All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 1001 - Chapter 1010

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第1001話

すっかり骨抜きにされ、この狭い車内でただ翻弄されるがままになっていた。ここ最近、二人の関係はまるで綱渡りのようだった。互いの心音すら聞こえるほど密着しながらも、毎回あと一歩というところで必ずブレーキがかかる。壊れそうな均衡を慎重に保ち続ける、暗黙のルールのゲーム。常に一線を引いているようでいて、いつ踏み越えてもおかしくない危うさを孕んでいた。ひとたび情に流されれば、詩織のほうがよほど自制心を失いそうになる。だがそれを受け止める柊也の眼差しには、隠しきれない強い渇望が焼き付いている。抱き寄せられるたび、その強張った筋肉がどれほどの忍耐を強いているかを雄弁に物語っていた。まさに、今この瞬時のように。熱を持った掌がうなじに添えられ、親指が素肌を優しく撫で回す。力加減は抑えられているが、絶対に逃がさないという強い意志がこもっていた。それでも決まって、完全に理性を失う直前でわずかに身を引き、熱く荒い息を吐きながらまた額を擦り合わせてくる。見上げた視線が、深い黒の双眸とぶつかった。そこには詩織も見慣れた感情が渦巻いている。抑圧、渇望――そして、わずかな苦痛の色。ふと気づかされる。多くの場合、柊也は詩織の想像をはるかに超えるほどのしんどさを抱えて、必死に耐え抜いているのだと。「詩織」まるで紙やすりで削られたかのようにひどくかすれた低い声で、名前を呼ばれた。親指で赤く染まった唇をそっと撫でながら、懇願するような切迫した響きが車内に落ちる。「もう少しだけ……このまま一緒にいてくれないか」詩織の胸が小さく跳ねる。心に敷いていた防衛線が、音を立てて崩れていくのを感じた。柊也の息遣いは相変わらず荒く乱れていた。喉仏が何度も上下に動いているが、それ以上は決して踏み込んでこようとしない。どれほど恐ろしいまでの渇望を瞳に宿していようと、理性の糸が限界まで張り詰めていようと、交わした約束を律義に守ろうとしている。自制心を総動員して、引かれた一線の手前で必死に踏みとどまっているのだ。ただ見つめてくるその眼差しには、どこか卑屈なまでの祈りが混じっていた。ほんの少しでも長く引き留めておきたい。ただこうして静かに一緒にいたい。それだけを願って。そのじっと耐え忍ぶような姿を見ていると、胸の奥をそっと小突かれた
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第1002話

情欲に溺れかけていた二人の体が、同時にピタリと硬直した。柊也が慌ててコンソールボックスのスマホを掴もうとし、誤って通話ボタンに触れてしまったのだ。スマホは車のBluetoothに接続されたままで、すぐさまカーステレオから、この甘い空間にまったくそぐわない太一の呑気な声が響き渡った。まるで本人が後部座席に座っているかのような、ひどく臨場感のあるクリアな音質だ。「おい柊也、どうだ?江崎は落とせたか?」一秒にも満たない間に、車内の空気が完全に凍りついた。詩織の顔が、瞬く間に耳の先まで真っ赤に染まる。柊也は大きく息を吸い込み、いいところを邪魔された苛立ちを必死にねじ伏せて、氷のように冷え切った声を絞り出した。「お前……よっぽど暇と見えるな」電話の向こうで太一が一瞬言葉を詰まらせる。直後、スピーカーから鼓膜を突くような大声が爆発した。「俺が暇だって!?あんた、それ本気で言ってんのか、胸に手を当ててみろ!俺はもう一年も休みなしで働いてんだぞ!今だって会社で絶賛残業中だっていうのに!」ギャーギャーとわめき散らす声に、柊也は頭痛を覚えてこめかみを押さえた。「あんたを心配して、わざわざウェブ会議の休憩中に時間作って電話してやったのに!恩を仇で返す気かよ!」「それに、あんたが江崎を追っかけるのに苦労しすぎて、そのうち鬱になるんじゃないかって心配でアドバイスしてやったんじゃないか!」「もし今日の『色仕掛け』がダメだったなら、もう一つ奥の手があるぜ。高級クラブの『ラウンジ・ノクターン』って知ってるだろ?一度あそこで研修でも受けてこいよ。あそこの売れっ子ホストたちは、セレブ妻を貢がせる経験が豊富だから、手練手管を教わって……」プツン。柊也は容赦なく通話終了ボタンを叩き切った。車内は水を打ったような死寂に包み込まれた。太一のあの絶望的に空気の読めない電話は、まるでバケツ一杯の氷水のように、車内に燃え広がりかけていた野火を跡形もなく鎮火してしまったのだ。詩織はひどく気まずそうに上体を起こし、わずかに震える指先で、先ほど結び上げたばかりの髪をほどいた。さらさらとした長い髪が再び肩にこぼれ落ち、赤くなりきった耳と横顔をそっと隠してくれる。何度か深く息を吐き、激しく打つ心鐘をどうにか落ち着かせようと努めた。声にはまだ消え残
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第1003話

玄関は真っ暗だった。明かりをつける余裕など、どちらにもない。柊也の重みのある体がのしかかり、二人の唇は再び密接に絡み合った。それは長く押しとどめられていた嵐のようで、一瞬にして詩織の呼吸と思考をすべて奪い去ってしまった。最初の口づけは強引で、焦燥に満ちていた。まるで思春期の激しい恋の衝動のように、なりふり構わず全てをさらけ出してくる。しかし、詩織がその熱にそっと応えるうちに、荒々しさは少しずつ優しさへと変わっていった。一度は失った宝物を再び見つけ出し、慈しむかのように。心が震えるほどの愛おしさと大切さに満ちたその口づけは、先ほどの嵐のような激しさを、指先に絡みつくような心地よい甘さへと溶かしてゆく。「んっ……」息が続かなくなり、詩織の喉から微かな甘い吐息が漏れた。その小さな響きが、何よりの起爆剤となった。暗闇の中で、二人は溶け合うように互いを求め合う。濃く黒い夜の帳が水のように優しく包み込む中、柊也の胸の奥は、これ以上ないほど温かい感情で隙間なく埋め尽くされていた。祈りにも似た真摯な口づけが、詩織の心に残っていた最後の防波堤をゆっくりと崩していく。ふと、自分の中に張り巡らせていたすべての棘が抜け落ちたような気がした。この男が発する熱い体温と、心が震えるほど優しい口づけに甘やかされながら、長く抱えていた緊張や警戒心が、少しずつ確実に解きほぐされ、消え去っていくのを感じていた。詩織はわずかに顎を上げ、ぎこちなくも確かな意志を持って、その口づけに応えようとした。 心の中に響く声があった。――もしかしたら、本当にすべての壁を乗り越えて、私だけを見つめてくれるこの男を受け入れてもいいのかもしれない。互いの熱い吐息が交じり合い、詩織が心の底からすべてを委ねようとした、まさにその瞬間だった。ピンポーン、ピンポーン。軽快で連続したインターホンの音が、玄関に漂う甘く濃密な空気を無情にも切り裂いた。モニターに映し出されたのは、見慣れたミキの顔だ。レンズに向かって無防備に呼びかけている。「詩織ー?起きてる?起きてるなら開けてよー」雷に打たれたように、詩織はビクッと全身を震わせた。情慾に溺れていた頭が、冷水を浴びせられたように一瞬で覚醒する。パニックになりながら、慌てて柊也の背中を押して寝室へ追いや
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第1004話

ひと息つく間も惜しんで、急いで寝室のドアを開ける。部屋に入ると、まるで自分の城にでもいるかのように、柊也がベッドに腰を下ろしてくつろいでいた。柔らかそうなベッドは彼の威圧感を和らげるどころか、むしろ大人の男特有の攻撃的な色気をいっそう色濃くあぶり出している。オレンジ色の間接照明が、高く通った鼻筋や彫りの深い顔立ちを影で縁取っていた。わずかに目尻が赤く染まった切れ長の瞳が、からからと笑うような余裕を滲ませて、入り口に立つ詩織を真っ直ぐに射抜く。ラフに開けられたシャツの胸元からは、白く形の良い鎖骨が覗き、呼吸に合わせて上下するその様は、禁欲的でありながらひどく退廃的な危うさを放っていた。詩織は思わず息を呑んだ。息を呑むほど美しいこの男の姿を前に、不謹慎にも『彼を黄金の鳥籠に閉じ込めてしまいたい』などという、場違いな独占欲が頭をよぎる。だが、今はその色気を堪能している場合ではない。ミキが下りてくる前に、一刻も早くこの男を退去させなければならないのだ。詩織は込み上げてくる熱を無理やり押さえつけ、足早に近づいてその腕を引いた。「早く!ミキが上でカイを探してる間に、帰って」柊也は引っ張られるがままに歩き出したものの、その声には明らかな不満と拗ねた色が混じっていた。「俺はそんなに人目に触れちゃいけない存在か?」詩織だって、こんな扱いで彼に理不尽な思いをさせているのは百も承知だ。けれど、どうしようもない。そもそも、これ以上彼にのめり込まないよう、常に見張っていてほしいとミキに頼み込んだのは詩織自身なのだ。ミキは親友を泥沼から救い出そうと必死だったのに、結局また自分からそこに飛び込んだと知れたら、彼女の性格上、間違いなく発狂するほど心配するに決まっている。また、柊也の本来の性格を考えれば、詩織以外の他人のために譲歩し、暗がりに隠れるなど絶対にありえないことだ。彼が今こうして不満を抱えながらも身を引いてくれているのは、ひとえに詩織がミキを大切に思っていると理解し、尊重してくれているからに他ならない。だからこそ、玄関先まで押し出したところで、詩織は猛獣をなだめるようにそっと言葉をかけた。「……後でちゃんと時間を作って、少しずつでもミキには話すから」柊也にとって、その言葉はある種の期待に満ちたサインだった。
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第1005話

しかし、柊也は唇を離そうとせず、詩織よりもさらに荒い息を吐きながらそっと呟いた。「あと三十秒だ」よくもまあ、そんな嘘を平気で!「いい加減にして!もう下りてきちゃう!」声を押し殺し、必死に彼をたしなめる。柊也はミキに見つかることなど微塵も気にしていないはずで、あわよくばこのまま発覚してしまえとすら思っているふしがある。詩織もそれが痛いほど分かっていたからこそ、少しばかり姑息な手を使うしかなかった。下唇を軽く噛み、目元に涙の膜のような潤みを残したまま、体を半歩だけ寄せる。そして、細い指先で柊也のシャツの袖口を薄くつまむと、機嫌を取るように小さく揺らした。「……ねえ、言うこと聞いて。先にお家に帰って、お願い」まるでとろけた綿飴のように柔らかく、語尾が甘く跳ね上がった、普段の詩織からは到底想像もつかない嬌態と妥協の声だった。「……埋め合わせは、後で必ずするから。ね?」さらに声を潜め、彼に顔を近づける。温かい吐息が耳にかかるかかからないかの距離で、甘く誘惑するように囁きを落とした。「その時は……あんたの好きにしていいから」その一言は、柊也の胸の奥で重くくすぶっていた炎に投げ込まれた火の粉のようなものだった。瞳孔がわずかに収縮し、喉仏がどうにも制御できないように深く上下した。しばらくの沈黙の後。ようやく腕の力が解け、玄関の中に踏みとどまっていた片足が外へと出された。詩織は、心の底から長い息を吐き出す。共用廊下のセンサーライトが点いた一瞬、柊也の体がすでに明らかな熱を帯びているのが見て取れた。「……詩織、その約束だけは絶対に忘れるなよ」荒れ狂う情動を瞳の奥に押し込め、ただ限界まで張り詰めた声だけが残された。詩織の返答は、光の速さでドアを閉めることだった。心臓がけたたましく鳴り響き、顔は今にも発火しそうなほど熱い。まさか自分が、あんなはしたない台詞を口にするなんて思ってもみなかったからだ。ドアに背中を預けて荒い息を繰り返す。口元にはまだ、彼から与えられた火傷しそうなほどの熱がこびりついていた。ちょうどそのタイミングで、ミキが2階から下りてきた。わざと大きな足音を立てている。「一通り探したけど、上の階にはいなかったよ。やっぱりあんたの部屋だと思うんだけどな」リビングまで戻ってきて、玄関に張
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第1006話

だからこそ、玄関の暗証番号を知っているにもかかわらず、わざわざインターホンを何度も鳴らして、あの男を隠すための猶予を与えてやった。さらに上の階へ猫を探しに行くふりをして、あの男を家から追い出す隙まで作ってやったというわけだ。とはいえ、私がいないのをいいことに、あの男が毎晩のようにおいしい思いをしていると想像するだけで、ミキは腹立たしくてギリギリと奥歯を噛み締めた。賀来柊也の女たらしめ!本当にムカつく!昔、あの男がどれほど詩織を傷つけ、泣かせたかを思い出すと、今すぐあのクズ男をズタズタに引き裂いて、足でミンチに踏み潰してから野良犬の餌にしてやりたい衝动に駆られる。それでも、詩織がすでにまた彼の沼にどっぷりハマってしまっていることは、痛いほど理解していた。だからこそ、親友の幸せのために今は片目をつぶってやり、せめてこの最悪な「柊也」という猛犬を、少しばかり意地悪に振り回してやるくらいしかできないのだ。詩織が簡単に手に入る女だなんて、絶対に思わせてはいけない。簡単に手に入れたものほど、男はまたすぐに飽きて大切にしなくなるかもしれないのだから。だから、少しでも彼にハードルを与え、二人の恋愛の最大の障害(バグ)になってやろうと決めていた。柊也の愛がどれほどのものか、この私がとことん試してやる。これだけ苦労してようやく手に入れたのだと骨の髄まで叩き込み、死ぬまで詩織を大切にさせるために。シャワーを終え、詩織のベッドに潜り込んだ直後だった。ミキのスマホが振動し、マネージャーの佐伯さんから電話がかかってきた。こんな深夜に仕事の連絡とは珍しい。電話口の佐伯は珍しく大興奮しており、とある高級アパレルブランドからアンバサダー契約のオファーが舞い込んだとまくしたてた。これまでのミキのキャリアでは、到底手が届かなかったようなハイブランドだ。しかも、ギャラはこれまでの倍額を提示されているという。だからこそ、佐伯は夜中にもかかわらず興奮冷めやらぬ様子で電話をかけてきて、「明日の朝イチでブランド側と打ち合わせのために、北里市へ飛べるか?」と聞いてきたのだった。ミキは数秒間、何も答えず沈黙した。シャワーを浴びた直後で頭がクリアになっていたからこそ、この話の強烈な「違和感」にすぐ気がついたのだ。ミキはここ半年間、出演作
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第1007話

詩織の心臓が、トクンと大きく跳ねた。あの言葉は、昨夜なんとかして柊也を帰らせるために、その場しのぎで口走った甘い嘘だったのに。まさか今までずっと、その約束を頭の中で反芻していたとは。言葉の裏に隠された濃厚な熱に気づき、ポッと顔が赤くなる。頬から耳の先まで、一気に熱を帯びていくのが自分でも痛いほどわかった。「ホテル、行くか?」柊也は片眉をひょいと持ち上げ、場の空気を一気に甘くする選択肢をストレートに投げかけてきた。その瞳の奥には、網にかかった獲物を見つめる狩人のような鋭い光が揺らめいている。詩織は小さく口を開けたものの、喉がカラカラに乾いて声が出ない。腹をくくって頷こうとしたその瞬間――バッグの中のスマホが、空気も読まずにけたたましく鳴り響いた。画面に表示された『ミキ』の文字が、まるで頭から冷水を浴びせるように熱を奪っていく。詩織は申し訳なさそうに柊也をちらりと見ると、通話ボタンを押した。電話の向こうから、ミキの弾んだ声が飛び込んでくる。「詩織!密ちゃんから聞いたよ、今日早上がりだったんだって? ちょうどよかった、買い物行こうよ! もうすぐ誕生日のパーティーだし、可愛いドレスとかアクセサリー選びたいっしょ!」その勢いと熱量に押し切られ、断ることなど到底できず、詩織は慌てて承諾するしかなかった。通話を切ると、車内は再び静まり返った。息が詰まるほど気圧が低い。スマホを握りしめたまま、恐る恐る隣へ視線を向ける。目に飛び込んできたのは、ギリッと引き結ばれた柊也の硬い顎のラインだった。明らかに、拗ねている。それはまるで、美味しい肉を一口もらった直後にエサ皿を取り上げられた猫のようだった。全身から「面白くない」「弄んでるのか」という怨念が立ち上っている。「……また、ミキか」奥歯を噛み締めるように絞り出された低いトーンには、隠しきれない嫉妬と不満がどろどろに混ざっていた。「ごめんね。次は、次は必ず埋め合わせするから」詩織は慌てて機嫌を取ろうとする。毎度のごとく出される空手形に慣らされてしまったのか、柊也は深い溜息とともに渋々それを受け入れた。それどころか、ミキとの待ち合わせに指定されたショッピングモールまで、わざわざ車で送り届けてくれる。目的地に着き、車を降りる直前。詩織は身を乗り出し、彼の唇にチュ
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第1008話

店員は困惑したように頭を下げた。「申し訳ございません、真理子様。そちらのジュエリーは、すでに別のお客様の売約済みとなっておりまして……」真理子は不愉快そうに細い眉をひそめた。「私、ここのVIP会員なんだけど? 優先購入権があるはずでしょ」そして当然の権利だと言わんばかりに顎をしゃくった。「こっちに回しなさい」確かに、VIP優遇という店のルールは存在する。だからこそ、店員は困り果てた顔をして、ゲストエリアで他のジュエリーを眺めていたミキのところへ小走りに向かい、事情を説明した。ミキは納得がいかなかった。「でも、こっちは買うって決めてるんですよ。いくらなんでも早い者勝ちでしょ」もし「買おうかな」と迷っている段階なら、まだ譲ってもよかった。だが、すでにカードを渡し、あとは決済してサインするだけの状態だ。これで売約済みにしてもらえないなんて理不尽すぎる。店員は申し訳なさそうにUターンし、真理子に説明しようとした。しかし、真理子は店員の言葉などこれっぽっちも聞き入れようとしない。それどころか、わざとミキに聞こえるように声を張り上げた。「決済前なら尚更じゃない。たとえカードを切った後でも、私に譲るのが筋よ」その甲高い声に、ミキは妙な聞き覚えがあった。くるりと振り返る。あきれた。いつかのオークション会場で、個室を横取りしようと騒いでいたセレブ夫人たちではないか。相変わらず、他人のものを横取りするのがお好きなようだ。今日、相手が全くの別人だったなら、ミキも面倒を避けて譲ったかもしれない。だが、この連中にだけは絶対に引き下がるつもりはなかった。ミキは店員にきっぱりと告げる。「このジュエリーは私が買います。さっさとカードを切ってください」一方、真理子もミキの顔を見た途端、あからさまに険しい目つきになった。オークション会場での一件があったため、ミキの顔ははっきりと覚えている。まさかこんなところで顔を合わせるとは。あの時は詩織がいて、しかも彼女がオークションハウスのオーナーだったせいで、こちらのメンツは丸潰れになった。だが、この店での立場は違う。真理子はミキのことなど視界に入っていないかのように、カウンターへつかつかと進み出た。わずかに顎をそらし、当然の権利だと言わんばかりに店員に言い放つ。
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第1009話

「だったら、このカードならどう?優先権として十分かしら」その聞き覚えのある声に、真理子や霜花たち夫人の顔色が一瞬にして曇る。通話を終えたばかりの詩織が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。先ほどまでのピリついた空気などどこ吹く風といった様子で、その表情は極めて淡々としている。詩織はレジカウンターの前に立つと、指先に挟んでいた漆黒の金属カードを、ガラスのカウンターへ無造作に放り投げた。硬質なカードがガラスに当たり、「チリン」と澄んだ音を立てる。見えない平手打ちのようなその甲高い響きが、真理子の顔に張り付いていた勝ち誇った笑みを一瞬で打ち砕いた。詩織は片手をカウンターにつき、わずかに首を傾げた。そして呆然としている店員越しに、顔色を一変させた真理子へと、嘲るような笑みを向ける。「この店にはルールがあるんですって?奇遇ね、私、ルールにはうるさいタチなの。店長さんを呼んできてくれるかしら。このカードで『横入り』ができるかどうか、確認していただきたいから」詩織は普段から数々のレセプションやパーティーに出席するため、ジュエリーの需要は途方もなく高い。このブランドに限らず、江ノ本市にある錚々たるハイジュエラーのほとんどで、彼女はトップVIPとして君臨している。ただ、普段の買い付けはすべてアシスタントの密に任せているため、店頭のスタッフが彼女の顔を知らなかっただけだ。とはいえ、出されたその「ブラック・ゴールドカード」の威力を、店員が知らないわけがない。ブランドが世界でわずか三枚しか発行していない、文字通りの『幻のトップVIPカード』だ。(ちなみにそのうちの二枚は、ブランドのオーナー夫婦が所有している)店員は震える両手で恭しくブラックカードを受け取ると、態度を百八十度一変させた。「かしこまりました! もちろんでございます!」もはや真理子の方を見向きもせず、即座にレジの決済システムを操作し始める。先ほどまで特権階級の優越感を丸出しにしていた真理子は、完全に言葉を失っていた。その顔に浮かんでいるのは、筆舌に尽くしがたい屈辱と引きつりだ。そこへミキが歩み寄り、カウンターに軽くもたれかかりながら、わざと気怠げな声で言った。「ほら、さっさと処理して。そんな『一般カード』で私たちの時間を無駄にさせないでね」そっくりそのまま返さ
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第1010話

霜花の顔に、あからさまな嫌悪感が浮かんだ。「……本当に。最高に縁起が悪いわ」「おっしゃる通りですわ。でもね……」真理子はわざともったいぶって言葉を区切り、意地の悪い笑みを口元に張り付けた。「その日、あの女のパーティーに、果たしてどれだけの人が集まるかしら?」霜花は少し考える素振りを見せてから、冷ややかに答えた。「さあね。きっと、誰も寄り付かないお寒い宴になるんじゃないかしら」真理子も同じ結末を想像しているのか、その笑みはますます深くなった。「そんな見世物、見逃すなんてもったいないわね」霜花の瞳の奥で、底意地の悪い光がギラリと瞬いた。真理子は不思議そうに首を傾げる。「まさか霜花さん、あの女のパーティーに顔を出すおつもりで?」「まさか」霜花は真理子の腕から手を離すと、バッグからスマホを取り出し、父親に電話をかけた。通話が繋がるなり、声のトーンを甘い娘のものへと切り替える。「パパ?今年の私のバースデーパーティーなんだけど、江ノ本市で開きたいの。パパたちもこっちに来てくれるわよね?」少し間を置いて、彼女は楽しげに答えた。「場所?ええ、インターコンチネンタルホテルよ」見世物というものは、やはり特等席で眺めてこそ価値がある。幼い頃から社交界を泳ぎ回ってきた霜花は、この世界の残酷なルールを骨の髄まで理解していた。一度でも会社が破産に追い込まれれば、詩織は『名声』という名の巨大な豪華客船から、真っ先に海へ放り出されてサメの餌食となる。チヤホヤと担ぎ上げられていた祭壇から真っ逆さまに転落し、誰一人として振り向かない泥沼で無残に砕け散るのだ。その極上のエンターテインメントを、どうして見逃すことができようか。......その翌日からの二日間。ミキは宣言通り、ありとあらゆる隙間を縫って詩織を連れ回した。ショッピングにエステ、ディナー。仕事以外のすべての時間を徹底的に独占し、通勤の送迎というわずかな接点すらも容赦なく奪いにきた。詩織はミキの目を盗むため、わざといつもより一時間早く起きてこっそり家を出ようとした。だが、寝室のドアを開けた瞬間――リビングのソファで、満面の笑みを浮かべたミキが手ぐすね引いて待ち構えていたのだ。「あ、私さ、よく考えたら『華栄』の株主でもあるんだよね。少しは会社に貢献しなきゃなーっ
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