All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 991 - Chapter 1000

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第991話

弱みにつけ込んでいることは、十分に分かっている。目が覚めたら、間違いなく激怒するだろうことも。それでも、このわずかな温もりを手放すことはできなかった。白彦の狂った思考の中では、手続きが済んでいない以上、まだ完全に縁が切れたわけではない。ミキはまだ自分の女であり、自分の支配下にあるはずだと、都合よく現実逃避をしていた。自分の女に口づけするのは、ごく当たり前のことだ。そう自己完結すると、白彦はゆっくりと顔を近づけ、ためらうことなくその唇をミキの唇にそっと重ね合わせた。夜半過ぎ、ミキの熱がようやく引き始めた。目を覚ますと、寝汗で体中がひどくベタついている。喉も焼けるように干からびていて痛かった。水を飲もうと体を起こそうとした瞬間、自分の腰に回されているしっりとした男の腕に気づき、ミキはギョッとした。「また喉が渇いたのか?」背後から、声が降ってきた。白彦だった。手慣れた様子で枕元のグラスを手渡しつつ、もう片方の手を伸ばしてミキの額に触れる。何度か温度を確かめると、「熱は下がったな」と安堵したように息を吐いた。ミキの瞳から驚きの揺らぎがスッと消え、代わりに氷のような冷ややかな光が宿る。差し出されたグラスを無言で押し退け、布団を跳ね除けてベッドから出ようとした。だが、熱が下がったばかりの体は言うことを聞かない。足元から力が抜け、ぐらりと体が大きく傾いた。倒れる寸前、白彦が慌ててその腕を強く引いた。反動でミキは再びベッドに倒れ込み、勢い余った白彦もその上に覆いかぶさるような体勢になる。至近距離で視線が絡み合った瞬間、白彦の瞳に黒い欲望がよぎり、そのまま強引に唇を奪おうと顔を近づけてきた。ミキは咄嗟に顔を背け、本能的に平手打ちを食らわせようと腕を振り上げた。だが、その動きは簡単に読まれていた。白彦は手首をガッチリと掴むと、そのまま枕に押さえつける。さらに自身の体重をかけ、逃げ場を完全に塞いだまま、暗く濁った瞳で見下ろしてきた。圧倒的な体格差による圧迫感と、男特有の気配が嫌でも押し寄せてくる。「……何する気」ミキはゾッとして身をすくませ、鋭く睨みつけた。白彦は何も答えない。ただ、寝乱れたミキの襟元に、どす黒く淀んだ視線をねっとりと這わせていた。次の瞬間、再び顔を寄せてくる。
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第992話

空気がピシッと凍りついた。白彦の顔から血の気が失せ、ドス黒い怒りが込み上げる。瞳に浮かんでいた欲望は一瞬で消え失せ、痛いところを突かれた屈辱と冷徹な殺気へと変わった。ミキを射抜くように睨みつけ、彼女の顎に紫の痣が残るほどの力で指を食い込ませた。「下品だと?強要……?」怒りが限界を超えたのか、白彦は冷酷な笑みを漏らした。「随分な言い草じゃないか。まだ財産分与も条件の清算も終わっていないというのに、もう完全に俺から自由になった気でいるようだな」「同じことでしょ。実印を押して一切の縁が切れるまで、あとたった20日弱待つだけでしょ」ミキは一歩も引かず、嘲笑の籠もった視線で彼を真っ直ぐにねめつけた。「なに?愛人じゃ満足できなくて、こんな病人にまで発情してるわけ?」白彦は弾かれたように手を離した。荒々しく息を乱しながら、暗い瞳でミキを見下ろす。そして、ギリリと歯軋りしながら、絞り出すように言った。「……璃々子とは寝ていない」だが、ミキはただ冷笑するだけだった。そんな言い訳、もう何の価値もない。今さら何を取り繕うというのか。この関係がここまで決定的に破綻したのだ。たったの一言二言の言い訳で、未練が湧くような次元はとうに過ぎている。白彦はミキの氷のような表情を、ただじっと見つめ続けた。心臓を鷲掴みにされたような、息苦しい感覚が胸に広がる。かつては、自分しか見えないというように瞳を輝かせ、家で豪華な夕食を作って帰りを待っていてくれた女。だが今、その白黒のコントラストが美しい瞳には、一片の感情も宿っていない。まるで、ただの赤の他人を見るような目だ。彼女は本当に、自分を捨てたのだ。どうにもコントロールできない、だが確かに自分が大切にしていた何かが、前触れもなく世界から抜け落ちていく。ぽっかりと、心に穴が空いたような虚無感に襲われた。白彦は拳を固く握りしめ、長い沈黙の末に、ようやく口を開いた。「もう一度、やり直さないか」だが、ミキは彼の身勝手な手のひら返しなど、とうの昔に慣れきっていた。鼻で冷たく笑い、はっきりと念を押す。「寝言は寝て言いなさいよ」それだけ言い放つと、布団を引き寄せてすっぽりと体を包み、元夫に向けて冷酷で決然とした背中を向けた。数秒後、乱暴にドアの閉まる音が響き、白彦が部屋を
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第993話

ミキの目から大粒の涙が滝のようにこぼれ落ちた。氷のように冷たいサワの手をぎゅっと握りしめ、嗚咽で言葉にならない。そこへ、白彦が部屋に入ってきた。サワはミキの背中をぽんぽんと叩く。「ほら、朝ごはんでも食べておいで」白彦に何か話があるのだと察したミキは、涙を拭いながら立ち上がった。お手伝いや弁護士も、ミキに続いて足早に寝室を退出した。サワが苦しそうに咳き込み、白彦が慌てて水を差し出す。二口ほど喉を潤して息を整えると、サワはゆっくりと口を開いた。「……お前たち、公正証書の原案を申し込んできたそうね?」「ああ」と短く応じた白彦は、すぐさま言い訳のように付け足した。「ただのその場しのぎだ。縁を切るつもりはない」サワは目の前のグラスを弱々しく押し戻した。「私にはもう時間がない。あれこれ口出しするつもりはないけど、これだけは約束しておくれ。手続きをしっかりと終わらせて……もう二度と、ミキちゃんには関わらないでおくれ」「ばあちゃん……!」「約束しなさい!」サワは言い訳など一切許さず、少し濁った目で白彦を真っ直ぐに射抜いた。ただ一つの答えだけを求めている。だが、白彦は頑なに首を縦に振ろうとしなかった。俯いたまま、サワのベッドの脇に片膝をつく。サワは胸を押さえ、悲痛な顔で諭した。「愛してもいないのに、無理やり縛り付けてどうするの?たとえ万が一、あの子を丸め込んで復縁できたとしても、一生、愛のない冷え切った関係を続けるつもりかい?」白彦の長い指が、ベッドのシーツをギリリと握りしめる。長い沈黙の末、搾り出すような低い声で答えた。「……愛がなくても構わない」たとえ冷え切った関係だろうと、憎まれようと。少なくとも、ミキは「自分の女」であり続ける。少なくとも、自分の支配下に置いておくことができるのだから。ガチャン!激しい音とともに、サワは怒りに任せてグラスを払い落とした。部屋の中から聞こえたただならぬ物音に、外にいた石田が慌ててドアをノックする。「サワ様、大丈夫ですか?お医者様をお呼びしましょうか!?」「いいえ、結構ですよ」サワは石田を制すると、再び白彦を睨み据えた。その口調は烈火のごとく厳しい。「私を、死んでも死にきれない思いで逝かせるつもりかい!?」「……ばあちゃん、どうしてあなたまで俺を追い詰めるん
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第994話

ミキは無言で踵を返した。白彦が庭にいると知っていれば、息が詰まっても部屋から一歩も出なかっただろう。かつては肌を重ね、誰よりも親密だったはずの夫婦が、今では顔を合わせるだけでこれほど互いを疎み合うようになるとは、皮肉なものだ。だが、立ち去ろうとした背中に、白彦の声が投げかけられた。「ミキ。本気で……俺と縁を切りたいのか」彼と向き合うのも、言葉を交わすのも心底うんざりだった。しかし、「絶縁」の話となれば別だ。それなら二十四時間、いつでもとことん付き合うだけの忍耐がある。ミキはゆっくりと振り向き、夜の闇に立つ白彦を静かに見据え、一片の迷いもない明確な答えを突きつけた。「ええ」白彦は動かなかった。庭園の薄暗いフットライトが彼の瞳に影を落とし、その奥にある感情を覆い隠している。長い沈黙。やがて、彼はぽつりと尋ねた。「……すべてが終われば、お前は今より幸せになれるのか」朝、サワから「手続きを終わらせろ」と迫られた時、白彦は絶対に首を縦に振らなかった。だがサワは言った。『お前がこの子を縛り付けて、不幸にしているんだ』と。だから、ここでタバコを吹かしながら、ずっと考えていた。何度も、何度も。確かに、白彦の前でミキが心から笑うのを見たのは、もう随分と前のことだ。彼女は本来、とてもよく笑う女だった。実の叔父から20億円という法外な結納金と引き換えに、趣味の悪い老人の元へ売り飛ばされそうになったあの絶望の淵でさえ、今の彼女のように生気を失ってはいなかった。この関係そのものが、本当に彼女の息の根を止めているというのか。ミキは、白彦の口からそんな感傷的な問いが出たことに、わずかに驚いた。これまでの彼なら絶対に考えられない。常に冷酷で、損得だけを計算する男だったはずだ。なぜ突然そんなことを言い出したのか。理由を探る気すら起きず、ミキはただ事実だけを淡々と答えた。声には何の波立ちもない。「幸せになれるかどうかは分からない。でも……あなたと縁が切れれば、間違いなく『解放』される」解放、される。その一言は、目に見えない鈍器となって白彦の心臓を激しく殴りつけた。静寂を保っていたはずの瞳孔が急激に収縮し、どす黒く複雑な感情が渦を巻き始める。痛いところを突かれた不甲斐なさ。自分との過去
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第995話

ミキはただ、淡く冷たい笑みを浮かべた。「周りの人たちが割り切れるのはね。最初から何も『持っていなかった』からよ。だから、無くしたって少しも惜しくないの」ミキは深く息を吸い込んだ。全身の力を振り絞るようにして、その言葉を紡ぐ。「でも、私たちは……違うでしょ」かつては愛していた。心底、大切に思っていたのだ。だからこそ、これ以上「妥協」して、ごまかしながら生きていくことなど絶対にできない。もし最初から白彦を愛していなければ、彼が外でどんな女と遊ぼうが、璃々子をどれほど贔屓して守ろうが、少しも心を痛めたりはしなかった。『夫は帰ってこないけれど、潤沢な生活費だけは振り込まれる最高の毎日』と割り切って、悠々自適に暮らしていただろう。だが、それはすべて「彼を愛していなかったら」という前提があってこその話だ。だから、他の空虚な夫婦と同じ括りにしないでほしかった。夜風が吹き抜け、ミキの耳元の髪を小さく揺らした。指先で髪を耳にかきあげると、彼女の瞳は再び、最初の平坦で絶対的な決別の色を取り戻した。「……あなたと完全に縁を切って、初めて私は救われるのよ」それだけを言い残し、ミキは踵を返した。もう二度と、振り返ることはなかった。白彦は暗い庭に立ち尽くし、ミキの背中が闇に溶けていくのを無言で見送った。かつてミキと過ごした日々。彼女から与えられた温もりや楽しさ。そのすべての記憶が、この瞬間、激流となって彼の脳裏に押し寄せてきた。無意識に手を伸ばし、虚空を掴む。引き留めようとしたその指先が掴んだのは、氷のように冷たい夜風だけだった。やがて、彼は力なく腕を下ろした。そのままうなだれ、痙攣するほど痛む胸を強く押さえる。赤く充血した目から、熱いものがせり上がってくる。常に傲慢に天を仰いでいたその背中が、この時ばかりは完全に折れ曲がっていた。ようやく、彼は悟ったのだ。一度粉々に砕け散ったものは、どんな権力や金を使おうとも、二度と元には戻せないのだと。いつの間にか、また雪が静かに舞い降りていた。一階の戸締まりをしようとした石田が、庭で雪を被って立ち尽くしている白彦の姿に気づき、慌てて傘を持って飛び出してきた。「白彦様!こんな雪の中で何を! お風邪を召してしまいますよ!」石田に促されるようにして室内に戻った時、彼女は
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第996話

「男ってのは、初恋や手に入らなかった女に、いつまでも執着する生き物なんだよ。だから、お爺さんが『ミキちゃんと結婚しろ』と命じた時、白彦は猛反発してね。ひどい喧嘩になった。……あの由木グループの跡取りの座を捨ててでも、その女と一緒になるって聞かなくてね」「じゃあ、どうして……」ミキの声が震えた。白彦にそんな過去があったなんて、露ほども知らなかった。彼は生まれた時から由木グループの次期総帥として育てられ、会社を継ぐことは彼の骨の髄まで染み込んだ使命だったはずだ。その二十年以上背負ってきた宿命を捨ててでも、共に生きたいと思った相手がいた。……それほどまでに、深く愛していたのだろう。サワはミキの心境を察し、再び長く息を吐いてから言葉を継いだ。「……お爺さんがね、『結婚しないなら死ぬ』って、自分の命を盾にして白彦を脅したんだよ。それで、あの子は折れるしかなかったんだ」「……そういうことだったのね」ミキは、これまでのすべての辻褄が合っていくのを感じた。「その後のあの子の態度は、お前の知っての通りさ。親に無理やりさせられた結婚だから、ずっと反発していた。お前の夫として何一つ努力もしなかったし、あんな冷たい態度ばかり取って……」過去を語るサワの顔には、深い後悔と悲しみが滲んでいた。この一件で、ミキは最初から最後まで蚊帳の外だった。何も知らないまま、都合よく嫁として連れられてきただけの、一番の被害者だ。だからこそ、サワはミキに心から申し訳なく思い、少しでも多くのものを残して償いたかったのだ。「……でも、私に一言でも言ってくれればよかったのに」事情は理解できたが、それでもミキは納得がいかなかった。自分は最初から真実を知らされるべきだったのだ。それなら、ただの契約夫婦として割り切り、彼が望む時期にすんなりと別れることもできた。彼に深入りせず、きっちりと一線を引いて距離を保つことだってできたはずだ。「……それがね。あの女の子、お前と白彦が婚姻届を出したその日に、海に身を投げて死んでしまったんだよ」頭の中で、世界がぐらりと揺れた。耳の奥で激しい耳鳴りがし、ミキは息をするのも忘れて硬直した。婚姻届を出した、あの日の記憶が鮮明に蘇ってくる。あの日、由木家の当主である由木友寛(ゆうき ともひろ)は、一族の人間をすべて呼
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第997話

ただ、魂の抜け殻のように変わり果てた彼の姿を見て、「親が決めた望まない政略結婚のせいで、ここまで絶望しているのだ」としか思わなかったのだ。「……白彦?」何かを壊してしまいそうで、恐る恐る声をかけた。彼はゆっくりと顔を上げた。かつては深海のようだった瞳は、今は恐ろしいほどに空洞だった。そこには、砕け散った光の欠片と、べっとりと張り付いた底なしの暗闇だけが満ちている。こちらを見ているようで、視線は全く別の何かを見透かしていた。焦点の合わない、荒涼とした瞳。顔色も明らかに異常だった。ミキが思わず手を伸ばして額に触れると、火がついたように熱かった。高熱を出している。病院へ行くように勧めたが、彼はまるで聞こえていないかのように、ただ頑なに冷たい床へひざまずき続けていた。そのボロボロの姿を見たミキは、彼が「この結婚に対する無言の抗議」を貫いているのだとばかり思っていた。ミキは彼のために持ってきたコップの水を、そっと差し出しながら言った。「もし……どうしても別れたいなら、私からおじいちゃんに話してみようか?」白彦はゆっくりと顔を上げ、ミキを見た。その複雑な眼差しの奥に何が隠されていたのか、当時のミキには読み取れなかった。結局、彼は一言も発することなく、再び視線を落としてひざまずき続けた。あの時、真実を知らなかったミキは、「話すことすら嫌なほど、自分は憎まれているのだ」と思い込んでいた。まさかその瞬間、彼の心の中を、すべてを洗い流すような冷たく激しい土砂降りの雨が降り荒れていたなんて、思いもしなかった。その雨は、直接的にミキに向けられたものではなかった。しかし、間違いなく「ミキとの結婚」が引き金となって降り注いだ、絶望の雨だったのだ。サワはミキの手をきゅっと握りしめ、優しく言い聞かせた。「ミキちゃん、この件はお前に何の責任もないんだよ。絶対に自分を責めちゃいけない。……すべては、あのお爺さんが強引に起こした間違えだ。だから私は、お迎えが来る前に、本来のレールにすべてを戻しておかなきゃならなかったんだよ」サワは愛おしそうにミキの髪を撫でた。「この結婚も、あの子と出会ったことも、全部なかったこととして忘れなさい。残りの人生は、お前が笑って、やりたいことだけをして生きるんだよ。私がお前に財産を残したのはね、もう二度と他人の顔
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第998話

白彦の呼吸が一瞬止まった。長く重い間があり、ようやく「……分かった」とだけ呟くように絞り出した。ミキの指示通り、運転手は車を空港の出発ロビー前へ着けた。車が停まるなり、ミキは一瞥もくれず、清々しいほどの手際よさでドアを開けて降り立つ。白彦は彼女のスーツケースを下ろしてやろうと、反射的にドアのハンドルに手をかけた。だが、彼が動くよりも早く、ミキは自分でトランクを開け、荷物を引き出していた。何の後ろ髪を引かれる様子もなく、別れの言葉すら一切口にしないまま、雑踏の中へ迷いなく歩き出していく。白彦の手は、冷たいドアハンドルに触れたまま硬直していた。無意識に金属の冷たさをなぞりながら、喉仏を動かしてみるものの、ついに最後まで声を発することはできなかった。喧噪の中を遠ざかっていく、未練など微塵も感じさせない涼やかな背中。それを見つめていると、胸がギリギリと締め付けられる。彼女はただ搭乗口へ向かっているのではない。自分とは永遠に交わることのない、『赤の他人の未来』へと向かって歩いていくのだ。白彦は自嘲気味に唇の端を歪めた。鈍い痛みが、じわじわと胸の奥に広がっていく。今になってようやく、骨の髄まで理解したのだ。――彼女にとっての自分からの離別は、ずっと前から準備されていた「解放」だったということを。ロビーから吹き抜ける冷たい隙間風が顔を叩く。ゆっくりと目を閉じると、暗闇の裏側には、彼女のあの決然とした背中だけが焼き付いていた。そのあまりにも優雅で、氷のように冷たい後ろ姿は……まるで優しい刃のように、白彦の胸の奥底にこびりついていた「もしかしたら」という身勝手な未練の残骸を、一筋残らず綺麗に削ぎ落としていった。......会食が終わり、詩織はレオ・シモン父娘とレストランのエントランスで別れの挨拶を交わした。「私の車で送りましょうか?」レオが紳士的に気遣う。今日は話が弾み、お互い思いのほかグラスを重ねていた。「お気遣いありがとうございます。でも、迎えが来ておりますので」詩織は笑顔で丁重に辞退した。レオはすぐに察して、快活に笑い声を上げる。「これは野暮な提案でしたね。江崎さんのような魅力的な方を、周囲の男たちが放っておくわけがない」娘のリナも、興味津々といった様子で目を輝かせた。「江崎さんを射止めた方なん
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第999話

詩織は気まずさから何か言おうとしたが、柊也がさりげなく前に立ち、その言葉を遮った。柊也はそのまま流れるような動作で助手席のドアを開ける。そしてリナへ顔を向けると、唇に微かな、しかしひどく冷え切った笑みを浮かべた。「お気遣いなく」焦燥も威圧もない、ただ絶対的な拒絶を含んだ静かな響きだった。「詩織を家へ連れて帰るのが、俺にとって毎日の楽しみなので。この役目は誰にも譲るつもりはありません」言い切るなり、リナに二の句を継がせる暇も与えなかった。詩織を車に乗せると、容赦なくドアを閉める。黒いセダンがなめらかに走り出し、夜の車列へと紛れていく。その場に立ち尽くすリナの顔からは、遠ざかる赤いテールランプを見つめるうちに、みるみる血の気が引いていった。柊也が心の底から大切にしている存在――それは、他でもない詩織だったのだ。「江崎さんに敵わないのは、無理もないことだ」レオが慰めるようにポンと肩を叩く。リナはすっかり肩を落とした。反発したくても、父親の言葉が揺るぎない事実だと痛いほど分かっていた。この世のいったい誰が、江崎詩織とまともに張り合えるというのだろう。車内には静かなジャズが流れ、窓の向こうの都会の喧騒をすっきりと切り離していた。本革のシートに深く体を預ける詩織の顔は、遅れて回ってきたアルコールのせいで、普段の涼しげな目元がトロンと色を帯びていた。顔を横に向けたまま、まるで強い接着剤で視線を固定されたかのように、運転席の姿を瞬き一つせずにじっと見つめている。オレンジ色の街灯が窓を抜け、柊也の横顔に光と影を落としていた。今夜の柊也は、確かにいつもとどこか違う。普段なら一番上まで隙なく留められているシャツのボタンがわずかに開き、端正な鎖骨が覗いている。髪も念入りにセットされていて、詩織がこれまで嗅いだことのないウッディ系の香水まで纏っていた。大人の男にだけ許されるような、ひどく攻撃的な色香を全身から漂わせている。「何をそんなに見ている」あまりに熱を帯びた視線に、柊也もさすがに落ち着かなくなったらしい。赤信号で車が止まった隙に顔を向けてきた。喉仏が上下に動き、その声色には不自然な緊張が混じっていた。詩織は目を細め、いたずらっぽく口角を上げる。宙に指を伸ばして彼の輪郭をなぞりながら、酔いに任せて甘く
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第1000話

「着飾ってるってなんだ。言葉を選べ」柊也は一つ咳払いをして威厳を取り戻そうとしたが、声の張りが明らかに足りていなかった。「俺は普段からこんな格好だろうが」「ううん、違う」詩織はコロンと体を傾け、ふにゃりと身を寄せてきた。酒の香りが混じった温かい吐息が、柊也の鼻先をふわりと掠める。伸ばされた細い指先が、シャツの第二ボタンにそっと引っかかった。とろんと潤んだ瞳の奥底に、悪戯っぽい光を瞬かせる。「でも……すごく好き」車内の空気が一瞬にして発火したように、息苦しいほどの甘い熱を帯びた。柊也は自分の中にある理性が、酒の残り香と隣からの温もりによって少しずつ蝕まれていくのを感じていた。大きく息を吸い込み、思い切りアクセルを踏み込む。車は急加速し、まとわりつくような焦燥を振り切るように夜道を進んだ。「ちゃんと座ってろ」声はかすれ、警告の色が含まれていたが、むしろ動揺を隠すための強がりにすぎない。「……後でお仕置きだからな」強張った顎のラインを見つめながら、詩織は堪えきれずにくすくすと笑い声を漏らした。この男が仕込んだちょっとした計算なんて、見抜けないわけがない。ただ、少しからかってみたかっただけだ。それにしても、まさかここまでからかい甲斐があるとは思わなかった。もう三十をすっかり過ぎたいい大人なのに、反応はまるで二十代の青年のようだ。とはいえ、これ以上は二人の身の安全に関わる。詩織は追撃をやめ、快適な本革シートにすっぽりと身を沈めた。柊也は最短ルートを駆け抜け、詩織が住むマンションの地下駐車場へと滑らかに車を滑り込ませた。車体が止まり、エンジンが切れる。もともとアルコールが回っていたところに道中の心地よい揺れが重なり、詩織はうとうとと浅い眠りに落ちていた。車の止まる気配に目を覚まし、長い睫毛を震わせて重い瞼をこじ開ける。覚醒しきらない瞳は薄い水膜に覆われ、ひどく無防備に潤んでいた。「……着いた?」寝起きの気怠さを帯びた、甘えるような掠れ声が漏れる。「ああ」横を向いた柊也の眼差しはひどく暗く沈み、声のトーンも明らかに普段より低い。詩織がドアを開けようと手を伸ばしかけた瞬間。カチャリ、と。静まり返った車内に、ドアロックが閉まる硬質な音がやけに鋭く響き渡った。同時に、胸の奥底で何かが
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