明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜

明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜

last update最終更新日 : 2025-09-27
作家:  中岡 始完了
言語: Japanese
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概要

純愛

三人称

泣ける

財閥

初体験

禁断の恋

BL

白檀の香る明治の屋敷―― 美貌の御曹司・彰人は、まるで飾られた硝子細工のように、触れることさえ許されぬ存在だった。 そこに書生としてやって来たのは、無骨で実直な青年・直哉。 禁欲と理性を信条に生きてきた彼は、彰人の静かな色香に、知らず心を奪われていく。 すれ違いざまに揺れる睫毛、障子越しの気配、 布団に並んだ夜にこぼれる無防備な吐息―― 美しすぎるそのひとが、少しずつ直哉の理性を侵食してゆく。 布団に並んだ夜、こぼれそうな吐息。 指先が触れただけで、心が揺れる。 そんな折、彰人に“見合い話”が持ち上がる。 現実の影が、ふたりの関係を静かに裂こうとしていた。 身分差と禁忌、理性と欲望が交錯する、耽美と官能の長編BL。

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第1話

1.白檀の檻

脳腫瘍と診断された後、白石紗季(しらいし さき)は二つの事実を知ることになった。

一つは黒川隼人(くろかわ はやと)との婚姻届が偽物だったこと。もう一つは実の息子――黒川陽向(くろかわ ひなた)もその事実を知っており、他人を母親として望んでいたこと。

この時紗季は自分の家族を捨て、全てを彼らに捧げた七年間が、まるで茶番だったことを悟った。

そこで紗季は三つのことを実行し、この薄情な父子の前から完全に姿を消すことにした。

一つ目は、一ヶ月前に予約していた結婚七周年記念のキャンドルディナーをキャンセルし、陽向の幼稚園のクラスLINEグループと、父子の健康のために入っていた数十の健康関連のグループから退会すること。

二つ目は、医師からストレステストを受け、特効薬を処方してもらい、海外まで移動できる体調を確保すること。

三つ目は、七年間連絡を絶っていた兄の白石隆之(しらいし たかゆき)に電話をかけ、遠くへ嫁いだことを後悔して、帰りたいと告げること。

――

「紗季さん、がん細胞が脳神経を圧迫しています。早急な決断が必要です」

消毒液の匂いが漂う病院の廊下で、医師の言葉が今も紗季の耳に響いていた。

全身を震わせながら、しわくちゃになった検査結果の用紙を握りしめた。

最近頭痛や嘔吐に悩まされ、時々鼻血も出ていた。

寝不足による単なる体調不良だと思っていたのに、検査結果は恐ろしい事実を突きつけてきた。

医師は治療方針を選択する必要があると言った。

手術をして五十パーセントの生存確率に賭けるか。

それとも保守的な治療を選び、投薬と化学療法で髪の毛は抜け落ちるが、あと数年の命を繋ぐか。

紗季はその五十パーセントという確率に賭けることが怖かった。

幼い頃から注射さえ怖がっていた彼女にとって、冷たい手術台の上で生死を分ける選択をすることは想像もできないほど怖かった。

しかし手術をしなければ、脳の腫瘍は大きくなり、苦しみながら死んでいくという残酷な現実が待っている。

紗季は目を閉じ、隼人のことを考えた。

彼女は隼人と結婚してもう七年になる。彼女は彼を愛していて、まだ長い間一緒に生活したいと思っている。

そして何より、二人は頭がよく、優秀な息子――陽向を一緒に育てている。

人生で最も大切な二人のことを考えると、勇気が湧いてきた。

彼女は立ち上がり、医師の診察室のドアを開けた。

「先生、決心しました。開頭手術の予約をお願いします」

医師は厳かな表情で言った。

「五十パーセントの確率です。怖くないのですか?」

紗季は微笑んだ。「怖くありません。夫と子供が私の側にいてくれると信じています。二人がいれば、何も怖くありません」

医師はゆっくり頷いた。

「分かりました。一ヶ月後の手術を予約しておきます」

紗季は病院を出て、急いで帰宅した。夫と子供の慰めと支えが欲しかった。

家政婦は隼人が会社に行ったと告げた。

紗季は急いで黒川グループへ向かい、社長室の前まで来た。

中に入る前に、男性の声が聞こえてきた。

「隼人、紗季にお前が美琴を秘書にしたことを知られたら、怒るんじゃないか?」

紗季は凍りつき、ドアの隙間から隼人の親友――青山翔太(あおやま しょうた)の姿をはっきりと見た。

美琴?

美琴!

この名前は彼女にとってあまりにも馴染みがあった。隼人が十年もの間、心の奥底に秘めていた初恋の人だった。

机に向かって座る隼人は目を伏せ、袖をまくり上げた。黒いシャツの襟元は少し開いていて、どこか冷たい既婚者の雰囲気を醸し出していた。

彼はいらだって言った。

「会社のことに口を出すな」

翔太は首をすくめ、苦い顔をした。

「まあね、俺はこの何年もお前の面子を立てて、紗季のことを奥さんって呼んできたけど、周りの人はみんな、お前たちが偽装結婚だって知ってるよ。それに婚姻届は俺が偽造したんだ。ハハハハ!」

これを聞いた紗季は、顔が真っ白になり、その場で凍りついた。

彼女は......何を聞いたのだろう?

隼人との結婚は......偽装だったの?

隼人はオフィスのドアに背を向けて座り、ドアの外に人が立っていることに全く気付いていなかった。

翔太は好奇心に駆られて尋ねた。

「隼人、なんで黙ってるの?今美琴が戻ってきたんだから、早く紗季と別れればいいじゃん?当時紗季がしつこく迫って、お前が酔っ払ってた時に誘惑して妊娠したから、子供の戸籍のために仕方なく偽装結婚したんだろ。その結果、美琴が傷ついて出て行って、今やっと戻ってきたわけだし」

紗季は息を飲んだ。

激しい頭痛が襲ってきて、紗季は口を押さえ、必死に吐き気をこらえた。

あの夜、バーに翔太も確かにいたはずなのに!

自分は隼人にお酒を勧めてなどいなかったのに、隼人はビジネスライバルに薬を盛られていた。翔太はそれを分かっていたはずだ。

自ら「解毒剤」になろうとして、隼人とホテルへ行ったのだ。

なぜすべての責任を自分一人に押し付けるのか?

翔太は軽く笑い、からかうような口調で言った。

「お前はいつ美琴と結婚するつもりだ?当時彼女は重い心臓病にかかって、お前の足手纏いになるのを恐れて去った。紗季にその隙を突かれたんだろう?美琴はもともとお前の妻になるはずだったのに!」

隼人は鋭い視線で翔太を見つめた。

その目は氷のように冷たく、警告が伝わってくる。

「俺と紗季には陽向がいるんだ......」

紗季は全身を激しく震わせ、立っているのがやっとだった。

彼女は彼らの会話に吐き気を催した。聞き続けられなくなり、そのままトイレに駆け込んだ。

そのため隼人が言いかけていた言葉を聞き逃してしまった。

紗季は洗面所で激しく嘔吐した。

残酷な真実に吐き気を催したのか、脳腫瘍による生理反応なのか分からなかった。

女性社員が入ってきて驚き、急いでティッシュを差し出した。

紗季は目を赤くしてティッシュを受け取り、泣くよりも醜い笑顔を作って言った。

「ありがとうございます......隼人には私が来たことを言わないでください」

彼女は振り返り、よろめく足取りで会社を出て、まるで生ける屍のように街をさまよった。頭の中では、隼人との初めての出会いが思い返されていた。

7年前、彼女は海外でも有名なデザイナーで、兄――隆之のジュエリー会社で重要なポジションを担っていた。その頃、隼人とは何の接点もなかった。

ある出張の際、紗季がホテルを出たところで突然スカートが裂けてしまったのだ。

彼女が露出してしまいそうになり、ひどく恥ずかしく慌てていた時、隼人が高級車から降りてきて、彼女の前に歩み寄り、スーツの上着を差し出した。

「腰に巻いてください」

適切な援助が、見知らぬ環境での彼女の窮地と不安を一瞬で解消した。

彼女は顔を上げると、かっこいい顔に一目惚れした。

それ以来紗季は彼のことが忘れられず、隆之を通じてコネを作り、あらゆる手段を尽くして隼人との仕事上の接点を作り、積極的に追いかけた。

隼人の心の中に忘れられない初恋相手がいることを知りながらも、彼女は決して諦めなかった。

その後、酒の席で偶然会ったことがきっかけとなって二人は親しくなった。紗季が妊娠したことで、自然な流れで結婚することになったのだ。

紗季は新婚初夜のことを覚えていた。彼女は隼人に尋ねた。

「私は責任を取れとは言わなかったのに、なぜ私と結婚してくれたの?」

いつも冷淡な隼人が、初めてあんなに真剣に彼女を見つめ、ゆっくりと答えた。

「お前に、そして俺たちの子供に、家族を与えたいんだ」

この一言のために、紗季はこの結婚に全てを捧げた。彼女は隆之の強い反対を押し切って自身のキャリアを捨て、国内に留まり、妻として母として全力を尽くした。

しかし今、彼女が全てを捧げた結婚は最初から最後まで偽りだったのだ!

隼人は最初から彼女を本当の妻とは見ていなかった!この7年間、彼の心には別の女性がいて、彼女とは夫婦のふりをしていただけだった!

紗季の心はまるで血を流すように痛んだ。最初から最後まで完全な笑い物だったことを痛感した。

彼女は決心した。

一ヶ月後、もし手術が成功して生き延びたら陽向を連れて出て行こう。

隼人は陽向のことを遠慮する必要はない。好きな人と結婚すればいい!

子供のことを考えると、紗季に少し力が戻ってきたような気がした。

彼女は家に駆け戻り、階段の入り口まで来たところで、陽向が執事――森下玲(もりした れい)と話しているのが聞こえた。

「パパとママの婚姻届が授与されてないって、ママが知ったらどうなると思う?」

陽向の幼い声が聞こえてきた。

紗季は目を見開き、その場に立ち尽くした。

玲は優しく笑って答えた。

「仕方がないですよ、坊ちゃま。ご主人様は奥様のことをお好きではないですからね、それはご存知でしょう」

陽向は子供らしく鼻を鳴らした。

「実は僕もママのこと、あんまり好きじゃないんだ。僕は美琴さんの方が好き!すっごく優しいんだよ。ママが僕をパパの会社に連れて行くたびに、美琴さんはいっぱいおいしいものとか、面白いものをくれるんだ。ママみたいに、お菓子を食べ過ぎちゃダメだとか、勉強しなさいとか言わないし。うるさくないんだよ!美琴さんがパパと結婚できたらいいのにな!」

紗季は掌を強く握りしめたが、気を失いそうになった。

育てた実の子供までもが、隼人と同じように、彼女にこれほど冷たく無情だとは予想していなかった。

紗季は過去の「母子の愛」「夫婦の睦まじさ」という温かな情景を思い出したが、今となってはそれが全て夢だったと感じた。

これは甘美に見えて、実は恐ろしい悪夢だった。

当時、隆之が結婚のことに強く反対したのは、彼女が苦労することを心配してのことだった。彼女は隆之の言葉に耳を傾けるべきだったのだ。

もし隆之が隼人のしたことと陽向の態度を知ったら、きっと怒り狂って刃物を持って殺しに来るだろう。

紗季は胸の痛みで目を瞬かせ、黙って階段を降りた。

彼女は夫と子供のために死を恐れずに、手術台に横たわることを決意したが、今ではその支えとなっていた希望も完全に粉々に砕けてしまった。

彼女はリビングに来て、電話をかけた。

「お兄ちゃん、隼人と離婚したい。家に帰ってもいいかな?」
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1.白檀の檻
桂木彰人は、今朝もまた白い光に目を焼かれていた。襖の向こう、障子越しに広がるのは、色を持たない世界だった。淡く、無機質な明るさが室内のすべてを覆い、どこまでも静かに、そこにあった。天井に節の目立つ杉板を見上げながら、彰人は仰向けのまま、ゆっくりと瞬きをした。何度繰り返しても、見えるものは同じだった。飽きもせず、退屈もせず、ただそこに存在しているという事実だけが、時間を押し流していく。右手を持ち上げる。指先にかかるのは、絹の肌掛け。緋色のそれをなぞるように撫でたあと、彰人は静かに起き上がった。布団の端が揺れ、微かな香が立つ。椿油。昨夜、髪に塗ったまま眠っていたことを思い出し、うなじに重さを感じた。畳に素足を下ろし、立ち上がる。裾を引きずらぬよう、慎重に朝着の帯を締め直し、障子に向かって歩いた。ガラリと開けた先にあるのは、手入れの行き届いた中庭だった。だが、その景色すらも、彼にとっては装飾に過ぎない。椿の葉が光を弾いていた。風はなかった。蝉の声すら遠く、邸内には自分の衣擦れと足音だけが響いた。彰人はしばらく黙って庭を眺めていたが、やがて障子を閉め、再び部屋の中央に戻ると、書見台の前に座った。開いたままの本。昨夜、灯を落とす寸前まで読んでいた漢詩集だった。古い紙の匂いが鼻をくすぐる。指先で頁をなぞるたびに、静電気のような感覚が生まれた。彼にとって、言葉は唯一許された娯楽だった。だが今朝は、不思議と文字が目に入らなかった。頬に手をあてた。冷たい。だが、それ以上に感覚が乏しい。生きている実感が、今はどこにもなかった。「また今日も…」声に出したとたん、空気がわずかに震えた。誰に向けたものでもない。それでも、そうしていなければ、自分がこの部屋の一部になってしまいそうだった。桂木家の次男として生まれた彰人には、「美しさ」以外の役目はなかった。学問も、社交も、外出も許されない。家の名誉にそぐわないとされ、父と兄は彼を「桂木家の瑕疵」として、奥の間に封じた。彰人自身、言葉にしなくても、それを理解していた。しかし、理解しているからこそ、それに抗えな
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2.書生、来たる
玄関の扉が、低く唸るような音を立てて開かれた。午後の陽が庭石に反射し、土間の敷石に淡い光を落とす。桂木邸において、外から人が訪れるという出来事は稀だった。ましてや、それが「新しい書生」となると、なおさらだ。三崎直哉は、黒の学生服に身を包み、背筋を正して敷居をまたいだ。日焼けした頬に汗の筋が一筋、滲んでいる。左手には革の鞄、右手には紹介状の封筒。歩みは静かで、だが一歩ごとに床板がわずかに軋んだ。出迎えたのは、年配の女中だった。眉間にしわを寄せながら、直哉の持つ封筒に目をやる。「三崎直哉どの、帝大よりお越しとのこと…はい、応接間へご案内いたします」声はか細く、どこか遠慮がちだった。桂木邸全体に染みついた、空気を乱すことを恐れるような声音。直哉は軽く頭を下げると、女中の後について廊下を進んだ。屋敷の内部は、外観から想像するよりも遥かに暗かった。襖の向こうから香が漂う。白檀か、それとももっと複雑な香木か。直哉には、その香の名は分からなかった。ただ、それが非日常の世界へ自分が踏み入った証のように感じられた。足音を抑えながら廊下を進む。左手には手入れの行き届いた庭が続き、右手には幾重もの襖。そのすべてが閉ざされており、家全体が何かを秘めるように、静かに息を潜めていた。「こちらです」女中が示した襖の前で立ち止まり、軽く咳払いをしたあと、音を立てぬように襖を開いた。応接間の中は薄暗く、障子越しの光が僅かに畳を照らしていた。調度品は少なく、空間そのものが一つの格調だった。直哉は足元に気を配りながら、座卓の前へと歩み寄る。そこに、彼はいた。座卓の奥、日だまりの中に座っていた青年は、まるで一幅の絵のようだった。長い睫毛に縁取られた切れ長の目が、ふと動いた。視線がまっすぐにこちらを射抜いた。息を呑んだ。直哉の胸に、鈍い衝撃が走った。それは驚きでも、賞賛でもない。もっと本能的な、感覚に近い。ーー美しい。それ以上の言葉を、直哉の理性は拒んだ。そう思ってしまえば、もう戻れない気がしたからだ。
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3.導く手の温度
夕暮れが、桂木邸の障子を仄かに染めていた。庭の向こう、沈みかけた陽が西の空を鈍く焦がし、わずかな橙が白い紙障子ににじんでいる。部屋の中にはもう自然光だけでは足りず、角の行灯に火が入れられていた。芯から立ち上る光はゆらぎ、揺れながら襖の絵柄をぼんやりと浮かび上がらせていた。静かだった。筆を走らせる音、墨を含んだ紙がわずかにきしむ音、それらすべてが、押し黙った空気のなかに吸い込まれていった。彰人は、書見台に向かって座っていた。肩に落ちかかる髪を片手で払い、もう片方の手には筆。姿勢はまっすぐだが、手元の筆先は頼りなく揺れていた。「こうでしょうか」そう訊く声は、どこか遠慮がちで、だが幼い光を孕んでいた。直哉は隣に控えたまま、彰人の書いた文字を見下ろしていた。細い筆跡は震え、墨の濃淡もまだ均一ではない。けれど、その一文字一文字には、懸命に何かを掴もうとする意志があった。「もう少し、筆を立てて。力を抜きすぎず、でも握り込んではいけません」「…難しいですね。思うように、線が繋がってくれない」「書は、呼吸と似ています。心を静めれば、筆も自然に動きます」直哉がそう言いながら、筆を握る彰人の手にそっと自分の手を添えた。言葉の意味を、体で教えるように。瞬間、空気が一つ、深く沈んだ。彰人の指がわずかに震えた。触れられた手の甲から、ぬるく確かな熱が染み込んでくる。筆を導くはずのその手は、思っていたよりも厚く、骨ばっていた。けれど、粗雑さはなかった。まるで、柔らかな布の上にそっと置かれた硯のように、静かで、重たくて、逃れられない温度。「このまま、筆を動かしてみましょう」直哉の声が低く落ちる。彰人は頷いたが、まぶたがわずかに震えていた。視線は紙の上にありながら、意識はすでに、その手に囚われていた。ゆっくりと、筆が進む。「不」から「可」へ。運筆は滑らかではないが、確実に文字をなぞっていく。直哉は、彰人の手の動きに合わせてわずかに力を加えた。指と指が重なり、手のひら同士の体温がじわりと混じり合う。
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4.飾り物の願い
夜が降りていた。桂木邸の空はすでに黒く沈み、屋根を打つ雨音が静かに空気を震わせていた。細かい雨が途切れることなく降り続け、白木の廊下にまでひやりとした湿り気が染み込んでくるようだった。障子の向こうでは行灯の灯が小さくゆらめいている。彰人は私室の鏡台の前に座り、じっと鏡の中の自分を見つめていた。光は乏しく、蝋燭の炎が髪の間をすり抜けるように揺れている。その度に瞳の奥に映るものもかすかに歪み、まるで彼の内側の空虚を暴いているようだった。指先が頬に触れる。冷たい。けれどその肌には薄く紅が差していた。夕方、あの人に手を添えられたときから、ずっと胸の奥がざわついていた。あれはただの指導にすぎない。筆の角度を教える、技術的な行為。けれど、そのとき自分の中に芽生えたものは、明らかにそれとは別の何かだった。掌に残る感覚。厚み、熱、そして指の節の硬さ。目を閉じると、容易に甦る。彼の低い声。静かに落ちる呼吸。紙の上を滑る筆の音。そして…手の重なり。彰人はそっと唇を閉じたまま、鏡に映る自分の顔を眺めた。誰もが「美しい」と言う顔。白く、滑らかな肌。流れるような黒髪。切れ長の目と、淡い唇。たしかに、自分は美しい部類に入るのだろう。けれど。その「美しさ」が、何の意味も持たないことを、彼は嫌というほど知っていた。この家において、彰人は飾り物だった。父にとっても、兄にとっても。屋敷に訪れる客人たちすら、ひそやかに「惜しい」「もったいない」と囁きながら、決して本気で彼に触れようとはしなかった。まるでガラスの檻に閉じ込められた宝石のように、見られるだけで、触れられることはない。あるいは、価値はあっても、使い道のない骨董品のように。彰人は指先を鏡に伸ばし、そっとその中の自分に触れた。「…僕は、本当に、これだけなのかな」声に出したとたん、胸の奥がじくりと痛んだ。「美しいだけで、生きていくのかな」その言葉が空気に溶けると、雨音が一層、強く耳に沁みた。彰人はそっと立ち上がり、薄
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5.鋼の中の熱
油灯の炎が、小さく音を立てた。静かな部屋だった。木造の壁は夜の雨を薄く透かし、軒を打つ細い雫の音が絶え間なく耳に落ちる。濡れた空気が襖の隙間から忍び込み、半紙の端をわずかに揺らした。書生部屋の片隅で、三崎直哉は筆を握ったまま動けずにいた。原稿用紙に広がった字の列は、あるところから先が極端に浅く、墨が紙にうまく乗っていない。直哉自身の指先が僅かに震えているのに気づいたのは、書き損じた三文字目を見つめたときだった。書くべきは帝国憲法の要約だった。明日の講義の予習として、彼にとっては馴れた作業だ。筆先の重さも、文の流れも、理屈さえ整っていれば難しいことではない。けれど、今夜は違った。視界に浮かぶのは文字ではなかった。ふとした拍子に、あの指先が脳裏をかすめた。白く、細く、どこか頼りなげで…けれど、確かに筆を握りしめていた手。彰人の手だった。昼間、あの静かな部屋で、彼の手に自分の手を添えたときの感触が、今もなお掌に残っている。あれは、教えるための接触だった。ただ、それだけのことだ。直哉は何度もそう自分に言い聞かせた。だが、理屈が感情を封じ込められるとは限らない。筆を置き、直哉は背筋を伸ばした。首の後ろに溜まった熱がじんと疼く。深く息を吐いても、思考の焦点は戻らなかった。部屋の中は、蝋の燃える匂いと、湿った畳の匂いで満ちていた。雨のせいで、どこか体の芯まで冷えたような感覚があるはずなのに、なぜか火照っている。胸の奥に、ふわりとした熱がこもっていた。直哉は灯の近くに置かれた湯呑みに手を伸ばした。冷めきった茶を喉に流し込むと、わずかに苦味が舌に残った。それすらも、現実感を引き戻すには足りなかった。彼は、危険なものを知っていた。貧しい家に生まれ、努力と意志だけを支えに、ここまで這い上がってきた。周囲の誘惑や偏見を跳ね除け、感情を抑えることで、自分自身を保ってきた。感情は、脆さだ。欲望は、堕落への入り口だ。美しいものには、毒がある。その
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6.導き、求める者
朝の光が、障子越しに静かに室内を満たしていた。桂木彰人の私室には、ほんのりとしたあたたかさが漂っていた。早朝の冷気を僅かに残した畳の匂いに、白檀と椿油の香が溶け込んでいる。まだ風は弱く、庭の木々も動かない。空気は、何かが始まることを静かに待つように、ひっそりと呼吸していた。書見台の前で、彰人は筆を手に取った。指先の動きは昨日よりもずっと確かで、迷いの少ない線を紙の上に残していく。横に控える三崎直哉が、黙ってその手元を見つめていた。「上達されましたね。運筆がだいぶ安定しています」直哉の言葉に、彰人の手がぴたりと止まった。ほんの一瞬、筆先が紙に染みを残す。それを見て、直哉は言い添えた。「良い意味です。驚きました」彰人は、ゆっくりと顔を上げた。光の中でその瞳が細められ、笑った。「…本当ですか」「はい。見違えるほどです」その言葉に、彰人の口元が緩む。唇の端に浮かんだ笑みは、あまりに自然で、無防備だった。ほんの一瞬のことだったが、その柔らかな変化に直哉の胸がざらついた。賞賛に対する喜びではなかった。何かもっと深い場所から湧き出す光のように、彰人の顔が静かにほどけた。その笑みに、直哉は返す言葉を失った。昨日までの彰人とは、どこかが違う。筆を握る指に、躊躇いはあるが、意志が宿っていた。質問も、今朝はよく出た。初めて学ぶ者が抱く混乱ではなく、理解を求めるための問い。その一つひとつに、彼の内面の熱がこもっていた。「この“知”という文字…なぜこのような形になるのでしょう」彰人の声には、素直な関心があった。墨の匂いに混じって、その息がふわりと空気を揺らす。「“知”は、口と矢から成ります。つまり、言葉と意志、あるいは…矢のように真っすぐに放たれた言葉こそが“知”であるという考えもあります」「真っすぐな言葉が、知…」彰人は筆を握ったまま、その言葉を反芻するように
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7.花びらのように、問う
障子越しの光は、今朝も淡く、やわらかだった。白く透けるその光は、外の空気を知らぬ彰人の世界に、かろうじて時間の流れを伝えるものだった。庭の椿が風に揺れる音が微かに聞こえ、畳の上に差す陽が、ゆっくりと角度を変えていく。彰人は筆を持ち、書見台の前でじっと紙に向かっていた。白い半紙の上、黒い墨の筋が一文字ずつ刻まれていく。筆の扱いには、まだ拙さが残る。けれど、目の前に控える男の声を聞き逃すまいと、彰人の耳も指先も敏感に研ぎ澄まされていた。「横画が少し沈んでいます。腕で書くのではなく、肩から…こうです」三崎直哉は、控えめに筆を持った彰人の手を指で支え、筆の流れを正すように導いた。その動きは、あくまで冷静で、丁寧だった。けれど、彰人の肌の内側では、細かな熱が音もなく立ち上っていた。筆を伝う指が震えないようにと意識するたびに、直哉の体温が皮膚を通して心臓へと沁みていく。彼の手は骨ばっていて、けれど乱暴ではなく、凛とした硬さの中に静けさがあった。「…ここは、“誠”と書くのでしたね」彰人はそっと声を落とした。自分でも気づかぬうちに、口調にわずかな柔らかさが混じる。「はい。“言”に“成”。つまり、言葉が成す。誠とは、口から出る約束であり、そのまま行いとなることです」「……成る、か」その言葉を転がすように呟き、彰人は書きかけの文字に目を落とす。だが、心はもう、文字の意味から離れていた。視線を横に向ける。隣に座る直哉の手が見えた。袖口から覗く手首、筆を支える指の節。見慣れない硬さがそこにあり、その動きが、ただの道具のように淡々としていることが、かえって意識を惹きつけた。この手で、さっき、自分の指が包まれていた。そう思っただけで、筆先が微かに揺れた。彰人はすぐに視線を戻したが、目の奥にはまだ、隣の男の横顔が焼きついている。「彰人さま」
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8.言葉の先の熱
午後の光は、障子の向こうに淡く揺れていた。雲が空を覆い、陽は差したかと思えば隠れ、部屋の明るさは緩やかに変わり続けている。張り詰めた静けさの中に、墨をすったときの湿った音と、筆の先が紙をなぞる擦過音が、かすかに響いていた。直哉は座卓の向かいに座る彰人の手元を見つめていた。筆を持つ指は細く、骨ばってはいないが、どこか脆さを感じさせた。午前中に比べれば運筆も落ち着いてきている。だが、筆の先がわずかに迷うと、彰人はすぐに手を止めて、意味を問いたがる。「“艶”という字…どうして“色”に“豊か”と書くのでしょうか」彰人は、首を傾けながら訊いた。直哉は、筆の先を硯に置き、少しだけ視線を彷徨わせてから答える。「“艶”とは、元は光沢のあるもの、美しいものを指しましたが…転じて、性的な意味合いを持つようにもなった字です。“色”はすでに、そういう意味を含みますから」「性的な、意味…」彰人は小さく繰り返したあと、筆を寝かせ、視線を直哉に向けた。「たとえば、どんなときに使うのですか、“艶”という言葉は」直哉は、口を開きかけて…閉じた。言葉が、喉にひっかかる。目の前の青年は、まるで無邪気な子どものように純粋な目を向けているが、その瞳の奥には、何かを試すような揺らぎがある。それは、無意識のものなのか、それとも…。直哉は小さく咳払いをして、努めて冷静な声を出す。「艶本、という言葉がありますね。浮世絵や物語で、男女あるいは…性の交わりを描くものです。あれは“艶”の一種です」「そう…艶本」彰人は、小さく呟いてから筆を置いた。柔らかな白い指が紙の上をなぞる。「見たこと、あります」直哉の呼吸がわずかに止まった。
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9.白檀の残り香
雨は、まだ止んでいなかった。深夜の桂木邸はひどく静まり返っていた。書生部屋の窓の外、雨音は濡れた庭を叩くようにして、絶え間なく耳に届いていた。しとしとと、湿り気を含んだその音は、胸の奥までじわじわと沁みてくる。三崎直哉は、机に向かって筆を握っていた。油灯が机の端に置かれ、蝋の燃える匂いと、火の揺らぎが紙面にかすかな影を落としている。白紙に整った行で並ぶ文字の列。だが、筆の動きは鈍かった。手は動いていても、意識がそこにはない。墨の濃淡が乱れていた。あるところから急に、筆圧が変わっている。直哉はその不自然な文字に気づいて、ふと筆を置いた。呼吸が浅くなっていた。胸のあたりが、妙に熱を帯びている。火照っているわけではない。けれど、どうにもじっとしていられない焦燥のようなものが、体の内側から蠢いていた。原因は分かっていた。昼間、彰人の手に触れたこと。そのときの柔らかさと、細く白い指のぬくもりが、掌にまだ残っているような気がしていた。筆を導くために手を添えただけだった。何の下心もなかった。そう、あくまで指導として、当然の行為として。けれど、あの手が…思った以上に温かかった。そして、彰人の瞳が。指先を支えたとき、微かに見上げられたあのまなざし。無邪気なようでいて、どこか試すような、あるいは…縋るような気配が混じっていた。直哉はゆっくりと目を閉じた。墨の香が鼻腔をくすぐり、雨の湿気と蝋の匂いが混じった部屋の空気を肺に取り込んだ。それでも、思考は戻ってこなかった。代わりに浮かぶのは、筆を握る彰人の指。筆先が震えたとき、そっと添えた自分の指に、彼がわずかに力を返してきたあの感触。そして、あの笑み。無垢なようでいて、底が見えない笑み。どうしてあんな顔ができるのか。何も知らないはずのその顔に、なぜあれほど人を揺さぶる熱が宿るのか。直哉は立ち上がり、机の前から離れた。部屋の隅に積まれた蒲団に腰を下ろし、肩を落とす。手のひらを見下ろす。男のものに
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10.秘められた頁
雨は、いつの間にか上がっていた。桂木彰人の私室には、白檀の香が濃く残っていた。日中、直哉と過ごした時間の余韻がまだ空気のどこかに漂っているようで、彼は襖を閉めると、ひとつ深く息を吸い込んだ。静かだった。虫の音もなく、風もない。雨に濡れた庭の石が湿り気を保ったまま、仄かに夜気を吸い上げている。障子越しに映る影は淡く、室内は灯の少ない分だけ、意識が静かに内へ向かう。彰人は、箪笥の引き出しを音を立てぬように開いた。その奥に、薄紙に包まれた数冊の本がある。絹地で覆われた箱のなかに、浮世絵と、数冊の艶本。誰に教えられたわけでもない。けれど、成長とともに身体の奥に芽生えた疼きを持て余したとき、ふと手が伸びたのは、ここだった。母の部屋から流れてきた香の記憶と、幼い頃に一度だけ見た美人画。繊細な線で描かれた肌と肌の接触、それが脳裏に残っていた。そして気づけば、それが欲の形になっていた。彰人は、畳の上に胡坐をかいて箱を開けた。指先に絹の感触が残り、それがひどく敏感に思えた。艶本の一冊を手に取り、表紙をなぞる。表紙には、墨で流れるように書かれた三字の題。裏に誰かの筆で記された詩句が、かすれていた。ゆっくりと頁を開く。頁には、男女が交わる場面が細密に描かれている。布をはだけた女の胸、うつ伏せのまま喘ぐ男。線の美しさ、そしてその肌の重なりに、彰人の喉が僅かに鳴った。だが、彼が本当に欲しているものは、次の頁にあった。そこに描かれていたのは、男と男だった。裾をはだけた青年が、膝を崩したまま、もう一人の男の腿に顔を埋めている。指が肩に添えられ、唇は肌に触れている。男の背がしなり、睫毛が伏せられている様が、どこか自分に似ていると思った。自分は、ああして誰かの前に膝を折り、喉を震わせ、肌を晒すことを望んでいるのではないか。心臓が、ゆっくりと鼓動を強めた。自分は、美しいと云われて生きてきた。けれど、それは誰かに触れられるための美ではなかった。飾られるための、遠くから見られるだけのものだった。けれど
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