橘川澪奈(きっかわ みおな)は、本来なら静かに最期を迎えるはずだった。だが、夫が臨終の間に残したひと言が、彼女の「幸福な一生」を一瞬で嘲りに変えてしまった。 「澪奈、俺は君と離婚して瑠花と結婚したい。死んだあと彼女と同じ墓に入りたいんだ」 そして続けた。「昔、彼女に君の芸術大学の合格証を譲った。その償いは、この人生をかけて十分果たした。澪奈、俺はもう君に借りはない。残されたわずかな時間は、一番愛する人と過ごしたい」 雷に打たれたような衝撃だった。その言葉を胸に刻んだまま、夫が息を引き取ってほどなく、澪奈も心労に押し潰されるようにして命を落とした。 ――次に目を開けると、かつての若かりし頃だった。
Lihat lebih banyak一年後。「ダンスの女神」と呼ばれる澪奈は、大舞台での華やかなパフォーマンスによって、瞬く間に世界を魅了した。彼女のダンスは蝶が舞うように軽やかで、ひとつひとつの動きが流れるように美しく、力強さと優雅さを兼ね備えている。作品が発表されるたびに評判は広がり、数えきれないほどのファンから熱烈な支持を集めた。さらに三年後。夏海が紅白の飴を両手に抱えて、二人の結婚式で得意げに言った。「ほらね、やっぱりこうなるって思ってたのよ。先見の明ってやつでしょ」澪奈は肩をすくめる。「どうでもいいわ。結局、あなたの賞金の一部は結婚祝いに回ってくるんだから」二人がまた口論になりかけたところで、真緒が間に入って夏海に向こうのギフトを受け取りに行かせた。まだ年若い夏海はからかいに弱く、すぐに押され気味になって、澪奈との言い合いをやめてしまった。澪奈は真緒に顔を寄せ、小声で尋ねる。「ねえ、あなたが私に一目惚れしたって話、聞いたんだけど、本当?」真緒は口元をわずかに上げ、考えるふりをしてから答えた。「そんなに分かりやすかったかな?」澪奈は小さくうなずいた。真緒は彼女の耳にかかる髪をそっと整え、やわらかく言った。「誰が見てもそうだったのに、実は君だけが気づかなかったんだ」澪奈はその笑顔を見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。かつて愛に破れ、もう結婚はしないと決めていた。けれど真緒の深い愛情と細やかな気遣いが、心を揺り動かした。たとえまた間違うことになっても、彼となら後悔しない――そう思えた。あの日、洪水の流れの底から一人で這い上がった朝のように。彼女は勇気をもって新しい人生を選んだ。そして今、同じく勇気をもって真緒を選んだのだった。月日は流れ、三年が過ぎた。午後四時。綾人は送られてきたばかりの写真を開いた。今日は澪奈の娘の一歳の誕生日祝いだった。写真の中で、澪奈は変わらぬ柔らかな笑みを浮かべていた。時の流れは彼女に優しく、皺ひとつ刻ませていない。彼女は真緒の肩に頬を寄せ、真緒は娘を大事そうに抱きかかえている。その幸せそうな姿から、澪奈が深く愛されていることは一目で分かった。真緒は、かつての自分のように彼女を失望させたりはしなかったのだ。綾人は写真の中の澪奈の面影を指でなぞり、目尻を赤
澪奈は基礎がしっかりしていて、その上努力家だったので、学校の先生たちから高く評価されていた。実習が終わるころには、学校側からそのまま教師として戻ってくるよう推薦されることになったのだ。その知らせを聞いたとき、澪奈は心から嬉しかった。思いもよらないことだった。出演と授業の両立で忙しさは増したけれど、心の奥は不思議と落ち着いていた。自分は神様からもらった二度目のチャンスを無駄にしなかったと、ようやくそう思えた。勇気を出して婚約を断ち、一人で大学に進んだあの日のこと――このすべてが、前の人生では望むことすらできなかった。だが今ではそれが現実となっていた。三年後には、澪奈の名はすでに全国に知れ渡っていた。さらに、その年の正月番組への出演依頼まで届いたのだ。ちょうどその朗報を真緒に伝えようとしたとき、一人の女の子が大きな花束を抱えてやってきた。澪奈は少し驚きながら「ありがとう」と言い、両手で花を受け取った。「やっぱり澪奈は幸せ者ね。結婚はいつするの?真緒さん、隣で見てるだけでも待ちきれないって顔してるもの」「ほんと。私も澪奈の引き出物を楽しみにしてるんだから」同僚たちはからかうように笑った。澪奈の頬は一気に赤くなり、恥ずかしそうに答える。「まだ急ぐつもりはないの。仕事がもう少し落ち着いてから……それに、まだプロポーズもされてないし」「でも澪奈はわかってるでしょ。真緒さんがあんたを見るとき、いつも目が真っすぐなんだから」一緒に仕事をしている夏海まで茶化してきた。「そんなことないってば」澪奈は少し考えてみた。初めて会ったとき、彼の瞳がきれいだと思ったこと以外、特別な印象はなかったはずなのに。「あるって。私、隣でちゃんと見てたんだから。それで、あんたはね……頭の中では、あれこれ想像でいっぱいだったんでしょ?」そう言うと、夏海は慌てて逃げ出した。澪奈に追いかけられて叩かれるのが怖かったのだ。同僚たちがみんな帰ったあと、澪奈は苦笑しながら手元の整理を続けていた。そのとき、ドアが軽くノックされた。夏海だと思い、澪奈はドアの後ろに隠れて驚かせようとした。けれど飛び出そうとした瞬間、入ってきたのが真緒だと気づき、慌てて足を止めたその勢いで、そのまま彼の胸に倒れ込んでしまった。至近距離で自然と彼の腰
時間はあっという間に過ぎ、三年後。澪奈は無事に大学を卒業した。真緒と同じところに配属された。入社初日、二人はごく自然に恋人同士の関係になった。あの手紙への、遅れて届いた答えでもあった。実のところ真緒は知らなかった。澪奈が手紙を読んだとき、あれは拒んだわけではなく、ただ将来を慎重に考えすぎていただけだったのだ。そのため社会人になり、自分の足で歩き出した今、ようやく彼と向き合う覚悟ができたのだった。正月が近づき、澪奈は久しぶりに実家へ帰ることにした。ここ数年、正月を家で迎えたことはなかった。当初、父母は彼女の婚約破談を受け入れられず、一時は大きな口論になったこともあった。けれど病院での綾人の振る舞いを目にしてからは、両親の中に娘への後ろめたさが生まれたのだろう。その後は澪奈が自分から言い出さない限り、無理に帰省を迫ることもなく、彼女の意志を尊重してくれるようになった。過去の人や出来事と向き合えば気まずさもあるだろうと思っていた。しかし、いざ両親と食卓を囲んでみると、そこにあったのはただ懐かしく温かな家庭のぬくもりだけだった。食事の途中、母が少し照れたように切り出した。「もう大人なんだからね。身近にいい人がいたら、少し付き合ってみてもいいんじゃない?」予想していた問いに、澪奈は笑みを浮かべ、母の皿に料理を取り分けながら答えた。「もう恋人がいるの。同じ大学で、今は同じ職場にいる人だから、心配しないで」娘の言葉に父も母も嬉しそうに顔をほころばせる。「やっぱりあの時、綾人なんかに嫁がせなくてよかったな。あの頃の俺たちは浅はかだった」父がそう言うと母がすかさず夫の腕を軽く叩いた。「また昔のことを持ち出して……ほんとに、お酒を飲み過ぎたんじゃないの?」不意に綾人の名を聞き、澪奈は一瞬だけ動きを止めた。あの日彼と話して、彼もいろいろなことを思い出したと知ってからは一度も会っていない。その後は学業に追われ、気にかける余裕もなかった。友人たちと昔話をするときも、綾人の名だけは決して出てこなかった。澪奈にとって彼との日々は、霧の向こうに遠ざかるように曖昧で、自分自身ですら輪郭をはっきり思い出せなくなっていた。綾人という名前は、彼女からしたらまるで昔観た映画の主人公のようだった。物語の流れも、幕の
期末試験が終わると、夏海が真っ先に声を上げた。「ちゃんとお祝いしなきゃ!」その調子に同じ寮の仲間たちもすぐ同意し、学校の近くにある小さな食堂で食事をすることになった。出会ってから日は浅かったが、年が近いおかげか打ち解けるのは早かった。特に夏海は、入学初日から自分のことを隠さず話してしまい、その中には五年間も胸に秘めてきた片思いの話まで含まれていた。いつもなら澪奈はいつも黙って隣に座り、彼女たちのやり取りに耳を傾けているだけだった。けれど今日は違った。避けることなく落ち着いた口調で、自分には婚約者がいたこと、そしてそれを自分の意思で破談にしたことを話したのだ。その瞬間、にぎやかだった食卓がぴたりと静まった。夏海たちは顔を見合わせ、どう言葉をかけていいか迷っていた。慰めるのは違う気がするし、黙っていれば突き放しているように見えてしまう。しばらくの沈黙を破ったのは、やはり夏海だった。「詳しいことは分からないけど、澪奈が本当に立派な子だってことは知ってる!澪奈が自分から婚約を断ったなら、相手の男がろくでもなかったんだよ!」「みんなも、そう思わない?」その言葉に、ほかの子たちもすぐ頷いた。「うん、夏海の言う通り。澪奈はきっと間違った人に出会っちゃっただけ」「もし私があの人だったら、一生後悔するはずよ」澪奈は元々少し不安だった。綾人が何度も学校に顔を出すようになって以来、自分の周りにはさまざまな噂が広まっていた。恩知らずで、大学に合格するとすぐに婚約を破棄したと言う人もいる。二股をかけているとも。実家に子どもがいるのに、それでも大学に通うから夫が学校まで探しに来たのだとか。そんな根も葉もない話が囁かれていた。だが寮の仲間は誰ひとり自分の前でそんな話を口にせず、むしろ陰で庇ってくれていた。今こうして改めて思う、みんな噂に流されず、ただ自分を信じてくれていたのだ。澪奈は目頭が熱くなり、口を開いた。「信じてくれてありがとう。私が婚約を断ったのは、あの人が私に大学を諦めさせて、自分の幼なじみにその席を譲らせようとしたから。私はそれを拒んだ――ただそれだけなの」「ほら、やっぱり私の言った通り!」「だね、そんな人、最初から駄目に決まってる!」「それに、もう大学に進めたんだし、私たちとも出会えたん
綾人はあの日、学校から戻って以来、魂を抜かれたようにぼんやりとしていた。頭の中を占めるのは澪奈と過ごした日々の断片。現実にあった出来事もあれば、あの日の夢に見た情景も混じっている。彼はしだいに意識が霞むように、どこかうつろになっていった。助手はその様子に不安を覚え、病院に連れて行って数々の検査を受けさせたが、特に大きな異常は見つからなかった。綾人の希望で医師は症状を和らげる薬を処方したが、効果はあまりでなかった。御影家からの呼び戻しの声も、返事をしないまま延ばし続けている。「綾人様、社長から――できるだけ早く御影家へ戻り、家業を継ぐ準備を始めてほしいとの伝言がございました」助手が言葉を選びながら伝える。「俺にはまだ、やり残したことがある。だから戻らない」綾人の声には揺るぎがなかった。しばらくためらったのち、助手は再び口を開いた。「それと……綾人様が澪奈さんの入学通知書をすり替えた、という告発状が届いています。ただ証拠もなく、実際に影響は出ていません」「誰が告発を?」「瑠花です。実名で告発状を書いたそうです」その名を聞いても、綾人は驚かなかった。彼の不幸を焦って願うのは、瑠花以外にいないと知っていたからだ。窓辺に歩み寄った綾人は、往来する人の群れを眺めながら、ふと心を決めた。――一度だけ、帰ろう。助手は彼が都の御影家に戻るのだと思ったが、違っていた。綾人は家族に知らせず、ただひとりで帰るつもりだった。「綾人様、ご一緒しましょうか?今のご体調では心配です」それでも綾人は首を振った。決意は揺らがず、助手も黙って従うしかなかった。こうして彼は再び、澪奈のいた小さな村へ向かった。荷物をまとめるとき、薬は持たなかった。入れたのは着替えを数枚と、大切に胸に抱いていた一枚の写真だけ。それは澪奈にまつわる唯一の品であり、彼にとって何よりも大切なものだった。村に戻ると、綾人は澪奈の部屋に足を踏み入れた。掃除もされず、厚い埃に覆われている。彼は道具を取り出し、根気よく部屋を整えていった。不思議と、青ヶ丘市にいるときは次々と記憶に苛まれたのに、ここでは次第に心が落ち着いていった。風がひとすじ吹き抜け、窓の隙間から小さな紙片が舞い落ちる。拾い上げると、澪奈の筆跡。文字を見た瞬間
それに触れられると、綾人は胸の奥がざわめいた。どう考えても、この状況はすべて自分のせいだった。「知ってるよ。でも、だからどうだっていうの?綾人……死ぬ間際まで私との結婚を悔やんでいる人のことを、私が気にかける必要があると思う?」澪奈の瞳には氷のような冷たさが宿り、まっすぐ綾人の目を見据えた。これまでに味わってきた屈辱が一つずつ胸に蘇る。外から浴びせられた心ない声、子どもたちにさえ軽んじられた記憶、そして何より、生涯をかけて夫に後悔され続けたという事実。それだけでもう、澪奈にとって綾人を許す理由はどこにもなかった。まして、再び夫婦になるなど考える余地もなかった。「でも、俺は……本当に間違いに気づいたんだ……」澪奈の冷ややかな視線が、綾人をたじろがせた。彼は卑屈な態度のまま、全身から力が抜けているようで、今にも崩れ落ちそうだった。「綾人。私は、あなたを好きになったことを後悔していない。それと同じように、別れを選んだことも後悔していないの。過去はもう過去のままにしておきたい。同じ過ちを繰り返すつもりはないわ。私には新しい人生がある。だから、今日で最後にして。もう私に会いに来ないで……用事があるから、行くわね」そう言い残し、澪奈は綾人の横をすり抜けて歩き去った。綾人は追いすがろうとしたが、真緒に呼ばれた学校の門番に止められ、学生証の提示を求められた。どうすることもできずにただその場に立ち尽くし、遠ざかる二人の背中を見送るしかなかった。綾人はしばらく門前に立ち続け、やがて力尽きるように倒れ込んだ。門番が慌てて救急車を呼び、彼は病院へと運ばれていく。一方その頃、帰り道を歩く澪奈と真緒は互いに言葉を交わさず、静かな沈黙の中を歩いている。真緒は二人の会話を一部耳にしていたはずなのに、何も触れようとはしなかった。やがて澪奈の方から口を開いた。「今日は……ありがとうございます。心配してくれていたんでしょう?」「礼なんていいよ。今日だって、君が僕を助けてくれただろ?」真緒は相変わらず真剣に答えた。澪奈がまだ返事をせずにいると、彼は自分の鞄に視線を落として中のカメラを指さした。「おかげで何枚か写真が撮れた。ポートレートの構図も練習できたしね」その言葉は軽やかで、彼女のプライベートに干
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