夕暮れの桂木邸は、日中の熱気を残しながらも、徐々に夜の冷たさに包まれ始めていた。庭の葉は湿った風に揺れ、木々の隙間から入り込んだ赤紫の光が、地面に斑のような影を落とす。草いきれの匂いに混じって、どこからか線香の残り香が漂っていた。石畳の上を、白い足袋が音もなく進む。彰人は庭をゆっくりと歩いていた。手には何も持たず、視線も定まらないまま、茂みや植え込みの隙間をなぞるように進んでいた。耳に届くのは、虫の声と、風の音。そして、屋敷のどこかから漏れてくる人の声。縁側を通り過ぎようとしたそのとき、障子の内側から、兄・篤人の声が聞こえてきた。「彰人にとっても、あの縁談はきっと救いになるだろう。あの子は、誰かに必要とされることでしか、自分の価値を感じられない子だから」静かに、しかしはっきりとした口調だった。そのあとに続いた母の声は、やや抑えた調子であったが、どこか含みをもっていた。「うまくおさまってくれるといいわね。あの子…時々、何を考えているのかわからないところがあるから」彰人は立ち止まった。胸の奥がひやりと凍る。言葉の一つ一つが、自分を他人の目線から語るものとして突き刺さってくる。「救い」「価値」「うまくおさまる」それらの言葉に、彼自身の意志や感情など、どこにも含まれていなかった。ふと、障子の向こうの光が淡く揺れた。夕陽が雲の端に沈みかけ、空の赤みが濃くなる。篤人の声は、もう聞こえなかった。代わりに、遠くから女中たちの笑い声が微かに耳に入る。彰人はその場からそっと背を向け、足音を立てぬよう庭を外れた。苔むした道を通り抜け、物置のある裏手へと向かう。屋敷の裏側はひどく静かだった。使用人たちも立ち入らないその一角にある納戸は、午後のうちに陽が届かなくなる。木の扉を開けると、乾いた空気がほこりとともに立ち上がった。誰も使わない小さな空間。昔は着物の収納に使われていたらしい。彰人はその中へ入ると、扉を静かに閉め、闇の中に身を置いた
最終更新日 : 2025-09-15 続きを読む