All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 851 - Chapter 860

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第851話

「はあ!?同じなわけないじゃない。腰の使い方が似てたの?それとも攻め方?」ミキは心底がっかりしたように声を張り上げる。「男によって全然違うものでしょう?長さとか、太さだって千差万別なんだから!」詩織は慌ててミキの口を塞いだ。店中の視線が突き刺さる。恥ずかしさで顔から火が出そうだ。だが、嘘をついたわけではない。本当に、同じように感じたのだ。あの夜、意識が朦朧とする中で、詩織は相手を柊也だと錯覚していた。失恋の傷が癒えず、脳が彼を求めて幻を見せたのだと思っていた。彼女にとって「セックス」の基準は、すべて彼に刻み込まれたものだったから。ミキがこれ以上、際どい発言をしないと確信してから、詩織はようやくその口を塞いでいた手を離した。ミキは「やれやれ」と肩をすくめ、愉快そうに鼻を鳴らす。「なによ、それじゃあ結局、何も覚えてないってこと?損な役回りねえ」「……いいから、食べなさいよ」運ばれてきた料理を前にしても、ミキの視線は料理よりも、給仕する「裸エプロン」のマッチョたちに注がれていた。ようやく追及の手が緩み、詩織は密かに安堵のため息をつく。だが、物珍しさも束の間、ミキはすぐに飽きたのか、今度は品評会の審査員よろしく独断と偏見に満ちた点数をつけ始めた。「右の彼、体格だけは立派だけど、ああいうのは見掛け倒しで『あっち』は小粒に決まってるわ」「そっちのは……うん、一分持たなそうね。早漏顔だわ」「真ん中の子は、ちょっとそっちの気があるんじゃない?」散々こき下ろした挙げ句、ミキは深いため息を一つついた。「……悔しいけど、顔の偏差値だけなら、あのクソ也の方が上ね」「ゴホッ、ゲホッ……!」またしても詩織は盛大に咽せた。「ちょっと、そんなに動揺しなくてもいいじゃない。あんたの男選びのセンス『だけ』は認めてるって褒めてるのよ。あくまで外見の話だけど。性格はゴミ以下だけどね!」ミキに差し出されたナプキンを受け取り、詩織は苦い顔で頷いた。「……それは否定しないわ」クズな男を罵ることにかけては、二人の息は完璧に合っていた。所変わって、会員制ラウンジ『ノクターン』。「ハクションッ!」柊也が、立て続けに何度かクシャミをした。隣でグラスを傾けていた太一が、ひょいと首を傾げる。「なんだよ、風邪か
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第852話

あいつが――江崎詩織が来たのかと、本気で錯覚したのだ。だが、女がこちらへ歩み寄るにつれて、その驚きは急速にしぼんでいった。確かに、一見すれば詩織に似ている。清楚な面立ちや、どこか儚げな雰囲気は驚くほど彼女を彷彿とさせた。だが、じっくり見れば見るほど違和感が募る。あいつから凛とした高潔さと、内側から溢れ出すような輝きをすべて抜き取り、表面だけを安っぽく模倣したような……いわば、出来の悪い「廉価版」の詩織だった。「譲さん、本当にいた!」譲の姿を認めるなり、女はぱっと顔を輝かせてその隣に腰を下ろした。「どうしてここが分かったんだ。実家に戻ったんじゃなかったのか?」一瞬、譲の顔に戸惑いが走る。「両親と夕食を済ませただけよ。その後が退屈で……譲さんにメッセージを送ったけど返信がないから、運転手さんに聞いちゃった。ここから近かったから、そのまま来ちゃったわ」女の名は、榎崎汐莉(えざき しおり)。甘く柔らかい声で話し、当然のように譲の体に寄り添う。隠しようのない思慕が、その一挙手一投足から溢れ出ていた。太一はそれを見て、なんとも言えない居心地の悪さを感じていた。独身のひがみではない。譲のこの婚約者が……あまりにも詩織に似すぎているのだ。特定の角度から見れば、見紛うほどに。それどころか、名前までも。江崎詩織。榎崎汐莉。名字も名前も、その響きは残酷なほどに重なっている。太一は嫌な予感に冷や汗をかきながら、ソファに横たわる男を盗み見た。頼む、柊也。このまま朝まで寝ていてくれ……心の中で必死に祈りを捧げる。だが、恐れていた事態は、祈りが終わるよりも早く訪れた。柊也が、のっそりと上体を起こしたのだ。退屈のあまり、そのまま帰ろうとしたのだろう。だが、顔を上げた瞬間、彼は真正面に座る譲と、その隣にいる汐莉を、逃げ場のない至近距離で捉えてしまった。一瞬にして、部屋の空気が凍りついた。太一の心臓は口から飛び出しそうなほど跳ね上がり、パニックになった頭で必死にその場を繕う言葉を探そうとしたが――先に口を開いたのは、柊也の方だった。「……譲、表へ出ろ」低く、温度のない声。柊也はそれだけ言い捨てると、そのまま迷いなく部屋を出て行った。その背中からは、刺すような冷気が立ち昇っている。太一の、淡い
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第853話

詩織は呆れたように彼女を見た。「……相当酔ってるわね、あなた」「酔ってなんかいないってば。ほら、誰にも必要とされてない、捨てられた子犬の目をしてる。昔の私みたいにさ」その言葉に胸を締め付けられ、詩織はミキの手を強く握りしめた。「私がいる。私はあなたが必要よ」ミキの表情が、一瞬で温かな感情に満たされていく。同時に、ミキはどこか同情を含んだ視線を再び道の向こうの「子犬」へと向けた。だが、すぐに怪訝そうに眉をひそめる。「ねえ……あの犬、なんで賀来柊也に似てるの?」詩織は反射的に視線を追った。そこにいたのは、紛れもなく柊也だった。道幅はそれほど広くない。街灯の下、うなだれる彼の顔と、そこに刻まれた生々しい傷跡がはっきりと見て取れた。最後に会ってから十日余り。まさか、こんな形で再会するとは思わなかった。無視してやり過ごすべきだ。普段の彼女なら、迷うことなくそうしていただろう。けれど、今の彼の姿が、あの日、本港市で自分を救うために猛スピードで車をぶつけ、盾になってくれた時の残像と残酷なまでに重なった。心の奥底に押し込めていた道徳心が、静かに、だが抗いようもなく頭をもたげる。車が完全に止まるのを待ち、詩織は隣のミキに短く告げた。「車の中で少し待ってて」彼女はドアを開けて外へ出ると、迷いのない足取りで柊也の元へと歩み寄った。柊也は、まさか詩織に気づかれるとは思ってもみなかった。ましてや、彼女が無視することなく、自分の方へ真っ直ぐ歩いてくるなど。ほんの数メートルの距離を彼女が詰める間、柊也の脳裏には数え切れないほどの憶測が駆け巡った。最後に行き着いたのは、胸を締め付けるような絶望だった。追い払いに来たんだなと。本港から戻って以来、彼は毎日のように詩織のマンションの下を訪れていた。昼のこともあれば、夜のこともある。時には座り込んだまま一晩明かすこともあった。運が良ければ、遠くから彼女の姿を盗み見ることができる。運が悪いと、三日以上も顔を拝めない日が続いた。今夜、譲と殴り合いをした後、どうしても彼女の顔が見たくてここへ来た。会えると期待していたわけではない。ただ、ここへ来れば、浮き足立って落ち着かない心がようやく現実に繋ぎ止められる気がしたのだ。詩織が間近まで来ると、柊也は重い腰を上げ、あ
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第854話

ミキは相当、根に持っている。柊也の顔を見るたび、詩織が失恋でボロボロになっていた頃の姿を反射的に思い出してしまうのだ。親友を守りたい一心なのだろう。結局、詩織が折れる形で、三人で病院へ向かうことになった。怪我人である柊也が助手席に、ミキが後部座席に陣取る。ミキは座席の隙間に手を差し込んで二人の距離を測るような仕草をしてみせ、「空間が狭すぎる」「密着しすぎ」と終始不機嫌に毒づいていた。詩織は溜息をつくしかなかった。幸い、病院はすぐ近くだった。送り届けたらすぐに帰るつもりだったが、街灯の下で見た彼の赤く腫れ上がった顎を思い出すと、どうしても突き放しきれない。……自分でも甘いと思うけれど。結局、詩織は受付を済ませ、処置室の前まで彼に付き添った。診察が始まり、医師が注意事項を確認しようとした時、詩織は考えるより先に口を開いていた。「先生、彼はアルコール過敏症なんです。消毒は生理食塩水かポビドンヨードでお願いします」医師は手慣れた様子で頷き、処置を受けながらじっと詩織を見つめている柊也に声をかけた。「いい彼女さんだ。これだけ気にかけてくれる人を、大切にしなきゃいけないよ」「……違います。私たちは、そういう関係じゃ」詩織が否定の言葉を口にしようとした瞬間。「……はい」柊也が、迷いのない声で応じた。あまりにきっぱりとした肯定だった。詩織は不快そうに眉をひそめた。その場に漂い始めた、かつての二人を思わせる空気。彼女は彼の処置が終わるのを待たず、逃げるように診察室を後にした。それから間もなくして、太一が血相を変えて駆けつけてきた。詩織が送ったメッセージと位置情報を頼りに、よほど急いだのだろう。肩で息をしながら、彼は必死の形相で尋ねた。「柊也はどこだ!?」「中。先生が今、手当てをしてるわ」詩織の声はひどく冷淡で、まるで赤の他人のことを話しているかのようだった。「ああ、そうか」太一がそのまま診察室へ向かおうとしたとき、詩織がそれを呼び止めた。「……誰とやり合ったの?」その問いに、太一は気まずそうに頭を掻き、視線を泳がせた。「……譲だ」「坂崎譲?」「ああ」「理由は?」太一はいよいよ言葉を濁し、歯切れの悪い様子で漏らした。「……今日、仲間内での集まりがあったんだけどさ。そこに、譲の
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第855話

二日と経たぬうちに、詩織の元へ譲の婚約披露パーティーの招待状が届いた。そこには二人の写真が添えられている。……確かに、少し似ているわね。詩織は写真の中の女性をひと目見ると、その封筒をアシスタントの密に手渡した。自分の代わりに、相応の祝いの品を届けておくようにと言い添えて。「詩織さんは行かないんですか?」密の問いに、詩織は静かに首を振った。「ええ、行かないわ」めでたい席なのだ。余計な波風を立てず、誰もが心から祝福できる場であるべきだと思った。奇しくも、譲のパーティーが開かれるその日は、詩織にとっても珍しく仕事の落ち着いた週末となった。主要なプロジェクトは順調に進み、自宅で少しだけ事務作業をこなせば、あとは自由な時間だ。しんと静まり返った室内は、少しだけ広く感じられた。数日前から、ミキが詩織の母・初恵に付き添って、気晴らしに田舎の実家へ里帰りしているせいだろう。ミキがこの江ノ本市へ身を寄せたのは、あの日、公正証書の作成を白彦にすっぽかされた直後のことだ。「こうなったら、家庭裁判所の調停で決着をつけるしかないわね」それが詩織の出した結論だった。たとえ籍は抜けていても、慰謝料や財産分与、そして何より「今後の接触禁止」を法的に強制させるには、公正証書に代わる強力な決定が必要だ。そのためにも、詩織はミキに「白彦とは一切会わないこと」を強く勧めていた。ミキ自身もその覚悟を決め、弁護士の峰岸にも詳細な助言を仰いでいる。「清算が終わるまでは、絶対に顔を合わせないでください。ましてや、一時の感情に流されて関係を持つなんて論外です。そんなことがあれば、実態として関係が継続しているとみなされ、法的な絶縁や慰謝料の請求で足元をすくわれかねませんから」峰岸からの忠告を、ミキは一言一句、心に刻んでいた。詩織がふとスマートフォンに目を向けると、SNSのタイムラインは「サカザキ・モータース」の御曹司による華やかな婚約パーティーの様子で埋め尽くされていた。いくつか「いいね」を押し、画面を閉じる。窓の外に目をやれば、秋特有の穏やかな陽光が降り注ぐ、絶好の外出日和だった。ふと、あの味を思い出した。……桜の古木のそばにある、あの店のラーメンが食べたいな。路地裏にあるあのような小さな店は、出前などやっていない。何よ
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第856話

熱い汁物が、晩秋の張り詰めた冷気を身体の奥から溶かしていくようだった。心なしか、強張っていた気分まで解きほぐされていく。会計は、柊也が彼女の分まで済ませていた。そして、詩織より一歩先に店を後にする。追いかけることはしなかった。詩織は自分のペースで食事を終え、それからゆっくりと店を出た。案の定、外に柊也の姿はもうなかった。彼女はふと、傍らの古木を見上げた。周囲の木々が葉を落とし、冬の眠りにつこうとするこの季節にあっても、この大樹だけは変わらぬ力強さでそこに根を張っている。「お姉さん、待って!忘れ物だよ!」背後から、店の奥さんが息を切らして追いかけてきた。「これ、お連れさんの。届けてあげてくれない?」手渡されたのは、手のひらサイズの小さな手帳だった。表紙の革は使い込まれて色褪せ、端の方には細かな擦れ跡がある。日常的に肌身離さず持っているものなのだろう。「これ、そんなに大事なものなんですか?」「ええ、たぶんね。あのお客さん、ここへ来るたびにそれを取り出しては、熱心に何か書き込んでいたから」詩織は躊躇いがちに尋ねた。「……彼は、よく来るんですか?」「ええ。少なくとも週に一度は必ずね。……そういえば昔もよく来てくれていたんだけど、ここ四、五年かな、パタリと姿を見せなくなって。それが今年の四月頃から、また顔を出してくれるようになったのよ」四、五年の空白。それは、彼が服役していた期間と符合する。そして彼が出所したのは、まさに今年の四月だった。けれど、疑問は残る。なぜ、五年前の彼はここへ頻繁に通っていたのだろうか。詩織の脳裏に、古い記憶がよみがえった。五年前、役所での打ち合わせを終えた帰り際、智也が「何か食べていこう」と誘ってくれたことがあった。その時、詩織がリクエストしたのがこの店だったのだ。二人で暖簾をくぐった時、目に飛び込んできたのは、志帆と睦まじく食事をする柊也の姿だった。あの時の胸の痛みは、今でも鮮明に覚えている。自分の過去を、新しい女に教えてあげているんだわ。そう思って、ひどく落ち込んだものだった。だとしたら、今は?連れ立っている「新しい女」など、どこにもいない。彼は一人でここへ来て、何を懐かしみ、何を書き留めているのだろうか。新しい客が暖簾をくぐり、店内がにわかに活気づく。忙しくなった
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第857話

家に戻った柊也は、習慣的にジャケットのポケットへ手を伸ばした。今日、詩織と偶然再会した出来事を、記憶が鮮明なうちに書き留めておきたかったのだ。しかし、いくらポケットをまさぐっても、指先に触れるのは虚空だけだった。焦燥に駆られ、慌てて階下の駐車場へ戻り、車内をひっくり返すようにして探したが、やはり手帳は見当たらない。今日、立ち寄った場所はあの店だけだ。詩織に「わざと現れた」と疎まれるのが怖くて、逃げるように店を出たのが仇となった。焦るあまり、手帳のことなど意識の外に追いやられていたのだ。柊也はすぐさま車を出し、あの桜の古木がある店へと引き返した。折悪しく道路は渋滞に捕まり、柊也の焦りは募る一方だった。耐えきれなくなった彼は、路肩のコインパーキングに車を放り出すと、下校中の小学生たちの列を縫うようにして、店まで全力で走り抜けた。店に辿り着いたとき、店内は夕食どきの客で賑わっていた。店主は注文を捌くのに手一杯のようだった。奥さんはちょうど子供の迎えに出ていたらしく、手が足りていない。柊也が息を切らして駆け込むと、店主は新しい客だと思って声をかけようとしたが、彼の顔を見て驚いたように目を丸くした。「あんた、さっき食べたばかりだろ?どうかしたのかい」「……ここに、手帳を忘れていませんでしたか?黒い、手のひらサイズのやつです」店主は記憶を辿るように首を傾げ、がっかりしたように首を振った。「いや、見てないねえ」「そんなはずはないんです。今日行ったのはここだけなんだ。もう一度、よく思い出してください」柊也は必死に食い下がったが、店主は困り顔で繰り返すだけだった。「本当に見てないんだよ。あれば取っておいてやるさ。……それほど大きくない手帳なら、どこか別の場所に落としたんじゃないのか?」忙しそうな店主を引き止めるわけにもいかず、柊也は店内の心当たりのある場所を二周ほど探し回った。だが、そこには何もなかった。立ち尽くす柊也の背後で、客の喧騒が遠のいていく。店を出た彼は、巨大な桜の古木の下で長い間、動けずにいた。身体から力が抜け、指一本動かす気力すら湧いてこない。底なしの無力感が、重く彼を包み込んでいた。彼にとって、失くしたのはただの手帳ではなかった。今の自分と詩織を結びつけている、数少
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第858話

書斎、ワインセラー、ルーフガーデン、果ては会議室やトレーニングルーム、茶室まで。そこは詩織にとって、自宅というより「もう一つのオフィス」のような場所でもあった。普段、そのフロアに上がるのは掃除の家政婦くらいのものだった。ミキは足音を忍ばせ、抜き足差し足で階段を上った。初恵を起こさないよう気遣い、照明すらつけずにスマホの画面が放つ微かな光だけを頼りに進む。詩織のワインセラーには何度も足を運んでいる。目を閉じていても中を歩けるほど熟知していた。重い扉を開け、中に入ってからようやくスイッチを入れる。さて、今夜はどの一本で喉を潤そうか――弾む心で棚に手を伸ばそうとした瞬間、視界の端に映ったものに心臓が跳ね上がった。ソファの上に、何かが丸まっている。「……幽霊っ!?」悲鳴が喉元まで出かかったが、辛うじて飲み込んだ。よく見れば、そこにいたのは詩織だった。薄手のルームウェア一枚という心許ない格好で、髪は乱れるままに垂れ下がっている。その隙間から覗く顔はどこか生気がなく、暗がりに浮かび上がる姿は確かに肝を冷やすものがあった。「なんだ、詩織か……てっきり会社で残業でもしてるのかと思ったわよ」ミキは激しく打ち鳴らされる胸を押さえながら、ようやく息を吐き出した。ふと床に目を落とすと、空のワインボトルが転がっている。「どうしたの?悩み事?」ミキが隣に腰を下ろすと、詩織は力なくその肩に寄りかかってきた。横顔を覗き込めば、頬がワイン色に染まっている。かなりの量を煽ったのだろう。「……私、なんだか変なの」詩織はグラスに残っていた酒を飲み干すと、夢うつつのような声で漏らした。「当ててあげましょうか。例のクズ也のことでしょう?」ミキも自分用にグラスを差し出し、琥珀色の液体を注いだ。「――お見事。大正解よ」ミキは小さくため息をついた。「あまりいい傾向じゃないわね」「わかってる……わかってるのよ」詩織の声は、掠れて消えそうだった。「何がわかってるっていうの?」「こんなの間違ってるってこと」詩織は潤んだ瞳で親友を見つめた。「あんなに惨めに捨てられたのに。必死の思いで自分を立て直して、やっとここまで来たのに……どうして今さら、アイツのことで心が揺れなきゃいけないの?」詩織の目尻に赤みが差す。「私って、本当に意
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第859話

宣戦布告とも取れる啖呵を切ってから、わずか二日後のことだった。ミキが「その時」を迎えたのは、まさに予期せぬタイミングだった。江ノ本市に滞在している間、ミキはずっと詩織の家に身を寄せていた。本当はホテルに泊まるつもりだったのだが、詩織が「水臭いことは言わないで」と聞き入れなかったのだ。結局、親友であり頼れるパトロンでもある彼女の厚意に甘える形になった。ここ数日、詩織は出張で不在だった。ミキは暇を持て余し、夜のジョギングを始めることにした。理由は単純だ。最近の食生活が豊かすぎたせいか、あるいは規則正しい生活の賜物か、ウエストが不覚にも一センチ増えてしまったのだ。一般人なら誤差の範囲だろうが、表舞台に立つ人間にとっては死活問題である。ようやく離婚が成立したばかりだというのに、無様に太って老け込むなんて真っ平ごめんだ。もしあの白彦にでも見つかって、「俺と別れてからそんなに荒んでるのか」なんて嫌味を言われたら――想像しただけで吐き気がする。あのクソ元夫には、自分がいかに美しく、彼なしで輝いているかを見せつけてやらねばならない。ジョギングコースに選んだのは、マンションのすぐ下にある湿地公園だ。緑豊かで空気も澄んでおり、何より高級住宅街の中にあるため、人通りが少なくて走りやすい。イヤホンを耳に押し込み、軽快なリズムに乗って三周。四周目に入ったところで、ふと前方に二人の人影を認めた。一人が手すりのそばに立ち、もう一人が必死にその体を引き止めているように見える。その光景を目にした瞬間、ミキの脳内には最悪のシナリオが組み上がった。――自殺!?そんなの冗談じゃない。よりによってこんな最高級マンションの目と鼻の先で身投げなんてされたら、資産価値が暴落してしまう。詩織が損をするということは、親友である自分の不利益も同然だ。何としても阻止しなくては。ミキはイヤホンをむしり取ると、猛然と駆け出した。「ちょっと!そこで何してんの!死ぬなら他所でやりなさいよ!」血相を変えて飛び込んだミキだったが、至近距離でその顔ぶれを確認した途端、動きが止まった。なんて不運。お祓いにでも行っておけばよかったと本気で後悔するほど、最悪の顔合わせだった。「……近藤?江崎の友達の……」驚いた顔をしたのは太一だった。ミキは、般若
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第860話

これまでの人生、これほどまでに激しく糾弾されたことなど一度もなかった。だが、柊也は反論の言葉を飲み込み、ただ黙って耐えるしかなかった。目の前の女性は、詩織が何よりも大切にしている親友だ。今の自分などよりも、詩織の心において遥かに大きな比重を占めている。その事実が、彼に一言の弁明さえ許さなかった。状況の悪化を悟った太一が、慌ててミキをなだめにかかった。「ちょっと待てよ。部外者が首を突っ込むな。柊也にだって事情があるんだ。お前が思ってるような話じゃねえんだよ」「事情だぁ?くだらない! 結局は下半身にだらしないクズってだけでしょ!」ミキはすべての詳細を知っているわけではない。だが、親友として詩織の隣でその苦しみを見てきた自負がある。彼女の視点からすれば、理由はなんだろうと、柊也が詩織を裏切ったという事実に変わりはなかった。天地がひっくり返ったって、あの子を傷つけたのはこの男だ。「恩知らずの分際で、何の事情よ! 当時、あんたの取り巻きたちが『詩織が寝室に這い上がってきた』なんて陰口を叩いてたとき、あんたはどこで何をしてたの?ライバル会社に薬を盛られたせいだって、あんたが一度でも説明してれば、少しはマシな男だと思えたわよ!」「あの子はあんたを助けに行っただけなのに、挙句の果てにやり逃げされて……それどころか、詩織が汚い手を使ってあんたを襲ったなんて誤解までさせた。それを黙って見てるなんて、血の通った人間のすること?」傍らにいた「取り巻き」の一人である太一が、気まずそうに肩をすくめた。「……あいつが、説明しなくていいって言ったんだ」柊也が、絞り出すような声を漏らした。その表情には、依然として暗く険しい影が落ちている。あの時の彼には、打算があった。詩織との不適切な関係が噂になれば、彼女に付きまとう京介を諦めさせられるのではないか――そんな醜い独占欲が、沈黙を選ばせたのだ。「あの子が物分かり良すぎただけよ! あんたに迷惑がかかると思って身を引いたの。あんたの会社の業績のために、胃を壊すまでお酒を飲んで……お腹の子まで失って、手術台の上で死にかけたのよ!」ミキの叫びが夜の公園に響き渡る。「そのとき、あんたはどこにいた!?本港市で、あの忘れられない女と復縁ごっこに興じてたんでしょうが!」今のミキは、まさに怒れる
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