橘川澪奈(きっかわ みおな)は、本来なら静かに最期を迎えるはずだった。だが、夫が臨終の際に残したひと言が、彼女の「幸福な一生」を一瞬で嘲りに変えてしまった。「澪奈、俺は君と離婚して瑠花と結婚したい。死んだあと彼女と同じ墓に入りたいんだ」そして続けた。「昔、彼女に君の芸術大学の合格証を譲った。その償いは、この人生をかけて十分果たした。澪奈、俺はもう君に借りはない。残されたわずかな時間は、一番愛する人と過ごしたい」雷に打たれたような衝撃だった。その言葉を胸に刻んだまま、夫が息を引き取ってほどなく、澪奈も心労に押し潰されるようにして命を落とした。――次に目を開けると、かつての若かりし頃だった。「問題なければ、結婚の日は七月七日にしようと思う。どうだ?」御影綾人(みかげ あやと)の低く冷ややかな声が、氷を心臓に叩き込まれたように澪奈の胸を締めつけた。はっとして顔を上げ、居間を見渡す。両親は落ち着かない様子ながらも、どこか誇らしげに微笑んでいる。ズボンの裾にはまだ泥が点々とついていた。壁の時計が「カチ、カチ」と規則正しく音を刻み、天井の扇風機がゆるやかに回っている。――これは、あの大学受験が終わったあとの風景だ。生まれ変わったのだ。心臓が荒々しく跳ねる。綾人へ視線を向けた。純白のスーツに身を包み、長い指で数珠をいじっている。その姿は清廉さを際立たせ、俗世から切り離されたように見えた。都の令嬢たちが皆憧れる「月のような人」。常に数珠を手にし、俗に染まらぬ存在――それが綾人だった。胸の奥に激痛が走り、前世の記憶が雪崩れるように押し寄せる。澪奈が初めて綾人にあった時、彼は誰もが憧れる人気者だった。それに比べ、彼女はただの田舎娘にすぎない。誰もが彼を落としたいと願い、澪奈もまたその一人だった。三年間、彼を追いかけ続けた。彼のいる場所には、必ず澪奈の影があった。けれど綾人は誰に対しても冷淡だった。ただ一人――七瀬瑠花(ななせ るか)にだけは違った。彼らは幼なじみで、小学校から高校まで机を並べた存在。澪奈は何度も見てきた。雨の日に差し出す傘。病床に寄り添い夜を明かす姿。「小学校のそばの肉まんが食べたい」と瑠花が言えば、町の反対側まで走って買いに行く姿も。その優しさに澪奈が触れたことは一度もなかった
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