All Chapters of 沈む夕陽、届かぬ便り: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

「お嬢さん、うちの妻、もう年でね。座席券が取れなくて困っているんだ。少し座らせてもらえないだろうか?」澪奈はぼんやりと目を開けると、目の前に立つ年配の男性が、隣の女性を指さして話しかけているのが見えた。バスを降りて間もなく、少し疲れていたが、二人の年齢を思えば澪奈は迷わず頷いた。「どうぞ。座ってください」そう言って荷物を抱え、すっと立ち上がると通路側へ身を寄せた。窓の外を流れる景色を眺めながら、澪奈は心が軽くなるのを感じていた。これが彼女にとって初めて乗る長距離列車だった。移動は少し長く感じられたが、目に映る風景はどれも新鮮で、大学生活への期待が自然と胸にふくらんでいく。二十分ほど経ったころ、先ほどの年配の男性がやって来て声をかけた。「お嬢さん、戻って座っていいよ。座席、追加で取れたから」澪奈が席に戻ると、二人の座席はちょうど彼女の向かいだった。しかも、座席の上には色とりどりのお菓子が置かれている。思わず目を見張る澪奈に気づき、年配の女性が笑みを浮かべて言った。「これね、うちの青ヶ丘の名物なの。よかったら食べてちょうだい。さっきは席を譲ってくれて本当にありがとうね」「いえ、少し立っていたかっただけですから」澪奈は照れながら遠慮したが、女性はすぐに菓子包みを差し出した。「遠慮しないで、ほら、受け取って」その好意を断ることはできず、澪奈は素直に受け取った。女性は気さくで、すぐに会話が弾んだ。澪奈が青ヶ丘市の大学に進学することを話すと、孫の真緒も同じ大学に通っていると教えてくれた。もしかしたら顔を合わせることもあるかもしれない、と。澪奈はにこやかに耳を傾けながらも、特に気に留めることはなかった。大学は広く学部も多い。同じ学科でもなければ、知り合うことはほとんどないだろうと思った。列車が駅に着くと澪奈は礼を述べて二人に別れを告げ、荷物を抱えて大学の受付へと向かった。壮大な門の前に立ち止まり、澪奈は一瞬、ぼうっとした。胸の奥に前世の記憶がふとよみがえる。――願いどおり綾人と結婚したが、思い描いた幸福は訪れなかった。毎日絶え間ない家事に追われ、子どもの世話に明け暮れ、裕福な奥様のような暮らしとはほど遠い日々。綾人も子どもたちも口には出さなくとも心のどこかで自分の学の浅さを見下して
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第12話

「ねえ、よかったら手伝おうか?」柔らかくどこか耳に残る声が不意に聞こえた。澪奈が顔を上げるとバスケットボールのユニフォーム姿の男子が階段の上に立ち、こちらを見下ろしていた。太陽の光に照らされた横顔が眩しく、その瞳はさらに人の心を惹きつける。思わず一瞬動きが止まった。彼が指さしたのは、澪奈の荷物だった。ようやく我に返った澪奈は、慌てて口を開いた。「いえ、大丈夫です。自分でできますから……その代わり、受付と女子寮の場所を教えていただけませんか?」「もちろん。こっちだよ」そう言うと、彼は階段を下りてきて自然な仕草で澪奈の荷物を受け取った。見た目ほど量は多くなくても、実際に提げて歩くとずしりと重い。澪奈もそれ以上は何も言わず、その好意を素直に受け入れた。手続きを済ませたあとも、男子は彼女の荷物をそのまま女子寮の前まで運んでくれた。「今日は本当に助かりました。ありがとうございます」額に汗を浮かべた彼を見て、澪奈は少し申し訳なさそうに頭を下げた。「気にしなくていいよ。僕の役目は新入生の案内だから。僕は朝霧真緒。君は?」「真緒……さん?」その名前を耳にした瞬間、澪奈は列車の中で出会った女性の言葉を思い出した。しかし同じ名前の人など珍しくもない。軽々しく尋ねるのはためらわれ、胸に芽生えた好奇心を押しとどめた。「どうしたの?」真緒が首を傾げる。「いえ……ちょっと聞き覚えがあっただけです。私は橘川澪奈といいます」「澪奈……いい名前だね」簡単に自己紹介を済ませると、朝霧真緒(あさぎり まお)は次の新入生の案内へと足早に向かっていった。澪奈は自分の荷物を引きずりながら、息を切らして五階まで上がる。寮の扉を開けるとすでに新入生がいた。隣の部屋のベッドの上で、一人の女子が荷物を整理している。澪奈に気づいた彼女は、ひょいとベッドから飛び降りて、笑顔で声をかけた。「こんにちは。私は白川夏海」少し緊張していた澪奈だったが、その明るい女子にすぐ心がほぐれた。「こんにちは。橘川澪奈よ」自己紹介を終えると二人は自然に言葉を交わし始めた。白川夏海(しらかわ なつみ)は澪奈の荷物が少ないのを見て、先に食堂で食事を済ませ、あとで戻って荷物を整理することを勧めた。荷物を置いて出かけようとした
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第13話

責任者は瑠花を一瞥し、ゆったりと茶をひと口すすると、にやりと笑った。 「なんだ、瑠花さんだったか。誰かと思ったよ。この表は勝手に変えられないんだ。みんなで順番を回してる以上、不公平なんてことはないだろう?」のらりくらりとかわすような言葉に、瑠花は腹立たしさを覚えた。「記憶違いじゃない?本来の責任者は綾人よね。彼は私に、この手の雑務はやらなくていいってはっきり言ってたわ」綾人の名を口にした途端、瑠花の声音には芯が宿る。彼のおかげで、村の人々は彼女を一目置いていた。責任者どころか、村長や幹部でさえ彼女には笑顔で接していたのだ。「確かに、前に綾人さんはそう言ってたな。けど、これは新しい表なんだ。君を加えたのも彼の意向だ。俺が勝手に書き換えるわけにはいかない。それに、普段からみんなが君の分を肩代わりしてるだろう?村で一日中何もしない人なんて、君くらいだ。文句があるなら、直接綾人さんに言えばいい」瑠花は不安に駆られ、服の端をぎゅっと握りしめた。瞳の奥にはかすかな怨みの色がにじんでいる。あの病室から出て以来、彼女は何度も綾人に問いただそうとした。――なぜ澪奈が大学に行けることになったのか、と。しかし綾人は一度として彼女に会う機会を与えなかった。肩を落としたまま、瑠花はしょんぼりと事務所を後にした。村の開発事業に携わる人々はもともと彼女に不満を抱いていた。事務所で肩身の狭い思いをしたのを見届けるや否や、さらに口々に噂を広めた。「ほらな、やっぱり自業自得だ。普段は何もせず、綾人さんの隣で飾り物みたいにしてたんだから。今こそ苦労を味わうべきだろう」「まったくだ。見た目を取り繕ってても、前から綾人さんとの関係は怪しいと思ってたんだ。そしたらさ、信じられるか?」「どうした?」「澪奈の両親に、あの二人が現場を押さえられたらしい。目撃した人も結構いるって話だ。今じゃ綾人さんも彼女を相手にしてないし、どうやって威張り続けるつもりなんだか」「なるほどな。この前、綾人さんが婚約者を救わずにわざわざ彼女を助けたって噂も聞いたが……やっぱり天の報いってやつだな」囁き声は抑えられることなく、時折混じる笑いがいやに耳障りだった。すぐそばでその会話を聞いていた瑠花は、怒りと恥辱で胸を焼かれる思いだった。けれど、何も言い返せなかっ
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第14話

「綾人、違うの!わざと騙したんじゃないの。最初は嫌だったけど……でも、相手があなただと知って、心から嬉しかったのよ!うちの家はどうしても御影家と手を組んで、この開発を進めなきゃならなかったの。お見合いだって家の事情で決められたことで、私にはどうにもできなかったの!」瑠花の表情には絶望の色が浮かび、綾人に縋るように必死に許しを乞うていた。しかし綾人の目に映る彼女は、記憶の中の瑠花とはまるで別人で、胸に広がるのは深い失望だけだった。彼はゆっくりと歩み寄り見下ろすように彼女を見据えると、砕けそうなほどの強さで顎を力任せに掴んだ。「君は俺のために一緒に田舎まで来たと言った。だから俺は君の言うことをすべて聞いた。君が大学に行きたいと言うから、俺はリスクを背負って澪奈の入学通知書を取ってきたんだ。会所で澪奈にアレルギーを起こさせたのも、君だろう?瑠花、君は俺にたった一度でも本当のことを言ったことがあるのか?」瑠花は目を大きく見開き、顔色を紙のように蒼白にした。「綾人……」服の裾を掴み、必死に縋りつく。「私の気持ちは本物よ。信じて……お願いだから」「人の命すら軽んじる君を、俺が信じられるか」綾人の冷酷な言葉に瑠花の表情は一瞬で凍りつき、やがて暗い影を帯びた。「じゃあ、あなただって同じじゃない!約束を破ったのはあなたの方でしょ!結局、澪奈は大学に行けて、私はあなたと一緒にこんな田舎でくすぶるしかなくなった!彼女のことは好きじゃないって言ったのに、澪奈がいなくなったときは誰よりも慌ててたじゃない!綾人、あなただって私と同じよ!冷たくて人間味がないって、みんなそう言うけど、結局は自分のためなら手段を選ばない人間じゃない!そんなあなたに私を責める資格なんてあるの?」綾人は黙って顎を放し、次の瞬間頬を打ち据えた。瑠花は床に叩きつけられ、口元から血が滲む。「田舎が一番嫌いだと言ってたな?じゃあ当ててみろ。もし俺が都に帰させなかったら、君は帰れると思うか?君の両親は結婚を急いでいるそうだな。なら、ここで君に相応しい縁談を用意してやれば、心配する必要もなくなるだろう?」「いや!そんなの嫌!私は家に帰る!お願い、お願いだから……今回だけは許して!」瑠花は絶叫した。だが綾人は容赦せず、部下を呼びつけて
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第15話

翌朝早く、綾人は始発の青ヶ丘市行きの列車に乗り込んだ。胸の奥には、期待と不安が入り混じっている。青ヶ丘市に着くと、彼は真っすぐ澪奈の通う大学の正門へ向かった。事前に学部や寮の場所まで調べてあった綾人は、受付を済ませると、そのまま寮の前で彼女を待つことにした。行き交う学生たちを目で追ううちに、胸のざわめきは次第に強くなっていく。再び澪奈と顔を合わせるのが、なぜか怖い――その思いに自分で気づいてしまった。ふと見覚えのある後ろ姿が目に留まった。綾人は思わず駆け寄り、その手を掴んだ。「澪奈!」振り返った少女は、怪訝そうに眉を寄せた。「私たち……知り合いですか?」体格も髪型も澪奈によく似ていたが、別人だった。綾人は自分の早とちりに気づき、慌てて頭を下げ元の場所へ戻った。その後も昼から夕暮れまで待ち続けたが、澪奈は姿を見せなかった。もう諦めようとしたとき、別の方向から彼女が歩いてくるのが見えた。「……澪奈」綾人は低く、その名を呼んだ。隣にいた夏海がすぐに気づき、振り返った。「澪奈、あっちで誰かが呼んでるよ」足を止めた澪奈がその方角を見やると、そこに綾人の姿があった。自然と眉間に皺が寄る。綾人?どうしてここに?あの村の開発事業から、そう簡単に抜けられるはずがないのに……まさか、また瑠花のことで?きっと、あの入学通知書と合格証が偽物だと気づいて、問いただしに来たのだろう。けれど、大学に入る資格を勝ち取ったのは紛れもなく自分の努力の結果であり、彼ら二人とは何の関わりもない。澪奈は相手にする気もなく、無駄な言い争いを避けたかった。夏海の腕を取って、そのまま寮の中へ足を踏み入れた。「行こう。知らない人だから」その声は冷ややかで、一度たりとも綾人の方を見なかった。その言葉は綾人の耳に届き、彼はその場に立ち尽くした。追いかけようとしたが、入口で寮の管理人に制止された。こんな屈辱は初めてだった。だが、自分が澪奈にしてきたことを思えば、この仕打ちも当然だと胸に刻むしかなかった。そう思い直した綾人は足早に大学を後にした。ここまで来たのだ。必ずや彼女の心を取り戻す――そう固く誓いながら。――寮に戻ると夏海はベッドに身を投げ出し、待ちかねたように話を切り出した。「
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第16話

どちらを選んでも現実味があるとは思えなかった。それに夏海に向かって「生まれ変わった」なんてとても言えるはずがない。「確かに知り合いだったけど、今はもう何の関係もないの。だから、これ以上かかわりたくない。それに彼にはもう好きな人がいる。今さら私を訪ねてきたのは、ただ何か未練があるからでしょ」澪奈は考えた末に、そう言葉を選んだ。苦しそうな顔をする彼女を見て、夏海はすぐに気を取り直し、話題を切り替えてわざわざ謝ってきた。「澪奈、ごめんね。私、おしゃべりが過ぎただけ。本当にそれだけで、嫌なことを思い出させようなんて思ってなかったの」まだ知り合って日が浅かったが、澪奈は夏海の性格を理解していた。そのため気にしすぎることもなく、軽く手を振って大丈夫だと示した。ちょうど荷物をまとめようとしたとき、階下から寮の管理人の声が響いた。「三五〇三の澪奈さん、電話よ!」澪奈は思わず手を止め、慌てて階段を駆け下りて受話器を取った。次の瞬間、耳に届いたのは聞き慣れた声だった。「澪奈、俺だ。どうして今日、知らない人だなんて言ったんだ?」――綾人。澪奈の頭はすぐに回転する。彼の性格からして、このまま引き下がるはずがない。「あなたが来たのは、入学通知書のことを聞くためでしょ?確かに取り替えたのは私よ。でも勘違いしないで。それは最初から私のものだった。あなたが瑠花にどんな約束をしたかは知らない。でも私は自分のものを取り戻しただけ。何も間違っていないわ」澪奈の声音は穏やかで、あたりまえのことを述べるようだった。「澪奈、違うんだ。誤解してる。俺はただ、君に会いたかっただけなんだ」綾人の言葉に、澪奈の胸にかすかな疑問が生まれる。彼の真意がわからなかった。「もう会ったでしょ。入学通知書のことじゃないなら、これ以上話すことはないわ。それにもうはっきり言ったはずよ。二度と私の生活を乱さないで。婚約だって解けたんだから」淡々とした口調で二人の関係を告げる澪奈に、綾人は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。「でも君、前は確かに俺を好きだったじゃないか」「綾人。あなた自身が言ったでしょ。それは『前』のこと。私はもう、二度とあなたを好きになることはない」「……信じられない」その一言のあと、二人の間に沈黙が落ちた。綾
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第17話

瑠花を澪奈の代わりに大学へ行かせたのは、綾人が仕組んだことだった。彼はずっと、自分が愛しているのは瑠花だと信じていた。彼女さえ幸せであれば、自分がどうなっても構わないとさえ思っていたのだ。けれど後になって気づいた。瑠花にとって自分は、ただの道具にすぎなかったのだと。澪奈が去って初めて、彼は彼女の真心の重みを思い知らされた。だが振り返れば、自分もまた澪奈を道具のように扱ってはいなかったか。いまの結末を、綾人はどうしても受け入れられなかった。澪奈がすでに自分を忘れてしまったという事実を、どうしても認められなかった。執拗に彼女を手放そうとせず、自分なりの答えを求め続けた。「澪奈……会ってくれないか。ちゃんと話をしたいんだ」「私たちはもう無理よ、綾人。これ以上つきまとわないで」澪奈の声には、かすかな苛立ちがにじんでいた。彼女にはわからなかった。綾人の気持ちは、どうしてこんなにも簡単に変わってしまうのか。好きではないときには人の心をもてあそび、好きになったらまた最初からやり直せるとでも思っているのか。「綾人……もう私を解放して。私は私の人生を生きたいの」そのひと言で、綾人の胸に絡みついていた未練はすべて吹き飛んだ。夢から覚めたように呆然とし、深い混乱が頭の中を覆っていった。無意識のまま電話を切り、そのままベッドに身を投げ出した。これほどの迷いを感じたのは、生まれて初めてだった。自分はいったい何を求めているのか――それさえ見失っていた。まるであの頃のように――母に「どうして出ていくの」と尋ねても、はっきりした答えは返ってこなかった。ただ「大人になればわかるかもしれない」と告げられただけだった。そのときの、静かで諦めに満ちた母の眼差しは、今も鮮やかに残っている。やがて彼は仏の前に跪き、答えを求めた。けれど、そこにも答えはなかった。そして今、再びあの頃に戻ったような気がしていた。答えを必死に欲する子どものように。夢の中で、彼は仏に出会った……すべてが掴みどころのない朧げな夢だった。綾人は深い眠りに落ち、次に目を覚ましたときにはもう翌日の昼だった。頭に鈍い痛みを覚え、目を開けて周りを見渡した瞬間、強烈な違和感に襲われた。「……俺は病室のベッドで最期を迎えるはずじゃなかったのか?どう
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第18話

澪奈はダンス専攻で、授業で出される課題はいつも細かい。今回先生が出した課題は景色の美しい場所を選び、その場にふさわしいダンスを踊るというものだった。同じ寮で同じ専攻なのは、夏海と澪奈だけ。けれど夏海は休暇を取って帰省していたため、少し考えた末に、澪奈は週末の休みを利用して一人で校外へ見学に出かけることにした。初めて青ヶ丘市に来て、まだ土地勘もなく不安もあったので、道行く人に尋ねながら歩いたり止まったりを繰り返す。ふと、遠くで白鷺塔に向かって写真を撮っている人影が目に入った。目を凝らすと、それは真緒だった。なぜか心が通じたように、真緒も振り返り、ちょうど澪奈を見つけた。彼は笑みを浮かべて近づき、声をかけた。「こんなところで会うなんて。澪奈だよね?君の名前は覚えてるよ」澪奈は、真緒の独特な挨拶に思わず笑ってしまう。「あなたは真緒さんですね。私も覚えていますよ。実はあなたに会うよりも、あなたの名前を知ったのはもっと前のことなんです」「もっと前?」真緒は少し不思議そうに眉を寄せた。彼らは学校で何度かすれ違ったことはあったが、初めて会ったのは、新入生受付の日、学校の門の前だった。その記憶がはっきり残っていたからこそ、澪奈の言葉の意味がつかめなかった。澪奈は笑って答えず、彼の手にあるカメラに目を留めて尋ねた。「それ、真緒さんのですか?」真緒はうなずいた。「今週の課題で写真記録が必要でね。どうせなら外で撮ろうと思ったんだ。君も?もしかして課題のため?」澪奈は苦笑してうなずいた。「そうです。ダンスの課題で、景色を選んで踊らなきゃいけなくて、今日は下見に来たんです」「ちょうどいい。せっかくだから僕が君を撮ってあげるよ。今度現像して、渡すから」真緒は澪奈の瞳をまっすぐに見つめながらそう言った。その透明で明るい眼差しに、澪奈は逆らえなかった。「……はい」白鷺塔の前に立つと、澪奈は少し緊張しぎこちなくなる。なぜか真緒の前だと肩に力が入ってしまうようだ。真緒は根気よく話しかけ、彼女の緊張をほぐそうとした。やがて澪奈も自然に動けるようになり、堂々と踊り始めた。「すごく綺麗だ」真緒の率直な称賛に、澪奈は思わず顔が熱くなり耳まで赤く染まる。彼女の視線に気づいた真緒も少し照れたように目
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第19話

「澪奈、あの人は誰なんだ?」目の前の真緒を見て、綾人の顔色はたちまち曇った。やっと澪奈との間にあった事情を知ったばかりの彼は、もはや誰一人として、自分と澪奈の間に入ることを許せなかった。澪奈が自分の問いに答えないのを見て、綾人はそっと駆け寄り、彼女の手を取ろうとした。だが、その手は真緒に遮られ、動きを封じられてしまった。真緒は二人の様子を見やり、思わず後ろにいる澪奈の方に目を向ける。「知り合い?君とはどういう関係なんだい?」「ただの高校の同級生です」澪奈の声は淡々としていて、綾人に取り合う気などまったくないのが伝わってきた。「俺たちは婚約している。彼女は俺の婚約者だ。お前はいったい誰なんだ」綾人は真緒の手を振り払い、問い詰める。その言葉に、真緒のいつも穏やかな顔にかすかな影が差した。彼は口を閉ざしたまま道を譲らず、ただ澪奈を見据え続けていた。「一緒に中に入りましょうか」澪奈は小さく息を吐く。分かっていた。綾人の性格からして、この場で逃げても何も解決しないことを。「少し、彼と話しておきたいです」「わかった。それならすぐそばで待ってるから、何かあれば呼んでくれ」真緒は最後の言葉をわざと強めに言い、綾人に視線を送った。いまの綾人は感情に呑まれていて、とても「まともな人間」には見えなかったからだ。そして、彼は数歩下がり、角のほうへ歩いていった。綾人は真緒をじっと見返す。その眼差しには、苛立ちがにじんでいた。だが、再び澪奈を見ると、その瞳は一瞬で優しさに変わった。澪奈がその視線を目にするのは、いつも彼が瑠花に向けるときだけだった。「彼は友達か?」綾人は真緒と自分の関係を気にしているようだった。けれど、その姿はどうにも滑稽に見えた。彼はかつて婚約しながら、瑠花との曖昧な関係を続けていたのだから。今さら、ほかの男が自分との関係に口を挟む資格なんてあるだろうか?「綾人、彼が誰かなんてあなたには関係ない。前にもうはっきり言ったでしょ。どうしてまた私を探してきたの?」執拗に迫られる綾人を前に、澪奈は諦めを帯びた声で答えた。真緒との関係を明確に答えない澪奈に、綾人の胸には複雑な思いが渦巻く。「ただ、きちんと話したかったんだ。ようやく分かったんだよ、俺たちの問題がどこ
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第20話

それに触れられると、綾人は胸の奥がざわめいた。どう考えても、この状況はすべて自分のせいだった。「知ってるよ。でも、だからどうだっていうの?綾人……死ぬ間際まで私との結婚を悔やんでいる人のことを、私が気にかける必要があると思う?」澪奈の瞳には氷のような冷たさが宿り、まっすぐ綾人の目を見据えた。これまでに味わってきた屈辱が一つずつ胸に蘇る。外から浴びせられた心ない声、子どもたちにさえ軽んじられた記憶、そして何より、生涯をかけて夫に後悔され続けたという事実。それだけでもう、澪奈にとって綾人を許す理由はどこにもなかった。まして、再び夫婦になるなど考える余地もなかった。「でも、俺は……本当に間違いに気づいたんだ……」澪奈の冷ややかな視線が、綾人をたじろがせた。彼は卑屈な態度のまま、全身から力が抜けているようで、今にも崩れ落ちそうだった。「綾人。私は、あなたを好きになったことを後悔していない。それと同じように、別れを選んだことも後悔していないの。過去はもう過去のままにしておきたい。同じ過ちを繰り返すつもりはないわ。私には新しい人生がある。だから、今日で最後にして。もう私に会いに来ないで……用事があるから、行くわね」そう言い残し、澪奈は綾人の横をすり抜けて歩き去った。綾人は追いすがろうとしたが、真緒に呼ばれた学校の門番に止められ、学生証の提示を求められた。どうすることもできずにただその場に立ち尽くし、遠ざかる二人の背中を見送るしかなかった。綾人はしばらく門前に立ち続け、やがて力尽きるように倒れ込んだ。門番が慌てて救急車を呼び、彼は病院へと運ばれていく。一方その頃、帰り道を歩く澪奈と真緒は互いに言葉を交わさず、静かな沈黙の中を歩いている。真緒は二人の会話を一部耳にしていたはずなのに、何も触れようとはしなかった。やがて澪奈の方から口を開いた。「今日は……ありがとうございます。心配してくれていたんでしょう?」「礼なんていいよ。今日だって、君が僕を助けてくれただろ?」真緒は相変わらず真剣に答えた。澪奈がまだ返事をせずにいると、彼は自分の鞄に視線を落として中のカメラを指さした。「おかげで何枚か写真が撮れた。ポートレートの構図も練習できたしね」その言葉は軽やかで、彼女のプライベートに干
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