明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜

明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜

last updateLast Updated : 2025-09-09
By:  中岡 始Updated just now
Language: Japanese
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白檀の香る明治の屋敷―― 美貌の御曹司・彰人は、まるで飾られた硝子細工のように、触れることさえ許されぬ存在だった。 そこに書生としてやって来たのは、無骨で実直な青年・直哉。 禁欲と理性を信条に生きてきた彼は、彰人の静かな色香に、知らず心を奪われていく。 すれ違いざまに揺れる睫毛、障子越しの気配、 布団に並んだ夜にこぼれる無防備な吐息―― 美しすぎるそのひとが、少しずつ直哉の理性を侵食してゆく。 布団に並んだ夜、こぼれそうな吐息。 指先が触れただけで、心が揺れる。 そんな折、彰人に“見合い話”が持ち上がる。 現実の影が、ふたりの関係を静かに裂こうとしていた。 身分差と禁忌、理性と欲望が交錯する、耽美と官能の長編BL。

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Chapter 1

1.白檀の檻

桂木彰人は、今朝もまた白い光に目を焼かれていた。襖の向こう、障子越しに広がるのは、色を持たない世界だった。淡く、無機質な明るさが室内のすべてを覆い、どこまでも静かに、そこにあった。

天井に節の目立つ杉板を見上げながら、彰人は仰向けのまま、ゆっくりと瞬きをした。何度繰り返しても、見えるものは同じだった。飽きもせず、退屈もせず、ただそこに存在しているという事実だけが、時間を押し流していく。

右手を持ち上げる。指先にかかるのは、絹の肌掛け。緋色のそれをなぞるように撫でたあと、彰人は静かに起き上がった。布団の端が揺れ、微かな香が立つ。椿油。昨夜、髪に塗ったまま眠っていたことを思い出し、うなじに重さを感じた。

畳に素足を下ろし、立ち上がる。裾を引きずらぬよう、慎重に朝着の帯を締め直し、障子に向かって歩いた。ガラリと開けた先にあるのは、手入れの行き届いた中庭だった。だが、その景色すらも、彼にとっては装飾に過ぎない。

椿の葉が光を弾いていた。風はなかった。蝉の声すら遠く、邸内には自分の衣擦れと足音だけが響いた。

彰人はしばらく黙って庭を眺めていたが、やがて障子を閉め、再び部屋の中央に戻ると、書見台の前に座った。

開いたままの本。昨夜、灯を落とす寸前まで読んでいた漢詩集だった。古い紙の匂いが鼻をくすぐる。指先で頁をなぞるたびに、静電気のような感覚が生まれた。彼にとって、言葉は唯一許された娯楽だった。

だが今朝は、不思議と文字が目に入らなかった。

頬に手をあてた。冷たい。だが、それ以上に感覚が乏しい。生きている実感が、今はどこにもなかった。

「また今日も…」

声に出したとたん、空気がわずかに震えた。

誰に向けたものでもない。それでも、そうしていなければ、自分がこの部屋の一部になってしまいそうだった。

桂木家の次男として生まれた彰人には、「美しさ」以外の役目はなかった。学問も、社交も、外出も許されない。家の名誉にそぐわないとされ、父と兄は彼を「桂木家の瑕疵」として、奥の間に封じた。

彰人自身、言葉にしなくても、それを理解していた。

しかし、理解しているからこそ、それに抗えなかった。

髪を梳かすとき、鏡に映る自分の姿に、どこかうっとりする感情を覚えてしまうことがある。自分が人として愛されることを求められていないとわかっていながら、それでも誰かの手に触れられたいと願う。そうした欲は、罪だった。

その罪を、彰人は自室で一人、幾度も繰り返していた。

脳裏に浮かぶのは、艶本の頁に描かれた、男たちの交わり。肌と肌が密着し、喉がふるえ、唇が触れる場面。墨の滲みが残る紙面に、彰人は指を這わせ、自分の中のなにかを確認するように、何度も読み返した。

一人の夜。椿油を手に取り、静かに、ゆっくりと、誰かの手を想像する。誰でもいいわけではない。だが、特定の顔があるわけでもない。ただただ、指が熱を帯び、自らの肌が震えることでしか、愛を知る術がなかった。

ふと、遠くで音がした。

襖が閉じる音。低く、重く、わずかに反響を伴っていた。誰かが邸内を移動している。滅多に響かない、珍しい音だった。

彰人は思わず立ち上がった。朝着の裾が揺れる。

廊下の向こう、襖の奥で、誰かが話している。使用人の声ではない。男だ。低く、滑らかな声。聞いたことのない響き。

そのとき、胸がふっと熱を帯びた。

心臓がひとつ、強く鳴る。まるで、中から扉を叩かれているような錯覚。自分の中に誰かが入り込んできたような、不確かな感覚。

耳を澄ませる。足音が近づいてくる。

「…誰…」

声に出していた。

答えはない。だが、彰人は知っていた。今、屋敷に何かが入ってきた。外から持ち込まれた、異質の何かが、自分の世界に侵入したのだと。

その瞬間、彼の中の「虚無」が、わずかに崩れた。

薄くひびが入り、そこから淡い光が差し込んできたようだった。

それが希望だと呼べるかは、まだ分からない。ただ、これまで感じたことのないざわめきが、全身を駆け巡っていた。

足音が、廊下の奥で止まった。

再び、静寂。

その静けさのなかに、香が立った。墨のような、重く深い香り。

白檀とは異なる。もっと鋭く、そして落ち着きのある香りだった。

彰人は、思わず障子に手をかけた。

だが、開けることはできなかった。

この世界の境界を、自分から破ることは、まだできなかった。

その代わりに、彼は静かに、床に座った。背筋を伸ばし、正座の形で、香の残り香を吸い込むようにして呼吸をした。

目を閉じると、耳が敏感になる。障子の向こうの気配が、よりくっきりと感じられた。

そこにいるのは、誰か。

自分を見ようとする誰かの視線。

それは、飾り物としての自分に向けられるものではないように思えた。

彰人の指先が、膝の上でわずかに震えた。

鼓動が速い。久しぶりに「今」を生きていると感じた。

それが何を意味するのか、彼はまだ知らなかった。

ただ、その香と、足音と、低い声が、確かに彼を「檻」の外へと導こうとしていることだけは、理解できた。

そのとき、襖が静かに開く音が、確かに聞こえた。

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1.白檀の檻
桂木彰人は、今朝もまた白い光に目を焼かれていた。襖の向こう、障子越しに広がるのは、色を持たない世界だった。淡く、無機質な明るさが室内のすべてを覆い、どこまでも静かに、そこにあった。天井に節の目立つ杉板を見上げながら、彰人は仰向けのまま、ゆっくりと瞬きをした。何度繰り返しても、見えるものは同じだった。飽きもせず、退屈もせず、ただそこに存在しているという事実だけが、時間を押し流していく。右手を持ち上げる。指先にかかるのは、絹の肌掛け。緋色のそれをなぞるように撫でたあと、彰人は静かに起き上がった。布団の端が揺れ、微かな香が立つ。椿油。昨夜、髪に塗ったまま眠っていたことを思い出し、うなじに重さを感じた。畳に素足を下ろし、立ち上がる。裾を引きずらぬよう、慎重に朝着の帯を締め直し、障子に向かって歩いた。ガラリと開けた先にあるのは、手入れの行き届いた中庭だった。だが、その景色すらも、彼にとっては装飾に過ぎない。椿の葉が光を弾いていた。風はなかった。蝉の声すら遠く、邸内には自分の衣擦れと足音だけが響いた。彰人はしばらく黙って庭を眺めていたが、やがて障子を閉め、再び部屋の中央に戻ると、書見台の前に座った。開いたままの本。昨夜、灯を落とす寸前まで読んでいた漢詩集だった。古い紙の匂いが鼻をくすぐる。指先で頁をなぞるたびに、静電気のような感覚が生まれた。彼にとって、言葉は唯一許された娯楽だった。だが今朝は、不思議と文字が目に入らなかった。頬に手をあてた。冷たい。だが、それ以上に感覚が乏しい。生きている実感が、今はどこにもなかった。「また今日も…」声に出したとたん、空気がわずかに震えた。誰に向けたものでもない。それでも、そうしていなければ、自分がこの部屋の一部になってしまいそうだった。桂木家の次男として生まれた彰人には、「美しさ」以外の役目はなかった。学問も、社交も、外出も許されない。家の名誉にそぐわないとされ、父と兄は彼を「桂木家の瑕疵」として、奥の間に封じた。彰人自身、言葉にしなくても、それを理解していた。しかし、理解しているからこそ、それに抗えな
last updateLast Updated : 2025-09-01
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2.書生、来たる
玄関の扉が、低く唸るような音を立てて開かれた。午後の陽が庭石に反射し、土間の敷石に淡い光を落とす。桂木邸において、外から人が訪れるという出来事は稀だった。ましてや、それが「新しい書生」となると、なおさらだ。三崎直哉は、黒の学生服に身を包み、背筋を正して敷居をまたいだ。日焼けした頬に汗の筋が一筋、滲んでいる。左手には革の鞄、右手には紹介状の封筒。歩みは静かで、だが一歩ごとに床板がわずかに軋んだ。出迎えたのは、年配の女中だった。眉間にしわを寄せながら、直哉の持つ封筒に目をやる。「三崎直哉どの、帝大よりお越しとのこと…はい、応接間へご案内いたします」声はか細く、どこか遠慮がちだった。桂木邸全体に染みついた、空気を乱すことを恐れるような声音。直哉は軽く頭を下げると、女中の後について廊下を進んだ。屋敷の内部は、外観から想像するよりも遥かに暗かった。襖の向こうから香が漂う。白檀か、それとももっと複雑な香木か。直哉には、その香の名は分からなかった。ただ、それが非日常の世界へ自分が踏み入った証のように感じられた。足音を抑えながら廊下を進む。左手には手入れの行き届いた庭が続き、右手には幾重もの襖。そのすべてが閉ざされており、家全体が何かを秘めるように、静かに息を潜めていた。「こちらです」女中が示した襖の前で立ち止まり、軽く咳払いをしたあと、音を立てぬように襖を開いた。応接間の中は薄暗く、障子越しの光が僅かに畳を照らしていた。調度品は少なく、空間そのものが一つの格調だった。直哉は足元に気を配りながら、座卓の前へと歩み寄る。そこに、彼はいた。座卓の奥、日だまりの中に座っていた青年は、まるで一幅の絵のようだった。長い睫毛に縁取られた切れ長の目が、ふと動いた。視線がまっすぐにこちらを射抜いた。息を呑んだ。直哉の胸に、鈍い衝撃が走った。それは驚きでも、賞賛でもない。もっと本能的な、感覚に近い。ーー美しい。それ以上の言葉を、直哉の理性は拒んだ。そう思ってしまえば、もう戻れない気がしたからだ。
last updateLast Updated : 2025-09-01
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3.導く手の温度
夕暮れが、桂木邸の障子を仄かに染めていた。庭の向こう、沈みかけた陽が西の空を鈍く焦がし、わずかな橙が白い紙障子ににじんでいる。部屋の中にはもう自然光だけでは足りず、角の行灯に火が入れられていた。芯から立ち上る光はゆらぎ、揺れながら襖の絵柄をぼんやりと浮かび上がらせていた。静かだった。筆を走らせる音、墨を含んだ紙がわずかにきしむ音、それらすべてが、押し黙った空気のなかに吸い込まれていった。彰人は、書見台に向かって座っていた。肩に落ちかかる髪を片手で払い、もう片方の手には筆。姿勢はまっすぐだが、手元の筆先は頼りなく揺れていた。「こうでしょうか」そう訊く声は、どこか遠慮がちで、だが幼い光を孕んでいた。直哉は隣に控えたまま、彰人の書いた文字を見下ろしていた。細い筆跡は震え、墨の濃淡もまだ均一ではない。けれど、その一文字一文字には、懸命に何かを掴もうとする意志があった。「もう少し、筆を立てて。力を抜きすぎず、でも握り込んではいけません」「…難しいですね。思うように、線が繋がってくれない」「書は、呼吸と似ています。心を静めれば、筆も自然に動きます」直哉がそう言いながら、筆を握る彰人の手にそっと自分の手を添えた。言葉の意味を、体で教えるように。瞬間、空気が一つ、深く沈んだ。彰人の指がわずかに震えた。触れられた手の甲から、ぬるく確かな熱が染み込んでくる。筆を導くはずのその手は、思っていたよりも厚く、骨ばっていた。けれど、粗雑さはなかった。まるで、柔らかな布の上にそっと置かれた硯のように、静かで、重たくて、逃れられない温度。「このまま、筆を動かしてみましょう」直哉の声が低く落ちる。彰人は頷いたが、まぶたがわずかに震えていた。視線は紙の上にありながら、意識はすでに、その手に囚われていた。ゆっくりと、筆が進む。「不」から「可」へ。運筆は滑らかではないが、確実に文字をなぞっていく。直哉は、彰人の手の動きに合わせてわずかに力を加えた。指と指が重なり、手のひら同士の体温がじわりと混じり合う。
last updateLast Updated : 2025-09-01
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4.飾り物の願い
夜が降りていた。桂木邸の空はすでに黒く沈み、屋根を打つ雨音が静かに空気を震わせていた。細かい雨が途切れることなく降り続け、白木の廊下にまでひやりとした湿り気が染み込んでくるようだった。障子の向こうでは行灯の灯が小さくゆらめいている。彰人は私室の鏡台の前に座り、じっと鏡の中の自分を見つめていた。光は乏しく、蝋燭の炎が髪の間をすり抜けるように揺れている。その度に瞳の奥に映るものもかすかに歪み、まるで彼の内側の空虚を暴いているようだった。指先が頬に触れる。冷たい。けれどその肌には薄く紅が差していた。夕方、あの人に手を添えられたときから、ずっと胸の奥がざわついていた。あれはただの指導にすぎない。筆の角度を教える、技術的な行為。けれど、そのとき自分の中に芽生えたものは、明らかにそれとは別の何かだった。掌に残る感覚。厚み、熱、そして指の節の硬さ。目を閉じると、容易に甦る。彼の低い声。静かに落ちる呼吸。紙の上を滑る筆の音。そして…手の重なり。彰人はそっと唇を閉じたまま、鏡に映る自分の顔を眺めた。誰もが「美しい」と言う顔。白く、滑らかな肌。流れるような黒髪。切れ長の目と、淡い唇。たしかに、自分は美しい部類に入るのだろう。けれど。その「美しさ」が、何の意味も持たないことを、彼は嫌というほど知っていた。この家において、彰人は飾り物だった。父にとっても、兄にとっても。屋敷に訪れる客人たちすら、ひそやかに「惜しい」「もったいない」と囁きながら、決して本気で彼に触れようとはしなかった。まるでガラスの檻に閉じ込められた宝石のように、見られるだけで、触れられることはない。あるいは、価値はあっても、使い道のない骨董品のように。彰人は指先を鏡に伸ばし、そっとその中の自分に触れた。「…僕は、本当に、これだけなのかな」声に出したとたん、胸の奥がじくりと痛んだ。「美しいだけで、生きていくのかな」その言葉が空気に溶けると、雨音が一層、強く耳に沁みた。彰人はそっと立ち上がり、薄
last updateLast Updated : 2025-09-01
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5.鋼の中の熱
油灯の炎が、小さく音を立てた。静かな部屋だった。木造の壁は夜の雨を薄く透かし、軒を打つ細い雫の音が絶え間なく耳に落ちる。濡れた空気が襖の隙間から忍び込み、半紙の端をわずかに揺らした。書生部屋の片隅で、三崎直哉は筆を握ったまま動けずにいた。原稿用紙に広がった字の列は、あるところから先が極端に浅く、墨が紙にうまく乗っていない。直哉自身の指先が僅かに震えているのに気づいたのは、書き損じた三文字目を見つめたときだった。書くべきは帝国憲法の要約だった。明日の講義の予習として、彼にとっては馴れた作業だ。筆先の重さも、文の流れも、理屈さえ整っていれば難しいことではない。けれど、今夜は違った。視界に浮かぶのは文字ではなかった。ふとした拍子に、あの指先が脳裏をかすめた。白く、細く、どこか頼りなげで…けれど、確かに筆を握りしめていた手。彰人の手だった。昼間、あの静かな部屋で、彼の手に自分の手を添えたときの感触が、今もなお掌に残っている。あれは、教えるための接触だった。ただ、それだけのことだ。直哉は何度もそう自分に言い聞かせた。だが、理屈が感情を封じ込められるとは限らない。筆を置き、直哉は背筋を伸ばした。首の後ろに溜まった熱がじんと疼く。深く息を吐いても、思考の焦点は戻らなかった。部屋の中は、蝋の燃える匂いと、湿った畳の匂いで満ちていた。雨のせいで、どこか体の芯まで冷えたような感覚があるはずなのに、なぜか火照っている。胸の奥に、ふわりとした熱がこもっていた。直哉は灯の近くに置かれた湯呑みに手を伸ばした。冷めきった茶を喉に流し込むと、わずかに苦味が舌に残った。それすらも、現実感を引き戻すには足りなかった。彼は、危険なものを知っていた。貧しい家に生まれ、努力と意志だけを支えに、ここまで這い上がってきた。周囲の誘惑や偏見を跳ね除け、感情を抑えることで、自分自身を保ってきた。感情は、脆さだ。欲望は、堕落への入り口だ。美しいものには、毒がある。その
last updateLast Updated : 2025-09-02
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6.導き、求める者
朝の光が、障子越しに静かに室内を満たしていた。桂木彰人の私室には、ほんのりとしたあたたかさが漂っていた。早朝の冷気を僅かに残した畳の匂いに、白檀と椿油の香が溶け込んでいる。まだ風は弱く、庭の木々も動かない。空気は、何かが始まることを静かに待つように、ひっそりと呼吸していた。書見台の前で、彰人は筆を手に取った。指先の動きは昨日よりもずっと確かで、迷いの少ない線を紙の上に残していく。横に控える三崎直哉が、黙ってその手元を見つめていた。「上達されましたね。運筆がだいぶ安定しています」直哉の言葉に、彰人の手がぴたりと止まった。ほんの一瞬、筆先が紙に染みを残す。それを見て、直哉は言い添えた。「良い意味です。驚きました」彰人は、ゆっくりと顔を上げた。光の中でその瞳が細められ、笑った。「…本当ですか」「はい。見違えるほどです」その言葉に、彰人の口元が緩む。唇の端に浮かんだ笑みは、あまりに自然で、無防備だった。ほんの一瞬のことだったが、その柔らかな変化に直哉の胸がざらついた。賞賛に対する喜びではなかった。何かもっと深い場所から湧き出す光のように、彰人の顔が静かにほどけた。その笑みに、直哉は返す言葉を失った。昨日までの彰人とは、どこかが違う。筆を握る指に、躊躇いはあるが、意志が宿っていた。質問も、今朝はよく出た。初めて学ぶ者が抱く混乱ではなく、理解を求めるための問い。その一つひとつに、彼の内面の熱がこもっていた。「この“知”という文字…なぜこのような形になるのでしょう」彰人の声には、素直な関心があった。墨の匂いに混じって、その息がふわりと空気を揺らす。「“知”は、口と矢から成ります。つまり、言葉と意志、あるいは…矢のように真っすぐに放たれた言葉こそが“知”であるという考えもあります」「真っすぐな言葉が、知…」彰人は筆を握ったまま、その言葉を反芻するように
last updateLast Updated : 2025-09-02
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7.花びらのように、問う
障子越しの光は、今朝も淡く、やわらかだった。白く透けるその光は、外の空気を知らぬ彰人の世界に、かろうじて時間の流れを伝えるものだった。庭の椿が風に揺れる音が微かに聞こえ、畳の上に差す陽が、ゆっくりと角度を変えていく。彰人は筆を持ち、書見台の前でじっと紙に向かっていた。白い半紙の上、黒い墨の筋が一文字ずつ刻まれていく。筆の扱いには、まだ拙さが残る。けれど、目の前に控える男の声を聞き逃すまいと、彰人の耳も指先も敏感に研ぎ澄まされていた。「横画が少し沈んでいます。腕で書くのではなく、肩から…こうです」三崎直哉は、控えめに筆を持った彰人の手を指で支え、筆の流れを正すように導いた。その動きは、あくまで冷静で、丁寧だった。けれど、彰人の肌の内側では、細かな熱が音もなく立ち上っていた。筆を伝う指が震えないようにと意識するたびに、直哉の体温が皮膚を通して心臓へと沁みていく。彼の手は骨ばっていて、けれど乱暴ではなく、凛とした硬さの中に静けさがあった。「…ここは、“誠”と書くのでしたね」彰人はそっと声を落とした。自分でも気づかぬうちに、口調にわずかな柔らかさが混じる。「はい。“言”に“成”。つまり、言葉が成す。誠とは、口から出る約束であり、そのまま行いとなることです」「……成る、か」その言葉を転がすように呟き、彰人は書きかけの文字に目を落とす。だが、心はもう、文字の意味から離れていた。視線を横に向ける。隣に座る直哉の手が見えた。袖口から覗く手首、筆を支える指の節。見慣れない硬さがそこにあり、その動きが、ただの道具のように淡々としていることが、かえって意識を惹きつけた。この手で、さっき、自分の指が包まれていた。そう思っただけで、筆先が微かに揺れた。彰人はすぐに視線を戻したが、目の奥にはまだ、隣の男の横顔が焼きついている。「彰人さま」
last updateLast Updated : 2025-09-03
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8.言葉の先の熱
午後の光は、障子の向こうに淡く揺れていた。雲が空を覆い、陽は差したかと思えば隠れ、部屋の明るさは緩やかに変わり続けている。張り詰めた静けさの中に、墨をすったときの湿った音と、筆の先が紙をなぞる擦過音が、かすかに響いていた。直哉は座卓の向かいに座る彰人の手元を見つめていた。筆を持つ指は細く、骨ばってはいないが、どこか脆さを感じさせた。午前中に比べれば運筆も落ち着いてきている。だが、筆の先がわずかに迷うと、彰人はすぐに手を止めて、意味を問いたがる。「“艶”という字…どうして“色”に“豊か”と書くのでしょうか」彰人は、首を傾けながら訊いた。直哉は、筆の先を硯に置き、少しだけ視線を彷徨わせてから答える。「“艶”とは、元は光沢のあるもの、美しいものを指しましたが…転じて、性的な意味合いを持つようにもなった字です。“色”はすでに、そういう意味を含みますから」「性的な、意味…」彰人は小さく繰り返したあと、筆を寝かせ、視線を直哉に向けた。「たとえば、どんなときに使うのですか、“艶”という言葉は」直哉は、口を開きかけて…閉じた。言葉が、喉にひっかかる。目の前の青年は、まるで無邪気な子どものように純粋な目を向けているが、その瞳の奥には、何かを試すような揺らぎがある。それは、無意識のものなのか、それとも…。直哉は小さく咳払いをして、努めて冷静な声を出す。「艶本、という言葉がありますね。浮世絵や物語で、男女あるいは…性の交わりを描くものです。あれは“艶”の一種です」「そう…艶本」彰人は、小さく呟いてから筆を置いた。柔らかな白い指が紙の上をなぞる。「見たこと、あります」直哉の呼吸がわずかに止まった。
last updateLast Updated : 2025-09-03
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9.白檀の残り香
雨は、まだ止んでいなかった。深夜の桂木邸はひどく静まり返っていた。書生部屋の窓の外、雨音は濡れた庭を叩くようにして、絶え間なく耳に届いていた。しとしとと、湿り気を含んだその音は、胸の奥までじわじわと沁みてくる。三崎直哉は、机に向かって筆を握っていた。油灯が机の端に置かれ、蝋の燃える匂いと、火の揺らぎが紙面にかすかな影を落としている。白紙に整った行で並ぶ文字の列。だが、筆の動きは鈍かった。手は動いていても、意識がそこにはない。墨の濃淡が乱れていた。あるところから急に、筆圧が変わっている。直哉はその不自然な文字に気づいて、ふと筆を置いた。呼吸が浅くなっていた。胸のあたりが、妙に熱を帯びている。火照っているわけではない。けれど、どうにもじっとしていられない焦燥のようなものが、体の内側から蠢いていた。原因は分かっていた。昼間、彰人の手に触れたこと。そのときの柔らかさと、細く白い指のぬくもりが、掌にまだ残っているような気がしていた。筆を導くために手を添えただけだった。何の下心もなかった。そう、あくまで指導として、当然の行為として。けれど、あの手が…思った以上に温かかった。そして、彰人の瞳が。指先を支えたとき、微かに見上げられたあのまなざし。無邪気なようでいて、どこか試すような、あるいは…縋るような気配が混じっていた。直哉はゆっくりと目を閉じた。墨の香が鼻腔をくすぐり、雨の湿気と蝋の匂いが混じった部屋の空気を肺に取り込んだ。それでも、思考は戻ってこなかった。代わりに浮かぶのは、筆を握る彰人の指。筆先が震えたとき、そっと添えた自分の指に、彼がわずかに力を返してきたあの感触。そして、あの笑み。無垢なようでいて、底が見えない笑み。どうしてあんな顔ができるのか。何も知らないはずのその顔に、なぜあれほど人を揺さぶる熱が宿るのか。直哉は立ち上がり、机の前から離れた。部屋の隅に積まれた蒲団に腰を下ろし、肩を落とす。手のひらを見下ろす。男のものに
last updateLast Updated : 2025-09-04
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10.秘められた頁
雨は、いつの間にか上がっていた。桂木彰人の私室には、白檀の香が濃く残っていた。日中、直哉と過ごした時間の余韻がまだ空気のどこかに漂っているようで、彼は襖を閉めると、ひとつ深く息を吸い込んだ。静かだった。虫の音もなく、風もない。雨に濡れた庭の石が湿り気を保ったまま、仄かに夜気を吸い上げている。障子越しに映る影は淡く、室内は灯の少ない分だけ、意識が静かに内へ向かう。彰人は、箪笥の引き出しを音を立てぬように開いた。その奥に、薄紙に包まれた数冊の本がある。絹地で覆われた箱のなかに、浮世絵と、数冊の艶本。誰に教えられたわけでもない。けれど、成長とともに身体の奥に芽生えた疼きを持て余したとき、ふと手が伸びたのは、ここだった。母の部屋から流れてきた香の記憶と、幼い頃に一度だけ見た美人画。繊細な線で描かれた肌と肌の接触、それが脳裏に残っていた。そして気づけば、それが欲の形になっていた。彰人は、畳の上に胡坐をかいて箱を開けた。指先に絹の感触が残り、それがひどく敏感に思えた。艶本の一冊を手に取り、表紙をなぞる。表紙には、墨で流れるように書かれた三字の題。裏に誰かの筆で記された詩句が、かすれていた。ゆっくりと頁を開く。頁には、男女が交わる場面が細密に描かれている。布をはだけた女の胸、うつ伏せのまま喘ぐ男。線の美しさ、そしてその肌の重なりに、彰人の喉が僅かに鳴った。だが、彼が本当に欲しているものは、次の頁にあった。そこに描かれていたのは、男と男だった。裾をはだけた青年が、膝を崩したまま、もう一人の男の腿に顔を埋めている。指が肩に添えられ、唇は肌に触れている。男の背がしなり、睫毛が伏せられている様が、どこか自分に似ていると思った。自分は、ああして誰かの前に膝を折り、喉を震わせ、肌を晒すことを望んでいるのではないか。心臓が、ゆっくりと鼓動を強めた。自分は、美しいと云われて生きてきた。けれど、それは誰かに触れられるための美ではなかった。飾られるための、遠くから見られるだけのものだった。けれど
last updateLast Updated : 2025-09-04
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