の着物を脱がせる。滑らかな肌が露わになり、首筋や鎖骨に唇を這わせていく。唇で、歯で、舌で、ひとつひとつの骨を確かめるように舐める。彰人の乳首が固くなり、直哉はそれを舌で転がし、唇で軽く吸い上げた。「……あ」彰人の吐息が甘く漏れる。背中が反り、首筋に汗がにじむ。直哉の手はさらに腹部をなぞり、下腹へと進んだ。下着越しに勃起を指先で感じ、優しく包み込むように撫でた。彰人の腰が揺れる。息が詰まり、喉奥から甘い声がこぼれる。直哉は下着を下ろし、彰人の昂ぶりをあらわにする。先端からは透明な雫が滲んでいた。直哉は指先でそれをなぞり、手のひらで幾度も擦った。彰人の瞼が揺れ、唇が切なげに震える。「直哉、さん……」彰人
夕餉の後の空気は、微かな余熱と静けさに満ちていた。新しい家の寝間、畳の上に並べられた布団。その上に、ふたり分の影が重なっていた。行灯の橙色の灯りが、壁と天井にゆらめく。春の宵の外気は冷たくもあり、だがこの部屋だけは肌にぬくもりが溜まるようだった。彰人は、布団の端に膝を立てて座っていた。直哉の顔を見つめてはすぐに視線を落とし、指先で自分の膝をさする。唇が震え、何かを言いかけては押しとどめる。こうしてふたりきりになるのは初めてだった。直哉もまた、布団の上で落ち着かぬ面持ちのまま彰人を見つめる。数年ぶりの再会を果たし、互いの息遣いを感じる距離で向き合っている。だが、手も、肩も、すぐには触れられなかった。障子の外では、どこかで春の虫が鳴いている。遠くの家々の灯りや声も、夜風の中にかすかに溶けていく。ふたりの沈黙の中で、鼓動だけが際立つ。彰人の髪は少し伸びて、頬にかかる。行灯の明かりが、その横顔にやわらかな影を落とす。直哉は、息を呑んだ。ずっと触れたいと願い続けてきた横顔が、ほんの数尺の距離にある。けれど、手を伸ばしてしまえば、いままでのすべての自制が崩れてしまうようで怖かった。彰人は、そっと膝を寄せてきた。手が、直哉の着物の裾に触れる。衣擦れの音が、不自然なほど鮮やかに響いた。「……直哉さん」呼ばれる名の響きが、内臓を震わせる。彰人の指が、震えながら直哉の手を包み込む。指先は冷たく、それでいて微かに汗ばんでいた。直哉は、彰人の手をしっかりと握り返した。たったそれだけのことで、呼吸が浅くなる。肌と肌の間に、幾年もの孤独が滲み出す。「……彰人さん」名を呼ぶ。ほんとうに久しぶりに。声に出した瞬間、自分の中の抑えていたものがこぼれていくのがわかった。彰人の視線が、行灯の明かりのなかで静かに揺れる。瞳の奥で涙が光っているように見えた。「こうして、あなたに触れられる日が、もう二度と来ないと思っていました」彰人の声は、ほんのかすかな震えを含んでいる。「……私も」短
夕暮れの光が、障子を透かして部屋の中へと静かに降りてくる。桜色の残照は、床の畳にもやわらかな縞を描き、昼間の賑わいが遠のいていくのを知らせていた。新しい家は、時間の流れまでも変えてしまったように静かだった。直哉と彰人は、二人並んで座卓を挟んでいた。午後の茶の名残がまだ香り立ち、菓子皿には食べ残した桜餅の葉が一枚だけ残っている。湯呑みには、もうほとんど冷めた茶がわずかに残っていた。外からは夕餉の支度の匂いと、近所の子供の声が微かに届く。それらは自分たちの時間とはまるで別の世界のもののようで、まるで水中の泡のように遠く淡く聞こえた。彰人は座布団の端で膝を抱えるようにして、時おり視線を宙にさまよわせている。畳に落ちた自分の影をじっと見つめたり、縁側の外に目をやったり、何かを探すような仕草。「落ち着きましたか」直哉が声をかけると、彰人はわずかに驚いたように顔を上げ、すぐに微笑んだ。「はい。…とても静かで、まるで夢の中みたいです」「騒がしいところが苦手でしたか」「いいえ。けれど、こういう静けさも、案外悪くないものですね」二人のあいだに、もう一度ゆるやかな沈黙が流れる。外の光がゆっくりと赤くなり、部屋の空気も次第に冷えてくる。直哉は卓上の湯呑みを手に取り、口を湿らせた。彰人も、同じように茶をすすった。その動作が妙に同調して、思わず小さな笑いがこぼれる。「こうして並んで茶を飲むのも、昔はあたりまえだったのに」「そうですね。でも、もう昔のようには戻れません」彰人の言葉は、どこか遠い響きを持っていた。「それでも、ここでなら…」直哉は言葉を区切り、正面から彰人を見つめた。「ここで、生きていけますか」彰人はしばらく俯いたまま答えず、やがてゆっくりと顔を上げた。「あなたがいれば、生きていけます」その瞳には、確かな覚悟と、揺るぎない思いが宿っていた。「たとえ世間に背を向けることになっても?」「たとえ、誰にも祝福されなくても」
春の光は、やわらかな白絹のように新居の廊下を包んでいた。午睡を誘うような淡い陽射しが、木の床をなぞり、行灯のそばで埃を金色に浮かび上がらせている。静けさのなか、直哉は茶椀を両手で抱え、無意識に何度も息を吐いていた。午前のうちに掃き掃除を済ませ、障子を張り替え、香袋を新調した。小さな庭には白椿がひとつだけ咲き、門の前には春の風が通り過ぎていく。部屋の隅には、ふたり分の湯呑みと茶葉、菓子皿がきちんと並べられていた。この家で、待つのは今日が初めてだった。どれだけの日々、あの人の便りを胸に押し当てては、「また会える日」を想い続けてきたのか。季節は幾度も巡り、苦しさも、焦がれるような期待も、いまはすべて静かな鼓動に溶けていた。戸口をノックする音が、家のすべてを震わせた。「三崎さん、ご在宅でしょうか」明るくはないが、柔らかな声。すぐに心臓が跳ね上がる。「……どうぞ」震えぬよう気をつけて、声を返す。だが、すでに膝のあたりが強張っていた。ゆっくりと、玄関の引き戸が開く。木枠が鳴り、春の風とともに彰人が立っていた。袴ではなく、薄鼠色の着流し。かつてよりも面差しは大人びて、けれど瞳の奥には懐かしい影がある。少しだけ緊張しているのか、手土産を持つ手がぎこちなく見えた。「ご無沙汰していました」彰人が一歩、床に足を下ろす。その所作だけで、直哉は胸の奥から熱が湧き上がるのを感じた。「よく、来てくださいました」ようやく出た声は、かすれていた。それでも、言葉は確かに空間を満たした。しばし無言のまま、ふたりは見つめ合った。廊下の先から射し込む光のなかで、彰人の頬がわずかに赤らむ。「お邪魔します」やっとのことで彰人が笑う。微笑みは、初めて会ったあの日よりも柔らかく、しかしどこか憂いを含んでいる。直哉はその姿を、言葉もなく見つめた。彰人は廊下を進み、居間へと入る。香箱座りで畳に腰を落とし、両手を膝に置く。まるで昔の甘えをなぞるようだが、いまはその仕草に大人の気配が滲んでい
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