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All Chapters of 変わらぬふり: Chapter 11 - Chapter 20

21 Chapters

第11話

そうだ。紗月は自分の妻なのだ。突然どこかへ消えてしまうはずがない。紗月が福祉施設の支援で忙しく、返信が遅いのも当たり前のことだ。礼奈の言葉は輝也を落ち着かせ、その緊張した体から少しずつ力が抜けて行く。大きく息を吐き、礼奈を見つめる輝也の目には、どこか申し訳なさそうな色が宿っている。「礼奈、お前が大人しくしていてくれれば――正式な結婚以外、何だって与えてやれる。 でも絶対に覚えておけ。絶対に、紗月の前には現れるな」深夜、礼奈は何度も嘔吐を繰り返した。ようやく容体が落ち着いた頃には、空はすでに薄明るくなり始めている。輝也もほぼ一睡もできず、顔には明らかな疲れが滲んでいる。それでも、彼は迷わずすぐに自宅へ戻ることを選んだ。心臓は不安定に波打ち、紗月に会うまでは落ち着かない。帰宅前、輝也はあらかじめ買っておいたジュエリーを助手に届けさせていた。そのネックレスはオークションで落札したもので、前回、間違ったネックレスを贈ってしまったことへの埋め合わせに、世界で唯一無二のネックレスを送ると話した。その約束を、彼は忘れていない。指先でジュエリーボックスの表面をなぞりながら、紗月がこのネックレスを見て喜ぶ顔を思い浮かべると、自然と唇の端が上がった。我慢できず、彼女に電話をかける。「おかけになった電話は……」切って、再度かける。「おかけになった電話は……」もう一度切って、またかける。紗月はまだ寝ているのかもしれない。そう思って、輝也がスマホを置いた。高鳴る鼓動を抑えながら、大きく息をつき、輝也はアクセルを踏み込んだ。本来なら一時間かかる道のりを、四十分で走り切った。車を降りると、足早に家へと向かい、速くドアを開けて入ると思っている。焦るあまり、玄関でつまずいてよろけるほどだ。その様子に自分でも苦笑したが、足は止まらない。寝室のドアを開けるその瞬間には、期待と喜びを込めた笑みを浮かべ、声を潜めて呼びかけた。「紗月……」「……」その笑みは、次の瞬間には固まっている。空気は凍りつくように静まり返っている。視線を巡らせても、思い描いていたような、眠たげな紗月の姿はどこにもない。部屋には長らく人が使っていないような、うっすらとした埃の匂いが漂っている。「紗月?」「……」輝也の眉がひ
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第12話

【僕、澄川拓海は、澄川紗月との母子関係を永久に断絶することを誓う】歪んで乱れた文字の下には、血のように赤い指印と、整った署名がはっきりと刻まれている。【澄川紗月】紙が広げられた瞬間、輝也の表情がまるで血の気を失ったように真っ青になっているのも知らず、拓海は興奮した様子でその紙を拾い上げた。「わあっ!ママサインしてくれたの?やった!これでやっと、役立たずのママなんかいなくなった!パパ、いつになったら礼奈さんを家に連れてくるの?だって礼奈さんって、ママとそっくりだし、友達にはバレないよね」子どもの無邪気な言葉が、この瞬間においてはあまりにも残酷で、輝也の顔から血の気がすっかり引いていった。彼は戸籍謄本をぎゅっと握りしめ、必死で希望を捨てまいとしている。これは、ただの冗談だと願っている。紗月がただ、少し拗ねているだけだと。しかし、震える指で戸籍謄本を読み、そこに記載される二人の名前と、はっきり書かれている【離婚】の文字を確認した瞬間——目の前が再び真っ暗になった。もう、自分に嘘はつけない。紗月は——本当に怒っているのだ。彼女はすべてを知っている。自分のした汚いことも、礼奈の妊娠も、そしてこの数ヶ月の裏切りの全てを。どうりで最近、あんなに静かだったわけだ。自分が家を空けても、何の反応もなかった。それはもう、完全に失望されているからだ。……そういうことなのか。視界がかすみ始め、輝也は必死にめまいを抑えながら、唇を噛み締める。そして、横でニヤニヤと喜んでいる拓海を見た瞬間、怒りが一気に爆発した。彼は憤怒の表情で、拓海の手からその紙を奪い取り、何度か引き裂いて細かくし、それを宙にばら撒いた。「バカ野郎!お前、ママに何を言った!誰が礼奈を『新しいママ』だなんて教えたんだ!お前のママは、永遠に紗月だけだ!すぐにママに連絡しろ、連れ戻すんだ!」このところ、輝也はずっと紗月に連絡が取れなかった。恐らく着信拒否されている。だから今は、拓海に頼るしかない。しかし拓海は、手首のスマートウォッチを押さえたまま、連絡を取ることに乗り気ではない。「なんで連絡しなきゃいけないの?ママなんか、もう帰ってこない方がいいよ。それにパパだって、礼奈さんのこと好きでしょ?」拓海の言葉を聞いた瞬間、輝也の瞳孔が
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第13話

情報を受け取った輝也は、すぐにでも向かいたい気持ちでいっぱいだ。だが、動き出す前に、突然、拓海がどこから現れ、輝也の足をしっかりと抱きしめてきた。輝也は低く呪いながら「離して」と叫んだが、拓海はさらに力を込めて抱きつき、必死に叫び声を上げた。「パパ、礼奈さんが病院に行ったんだ!さっき電話が来て、泣きながら『ごめん』って言ってた。僕、誰かが堕胎しろって言ってるのを聞いたんだ。パパ、礼奈さんを見に行って!僕、心配なんだ!ママなんか心配しなくても大丈夫だよ。礼奈さんの方が心配だよ!」拓海は、礼奈とビデオ通話した時のスクリーンショットを見せてきた。涙で腫れた目、抑えきれない脆さ、唇をかみしめて泣き声を必死に耐えている様子。それはまさに紗月にそっくりだ。ほんの一瞬、輝也の心はざわつき、もう一度心が動きかけた。紗月が出て行ったのは、すべて礼奈だけのせいではない。彼の不注意も大きかった。今や紗月の住所もわかり、きちんと説得すれば戻ってきてくれるだろう。そうすれば、礼奈のお腹の子供だって問題にはならない。思いにふけた輝也は、少し顔色を和らげ、拓海を引き起こして礼奈に電話をかけた。電話が二回鳴った後、礼奈が慎重に出た。「輝也……」泣き声を上げる礼奈に、輝也は眉を寄せながら話を遮った。「子供のことは放っておけ。紗月が戻るまでは、静かにいてくれ。おとなしくしろ、これは最後のチャンスだ」この一言で、礼奈は自分が成功したことを理解した。輝也はまた心を許してしまったのだ。一度許されれば、二度目もある。その結果は予想外ではないが、十分な驚きではある。礼奈はお腹を抱えながら、目に見える笑顔を浮かべ、何度も繰り返していた病院での録音を切った。輝也は電話を切ると、拓海を一瞥し、すぐに階段を下りて車に乗り込んだ。運転手には最速で、紗月の家の下に到着するよう指示を出した。一方、紗月は就任の手続きを済ませ、仕事の内容や福祉施設の状況についても理解を深めている。彼女は過去十数年間、同じような仕事をしてきた。多くの福祉施設を支援し、その施設に住む子どもたちの成長を見守り続けていた。そのため、スポンサーから施設長に変わったことは、さほど難しいことではない。だた前より忙しくて、疲れる日々が続いている。仕事
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第14話

紗月の顔には困惑の色が浮かんでいる。輝也の行動が理解できないのだ。彼が再び自分の前に現れた理由が、紗月には思いつかない。浮気をしたのは彼。彼女への態度が日増しにぞんざいになり、苛立ちを隠さなくなったのも彼。そして、礼奈を妊娠させたのも彼。紗月はずっと、離婚に同意し、離婚届を出したことが、誰にとっても歓迎すべき結末だと思っていた。だが今、目の前の輝也は、彼女の想像とはまるで違っている。青ざめた顔で、その場から動こうとせず、彼はまたしても紗月の冷たく硬くなった両手を強く握った。「紗月……俺は、離婚に同意していない。俺は、離婚なんて一度も考えたことがない。ずっと、愛しているのはお前だけなんだ」紗月が信じないのを恐れ、輝也はポケットから何日も大事にしていたネックレスを取り出した。慌ててそれを外し、紗月の前に差し出した。「紗月、このネックレスはオークションの主催が特別に俺に譲ってくれたものなんだ。世界に一つだけの限定品だよ。本当は、もっと早く渡したかった。でも家に戻った時には、もうお前はいなくて……置いてあったものも、正直怖かった。お前を探すために、寝る間も惜しんでここまで来た。目を閉じるのが怖かった。本当に、お前が俺を捨ててどこかへ行ってしまう気がして。……紗月、もう怒らないでくれないか?」目を伏せながら、彼は悲しそうな表情を見せ、ゆっくりとネックレスを紗月の首にかけようとした。紗月はもともと、機嫌を取るのが簡単な人だった。十一年間、一度も大きく怒ったことがない。数少ない喧嘩の時でさえ、彼が少しだけ頭を下げて、優しい声で宥め、プレゼントやサプライズを用意すれば、すぐに収まった。輝也は、紗月が自分を深く愛していることを知っている。その愛の深さは、かつて自分が紗月を愛していた頃と同じ、いや、それ以上だ。だから、たとえ今みたいに離婚したのも、ただの拗ねた行動だとしか思っていない。いつものように、弱い姿を見せて甘えれば、また戻ってくるだろうと。けれど、すべては彼の思い描いた通りにはいかなかった。ネックレスが紗月の首に触れた瞬間、彼女はそれを手で押さえ、静かに外した。その瞳には、これまでに見せたことのない真剣な光が宿っている。「……じゃあ、礼奈は?」輝也の顔に、一瞬の動揺が走った。だがすぐ
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第15話

夜になると、紗月のスマホには、次々とメッセージが届いた。【紗月、お前はいま怒ってるから、余計なことは言わない。ただお前が会ってくれるまで、謝罪を聞いてくれるまで、下でずっと待ってる】【紗月、寝る前にはあたたかいミルクを飲んで。お前は眠りが浅いから、いつものアイマスクも忘れないように。夜中に目が覚めづらくなるから】【最近寒くなってきたね。足の古傷が痛むだろうから、お湯に浸けてから寝るんだよ】【紗月、明日の朝ごはん、何が食べたい?俺が買っておくよ。もしお昼の方がいいなら、それも用意する。仕事で忙しいだろうから、前もって届けさせるね】【紗月……】──そんなメッセージが山ほどあった。一瞥しただけで、紗月はそれ以上目を通すこともせず、カーテンを引いて、階下から感じる熱い視線を遮った。そして、その夜はぐっすりと眠った。翌朝六時、紗月は福祉施設へ向かうために家を出た。だが玄関を出た瞬間、輝也が彼女の前に立ちふさがった。彼は一晩中帰らずにいたのだ。「紗月、俺が送っていくよ。朝ごはんも買ってきた。お前の好きなものばかりだ。車の中で食べながら行こう?」輝也は頭を振って眠気を振り払うと、無理に明るい笑顔を作って紗月に近づき、手に持った朝食を押しつけるように差し出した。「紗月……」「いらない」だが紗月はまったく取り合わなかった。顔を向けることすらせず、足早にその場を立ち去った。その日は二組の養親希望者との面談が予定されていて、やるべきことが山ほどある。輝也の相手をしている時間など、どこにもない。福祉施設に戻ると、紗月は養親希望者の連絡先を受け取り、それぞれ午後と夜に会う予定を組んだ。ちょうどその頃、輝也からまたメッセージが届いた。【紗月、お願いだ。ちゃんと話をしよう。紗月、十一年の想いだ。少しくらい説明の機会をくれてもいいだろう?怒ってるのはわかる。でも拓海のこともあるし、少し冷静になろうよ。今、施設のゲートの前にいる。お前が出てくるまで、ここでずっと待つから】何を話す必要があるのだろうか。紗月は会うつもりも、必要性も感じない。彼の連絡先を通知オフに設定し、メッセージは見なかったことにした。二組の希望者とも正式に養子縁組が決まり、続いて事務手続きへと進める必要がある。すべて終える頃には、すでに夜の七時を
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第16話

レストラン。養親希望者として現れたのは、若い男性だ。妻が子どもを産めない体だと分かったため、ふたりで話し合って養子を迎えることを決め、十分な準備を重ねてきた。だが、その妻が急な体調不良で今日は同行できなかったという。その埋め合わせとして、男性はテーブルの上にスマホを置き、ビデオ通話で妻に「すべて順調だから安心して」と報告した。明日には一緒に子どもを連れて帰れると笑顔で話している。初めての父親として緊張気味な様子の彼は、「いろいろ教えていただけませんか」と紗月に丁寧に頼み込んだ。誠意ある養親には、紗月はいつだって真摯に向き合う。彼女はあらゆる細かいこと──育児の理論から実践的なコツまで──自分の知る限り、惜しみなく伝えた。気づけば、あっという間に二時間が経過していた。ふと横を見ると、子どもはあくびを繰り返し、眠たそうに目を擦っている。ようやく紗月は時間が遅くなっていることに気づき、席を立とうとした。……そのとき、急に腕を強く引かれた。次の瞬間、紗月は椅子ごと引っ張られるように立たされ、レストランの外へ連れ出された。目を上げると、そこには目元を赤くし、顔色の悪い輝也が立っている。「輝也……何してるの……?」紗月の顔に明らかな不快感が浮かび、反抗しようと思った。咄嗟に腕を振り払おうとしたが、輝也は腕に力を入れ、彼女の両手を無理やり押さえつけた。「輝也、やめて!何のつもりなの!?」怒気を含んだ声で叫ぶも、輝也は何も答えない。ただ黙って彼女を引っ張り、自分の車へと押し込んだ。ようやく車内に入ったところで、輝也が彼女へと視線を落とした。常ならず暗く冷たいその瞳は、今や探りと審査の色を帯びている。やがて、口元に薄ら笑いを浮かべて言い放った。「……俺と会うのは嫌だって言ってたのに、あんな見知らぬ男とは楽しそうに二時間も喋るんだ?肩寄せ合って、スマホの画面まで共有して──ずいぶん仲良さそうだったな。もしかして、今年中には結婚式招待状でもくれるのか?紗月……お前がこの間ずっとは怒り続けている。俺の説明も聞かず、会おうともしない。本当にただ俺の行動が耐えられないからだけて、離婚を選んだのか?」輝也の問い詰める声が響くと、紗月の顔から血の気が引いた。彼女は輝也を凝視し、目は驚きに満ちていた。またしても、輝也
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第17話

車から降りた紗月は、掴まれて青紫色に変色した手首を軽く揉みながら、そっと袖を引き下ろして傷を隠した。養親希望者を驚かせたくないのだ。簡単に謝罪と事情の説明を済ませたあと、二人は別れてそれぞれの道へと向かった。紗月は、レストラン前に車を停めて待っていた輝也を無視し、自らタクシーを拾って真っすぐ帰宅した。その夜、輝也は彼女の家の前に現れ、ドアを二度ノックしたかと思えば、彼女が出てくる前に慌ただしく立ち去った。紗月が玄関を開けた時、そこには花束と薬、そしてプレゼントがきれいに並べて置かれている。花束にはカードが添えられている。内容はいつも通りだった──謝罪、懺悔、許しを乞う言葉、そして復縁の願い。紗月は一瞥しただけでそれらを元の位置に戻し、手を触れることもせず、目もくれずにドアを閉めて再び休息に戻った。ぐっすりと一晩眠ったおかげで体調も戻り、簡単な朝食を済ませたあと、ゆっくりと施設へ向かう。おそらくは彼女の冷たい態度がようやく効いてきたのだろう。何日か、輝也の姿はまったく見えない。やっと平穏が戻ったのかと、紗月が胸をなでおろしたその矢先──輝也は、拓海を連れ、寄付のものが入ってる十数台ものトラックを引き連れて、大げさな様子で施設の前に現れた。ちょうど紗月が養親希望者と最後の打ち合わせを終えたところで、相手を送り出す間もなく、同僚が慌てて彼女を連れて施設の前へ向かった。「拓海、ママに会いたいって言ってたよね?あそこにいるのが、ママだよ。なんて言うの?」紗月が目を向けると、ちょうど拓海と視線が合った。以前は敵意に満ちていたその目には、どこか澄んだ色と媚びるような光が宿っている。「ママ!ママ、やっと会えたね!すごく会いたかったよ!パパと一緒に帰ろうよ。ずっと家でママを待ってたんだ。僕たちは、ずっと家族だよ!」確かに、拓海は頭が良い子だ。だが、その賢さには明確な目的がある。かつては彼女を一目見るのさえ嫌悪し、「あんたがいるせいで、パパが家に帰ってこない」と繰り返し非難していた拓海が、今や「ママが自分にとって使える存在になった」と判断した途端、好意的な態度を取り始めたのだ。拓海に潜む考えの深さは、輝也から完璧に受け継がれている。紗月がまだ何も答えぬうちに、輝也が歩み寄ってきて、そっと彼女の手を取
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第18話

輝也の申し出を拒んだ紗月は、児童福祉施設へ戻った。養親との連絡、子どもたちの食事管理、日々の様子の見守り、その他さまざまな仕事の確認……単調ではあるが、欠かせない日々の業務を淡々とこなしている。だが、平穏な日々は長くは続かなかった。ある日、施設のゲート前で騒がしい声が上がった。何事かと紗月が不思議に思っているところ、同僚が慌てて駆け込んできて、ゲートの方向を指しながら言った。「紗月さん、大変です!ゲートのところに女の人が紗月さんに会いたいって……妊婦さんなんですけど、泣きながら『紗月に家庭を壊された』って言ってて、今にも土下座しそうな勢いなんですよ!早く来てください!」妊婦、家庭を壊された――その言葉を聞いた瞬間、紗月の心に嫌な予感がよぎった。彼女は無言でうなずき、手元の書類を片付けると、足早にゲートへと向かった。ゲートの前に着くより先に、相手の女性はこちらに気づき、さらに激しく泣き叫びながら駆け寄ってきた。今にも抱きついてくるような勢いだったが、紗月はその顔をしっかり見定め、その膨らんだお腹を一瞥すると、そのまま動かなかった。次の瞬間、相手は勢いよく膝から崩れ落ちた。土下座するように紗月の脚を抱きかかえたその女性は――礼奈だ。「お願い、紗月……お願いだから輝也を返して……!私、土下座でもなんでもする!お腹の子はパパがいないとダメなの!あなたたちはもう離婚したんでしょ?壊れた家庭は壊れたままでいいじゃない、お願い、私の家庭を壊さないで……!」泣きながら、礼奈は紗月の服の袖を握りしめ、再び地面に膝をついた。「拓海くんは私のこと『ママ』って呼ぶようになったの、雅子さんも、もう結婚の準備を始めてる……全部順調だったのに、あなたのせいで輝也、家に帰ってこなくなったの! 検診にも付き添ってくれない!私の家庭はもう崩壊寸前なのよ!お願い、紗月……どうか、私たちを許して……!」その頃、下校時間と重なっており、町中の保護者たちが行き来している。たちまち、彼女たちは人々に囲まれてしまった。人々はサルでも見るような好奇の目で眺め、あれこれと勝手な評判を口にしている。「お腹があんなに大きいのに土下座って……どれだけ切羽詰まってんのよ」「施設長ってこの人?男を寝取ったんじゃないの?この間まで素敵な人って
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第19話

紗月の声が大きくないが、それでも周囲にははっきりと聞こえる。彼女が不倫相手などではなかったと理解した人々は、急ぎ足でその場を立ち去っていった。人だかりが散っていく中で、紗月もまた、もうこの場に留まる理由を見失っている。何より、輝也と長く一緒にいたくない。輝也の瞳にどれほどの想いが浮かんでいても、紗月はそれを見ていないふりをした。彼の目の前で一歩後ずさり、静かにゲートを閉じる。そして、最後にきっぱりと告げた。「輝也、もう私を探さなくていい。あなたも知ってるでしょ?私、一度決めたことは絶対に変えないから」紗月は、選んだ道を決して後悔しない人間だ。それは、輝也自身が誰よりもよく知っている。彼の体が一瞬ふらついた。拒絶と深い悲しみが、目の奥ににじむ。何か言おうとしたが、紗月はもう背を向けて歩き出している。どんなに彼が呼びかけても、一度も振り返らない。輝也は呆然としたまま車に戻った。まだ礼奈との決着もついていないのに、彼女の方から近寄ってきた。「輝也、過去のことはもう、過ぎたことでしょ?」甘ったるい声で、瞳を見開き、紗月に似せた表情を浮かべる。「私がいるじゃない、私はずっとあなたの味方よ。輝也、見て……私たちの赤ちゃん、もう三ヶ月よ。もうすぐ生まれる。そしたら、私たち家族で、ちゃんと幸せになろ?……いいでしょ?」口では「いいでしょ?」と言っていたが、礼奈の目の奥には、絶対に手に入れてみせるという執念がはっきりと宿っている。次の瞬間、輝也はぐいと顔を向け、彼女の腹部をじっと見つめた。その視線の熱に、礼奈は輝也が心を動かされたと勘違いし、嬉しそうに笑って両手を広げて彼に抱きつこうとした。だが――彼女の腕が輝也に触れる前に、車は突然爆音とともに急発進した。「きゃっ!」シートに体を投げ出された礼奈は、腹部が押しつぶされるような衝撃に顔をゆがめ、声を上げた。「い、痛っ……!」だが輝也は一切彼女に目もくれず、眉間に皺を寄せ、唇を硬く結んだまま。アクセルを緩める気配もない。やがて、礼奈は異常に気づいた。お腹の痛みさえ気にかけず、慌ててシートベルトを引き寄せながら手すりを握りしめ、震え声で尋ねた。「輝也……どこへ行くの?」彼女の視線の先で、輝也の眼差しはどんどん暗く、鋭くな
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第20話

凄まじい悲鳴が階段の踊り場に響き渡った。看護師は慌ててストレッチャーを押し、手術室へと運び込む。もともと双子の妊娠は不安定だったうえ、八階の階段から転落したのだ。中絶を待つまでもなく、赤ん坊はその場でなくなってしまった。手術室から出てきた医師の口から出たのは、「赤ちゃんは助かりませんでした」の一言だけだった。輝也はその報告を聞いても、何の感情の起伏も見せず、ただ軽く頷くと背を向けて歩き出した。だが、その瞬間――病室の中から、かすれた、しかし凄絶な叫び声が再び響いた。「私を囲ってたのはあんたよ!紗月を置いて何度も私に会いに来たのも、あんたじゃない!今さら紗月に汚いって言われて離婚されるって?自業自得じゃないの!私の子を堕ろさせて、私を追い出して、紗月が戻ってくると思ってるの?無理よ!あんたなんかもう汚れてるの。彼女はもうとっくにあんたを捨ててる!輝也、あんたなんか、紗月は見るだけでも吐き気するって!復縁?夢でも見てなさい!」静まり返った病院の廊下で、輝也の足がぴたりと止まった。周囲のボディーガードや看護師は、息を呑み、身動きひとつ取らない。輝也は指の関節をすり合わせながら、一瞬だけ視線を泳がせた。「この女を二度と俺の前に近づけるな、どこへでも追い出せ。それから、うちの親にはきちんと話を通しておけ。勝手なことはさせるな」手首を下ろしながら、彼は冷たく指示を出し、再び歩き出した。輝也はこの件をすべて片付けてから、誠意を持って紗月の元へ戻ろうと考えている。だが、彼の思惑とは裏腹に――想定外の出来事が、すでに始まっている。礼奈が退院する日、輝也の母・雅子が一度だけ彼女の病室を訪れた。輝也のしたことがあまりに酷く、さすがに申し訳なく思ったのか、彼女は一枚のカードを差し出した。「これは気持ちだから。これ以上問題を起こさないで、もう二度と現れないでね」数日前には「お嫁さん」と親しげに呼んでいたその女が、今やまるで汚物を見るような顔をしていたことに、礼奈は思わず笑い出しそうになった。だが、瞳の奥に現れた嫌悪と計算を隠し、従順なふりをしながらカードを受け取った。「ご心配なく、おばさま。ちゃんと消えるから」退院したその足で、礼奈はすぐ近くの銀行へ向かった。カードに入っていた金をすべて引き出し、現金
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