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明治禁色譚~美貌の御曹司と書生の夜 のすべてのチャプター: チャプター 31 - チャプター 40

58 チャプター

31.檻の中の未来

夕暮れの桂木邸は、日中の熱気を残しながらも、徐々に夜の冷たさに包まれ始めていた。庭の葉は湿った風に揺れ、木々の隙間から入り込んだ赤紫の光が、地面に斑のような影を落とす。草いきれの匂いに混じって、どこからか線香の残り香が漂っていた。石畳の上を、白い足袋が音もなく進む。彰人は庭をゆっくりと歩いていた。手には何も持たず、視線も定まらないまま、茂みや植え込みの隙間をなぞるように進んでいた。耳に届くのは、虫の声と、風の音。そして、屋敷のどこかから漏れてくる人の声。縁側を通り過ぎようとしたそのとき、障子の内側から、兄・篤人の声が聞こえてきた。「彰人にとっても、あの縁談はきっと救いになるだろう。あの子は、誰かに必要とされることでしか、自分の価値を感じられない子だから」静かに、しかしはっきりとした口調だった。そのあとに続いた母の声は、やや抑えた調子であったが、どこか含みをもっていた。「うまくおさまってくれるといいわね。あの子…時々、何を考えているのかわからないところがあるから」彰人は立ち止まった。胸の奥がひやりと凍る。言葉の一つ一つが、自分を他人の目線から語るものとして突き刺さってくる。「救い」「価値」「うまくおさまる」それらの言葉に、彼自身の意志や感情など、どこにも含まれていなかった。ふと、障子の向こうの光が淡く揺れた。夕陽が雲の端に沈みかけ、空の赤みが濃くなる。篤人の声は、もう聞こえなかった。代わりに、遠くから女中たちの笑い声が微かに耳に入る。彰人はその場からそっと背を向け、足音を立てぬよう庭を外れた。苔むした道を通り抜け、物置のある裏手へと向かう。屋敷の裏側はひどく静かだった。使用人たちも立ち入らないその一角にある納戸は、午後のうちに陽が届かなくなる。木の扉を開けると、乾いた空気がほこりとともに立ち上がった。誰も使わない小さな空間。昔は着物の収納に使われていたらしい。彰人はその中へ入ると、扉を静かに閉め、闇の中に身を置いた
last update最終更新日 : 2025-09-15
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32.涙を飲む夜

桂木邸の屋根をなでるように、静かな夜風が吹いていた。庭先の竹が細やかに鳴り、虫の声が微かな余韻を空気に滲ませている。屋敷の中はどこも寝静まり、行灯の灯す橙色の明かりだけが、人の息づかいを忘れたように静かだった。直哉の部屋にも、同じように行灯がひとつ灯っていた。机の上に置かれた筆と帳面、その隣に湯の冷めた茶器。彼は背筋を伸ばして座り、手元の文字を追ってはいたが、視線は数行ごとに曇り、どこか遠くを見つめるようにぼやけていた。障子の外から、微かな足音が聞こえたのはそのときだった。乾いた板張りを滑るような、躊躇いのあるそれは、ふと止まったかと思えば、また少し近づき、やがて静かに戸の前に立ち止まる。直哉が顔を上げると、障子の向こうに影がひとつ、震えるように揺れていた。「……直哉さん」低く、押し殺された声。その名を呼ばれた瞬間、直哉は全身の血が巡り方を変えるのを感じた。椅子を立ち、障子に手をかけると、彰人がそこにいた。白い寝間着のまま、髪も整えず、素足のまま。灯りに照らされた頬には、涙の跡が一筋、光を反射していた。「彰人さん…どうしたんですか」そう問いかけながらも、直哉の声は慎重だった。だが、彰人はもう、その言葉すら待てないというふうに、ふらりと中に足を踏み入れた。「ごめんなさい、夜分に…でも…どうしても…」言葉が、呼吸に押し流される。目元を覆い、声を震わせながら、彰人は直哉の前に立った。「もう…何も…何も考えられないんです…」直哉は黙って、そっと襖を閉めると、彼を部屋の中へと導いた。行灯の灯が、ふたりの影を畳に落とす。その揺れる輪郭は、まるで水面のように頼りなかった。「縁談…決まりました」「父から…正式に…今日、知らせがあって&hell
last update最終更新日 : 2025-09-15
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33.証明の夜

直哉の部屋は、行灯と蝋燭だけが小さく灯る、夜の海の底のような静寂に包まれていた。寝具の上に座した彰人は、まだ涙の跡が残るまま、じっと直哉を見上げている。蝋燭の灯りがゆらゆらと肌の上を這い、頬も首筋も、その色と陰を変えながら闇に溶けていく。襖の向こうには誰の気配もない。ただ、二人だけの呼吸と鼓動だけが、この部屋のすべてだった。彰人の吐息は浅く、しかし熱かった。さっきまで泣き濡れていた唇がわずかに震えている。直哉の指が、彼の頬にそっと触れる。濡れた睫毛、涙に濡れた肌。その感触が、掌に静かに沁み込んでいく。「……まだ、怖い?」直哉の問いかけに、彰人は首を横に振った。「怖いのは……直哉さんが、どこかへ行ってしまうこと」「もう…あなたの声も、温もりも、全部僕のものじゃなくなってしまうのが、何より怖い」彰人の指先が、直哉の手首にそっと絡まる。自分を繋ぎとめるように、力なく細く、しかし確かに。蝋燭の灯がちらちらと揺れて、直哉の頬にも微かな影が生まれる。理性という名の鎧は、いつしか崩れかけていた。彰人の声がかすかに震える。「お願い…僕を、あなたのものだと……証明して」その言葉は、涙と熱とが混ざり合った、痛いほど切実な響きだった。直哉の喉がひくりと震えた。いけないことだと、どれほど自分に言い聞かせても、もう引き返すことはできなかった。彰人の肩を抱き寄せる。手が震えている。だが、その震えは恐れではなかった。自分のすべてを、いまこの瞬間に委ねてしまうことへの、どうしようもない渇望だった。唇が彰人の頬に触れる。涙の塩味が、そこに残っている。首筋、耳元、顎の下。ひとつひとつ、確かめるように口づけていく。彰人は目を閉じ、肩を震わせながらそれを受け入れる。「…あなたのも
last update最終更新日 : 2025-09-16
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34.静謐の裏側

朝の桂木邸は、透き通るような静けさに満ちていた。障子越しの光はやわらかく、畳の上に淡い模様を描きながら、空気を冷たく澄ませていく。新しい一日の始まりを告げるはずの音はどこにもなかった。鳥の声さえ、この屋敷の奥までは届かない。直哉は寝具を静かに整え、白い寝間着の上から羽織を重ねる。手のひらには微かな汗がにじんでいた。夜の名残がまだ体温に残っている。彰人の熱、涙、囁き、そして…あの夜、自分のものになったと告げてくれた柔らかな唇の感触。全てが、現実離れした幻のように思えた。だが、それが夢でない証拠は、すぐ傍にあった。障子を控えめに叩く音。彰人の声が、細く届く。「……直哉さん」呼ばれた名に、胸の奥が揺れた。「どうぞ」直哉が返事をすると、障子が静かに開き、彰人が姿を現す。昨夜の涙の跡は消え、目元にわずかに浮腫みが残るものの、穏やかな顔つきだった。その表情に安堵が滲むのを、直哉は見逃さなかった。「おはようございます」彰人は小さく礼をし、直哉の隣に膝をつく。その動きは控えめで、どこか慎ましい。けれど、その距離感は微妙に近かった。昨夜、自分の腕の中で震えていたことを思い出させる、かすかな温度があった。「眠れましたか」直哉が尋ねると、彰人はうなずいた。「はい。少し、夢を見ました」「どんな夢ですか」「……白い部屋で、誰もいないところにひとりきり。でも、壁に手を当てたら、外から声が聞こえてきたんです。直哉さんの声でした」彰人はそこでふと笑い、目元に柔らかな光が差した。「それだけで、寂しくなかった」直哉はしばし黙って、その横顔を見つめた。窓の外から、風に揺れる椿の葉が影を落とす。静寂の中に、朝の光が細く差し込んでいる。だが、その静謐は、内側に激しい波を孕んでいた。
last update最終更新日 : 2025-09-16
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35.水面下の人脈

帝国大学の門をくぐった瞬間、直哉の呼吸は自然と浅くなった。朝からの決意が、ここにきてさらに引き締まる。敷石を打つ足音が、背筋を伸ばす学生たちや、朝陽の下で手紙を交わす書生たちの間に溶けていく。学問の殿堂と呼ばれる場所でありながら、ここにもまた見えない水脈のように、権力と情報が流れていることを、直哉は身をもって知っていた。講義棟の階段を登りながら、直哉は意識的に表情を整える。昨夜の激情や、桂木邸での不安を、顔の奥に沈める。「帝大の俊英」「桂木家の書生」――どちらの仮面も、今は必要な道具だった。午前の講義が終わる。教授が去り、ざわめきの残る教室で、直哉はそっと隣席の男に声をかけた。「石崎、今朝の新聞、見たか」「見たとも。九条家の若君、やけに贅沢してるって噂さ。あそこは財政が堅いと評判なのにな」石崎は、新聞記事よりも世間話の調子で返してくる。だが、その裏に隠れた事情を探るために、直哉はさらに話題を投げかける。「九条家は次代の後継ぎ問題も抱えていると聞いたが、どうなんだろう」「そこは…さすがに、我々の口にのぼるような話じゃないさ」「ただ、女中の間じゃ妙な噂も出ている。…お前も用心しろよ。あの家は外聞にうるさい」石崎の目線が、どこか探るような色を帯びた。直哉は、軽くうなずいてその場を離れる。昼休み、談話室には紅茶とタバコの匂いが漂う。テーブルの向こうで、華族の息子たちが小声で何やら囁き合っている。白いカフス、きちんと撫でつけられた髪、笑い方までが型にはまっているように見える。「九条家は、また舞踏会を開くらしいな。あの家の令嬢は、家の面目を立てるための駒だと噂されている」「ふん、どこの家も同じだろう。見合いに失敗すれば、本人が悪いように仕立て上げるのさ」言葉の端々に、同情も憐れみもない。それが、この階級の論理だった。直哉はカップを手に取るふりをしながら、会話に耳を澄ませた。九条家の令
last update最終更新日 : 2025-09-17
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36.封じられた傷

直哉の部屋に、静寂が満ちていた。ただ紙の擦れる音、硝子窓の外で風が庭木を揺らすかすかな気配が、蝋燭の灯の中で脈打っている。畳の上には、数通の書簡と、大学から持ち帰った資料の束。それらを前に膝を折った直哉は、背筋を正したまま微動だにしなかった。机の上に置かれた一枚の手紙に、視線を落とす。九条家の、かつての家政使用人から得た証言を記したもの。筆跡は震えており、封筒の縁には濃い墨の滲みが乾ききらぬまま染みていた。「若様が、おつくり遊ばされた坊やのことで、奥方様と激しい言い争いが…」その文言を目で追うたび、紙の上に浮かび上がるのは――桂木家の客間で聞いた尚道の冷ややかな声。彰人を指して「次男など、使い道が決まっていれば十分だ」と言い放った、あの眼差し。直哉は紙をそっと伏せた。脳裏を流れる思考は、冷たく、鋭く、けれど同時に熱を孕んでいた。彼は、もう一通の封筒を取り出した。これは帝大の講義仲間から受け取ったもの。封を切る指先が、わずかに震えているのを自覚しながら、そっと中身を引き出す。白地の便箋には、九条家の長男が数年前に起こした金銭スキャンダルについての記述が記されていた。公にはならなかったが、政略結婚の際に譲渡された地所の名義を巡り、相手方の親族と争いがあったという。証人の一人は口を閉ざしたが、金で沈められた可能性がある…と。直哉は、椅子にもたれかかった。背中が冷たい木肌に当たり、心臓の鼓動が喉の奥でひとつ鳴る。額に浮いた汗が、眉を伝い、頬へ落ちる。「これが、…彰人さんを守る手段か」呟いた声は、部屋の中に沈んでいった。書生として、教師として、己の立場をわきまえていたつもりだった。敬意と節度を以て接し、感情を差し挟むことなどあってはならぬと自制してきた。だが――その制御は、もう意味を失っていた。彰人のあの夜の涙。「僕のことなんか、誰も見ていない」そう震えな
last update最終更新日 : 2025-09-17
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37.匿名の手紙

夜の帳が帝都を静かに包み込んでいた。空は墨を流したように濃く、その下で街灯の光が点々と灯り、石畳に長い影を落としている。直哉は、深く羽織を巻きつけながら歩いていた。指先は袖の中に隠したまま、右手には茶封筒がひとつ。中には、数日を費やして集めた証拠と、一通の手紙。宛名は、都心に拠点を構える某新聞社の内部匿名窓口。「九条家、近年の財政不透明性に関する報告」筆跡は崩さず、事実のみを記した。文中に感情は交えないよう努めたが、滲み出るものは完全に封じ切れなかった。歩くたび、封筒の中で紙が微かに擦れる音がする。それが妙に耳に障り、鼓動と呼吸のリズムを乱す。「あと少し…」呟きは、白い吐息となって闇に溶けた。風が首筋を撫でるたび、体の奥が冷え込む。これは寒さのせいではない。罪の手前に立つ者だけが知る震え。交差点を一つ越えると、赤い郵便ポストが見えてきた。誰もいない。この時間、この場所、完全な無人。直哉は立ち止まり、封筒を見下ろす。掌が汗ばんでいた。乾いた紙がわずかに湿って、指に貼りつく。これを入れれば、すべてが動く。戻れない。誰にも止められない。直哉自身ですら。「…これで、いい」誰に言うでもない言葉。自らに刻むためだけに、そっと口に出した。彰人の顔が浮かぶ。あの夜、涙を飲み、声を震わせて「僕を見て」と言った彼の表情。唇が触れたときの、息の熱。肌が重なったときの、震えとぬくもり。それらが、理性と職務と信念をすべて奪い去った。「君のためだ…これは…」封筒を持った手が、ポストの口に差し入れられる。指先が、迷う。数秒間、ただ、その場に凍りついたように立ち尽くす。けれど、やがて、微かに顎を引いて目を伏せた直哉は、封筒
last update最終更新日 : 2025-09-18
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38.静寂を裂く紙音

障子越しに差す朝の光が、白磁の茶器を淡く照らしていた。卓の上には、湯気の立つ味噌椀と香の物、焼き魚、炊きたての米が静かに並べられている。桂木家の朝食は、いつも通り整っていた。だがその朝、違っていたのは、ひとつの紙切れだった。それは、使用人が「失礼いたします」と声を落として置いていった一部の新聞。薄い紙の質感が、僅かに畳を擦る音を立てた。その音が、不釣り合いに大きく響いた気がした。尚道が箸を止め、無言のまま新聞に目を落とす。視線は冷ややかに文字を追っていたが、表情は一切崩れない。欄の左上に、見出しがあった。「九条子爵家に動揺走る──嫡男にまつわる醜聞と家中金銭の乱れ」文字は、黒々とした墨のように紙面に滲んでいた。直哉は尚道の指先の動きだけを見つめ、視線を逸らさぬよう努めた。指が止まることはなかった。ただ、茶碗の縁をゆっくりと回しながら、尚道は湯を口に含んだ。その横で、篤人が箸を置いた。「…困ったな。随分と大きく出ているじゃないか」誰にともなく漏らした声だった。軽い口調に聴こえたが、そこには本心を隠すような曖昧な苦味があった。だが尚道は何も言わない。啜る音だけが、卓の上の沈黙を塗り潰していた。彰人は、正面の新聞から目を逸らしていた。見ないふりをしていたが、視界の端に、あの見出しがどうしても焼きつく。心臓の奥に、それが鼓動として響いた。「九条子爵家」「嫡男の不品行」「帳簿の不一致」「婚姻の影」ひとつひとつの語が、彰人の胸に楔のように打ち込まれていく。まるで、それは己の解放を宣告する鐘の音のようにも思えた。けれど、それが本当に自由なのか、彼にはまだ分からなかった。空気が、重い。白檀の香がいつもより濃く感じられるのは気のせいだろうか。髪に塗った椿油の香りまでもが、どこか湿り気を帯びていた。「彰人」父の声が、突然落ちてきた。彼は、身体を跳ねさせるようにして顔を上げた。だが尚道は、目を合わせなかった。ただ新聞をたたみ、卓の端に置いた。そして言った。「勉学は続けているか」「…はい」
last update最終更新日 : 2025-09-18
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39.白紙の祝言

襖の向こうで、足音が止まった。彰人は障子の影に立っていた。昼の光が紙を通して部屋を淡く照らし、彼の白い頬に微かに陰を落としている。白檀の香が、朝から続く緊張と混ざり合い、喉の奥に苦く滲んだ。女中の声が、すぐ外から落ちた。「…彰人さま。お知らせがございます」「なんだい」声が震えていないことに、自分でも気づいていた。けれど、胸の奥では鼓動が高鳴っていた。足の先が微かに震えている。敷居の木目が視界の隅で滲んでいるように見えた。「九条家とのご縁談、正式に白紙となりました」息が止まった。その言葉の意味を理解するまで、数秒の間が空いた。「…理由は」「先方のご事情、ということで…お父様からは、そう聞いております」「…そう」短く応じた声の後ろで、脳内では幾つもの言葉が交錯していた。九条家の事情。記事のこと。誰が読んだのか。誰が動いたのか。けれどその答えはひとつしかない。直哉だ。彰人はその名を心の中で呟いた。声には出せなかった。誰にも知られてはいけない。それは、自分だけの秘密だ。女中が静かに襖を閉める音がした。その瞬間、身体の力が抜けた。障子に背を預けるようにして座り込み、額を膝に伏せる。まぶたの裏で光が滲んだ。嬉しい。けれど、泣くわけにはいかない。歓びを表に出せない苦しさが、喉の奥を焼いた。だが、それでもよかった。心の奥のどこかで、ずっと信じていた。自分は、誰にも必要とされていないのではないかと。そう思っていたのに。直哉が、動いてくれた。それが、何よりも苦しかった。ありがたくて、つらくて、嬉しくて。障子の向こう、庭に面した縁側から、風が吹き抜けた。椿の葉が揺れる音が、遠く微かに聞こえた。庭の空気はまだ春の名残を孕み、緩やかに肌を撫でた。彰人はふらりと立ち上がり、自室に戻った。畳に正座することも忘れ、戸棚の引き出しを開ける。そこにしまっていた新聞の束から、今朝の一部を取り出した。
last update最終更新日 : 2025-09-19
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40.沈黙の抱擁

障子の外に、茜色が滲んでいた。西陽が傾きかけた庭先には、まだかすかに鳥の声が残っている。風は静まり、桂木邸の廊下には、日中のざわめきが嘘のように消えていた。彰人は、書生部屋の前で足を止めていた。襖一枚を隔てた先に、直哉がいる。それは確かだった。部屋の中からは筆の音も、咳払いも聞こえなかったが、そこに気配はあった。感じ取れる静けさが、逆に存在の確かさを際立たせていた。指先が震えていた。冷たいわけでも、怖いわけでもない。ただ、胸の奥にあったものが、どうしようもなく昂ぶっていた。彰人は、そっと襖を指で押し、わずかに開けた。「…直哉さん」声は、細く。だが確かに響いた。室内は、行灯の灯だけが柔らかく揺れていた。障子越しの夕光はすでに失われ、代わりに燈されたその橙色が、直哉の背を照らしていた。彼は、机に向かって座っていた。筆は置かれ、両手は膝の上に置かれている。だが、その姿勢は微動だにせず、背筋はいつものようにまっすぐだった。彰人は、一歩、そしてまた一歩と足を進めた。畳の軋みすらも、申し訳なくなるほどの静けさだった。行灯の下に進み出た時、直哉がゆっくりと振り返った。光に照らされたその顔は、少しだけ影を引いていた。目の奥に、何かを潜めたような深さがあった。彰人は、床に膝をつき、そのまま正座した。しばしの沈黙が流れた。二人の間にあるのは、声ではなかった。灯の揺れと、息の音だけだった。やがて、彰人が口を開いた。「…九条家のこと、記事にしたのは」言い切る前に、涙が滲んだ。止めようとしても、頬を伝う感覚は抗えなかった。「…直哉さん、なんでしょう」視線を逸らさず、そう告げた。直哉は、何も言わなかった。ただ、その目をそっと伏せた。だが否定もしなかった。沈黙が、それ自体で答えになっていた。彰人は、唇を震わせながら、声を落とした。「誰にも、言わないから。…絶
last update最終更新日 : 2025-09-19
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