All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 841 - Chapter 850

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第841話

ミキは一瞬呆然としたが、すぐに思考を振り払った。……待って、なんで私、あいつのことを深く考えてるのよ。澪士が何を好きだろうが、今の自分には関係のないことだ。泥沼の離婚劇の渦中にいる自分が、これ以上部外者を巻き込むわけにはいかない。何より、最近の白彦との言い争いで、やつが事あるごとに澪士の名を出して嫌がらせをしてくるのが、ミキには耐え難く不快だった。入院生活は退屈そのものだ。じっとしていられない性分のミキにとって、病室に閉じ込められているのは一種の拷問だった。午前中の点滴が終わると、彼女は「外の空気を吸ってくる」と宣言して立ち上がった。澪士に命じられていたアシスタントは「付き添います」と食い下がったが、ミキは彼女の目の前で見事なラジオ体操を披露し、自分がいかに元気でピンピンしているかを全力で証明してみせた。「……わかりました。お一人で大丈夫そうですね」なかば呆れたアシスタントの了承を得て、ミキはようやく解放された。外はあいにくの雨で、ミキは病院の廊下をあてもなく歩くしかなかった。一通り周ってみたものの、これといって目を引くものもない。退屈さに負け、病室に戻ってスマホでもいじろうと踵を返したその時、視界の端に見覚えのある二つの影が入り込んだ。廊下の突き当たり、背の高い男が隣の女を壊れ物を扱うように、いたわる手つきで支えている。男はわずかに腰をかがめ、女の言葉を一言も漏らすまいと熱心に耳を傾けていた。その眼差しは、驚くほど優しく、穏やかだ。寄り添う女はマスクで顔を隠していたが、その隙間からのぞく、庇護欲をそそるような、か弱げな瞳――たとえ灰になろうとも、ミキがそれを見間違えるはずはなかった。ミキの足が止まった。反射的に物陰へと身を隠す。胸の奥を針でチクリと刺されたような感覚。痛みはあるが、耐えられないほどではない。二人の傍らを誰かが急ぎ足で通り過ぎようとした瞬間、白彦はとっさに璃々子を抱き寄せ、誰にもぶつからないようその身を盾にして守った。その、至れり尽くせりの献身。ミキの脳裏に、ある記憶が鮮明に蘇る。白彦と結婚して間もない頃、重病を患っていた彼の祖父を見舞うため、二人で病院を訪れた時のことだ。同じ場所、同じシチュエーション。だというのに、あの日の白彦はミキを置き去
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第842話

『愛されていない方こそが、第三者だ』……なんて、滑稽なのだろう。病室へどうやって戻ったのか、ミキはよく覚えていなかった。開け放たれたドアの向こうから、澪士の苛立った声が聞こえてくる。「……本人が一人でいいと言ったからって、なぜお前まで引き下がる。俺がどう指示したか忘れたのか?もし何かあったらどうするつもりだ!」焦燥に満ちた、普段の彼らしからぬ声。ミキは慌てて病室に足を踏み入れ、アシスタントを庇うように声を上げた。「私が無理を言って一人で出たのよ。責めないであげて。それに、いい大人なんだから、ちょっと散歩するくらいで何があるって言うのよ」澪士は、ミキが無事に戻った姿を見るなり、張り詰めていた肩の力をふっと抜いた。「……そんなにピリピリしないでよ」ミキが苦笑交じりに宥めると、澪士はわずかな沈黙の後、言い訳のように言葉を継いだ。「詩織にきつく言われてるんだ。もしお前に何かあったら、責任を取らされるからな」「もう、あの子ったら心配性なんだから」ミキは声を弾ませて笑った。その視線が、ふとサイドテーブルに置かれた大きな紫のチューリップの花束に吸い寄せられた。彼女が最も愛し、大切にしている色と花だ。「これ……あなたが?」驚きに目を丸くして尋ねると、澪士はどこか決まり悪そうに視線を逸らした。「……まあ、適当に選んだだけだ」幸い、ミキの意識は花束に釘付けになっていたため、彼の不自然な動揺に気づくことはなかった。「嬉しい!これ、私の一番好きな花なの」ミキが歓喜に満ちた顔で花束を抱き上げると、澪士は機を逃さず言葉を重ねた。「そうか。それは奇遇だな」平然を装う彼の掌には、じっとりと汗が滲んでいた。この世に、偶然などというものは存在しない。すべての「たまたま」は、誰かの切実な意思によって手繰り寄せられたものだ。ミキがまだ無名だった頃、一度だけインタビューで「一番好きな花は紫のチューリップ」だと答えたことがあった。売れっ子になってからは、ファンに余計な気遣いや出費をさせまいと、好きなものについては一切口を閉ざしてきた彼女だ。だからこそ、彼女は澪士の「偶然だ」という言葉を、疑いもせずに信じ込んだ。ミキが入院しているのは特別室で、花瓶などの備え付けも充実している。彼女はいそいそと花瓶を用意して花
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第843話

病室の空気が、肌を刺すような緊張感に包まれる。澪士のアシスタントは、二人の間に流れる不穏な気配を察し、部外者が長居すべきではないと判断して「失礼します」と手短に告げて部屋を後にした。邪魔者がいなくなった途端、ミキは隠そうともしなかった嫌悪感を露わにした。「言葉が刺々しいのはね、あなたと話したくないから。愛想が悪いのは、あなたの顔なんて一秒も見たくないから。これっぽっちのことも理解できないの?」冷徹な眼差しで白彦を射抜く。「これでも表現が足りないっていうなら、次からはおでこに『お断り』って書いておきましょうか?」白彦はミキの辛辣な言葉に、言いようのない鬱屈と無力感を覚えていた。だが、彼は珍しく込み上げる怒りを強引に抑え込み、持参した花束を差し出した。「……これを。お前の好きな紫のチューリップだ。わざわざ買いに行ってきたんだ」「いらない」ミキの拒絶は一瞬だった。彼女はサイドボードに飾られた瑞々しい花束を顎でしゃくってみせる。「もう他にあるから」花を愛でる心はある。けれど、それは「誰から贈られたか」に大きく左右されるものだ。それに、同じものは二つもいらない。物も、そして感情も。「……誰に貰ったんだ」白彦の視線が、自分が手にしているものと寸分違わぬ花束を冷酷に射抜く。ミキはそんな下らない問いに答える気も起きず、箸を小テーブルに叩きつけるように置いた。冷ややかな瞳で彼を睨み据える。「……干渉しすぎよ。あなたに関係ないでしょ」「二階堂か?」白彦の目がふいに険しさを増し、ひきつった笑みを浮かべて畳みかけてくる。察しだけは良い男だ。ミキは否定もしなかった。「何よ。自分は他所の女に甲斐甲斐しく尽くしておいて、私には誰の優しさも受け取るなとでも?都合が良すぎるわね。血気盛んな年頃の女に、一生尼寺にでも籠もっていろって言うの?」「ミキ、警告したはずだ。二階堂澪士に近づくなと。俺を怒らせればどうなるか、分かっているだろう」白彦の全身から、どす黒い執着が滲み出す。対するミキは、鼻で笑って受け流した。「私も言ったはずよ。璃々子と不潔な関係を続けるなって。でも、あなたは聞き入れなかったじゃない」一歩も引かず、その陰鬱な瞳を真っ向から見据える。「大体、あなたが怒ろうが喚こうが、私には何の関係もない。自分をそんなに重要な
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第844話

この男は何を考えているのか。これほどまでに一人の人間を傷つけ、尊厳をズタズタに引き裂いておいて、どうして何事もなかったかのように「もう一度」なんて口にできるのか。自分をどれほど蔑ろにし、どれほどの絶望を与えてきたのか。それだけの代償を払わせ、傷跡を残しておきながら、どうして私がまだあなたの元へ戻ると期待できるのか。「もし……」白彦の声がかすかに震えていた。言葉だけでなく、その心までもがひどく動揺しているのが伝わってくる。これほどまでに自分を曲げ、歩み寄ってみせたというのに、彼女の心を取り戻すどころか、指先ひとつ触れられない。喉の奥を誰かに強く握り締められているような、ひどい閉塞感。彼は絞り出すように言葉を繋いだ。白彦はミキの手を強引に引き寄せると、まるで失ってはならない命綱を掴むかのように、力を込めて握りしめた。彼女が振り払えないことを確かめてから、彼は再び口を開く。「……もし俺が、お前を愛していると言ったら。もう一度だけ、チャンスをくれるか?」一瞬、ミキは耳を疑った。あまりの言葉に、自分の聞き間違いか、あるいは質の悪い冗談かと本気で疑ったほどだ。あの白彦が、私を愛している?「……滑稽ね」ミキの唇から、乾いた嘲笑が漏れた。「でも残念。私はもう、あなたを愛していないわ」その言葉が落ちた瞬間、病室は長い死寂に包まれた。白彦の指から力が抜けた隙を見計らい、ミキは躊躇なく自分の手を引き抜く。彼は、空っぽになった自分の手のひらを呆然と見つめていた。そこに残っていたわずかな体温までもが、無情に霧散していく。「……あんなに愛していると言っていたじゃないか」掠れた声で、彼は独り言のようにつぶやいた。愛とは、これほどまでにあっけなく消えてしまうものなのか。白彦にとって、これほどの衝撃を受けたのは人生で二度目だった。逃げ出したかった。一人になって、この泥沼のような混乱を整理したかった。どうすればミキを繋ぎ止めておけるのか、その答えを必死に探したかった。彼は立ち上がると、溜まっていた毒を吐き出すように長く息をついた。そして、精一杯の平静を装った声で告げる。「……今は体を治すことだけ考えろ。後のことは、また今度話そう」背を向け、出口へと歩き出す。だが、その足をミキの声が止めた。「待って」
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第845話

由木家の長男としてのプライドが相当傷ついたのか、あの日のミキの冷徹な拒絶が効いたらしい。それから二日間、白彦が目の前に現れて神経を逆なですることはなかった。ミキにとっては、ようやく訪れた平穏な時間だった。サワから言い渡された「安静期間」が明けるやいなや、ミキは一刻も早くこの場を立ち去ろうと退院手続きに飛び出した。精算の列に並んでいると、スマホが震えた。澪士からだった。何時ごろに病院を出るのか、車で迎えに行くという。「そんな些細なことで、わざわざ二階堂社長の手を煩わせるわけにいかないわ。タクシーで帰るから大丈夫よ」ミキが遠慮がちに返すと、澪士はいつもの理屈を並べ立てた。「詩織からの厳命なんだ。もし俺が君を無事に送り届けなかったら、彼女、先生に言いつけるだろう?君も知っての通り、彼女は先生の一番のお気に入りだからね。俺の立場が危ういんだ」その言い回しに、ミキは思わず吹き出した。「わかったわ。じゃあ、あなたの任務を完璧に遂行させてあげるために、仕方がなくその車に乗ってあげようかしら」「光栄です、お姫様(プリンセス)。お供させていただきます」澪士の茶目っ気たっぷりの返答に、ミキの胸が不意に跳ねた。お姫様――ふと、以前野椰子島でバカンスを過ごした時のことが蘇る。あの時、仕事で急遽戻った詩織の監視がなくなったのをいいことに、ミキはこっそり酒を煽った。それも、澪士が大切にしていたワインセラーに忍び込み、前後不覚になるまで。探しに来た澪士が見つけた時、ミキは上機嫌で歌い踊っていた。挙句の果てにはテーブルの上にまで這い上がり、高いところから彼を見下ろして、尊大に命令を下したのだ。『ほら、「お姫様、お目通りが叶い光栄です」って言いなさいよ!』落ちて怪我をしないよう、澪士は必死に彼女をなだめながら、苦笑まじりに答えてくれた。『はいはい、お目通りが叶い光栄です、お姫様』その瞬間、自分は崩れるように笑い転げたっけ。まさか、あの泥酔した時の醜態を、彼は今でも覚えていたなんて。急に気恥ずかしさが込み上げてくる。電話越しでよかった。今の、火照ったような自分の顔を見られずに済んだのだから。澪士も引き際を心得ている大人だ。それ以上はからかわず、「じゃあ、後で」と短く告げた。「ええ、また後で」ミキが通話を終え
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第846話

関係する全員がハッピーエンドを迎えられる一番簡単な道だというのに、なぜ白彦はその流れに乗ろうとしないのか。わざわざ泥沼をかき回し、全員を不幸に引きずり込もうとする男の執着が、ミキには気味が悪くて仕方がなかった。「恨むなら筋違いよ。どうしても文句があるなら、それを決めた張本人に直接言いなさい。ここで無関係な人間に当たり散らさないで」ミキはこれ以上、叔母のヒステリーに付き合う気はなかった。蓉子は怒りで顔を真っ赤にして食い下がった。「どうせあんたが裏で糸を引いたんでしょ、しらばっくれるんじゃないよ!自分だけさっさと関係を切って、私たちの不幸を笑ってるんだろう!孤児院からわざわざ引き取って育ててやった恩も忘れて……まったく、とんでもない恩知らずを飼っていたもんだわ!」「恩知らずがどっちのことか、胸に手を当てて考えてみたら? あなたたち吸血鬼夫婦が、これまで私からどれだけの金を吸い上げてきたか。なんなら今ここで記者会見を開いて、一から十まで世間に公表してあげようか?」ミキは冷ややかな声で言い放った。この叔母の図々しい振る舞いを、いつまでも甘やかしてやる義理はない。急所を突かれた蓉子は途端にたじろぎ、返す言葉を失って口をパクパクとさせるだけだった。ミキはそのまま手早く退院手続きを済ませ、後ろを振り返ることもなく病院の出口へと向かった。自動ドアを抜け、外に出た瞬間。胸いっぱいに吸い込んだ空気は、どこまでも自由の匂いがした。降り注ぐ陽射しも眩しいほどに鮮やかだ。これで白彦との面倒な清算がすべて法的に片付いていれば、文句なしの完璧な朝だったのに。「お待たせ」ふと声がして前を向くと、そこには澪士がいた。彼がこの日乗り寄せてきたのは、息を呑むほど派手な最高級のランボルギーニだった。特注だという鮮やかなクラインブルーの車体は、彼自身の華やかなオーラそのもののようにギラギラと周囲の目を惹きつけている。ミキは思わず見惚れてしまった。澪士は優雅な仕草で助手席のドアを開け、微笑みかけた。「さあ、お姫様。どうぞお乗りください」女優として初めて出演した映画が車にまつわる作品だったこともあり、その頃からミキはスポーツカーの魅力にすっかり憑りつかれていた。とはいえ、自分の稼ぎでぽんと買える代物ではなく、いつも遠くから雑誌やショーウィンドウを眺
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第847話

実は今日が、二人の「入籍記念日」だった。結婚式を挙げていない白彦とミキにとって、いわゆる華々しい結婚記念日というものは存在しない。だがミキは毎年、二人で婚姻届を提出したこの日を、夫婦の結婚記念日として大切に祝おうとしていた。これまではいつもミキの方から切り出し、仕事で多忙な白彦に気を遣って、半月も前から控えめに予定を押さえようとしてきていた。かつての白彦は、それを心の底では鬱陶しく思っていた。記念日などという形ばかりの感傷に、何の意味があるのかと。それでも、祖母のサワから「女はそういう細やかな行事を大切にするものだ」と口酸っぱく諭されていた手前、お祝いの席を設けることだけは渋々承諾していたのだ。だが、この五年間のうち、白彦は四度もその約束をすっぽかした。唯一、レストランで向かい合ったあの一度きりの夜でさえも――コース料理はまだ半ばで、見計らったように出されるはずのケーキすら運ばれてきていないというのに、璃々子からの一本の電話を受けた彼は、ミキを一人置き去りにして慌ただしく店を飛び出してしまった。その時、ミキの瞳に浮かんだひどく傷ついた色に、白彦が気づかなかったわけではない。ただ、真剣に向き合おうとしなかっただけだ。後日、秘書に適当なジュエリーを見繕わせて機嫌取りのプレゼントを贈れば、それで帳消しになると思い込んでいた。今年の記念日も、どうせミキは今まで通り自分に予定を尋ねてくるものだとばかり思っていた。しかし、彼女の口からその話題が出ることは一度もなかった。まるで、そんな日は最初から存在しなかったかのように、綺麗さっぱり忘れてしまったらしい。よりによって、毎年カレンダーすら見ようとしなかった自分の方が、今日という日をはっきりと記憶していたというのに。白彦は、シートの傍らに置かれた豪奢なビロードの箱にそっと手を這わせた。一ヶ月も前から手配し、記念日の贈り物として彼女に渡すつもりだった特注の翡翠のジュエリーだ。これまでに彼女へ買い与えた宝石は、すべて秘書の裁量に任せたものだった。有名ハイブランドの、そのシーズンで最も高価で目立つ品々。だが、ミキはそれらを受け取るだけで、一度も身に着けたことがなかった。きっと、彼女の趣味ではなかったのだろう。だから今回は、白彦自身が彼女の好みを思い出し
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第848話

白彦は沸き上がる感情を強引に抑え込むと、思考を断ち切るように席を立った。シャワーを浴びて眠りにつこうと、重い足取りで二階へ向かう。寝室のクローゼットを開けると、そこには彼女が選んだパジャマが並んでいた。どこか幼いデザインだが、彼女のものとお揃いのペア・ルックだ。以前の彼は、こんな子供っぽいものは着られないと毛嫌いしていた。それどころか、ミキが着ることさえ許さなかった。彼女がパジャマに手を伸ばすたび、その腰を抱き寄せ、耳元で低く囁いたものだ。「どうせ最後には脱がすんだ。着るだけ無駄だろう?」何も纏わない彼女が、一番美しかった。だが今夜、白彦が手に取ったのは、一度も袖を通したことのないそのパジャマだった。浴室に入ると、壁一面を覆う巨大な鏡が嫌でも目に飛び込んでくる。かつて、この鏡の前で幾度となく肌を重ね、狂おしい時間を過ごした。冷たい鏡面に彼女の身体を押し付け、愛の言葉を強いた夜。彼女は惜しみなく、その想いを言葉にしてくれた。「好きよ」と、壊れた磁器のように何度も、何度も。その告白を浴びるたびに、白彦の欲望は理性を超えて加速していった。愛しているという言葉に、嘘はなかった。胃袋を掴まれたあの手料理か、帰宅を待つ温かな灯りか。あるいは、邸宅には不釣り合いな、あの逞しく根を張る多肉植物たちだったのか。それとも、魂まで溶け合うような、あの渇望に満ちた情事のせいか。理由は分からない。だが、確かに彼は彼女に心奪われていた。彼女だって、あんなに好きだと言ってくれたじゃないか。それなのに、二人の結末がこんな形であっていいはずがない。「……こんなはずじゃなかったんだ」衝動に突き動かされるように、白彦は踵を返した。階段を駆け下り、エンジンを轟かせる。深夜の静寂を切り裂き、マイバッハは暗い夜の底へと狂ったように走り出した。……高級スポーツカーでのドライブは、胸にわだかまっていた澱を鮮やかに吹き飛ばしてくれた。ミキの顔には、ようやく心からの笑顔が戻っていた。そのお礼にと、彼女は気前よく澪士に夕食を馳走した。食後、「腹ごなしに」と彼に連れられてやってきたのは、夜の遊園地だった。きらびやかなゲートを目の前にした瞬間、ミキの胸にえもいわれぬ感情が込み上げる。最後に遊園地に来た
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第849話

白彦は正気を失ったかのように、ミキを激しく責め立てた。「昼間は病院の前で三時間、夜はこのホテルの前で四時間だ……七時間もお前を待ち続けていた俺の身にもなってみろ!なのに、お前は他の男と遊び歩いていたのか!」「今日が何の日か、忘れたとは言わせないぞ」その口調は、まるで不実な妻をなじる貞淑な夫のそれだった。せっかくの一日の余韻が、その声を聞いた瞬間に半分以上も削り取られていく。ミキはどこからともなく現れた白彦を忌々しげに睨みつけ、心底心当たりがないといった風に眉を寄せた。「……何の日だって言うの?」その無関心な態度に、白彦は鋭い痛みを感じた。背後に佇む澪士を憎々しげに射抜くと、絞り出すような声で告げた。「入籍記念日だ」ミキは一瞬、呆気に取られた。そして、かつて彼が自分に言い放ったのと全く同じ温度、全く同じ突き放すような口調で言い返した。「それがそんなに大事なこと?いい大人がいつまでそんな日にこだわってるのよ」かつて自分が放った刃が、彼女の口から戻ってくるとこれほどまでに突き刺さるものか。「……だが、以前のお前はあんなに楽しみにしていたじゃないか」「それは『以前』の話。もし先週、あなたが約束をすっぽかしたりしなければ、今頃私は『クズ男と縁が切れてちょうど一週間記念日』を盛大に祝っていたところだったわね」その言葉は、白彦の脳天を力任せに殴りつけたかのような衝撃を与えた。ミキの冷ややかな眼差しを前に、頭に血の昇っていた後悔の念が急速に冷えていく。代わりにかき集められたのは、どろりとした不遇感と執着心だった。白彦は焦燥に駆られ、ミキの手首を強引に掴み寄せた。「……家に戻るぞ」ミキは激しく拒絶した。「あそこはもう、私の家じゃない」「お前が自分で言ったんだろう、あそこが自分の家だって!お前が自分で飾り付けて、多肉植物だって植えたじゃないか。あいつら、お前が世話しなきゃ枯れちまうんだぞ。クローゼットの中だって……」ミキは必死に手を振り払おうとした。だが、その力はあまりに強く、白い手首に赤々とした指の跡が浮き上がる。怒りに任せ、彼女は白彦の言葉を遮った。「それがどうしたっていうの!物には何にだって消費期限があるのよ。期限が切れたものは、ゴミ箱に捨てるのが当たり前でしょう?」暗に自分との関係を指したその言葉は
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第850話

詩織が昨夜のメッセージに気づいたのは、翌朝の六時だった。画面を埋め尽くす文字の羅列から、ミキがどれほど鬱屈した夜を過ごしたのかが痛いほど伝わってくる。このまま北里市に留まれば、また白彦の執拗な干渉に晒されるに違いない。そう案じた詩織は、すぐさま澪士に連絡を入れ、ある「手配」を頼み込んだ。昼過ぎ、ミキがようやく目を覚ますと、タイミングを見計らったかのようにドアがノックされた。立っていたのは、昼食を携えた澪士だった。彼は手際よく料理を並べながら、事もなげに告げた。「詩織ちゃんから、君を江ノ本市まで護送するように仰せつかったよ。飛行機は午後四時。洗顔と食事、荷造りを二時間で済ませて」ミキは慌ててスマホを取り出し、詩織からの返信を確認した。渾身の一千文字を超える恨み節に対し、詩織からの返信は、潔いほど短い一言だった。【派手に遊ぼう】ミキは即座に打ち返した。【了解!】江ノ本の空港まで迎えに来たのは、多忙を極めるはずの詩織本人だった。車に乗り込むなり、ミキは詩織に詰め寄った。「さて、パトロン様。今日はどうやって私を『派手』に遊ばせてくれるのかしら?」「どう遊びたい?」「そうね、景気づけにイケメンのモデルくんを十人くらい並べてほしいわ。前菜代わりにね」玄人の遊び人のような口ぶりに、詩織は思わず吹き出した。この親友は、口では威勢のいいことを言っても、心の方はそう簡単に割り切れるほど図太くはない。白彦に受けた傷が深すぎることを、詩織は誰よりも分かっていた。「まずは食事よ。少し見ない間に随分痩せたじゃない」詩織は、ミキの少しこけた頬を親指で優しく撫でた。「えー、ご飯なんてつまんない」途端に興味を失ったミキの様子に、詩織は口元の笑みをこらえつつ、助手席の密に指示を出した。「密、あのお店の予約、キャンセルしておいて。彼女、興味がないみたいだから」「かしこまりました」「待って待って!」ミキが慌てて密を制止する。「そのお店って、何?」密は、含みを持たせた笑みを浮かべて説明した。「今、江ノ本で一番話題のレストランですよ。給仕役が全員、彫刻のような肉体美を持つマッチョばかり。腹筋が綺麗に八つに割れた……」さらに声を潜め、からかうように付け加える。「なんでも、上半身はエプロン一枚の『裸エプロン』姿だそうです」
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