All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 881 - Chapter 890

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第881話

ただその場に立ち尽くし、凪いでいた心に次々と波が広がるのを眺めることしか。すっかり枯れ果てていた木から、少しずつ青い新芽が芽吹くのを見守ることしか。詩織はその紙切れをじっと見つめ、何度も迷った末に、そっとスマートフォンのケースの裏に挟み込んだ。そこでようやく揺れる感情に蓋をし、いつもの顔に戻ると、各部署へ会議の招集をかけた。午後、沙羅がやって来た。詩織は彼女としばらく仕事の話をし、ミキが合流してから三人で食事に出掛けた。最近、休暇を持て余して退屈していたミキは、暇さえあれば沙羅に連絡をとっていた。「こっちへ遊びにおいでよ。とびきりイイ男を端から紹介してあげるから」二人の話題の行き着く先はいつもそれだ。おかげで、ここ最近の沙羅は頻繁に江ノ本市へ足を運んでいる。今日のコースはすべてミキのプロデュースだった。まずはマッチョな店員が売りのコンセプトレストランで目の保養と食事を済ませ、その後はカラオケに河岸を変えて思い切りシャウトした。ミキの歌唱力はかなりのものだが、沙羅も決して負けてはいない。二時間ぶっ通しで、詩織の鼓膜が休まる暇は一秒たりともなかった。おまけにミキからスマホをマナーモードにするよう強制され、「みんなが羽を伸ばしている時に仕事を持ち込んで空気を壊すの禁止!」と釘を刺される始末だった。歌い終わると、ミキが「さっきの店じゃ筋肉を見るのに夢中で全然食べられなかった」と腹ペコをアピールし始めた。そこで三人はオープンテラスの屋台風居酒屋へ移動し、スパイシーな海鮮焼きや串焼きをつまみにビールで乾杯した。生粋の陽キャである二人から放たれる圧倒的なエネルギーに巻き込まれ、普段は控えめな詩織も、今日ばかりはすっかり肩の力を抜いて酒と会話を楽しんでいた。あいにく空はずっと雨模様だったが、三人のテンションが下がることはなく、むしろ雨音の響く風情が心地よかった。すっかりハイになったミキと沙羅は、かなりのペースで杯を重ねた。詩織は二人ほど羽目を外さずセーブしていたものの、それでも思考は少しふんわりと宙に浮いている。彼女は運転手に指示を出し、まずは沙羅を宿泊先のホテルへと送り届けた。だが、ホテルに着いてもミキはまだ飲み足りないらしく、「部屋で朝まで飲み直そう!」と沙羅に絡み始めた。詩織は軽く眉間を揉
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第882話

「ちょっと、マジで言ってる!?」少し離れた物陰で、ミキはあやうく顎が外れそうになっていた。「あれ、本当にあの賀来柊也なの!?」沙羅が慌ててミキの口を塞ぐ。向こうの二人に聞こえたら大変だ。あまりに衝撃的な光景を前に、酔っ払い二人の酔いは一瞬にして吹き飛んでいた。ミキは何度も目をこすり、自分が幻覚を見ているわけではないことを確認する。百戦錬磨の大人であるはずの沙羅でさえ、これには言葉を失っていた。ビジネス界の頂点に君臨し、あんなにも冷酷に権力を振りかざしていたあの賀来社長が?あれほどプライドが高く傲慢だった男が、泥水にまみれて人に土下座しているなんて!二人は互いの存在に完全に縫い止められ、ギャラリーの存在には微塵も気づいていなかった。詩織の手は、まだ柊也に強く握りしめられていた。不意に、ひどく熱く湿った雫が彼女の手の甲に落ち、つたっていく。その熱さに、詩織の胸の奥がきゅっと締め付けられた。周囲には冷たい雨と風の音しか聞こえないはずなのに、彼女の耳の奥では、凄まじい轟音が何度も響き渡っていた。心の中で、何かが音を立てて決壊していく。彼女が必死に死守してきた、最後の防衛線。――結局のところ、私は彼を前にして、無関心でなんていられないのだ。詩織は目を伏せ、自分の足元で頭を垂れる彼を見下ろした。夜の闇に沈んだその背中と肩は、哀れなほどに小刻みに震えている。彼の手は氷のように冷たかった。かつての絶対的なプライドは完全に打ち砕かれ、その姿は地の底の塵に等しいほどに卑小だった。詩織はただ静かに彼を見つめていた。ここ数年の地獄を乗り越えて培ってきた冷静さのすべてを総動員して、やっとの思いで自分を立たせていた。やがて彼女は――それでもやはり、そっと彼の手から自分の手を引き抜いた。「もう遅いわ」声の震えを隠し、限界まで平静を装って彼女は言った。「……早く帰って、休んで」その言葉を聞いた瞬間、柊也の身体から糸が切れたように力が抜け、彼はその場に力なくへたり込んだ。どうすればいいのか。何を言えば届くのか。もう打つ手が何一つなかった。彼がすがりついた最後の希望の光は無惨にも粉砕され、圧倒的な無力感の濁流が彼を完全に呑み込んでいた。詩織はそれ以上彼を顧みることもなく、踵を返して歩き去った。ただ、彼を送るため
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第883話

「ご迷惑でしたか?」と詩織が尋ねる。「とんでもない。迷惑をかけたのは僕のほうだ」響太朗は深く感謝の意を示した。「君の協力がなければ、僕は小春の親権を守り切ることはできなかった。それに、僕を助けるために君を何度も危険な目に遭わせてしまったしね。高坂の家はこの恩を決して忘れない。力になれることがあれば、遠慮なく何でも言ってくれ」「見返りを求めてお力添えしたわけではありませんよ。かつて、百合子さんが私を無条件に信じ、助けてくださったように、私もそうしたかっただけですから」詩織の眼差しは穏やかで、その佇まいには落ち着きがあった。堂々としたその風格は、かつての亡き妻・百合子の面影を思わせる。響太朗は彼女を見つめながら妻を思い出し、ふと悲痛な色をその目に滲ませた。「ただ、突然の婚約解消となれば、君のビジネスに多少なりとも影響が出るはずだ。まだこの本港市で完全に地盤を固めきったわけではないだろう?」しかし、詩織はさして気にする様子もなく答えた。「今の私には、事業の成功よりも優先すべき、大切なことがあるんです」もちろん、本港市で響太朗という確固たる後ろ盾があったほうが、ビジネスの闘いははるかに有利に進められる。それでも――泥水にまみれ、地に膝をついて「もう一度俺を愛してくれないか」と切実な声で哀願した柊也の姿を思い出すだけで、彼女の張り詰めていた心は痛いほどに柔らかく解けていくのだ。響太朗は彼女の心境の変化を察し、少し考え込んだ後で静かに言った。「分かった。この件については僕に任せてくれ。君は私を助けるために巻き込まれたんだ。君に損害を被らせるわけにはいかない」そして翌朝。本港市のメディアは、ある特大のゴシップ記事で持ちきりになっていた。【リードテックのトップ・高坂響太朗、昨夜ホテルに女性をお持ち帰り】とても言い逃れができないほど鮮明な写真と動画付きで、各メディアが一斉に報じたのだ。ニュースを見た詩織は目を丸くし、すぐさま響太朗に「どうしてこんな手段を選んだんですか?」とメッセージを送った。彼からの返信は、極めて簡潔なものだった。「こうすれば、こちらに非があるということで、君は完全に無傷で婚約を破棄できる」「でも、あなた自身の立場に悪影響が出てしまいます」「構わない。男のこういうスキャンダルは、世間からすれ
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第884話

詩織は、彼がわざわざ迎えに来たのだから仕事の件だろうと思い、迷わず同じ車に乗り込んだ。車が走り出すと、彼女はすかさずAIプロジェクト『ココロ』の話題を切り出した。衆和銀行もごく一部ながら『ココロ』の株式を保有しており、今後の出資を継続するか撤退するかは、トップである京介の判断一つにかかっているからだ。だが、彼女が本題に入ろうとした矢先、京介はあっさりとその話題を遮った。「仕事の話をしに来たわけじゃないんだ。君と、少し個人的な話をしたい」詩織は眉をひそめた。いますぐ車を降りたかったが、時すでに遅し。車はすでに首都高のランプウェイに入り、猛スピードで本線を走り出していた。「本港市のメディアが報じたニュース、見たよ。……実は、高坂との婚約はフェイクだったんじゃないか?」京介がそこまで見抜いていること自体に、詩織は驚かなかった。そして、わざわざ否定するつもりもなかった。しかし、その沈黙は彼にとって決定的な吉報となったらしい。京介は身を乗り出すようにして、切実な声を上げた。「君が高坂との婚約を解消して、俺も完全に離婚が成立した。これなら、俺たちは……」「ないわ」京介が言葉を言い終わるよりも早く、詩織は冷徹に言い放った。彼の顔から、期待の笑みが凍りついたように消え失せる。彼女はもう一度、その目に現実を突きつけるようにはっきりと告げた。「その可能性は、ゼロよ」「でも……君だって、かつて俺に少しは惹かれていたじゃないか!」焦りに追い詰められた彼の声が反響し、コントロールを失ったように微かに震えていた。否定はしなかった。あの一通のメールのせいだったのか、あるいは別の理由があったのかは分からない。ともかく、彼女がかつて彼に特別な感情を抱き、心が揺れ動いた瞬間があったことだけは事実だ。だが、その結末は彼女が望んだような形にはならなかった。「心が動いたのなら、どうしてもう一度試そうとしてくれないんだ?」彼からすがるような、悲痛とも言える必死の眼差しが向けられた。これ以上拒絶の言葉を聞きたくないとばかりに、早口で畳み掛けてくる。「今度こそ、うまくいくかもしれないじゃないか!」それでも、詩織の答えが覆ることはなかった。「『かもしれない』なんて不確かなものは信じない。確率が低すぎるのよ」そ
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第885話

自分がどうやって車を降りたのか、京介にはまったく記憶がなかった。詩織たちを乗せた車が水しぶきを上げて走り去り、周囲の喧騒が嘘のように静まり返ってから、ようやく彼の意識はゆっくりと現実へと引き戻された。手には、別れ際に詩織が半ば強引に押し付けていった傘が、力なく握りしめられている。走り去る直前に彼女が放った言葉だけが、彼と共に冷たい雨の中に取り残されていた。京介は自嘲するように、音もなく乾いた笑みをこぼした。その瞳には、すべてを失ったかのような深い絶望が広がっている。彼はただ一人、土砂降りの雨の中にいつまでも、いつまでも立ち尽くしていた。......詩織は、一刻も早く柊也を病院へと運び込んだ。体温計を見た看護師が息を呑むのも無理はなかった。三十九度五分。大人がここまで熱を上げれば、立っているのもやっとの尋常ではない苦しさのはずだ。頭が割れるように痛み、全身の関節が悲鳴を上げているに違いない。一体どうやって車のハンドルを握り、豪雨の中を走ってきたというのか。事故を起こさなかったのが奇跡だった。解熱剤が打たれ、点滴が微かな音を立てて落ち始めるのを見て、詩織の胸の内にようやく少しだけ安堵が広がった。処置の間中、柊也はずっと彼女の手を握りしめていた。骨が軋むほど強く、絶対に離すまいとするかのように。握られた指先が痺れてかすかな痛みを感じていたが、詩織は何も言わず、彼のされるがままに任せていた。空いている方の手でティッシュを引き抜き、彼女は彼の冷たい頬にこびりついた雨水をそっと拭う。高熱に浮かされた柊也の顔は微かに赤みがかっていたが、その瞳だけは異様なほど澄んでいて、瞬きすら忘れたように彼女だけを真っ直ぐに見つめ続けていた。「少し眠って。そうすれば楽になるから」詩織は、できるだけ静かな声で宥めた。だが、柊也は頑なに瞼を閉じようとしなかった。まるですべてが都合の良い夢だと思い込んでいるかのように、現実から引き剥がされることを恐れていた。一度でも目を閉じてしまえば、この奇跡のような時間が跡形もなく砕け散ってしまうのではないか──そんな怯えだけが、限界を超えた彼の意識を無理やり繋ぎ止めているようだった。意地になって抗う彼に、詩織は小さくため息をつくと、静かに約束した。「どこ
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第886話

続いて、どこか懐かしく、それでいて不器用な気配が彼女をすっぽりと覆う。彼の身のこなしは、壊れやすい宝物を扱うようにひどく慎重で、慈しむような優しさに満ちていた。「……寝てていいよ」極限まで抑えられた声は、掠れた吐息のようで、けれど最も柔らかな羽毛のように、彼女の微睡む意識をそっと撫でた。「俺は、ここにいるから」その安心させるような気配に包まれ、張り詰めていた詩織の神経が少しずつ解けていった。こんなに深く眠ったのはいつ以来だろうか。これまではベッドに入っても頭の片隅には常に仕事のことがあり、本当の意味で気が休まることがなかった。だが昨夜は余計なことを一切考えずに済み、泥のように眠り込んだ。気づけば、朝の七時を回っていた。しかし、重い瞼を開いた瞬間、すぐ目の前にある端正な顔立ちに心臓が跳ねた。広い病室には付き添い用の立派なベッドまであるのに、なぜか二人は同じベッドに横たわっている。しかも無駄に広い特注サイズのベッドだというのに、二人して端のほうに寄り添い、お互いの呼吸が混ざり合うほどの至近距離にいたのだ。いつの間にか目を覚ましていた柊也の瞳の奥には、すべてを呑み込んでしまいそうな重く熱い思慕が渦巻いていた。これ以上見つめ合えば、そのまま深い場所へ引きずり込まれてしまいそうだった。たまらず詩織は顔を背け、彼の胸を押し返そうとした。「……もう起きるわ」「まだ早い。もう少し寝てよう」腰に回された腕に引き寄せられる。たいして力を入れているわけでもないのに、どうやっても抜け出せない。むしろ、身をよじって抵抗するうちに、彼が身体の奥底に抱え込んでいる明らかな「熱」と変化に気づいてしまった。これ以上刺激してはいけないと瞬時に悟り、詩織の身体がビクッと強張る。カッと顔に熱が集まり、耳の先まで朱に染まっていくのが自分でも分かった。いくら高熱を出しているとはいえ、柊也も健康な大人の男だ。愛してやまない女が腕の中で顔を真っ赤にして固まっているのを見て、平静を保てるはずがない。無意識に顔を近づけ、彼女の唇に熱い息を落とす。荒くなった呼吸を必死に押し殺しながら、彼は限界まで理性を繋ぎ止めていた。唇が重なる寸前、詩織は咄嗟に顔を背けた。行き場を失った熱いキスは首筋にそっと落とされ、微かな吐息が肌を這うと、ゾ
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第887話

朝の、あわやというところまでいったあのキスの記憶は、二人にとって触れてはいけない暗黙の秘密となった。本当は、柊也の胸の内には彼女に聞きたいことが山ほどあった。たとえば、なぜ京介を雨の中に置き去りにしてまで、自分を連れてきてくれたのか。彼女は絶対に京介を選ぶと思っていた。その絶望的な現実を受け入れる覚悟さえ、すでに決めていたというのに。けれど結局、尋ねる勇気は出なかった。答えを知りたい。でも、本当の理由を知るのが恐ろしい。傷つくことを恐れて、最後は殻に閉じこもる臆病者になるしかなかった。理由が同情だろうと何だろうと構わない。少なくとも今この瞬間だけは、彼女は俺のそばにいてくれるのだから。......ミキは、本当に夜逃げ同然で飛び出したのだ。彼女は「今すぐ連れて行って!」と沙羅にすがりつき、そのままS市へと逃げ込んだのだった。沙羅もそんな彼女を手厚く歓迎し、夜の街でミキにいろんな「社会見学」をさせてくれた。ひとしきり堪能した後で、ミキは冷静な評価を下すことも忘れなかった。「S市のホスト、江ノ本市より全然レベル高いわね」何より、全員がとてつもなく口が上手かった。甘い声で「お姉さん」と連呼されれば、どんな女だって心が蕩けてしまうだろう。彼らは空気も読める。ミキと沙羅の会話から、ミキが最近離婚したばかりだと察すると、興味津々に身を乗り出してきた。「お姉さんみたいに綺麗な人を手放すなんて、どこの見る目ない男ですか?」「俺がお姉さんみたいな奥さんと結婚したら、絶対に甘やかしまくりますよ。指一本触れさせないくらい大切にするのに」ミキは感心したように、小さく息を吐いた。この圧倒的な自己肯定感の上がり具合。これだけ気分良くさせてくれるなら、男たちが妻を放ったらかして外で遊びたくなる気持ちもよくわかる。今のミキにとっても、釣った魚に餌をやらない元夫より、こうして全力で甘やかしてくれる男たちと遊んでいるほうがよっぽど楽しく思えたのだ。「離婚と退職の理由は同じよ。待遇が見合ってないか、それとも『ヤってて』不満があるかのどっちかね」沙羅が人生の先輩のような顔をして、意味深にからかってきた。たしかに、「ヤること」に関しては……白彦のテクニックや持久力は、決して悪くはなかった。ただ、ミキ自身がこ
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第888話

男の顔をはっきりと認識した瞬間、ミキの頭を支配したのは一つの願望だけだった。今すぐ地中深く潜って消え去りたい!人間、どうしたらこんな特大の地雷を踏み抜くことができるのだろうか。澪士は踵を返すと、一緒にいた友人を置き去りにして、ミキに向かって真っ直ぐに歩いてきた。底知れない、焼け焦げるような重い視線に射抜かれ、ミキは無意識に足がすくんだ。逃げ出す力すらわいてこない。彼女は顔の筋肉を総動員して引きつった作り笑いを浮かべると、ぱたぱたと手を振った。「き、奇遇ね……」澪士の態度はどこか気怠げだったが、その目は異様なほどの熱を帯びていた。彼はミキを舐め回すようにじっくりと観察し、最後に彼女の背後に立っている二人のホストへと視線を移した。そして、形の良い眉をすっと跳ね上げる。ミキはなぜかひどく冷や汗をかき、しどろもどろで弁解を始めた。「あ、彼らは沙羅さんが呼んだだけで、私は指名してないわよ!私はただ純粋に、お酒を飲みに来ただけだから!」まくしたてた後で、自分の言い訳がどれだけ墓穴を掘っているかに気づいた。「どこに泊まってる?送っていくよ」澪士はそれ以上何も追及しなかったが、その眼差しは先ほどよりも明らかに数段冷たくなっていた。本当なら「送ってくれる人がいるから大丈夫」と断るつもりだったのに、どうしても言葉が出ない。彼の冷ややかな視線にサッと射竦められ、見えない圧力に屈したミキは、大人しくホテルの名前を自白してしまった。「行くぞ」反論の余地は全くなかった。澪士はミキが握っていたバッグを強引に奪い取ると、上着をかけている方の腕にひょいと引っ掛けた。絵に描いたようなプレイボーイのくせに、その何気ない仕草には妙に手慣れた家庭の匂い——謎の「旦那感」のようなものが漂っていて、ミキは少し面食らった。すっかり毒気を抜かれ、親に見つかってドヤされている不良学生のように、ミキは首をすくめて大人しく彼の後をついていくしかなかった。澪士は連れの友人たちに声をかけ、「友達を送るから俺はここで抜ける。また今度な」と手短に事情を説明した。友人たちは興味深げにミキをジロジロと眺め、ニヤニヤしながら絡んでくる。「えー、誰これ。紹介してくれないの?」「ただの友達の友達だ。お前らが想像してるような関係じゃない」澪士はあっさりと
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第889話

あんな欲望が渦巻くような喧騒のクラブにいても、彼だけは決して俗世の泥に染まらない、ある種の気高さのようなものを纏っていた。ホテルへ向かう車内は、なぜか重苦しい沈黙に包まれていた。二人とも言葉を発しないまま、目的地に到着する。「……送ってくれてありがとう」重たい空気に耐えきれず、逃げるように礼を言い、ミキが急いで降りようとドアノブに手をかけた、その瞬間だった。カシャッ、と鈍い音が響き、ドアのロックが下ろされた。ミキは動きを止め、訳が分からないといった顔で隣の澪士を振り返った。彼は前を向いたまま、ひどく無造作な口調で尋ねてきた。「……由木とのゴタゴタ、その後どうなってる?」その名前を出された途端、ミキはズキリと頭が痛むのを感じた。離婚届こそすでに提出済みだが、事後処理は完全に泥沼化している。未練がましい白彦は、代理人である峰岸の要求をことごとく無視し、財産分与や接触禁止の取り決めを記す公正証書の作成を徹底的に妨害し続けているのだ。完全な関係破綻を証明し、裁判で完全に息の根を止めるため、峰岸の助言に従って江ノ本市に身を隠し、白彦との接触を一切断ち切っている最中だった。(今は息抜きでS市に来ているが)。決着がつくまで数年はかかる長期戦になる覚悟は、とうにできている。それにしても、なぜ澪士が突然そんな踏み込んだことを聞いてくるのか。「……全然、スムーズにいってないわ」うんざりしたようにミキがため息をつくと、澪士がハンドルを握る手にゆっくりと力が込められた。薄暗い車内では、彼の茶色い瞳の奥でどんな激しい感情が渦巻いているのか、ミキには知る由もなかった。「ふぁ……」ミキは小さく欠伸を噛み殺すと、無理やり明るい声を出した。「もう遅いし、あなたも早く帰って休んでね。じゃあ、また」「…………」少しの間を置いて、澪士が低い声で応じる。「おやすみ」『またね』ではなく、『おやすみ』。その些細な言葉のチョイスに込められた重い意味に、今のミキが気づくはずもなかった。カチッとロックが解除されるや否や、彼女はそそくさと車を降り、一度も振り返ることなくホテルへと足早に消えていった。ホテルの部屋に戻って温かいシャワーを浴びると、あれだけあった眠気はすっかり吹き飛んでしまった。車内で澪士に投げかけられたあの一言が、ミキ
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第890話

「絶対に情にほだされちゃダメ。昔あんたを大事にしなかった男が、今後大事にしてくれるわけないんだから。一度手に入れたら、また絶対に同じことを繰り返すわ」「とにかく、元カレとヨリを戻すなんて絶対にナシ!同じ男と二度も遊ぶ暇なんてないんだからね。分かった?」「……分かってるわよ」後ろめたさに冷や汗をかきながら適当に相槌を打ち、詩織はなんとか通話を終えると、特大のため息を吐き出した。病室に戻ると、柊也はすでに荷物をまとめ終えていた。今日は彼が退院する日なのだ。回診にやって来た医師が退院後の生活の注意点を説明してくれていたが、当の柊也はどこか上の空だった。それどころか、ひと通りの説明が終わった後、医師に向かって妙な質問を投げかけた。「俺は腎臓を一つ摘出しているんですが。理屈から言えば、こんなに早く回復するはずがないんじゃないですか?」医師は真面目な顔で医学的な見解を答えた。「健康な成人であれば、腎臓が一つ失われても日常生活への影響はほとんどありません。残された片方がすべての機能を十分に補ってくれますから。それに、賀来さんはまだ若く体力もありますからね。回復が早いのはごく自然なことです。何も心配いりませんよ」太鼓判を押されたというのに、柊也の顔色はかえって目に見えて冷ややかになった。あからさまに不機嫌そうなその態度に、医師はどうにも納得がいかないといった様子で首を傾げた。普通、患者というものは一日でも早く退院できることを喜ぶものではないのか?なぜこの男は、これほどまでに不満そうにしているのだろうか。......『ココロ』の株式譲渡をめぐる協議に、予期せぬ暗雲が立ち込めていた。真理子が買い取り価格に難癖をつけ、頑として書類へのサインを拒否したのだ。よりによって智也は、彼女の出産時に自身が保有する株式の大部分を真理子名義に移してしまっていた。そのせいで、現在の彼は『ココロ』において実質的な発言権を完全に失っている。事態を重く見た詩織はアシスタントの密に指示を出し、真理子と一対一で話し合う場を設けようとした。だが、真理子は面会をすげなく断ったばかりか、密に厚かましい伝言を託してきた。華栄が保有する『ココロ』の株式を買い戻してもいいが、それなら市場価格の「三割」で譲れ、というのだ。これには密もその場
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